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ご近所散歩道シリーズ・
匂い
最近、匂いがやたら気になる。
と言っても鼻炎で鼻が弱いもので、実際に嗅覚が優れてるわけではないのだが。
何だか、ものを見ていると、そこから漂ってくる匂いが見えてくるような気持ち
になる。
それもかなり克明だ。複雑に絡み合った匂いなどは、ひとつひとつを分解して、
何と何の匂いなのか素を辿ることだってできる。
これがなかなかおもしろい。
自ずと、匂いのする場所に行き、そこをじっと見つめてしまうのが癖になって
しまった。
ごみの集積場などは、なかなか壮観である。
じっと立ち止まって、ひとつひとつのごみ袋を見つめてみる。
事務所の紙のごみにはインクの匂いが漂っている。えんぴつの削りカス、お茶
がら等。清潔だが独特の臭み、悪い匂いではない。
製麺所のごみも出ている。賞味期限をすぎた麺類はまだ、腐臭というほどでは
ない。カンスイよりも卵の匂いが強く感じられる。案外丁寧な作りの麺なのかも
しれない。
家庭の生ごみの方がむしろ壮絶だ。日々の食べ残しと食べ物の破片、野菜の皮。
丸めたティッシュは、こぼれたスープを拭いたものらしい。ちょっと近寄って確
認してみるが、残念ながら食欲には繋がらない。
公園のベンチからも匂いが漂ってくる。
前に座っていたのは、おそらく若いカップル。甘くセクシーな分泌物が漂って
いる。それに交じりあうように、すえたような汗の染み込んだ衣服の匂いもする。
その前には多分、浮浪者が昼寝していたのだろう。
ベンチの脚の部分は犬の小便の匂い。小さい犬だ。おそらく座敷犬。取るに足
りない匂いだ。
公園を出てから、大通りを歩いてみる。
いちょう並木の大通りは整然としていて、意外に匂いが少ない。
生保会社のビルは定期的にかなり念入りに掃除されていて、興味の湧かない消
毒臭が鼻につく。近寄ると、その匂いのきつさに閉口してしまう。保険会社の女
性社員の香水の匂いも混じっている。甘くて下品。体臭と融合しない匂いは俗物
である。
通りに出ていた屋台は、最後に水を流して、念入りに匂いを洗い流したのだろ
う。ビールと食物の匂いは薄められていて、それに洗剤の匂いがオーバーラップ
している。清潔は無臭ではない。匂いを消すためのもっと激しい匂いが、硝煙の
ようにむせ返っている。
食指が動くのは、むしろ駐車場である。工場の通勤者のために作られた、だだ
っぴろい駐車場。
古い家を取り壊した跡地の砂利の地面には、いろんな匂いが染み着いている。
柿の古木。渋柿が落ちたあとのすっぱい腐臭がこびりついている。
雄犬の匂い。
誰かはすぐにわかる。山崎さんちの犬だ。出会うと吠えられて面倒なのでかか
わらないようにする。
コンビニの袋には、おにぎりとサンドイッチの残骸。まだ新鮮である。それは
わかるのだが、ビニルがきつく締められていて、手出しはできない。
缶コーヒーやらドリンク剤も転がり。破れたコンドームまでもが地面に張り付
いている。まだ雨に流されていない。精液の匂いが残っている。荒々しい情事の
残骸。
私はこの駐車場の匂いが一番好きだ。食欲と性欲とかけひきと徒労の匂い。工
場の通勤車がすべて帰った後には、ガソリンの匂いをかき消す勢いで、そういっ
たものが充満していく。
そこにあるものは、労働のすえに排泄されたもの。むきだしで汚らしい、家に
持ち帰れない欲望には、えもしれぬ凄味がある。
ビルの谷間の盆地のような駐車場から、三日月が冷たく光る。
井戸の底から見上げるような、遠い、遠い、三日月だ。
天空は、匂いを持たない。
あるいは、遠すぎて、彼方の星の香りは届かないのか。
空気は無臭ではない。
冷たい空気はほのかに甘い。冷たさは甘い。
反して暑さは少ししょっぱい。生物や植物の汗ばむ匂いが混じりあうのだろう。
遠くから、家庭の食卓の匂いも届く。これは、あたたかい。だが、リアルではな
い。夢物語の匂いだ。
人は家の中に、あたたかさを育んでゆく。無意識だが、のぞんで作られるあたた
かさ。悪いものではない。だが、それでも、家の匂いには興味が湧かない。
夢中になれるのは、そこからはみ出た、無意識の欲望のままに排出されたもの、
ただ、それだけだ。
私は、ひたすらに地面を嗅ぐ。
混じりあう。捨て去られた匂い。
ここに落ちてゆくものだけが、誰の目も意識していない、本当の匂いだ。
いくつもの断片から、いくつもの欲望があらわになってゆく。
ひとつひとつを分解してゆく。
それは、数式を使って答えを生み出すような、複雑で整然とした作業で。
それを続けていくと、人間の欲望の絡み合いみたいなものが、ほぐれるように
見えてくる。
私は夢中になり。ひたすらに地面を嗅いでゆく。
それに熱中していると、私はいきなり、首をぐいっと引っぱられた。
「何やってんの。そんなもの、いつまでも嗅ぐんじゃないわよ」
すらりとした若い女性。茶色のつややかな髪。真ん丸のくりんとした目には、
覚えがある。
あ。モモ。
私の可愛い飼い犬のモモ。
おまえ、人間になったんだね。
子供だと思っていたのに、いつのまにか、こんなにきれいな若い女になってし
まって。
こんなところにまで、私を連れてきてくれてたんだね。
こがゆき