写真をクリック!
ご近所散歩道シリーズ・
月
月夜の晩に路地を歩いた。
荘島町にはいくつもの路地がある。このあたりは空襲を免れため、昔ながらの道
がそのまま残っている。
マンションが建ち並ぶ町の裏側は、完全にタイムスリップしている。車がやっと
一台通れるくらいの路地に、古びた大きな家がひっそりと連なる。庭の古木が枯葉
を散らし、その枯葉が路地の脇を、風に吹かれるままにかさこそと行き来している。
半月がぽっかりと冷たい空気の中に浮かんでいた。
その月に照らされた大きな柿の木は、果てしなく分れたその枝を、魔物のように
空に広げていた。
新しくできたコンビニに行くところが、国道を歩くのもそっけないと思い、ひと
つ手前の路地を歩く事にした。意外にもそこは、今まで一度も歩いた事のない道だっ
た。
「タキ? タキか」
脇から、ちょっと枯れた男の声がする。私は驚いて、声の主を探した。
見ると庭の柿の木の下に、ひとりの若い男が座っていた。
月あかりでスケッチをしていたらしく、男は鉛筆で激しく、柿の木のある風景を
描き殴っていた。
「ごめんなさい、私はタキじゃないわ。ちょっとこの道を通っていただけ」
「そうか。タキが来てくれたのかと思った。悪かったね、いきなり声をかけて」
私よりいくつか若いように見えるこの男は、眼が隠れるくらいに前髪を延ばし、
その隙間から激しい視線を投げていた。その激しさは狂気のようでもあり、哀愁の
ようにも思えた。
「絵を見せてもらってもいい?」
「ああ、どうぞ」
男はてらいもせずに絵を手渡した。
私は息を飲んだ。
月夜に浮かぶ柿の木は、現実のものよりも遥かにリアルだった。雄々しく空に向
かう古木。その円熟した実。そして枯れた葉は、いくつかはかろうじて木にとどま
り、いくつかは風に舞っている。まるで人生の無常のように描かれたその葉を見て、
私は激しいものに囚われてしまった。
「君は何を感じる?」
「激しい感情。それは。絶望、かもしれない」
「みんな、そう言うんだ」そう言って男は笑った。
「絵とは、ただの線の連なりなのに、なぜそこに絶望を感じるのだろう。おれが
感情を込めると、誰もがそこに絶望を感じる。多くの人がそれを感じ、しかし、そ
の絶望のおかげで、おれの絵は賞賛された」
私がその絵を返すと、男は、スケッチブックを伏せて地面に置いた。
「タキとは昔、一緒に海に行ったんだ。おれの友達と4人で。美大で一緒だった
おれたちは、スケッチ旅行の名目で、安い民宿に何日も泊まった。
その頃のおれは狂ったように絵を描き続けていた。もともと気性の激しい人間で、
おれはずっと苛立っていた。だから絵は、それをぶつける格好の材料だったんだ。
絵は魔物のようにおれを魅了したよ。どんなものでも描けた。世界の全ての風景を
おれの色に塗り変えられた。そして時には、自分の想像だにしなかった世界がその
中に広がった。描いているのはたしかにおれなのに。まるで筆が勝手に描いたよう
に、世界が色づいてくんだ。
そしてその世界がおれを変えた。加速する何かが自信のように胸を突いて、それ
でタキを抱いたんだ。タキはおれの胸の中で、まっすぐにおれを見て笑ったよ。あ
なたの目を見てるとどこまでも行けそうだわ、と言ってね。今まで声もかけられな
かった女なのに。自分の絵が描けるようになってから、ためらいもなくなった。絵
に取りつかれておれは、人生すらも変えたような気分だったよ。
海で描いた漁師のスケッチを、仕上げると、それは当り前のように入選した。画
壇に注目され、未来が開けた。それでもおれのエネルギーは決して衰えなかった。
おれの心は、絵だけを見ていたし、絵はいつも忠実におれの心を再現した。これ以
上の関係がないくらいに、おれたちはうまくやっていたんだ。
なのに。タキは妊娠した。おまけに子供を産むと言いやがった。
教えてくれ。女はどうして子供を産みたがるんだ。おれは、ただ、あいつが欲し
かっただけなんだ。その先にあるものなんて、本当にどうでもよかったんだ。
おれは、果てしなく絵の中に広がっていく世界にしか興味がなかった。本当の関
係はここにしかない。そう思うと、現実はどんどんうすっぺらになっていった。
おれはタキを船に乗せた。揺れて揺れて、子供なんか流れてしまえと。タキはお
れの魂胆を知っていたけれど、臆しなかった。
あなたがいらない、と言えば私はこの子を連れてあなたから去ります。だけど私
はあなたの分身を抱くことができるわ。あなたが否定しようとも、私はあなたの一
部を自分のものとして生きられる。私はそうして生きられる。私はもう、それでい
い。あなたの世界の中には、もともと私など入りこめないのだから。だから、あな
たは、自分の絵を描いたらいいわ。
タキはおれを見据えてそう言った。
愛のようでもあり、憎しみのようでもある目だった。それに重なるように、慈悲
やら哀れみやらが、やたらと溢れていて、でも、それをどうしろと言うんだ。おれ
は、おれの分身なんていらない。タキの言うように、おれは、唯一、絵と向き合っ
ているおれだけがおれだったんだ。
子供は男の子だった。
タキは乳を含ませて、そしてその子が眠る間に子供の絵を描いた。同じ美大にい
たから。あいつだってそれくらいの事はできたんだ。
やわらかい安らぎの中で眠っている子供の、稚拙な絵だった。だけどその絵は胸
をしめつけた。実物の子供にはそんな感情なんて持てなかったのに、その絵の柔ら
かさは、たまらなくおれをしめつけて、それで、どうしようもなくなってしまった
んだ。
デッサンがめちゃくちゃだよ。そう言っておれは、その絵を描き直した。子供の
顔の安らぎは、それで消えた。代わりに、激しく世界を拒否するように、その子は
固く目を閉じた。
そうしてタキは、子供を連れておれから去っていった。
それからおれの絵は、駄目になってしまった。
わかるかい。
自分の中に世界を塗りこめるなんて、結局できはしないんだ。おれが対話してい
たのは、自分自身じゃなかったんだ。
タキは、すごいわとか、私にはとても描けないとか、そんな稚拙な感想しか言わ
なかったから。おれはタキを馬鹿にしていた。だけどあそこにタキがいたから。タ
キに見て欲しくて、おれの世界は広がっていたんだ。ずっとそれに気付かなくて、
どうして描けなくなったのか、全くわからなかった。あせっても真剣になろうとし
ても、絶望はもう、絵の中にとどまらず、空中を漂うばかりだった。絵は、平坦な
魂の抜け殻のようになり、他人どころか、自分すらも魅了できなくなってしまった。
そうして東京を去り、おれはこのあたりを放浪しては、さびれた風景画を描いて
きた。だけどおれの魂は、けっして絵の中には戻らなかった。いくつかの絵を安い
値で売り、なんとか生計を立てたが、感じるものもない絵を誰が賞賛するものか。
おれは、工場でみかんを缶詰にして売っているような気持ちにしかなれなかった。
おれは、タキが描いた子供の絵を、もう一度見たくてたまらなかったんだ。
あいつもあの時、おれに見てほしくて、あの絵を描いたのだろうか。
子供とはこんなに安らかなのよ、こんなに愛が溢れているのよと言いたくて、あ
の絵を描いたのだろうか。それなのにおれがめちゃくちゃにしてしまって、あの絵
は、もうこの世にはないんだ。
正直言って今まで、あれほどおれの胸を締めつけた絵はなかった。もう一度、あ
の絵を見たくて。だからおれは、タキが子供を連れて来てくれるのを、ここで待っ
ているんだ」
月あかりが冷たく、世界を研ぎすましていた。魔物のように魅せるものがある。
魔物は人間たちを、どこまで連れていけるのだろうか。
「タキを愛しているのね。その事を知れば、彼女はまたきっと来てくれる。そん
な気がするわ」
男は、戯言を、とでも言うように笑った。
「無駄だよ、タキはもう、ここには来ない。それはもう、わかっているんだ」
男は私を見た。哀れをたたえ、それをすべて受け入れた目が、深い闇の中に光る。
「どうして、なのかしら」
「それは。人は、月日が経つと年老いて、みんな死んでしまうからさ」
男がそう言うと突風が吹いて、その男は、風の中で粉々にちぎれていった。
男の姿も、スケッチブックも、みんな風の中に消え、あとには、柿の葉とちぎれ
た男の気配だけが、かさこそと路地を行き来した。
やがて風は止み、すべての気配が消えたあとに、月だけが冷たく光った。
******************************************
私は翌日のまだ明るいうちに、気になってもう一度その家の前を通った。
「青木」と表札のかかった家には、まったく人の気配がなく、その家が空き家で
あることがわかった。
家の前に小さな碑が立っていた。古びた碑に書かれた小さな文字がかろうじて読
みとれた。
そこが夭折した画家の家である事を、私はその日はじめて知った。
こがゆき