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ご近所散歩道シリーズ・
子猫@アンダーグラウンド
5月30日
どこかで、ずっと子猫が鳴いている。
みゅうみゅうみゅうみゅう、みゅう、みゅう、みゅうみゅう。
細いあめ糸のような声で一晩中泣いている。
泣き声は庭の隅の方で、ずっと聞こえるのに、子猫の姿は見えない。
庭の隅に積み上げたガラクタ、たとえば使い古した金魚の水槽や、捨て損なった燃えない
ゴミとかをみんなどけてみるが、そこにもいない。
犬のモモも、心配そうに覗き込んでいる。か細い鳴き声が、やはり気になるらしい。
どんなに探しても姿は見えない。
考えられるのは、もう、床の下しかない。真っ暗な、床の下を通風口から覗いてみる。だ
けどもそこには何も見えない、掌さえも届かない。ただの闇が、ぽかんと口を開けている
だけだ。
誰にも邪魔されないように、外敵にやられないように。
この場所に子猫は置いていかれたのかもしれない。
大丈夫かと不安になるが。ここでもう、何日も鳴き続けている。
子猫は。このままここで大きくなっていくんだろうか。
通常の世界から見えない場所で、人目にも触れずに、子猫は成長していくんだろうか。
そう思うと、アンダーグラウンドに蠢くものに、奇妙な共感を感じられた。
庭には若葉が伸び、あじさいの花が咲き始めた。工場の門番は、朝な夕なに駐車場の鍵
の開け閉めを繰り返す。
人は歩き、働き、吐息をつき、買い物して、そして笑う。
だけどわたしは、ときに、そういった行為がふわっと遠くなる。
説明するのはむつかしいけれど。
何かの役に立ちたくなんてないんだ。
ふつーのことを繰り返して。
やらなきゃいけないことなんていっぱいあるんだろうけど。
やらなくても済むような、そんな世界もあるのかもしれないとも思うんだ。
子猫は、床下で生き延びていけるのだろうか?
生きていけばいい。
目に見えず、だれにも認識されない世界で。
もっとも、そういう定義づけは、わたしの個人的で大甘な感傷なのかもしれないけれど。
6月9日
庭先で生まれたらしい子猫は、それからもずっと、みゅうみゅう鳴き続けていた。
だが、縁の下だったのが、その場所はいつのまにか天井裏へと変わっていった。
そこで一晩中鳴くのだから、たまらない。
時々天井裏をドンドンと叩く。すると鳴き止む。だが、どこかへ行くわけではない。
そうこうするうちに、それが本当に猫なのか、という不安ももたげてきた。
何しろ一度も姿を見ていないのだ。
案外それはネズミなのかもしれない・・・
ネズミの親子が一晩中天井裏で鳴いているところを想像した。猫どころの騒ぎではないく
らいに不穏になってしまった。
慌ててホームセンターまで車を走らせ、ネズミ駆除の電波などを買ってきた。だが、まっ
たく効果がなかった。
見えないものと一緒に暮らす、というのは、やはり不安なものである。
結局、家人が押し入れの天井を破った。
それでも、そこは暗闇しかなかった。
鳴き声だけが聞こえ、もう、無理かな、とあきらめかけた、その時に。
ススだらけの物体が、天井からストンと落ちてきた。
灰色に、ブルーの目の猫だった。
こんなのがいたのか。
暗闇で。
外敵にやられぬように、ひそやかに生きていたのか。
その姿を2枚の写真に留めて、子猫を、目の前の駐車場に置いた。
しばらくそこで鳴いている姿を、親猫らしき隣家の縞猫がじっと見つめ、それからどこか
へ連れていった。
それ以来、子猫を見かけない。
掌にのるほどに小さな、足元もおぼつかない子猫は。
どこかへ消えてしまった。
6月28日
親がいるかぎり。
雨つゆがしのげるかぎり。
生まれたものたちは、ただそれだけで、生きることができるのだろうか。
天井からひっぱり出して以来、子猫はとんと姿を見せなかった。
だが、ときおり、ガサゴソと音を立てて、家のまわりに気配を漂わせている。それでも相
変わらず、姿が見えない。
見えないモノを存在を認めるのは、少々苛立つものだ。
どうして、ウチの家なのかと思う。隣家の猫なので、隣家でもよさそうなものだが。
外敵から守られる場所として、とにかく親猫は、我が家を選んだのだ。
これも何かの縁なのかもしれない。そうは思うが、苛立ちは治まらなかった。見えないも
のは、説明のつかないもので。それは言葉にならない感情のように、あやふやなままに心
にひっかかったままだった。
今日、家で仕事をしていたら、外から、か細い鳴き声が聞こえてきた。
仏間の方向だ。
仏間の窓を開け、エアコンの室外機の下を見ると、3匹の子猫がそこにいた。
黒が一匹と、白と灰色のブチが一匹。そうしてもう一匹はまるでダルメシアンのような
白と黒のブチの模様だった。
親は、一匹が黒猫で、もう一匹が白灰のブチのはずだ。隣家にそのような猫がいるのをわ
たしは知っていた。
ひとまわりは大きくなったが、まだ、掌に乗るくらいだ。
だが、猫たちは、手を伸ばすと、ちょろりと隠れるようになっていた。前は、ほとんど歩
けなかったのに。たいした成長だ。
わたしは、数十年も生きてきたのに、まだ、生きづらい場面に遭遇することがある。
天井を見上げていると、掌にある「生」のぬくもりが、ぽろぽろと零れていくような感
触の日がある。
その感触は嫌いではないが。
そんな日は、1メートルほどの向こう岸に、死が横たわっていて。
その境界線のあやふやさに、ふっと、自分が揺らいでゆく。
子猫は生きる。
鳴いて、お腹を空かせ。
何かを口にして。
成長し。
そして、また、子供を産む。
当たり前のことなのに。
当たり前のように。生きていくのに。
人間である、わたしの「生」は、なぜ、揺らぐのだろうか。
揺らぐのは嫌いじゃないけど。
そのあやふやさは嫌いじゃないけど。
子猫たちの持つ、あまりにも当たり前な生命力に。
なんだか今日は、泣きたくなってしまった。
こがゆき