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ブックレビュー
佐藤 正午
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「5」
2007 角川書店
佐藤正午
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遠い昔に唇を合わせた人のことをずっと覚えていた。至近距離が接点へと変わった瞬間のこととか、接点がより深い交接を望んだこととか、そのことを口にしないではいられないほどに気持ちがはやっていたこととか、ずっと覚えていたけれど、反芻するごとにその輝きは色あせていった。
この瞬間を記憶していれば、この先どんなことがあっても生きられると思っていることを、人はけっして同質のままに保つことはできない。
保つことができるとすれば、それはファンタジーだ。
そんなファンタジーが「超能力」という姿にまとって、この物語がはじまる。
タイムスリップを扱った「Y」、失踪を扱った「ジャンプ」に続き、超能力をテーマにして描かれたのが「5」。
ただし読者はしょっぱなから超能力とは何ぞや、という迷路に迷い込むことになる。
ふとした事件から中志郎に授けられた能力は「(奥さんと)出会った頃の情熱を取り戻せる能力」。
エモーショナルな超能力だ。だが、その能力(あるいは情熱)が、ほのかな赤い光のようにずっと物語の中に小さく灯り続け、ときには光が弱まり、そしてときには柔らかくも強烈は光を放っている。
この赤い光を、自分の中のなにかと照らし合わせるきっかけがあれば、この作品は生涯忘れられない作品になるだろう。もし何かのの巡り合わせのちがいで、その光と同質のものが読者の内側になかったとしたら、これは、ただ朽ち果ててゆく作家が再生しようとしているだけの作品に見えるかもしれない。
佐藤正午とはそういう作家だと思う。
けっしてすべてを描かない。生きている自分に照らし合わせなければけっして見えないもの、そういうものを描いている。
だから、幸運にも(あるいは何かの巡り合わせで)、自分の中のほのかな赤い光が見えたとき、せつなさに胸を潰されるようにその行方を見守ることになる。
そうして、中志郎のファンタジーと対比させるように、語り手である僕(津田伸一)の日常が語られる。
「ほのかな赤い光」はすべての人に同じものを見せてはくれない。
彼の日常を嫌悪する人もいるだろうし、投げやりに見える人もいるかもしれない。
行き過ぎたジョークで自分を隠し、誰かに執着することに喜びを見いだせず、業界からは捨てられ、出会い系の女たちを渡り歩く津田伸一。彼の「ほのかな赤い光」はあまりにも巧妙に隠されていて、ときには苛立ちながら彼の言動を見守ることになってしまうのだが、それでも、物語のあいだ中読者は「ほのかな赤い光」を求め、作者は巧妙にそれをあいまいなものにしながら、そうして最後は中志郎とは違うものにたどり着くことになる。
どちらがほんとうの超能力か、ではない。
求める赤い光が違うのだ。
それでも、まるで大人のファンタジーのような物語を通して、わたしたちは「あの一瞬を永遠に感じ続けること」に憧れる。または未来に「そういう一瞬が来ることに」憧れる。
それに憧れ、ずっと追い続けていたいと思う素晴らしい作品。
そして同時に「自分の中に灯るほのかな赤い光」について、過去現在未来、すべての人生をひっくりかえして考えてみたいと思ってしまう作品。
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「豚を盗む」
2005 岩波書店
佐藤正午
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まわりに、少しだけ年上の人がいること、憧れる人生の先輩がいることはとても幸せなことだと思う。
そろそろ下り坂にさしかかる人生をどう生きるのか、少しだけ想像することができる。そういうふうに生きられればいいなと思う。
佐藤正午さんの「豚を盗む」はそんな気持ちにさせてくれるエッセイだ。
「ありのすさび」「象を洗う」に続く動物タイトルシリーズエッセイの第3弾。(すいません、嘘です、ありは「在り」なんで動物ではありません)
いろんな雑誌やWEB上に書かれた既読のエッセイであるが、ひとつひとつにとてもいい味わいがある。特に前書きにあたる「転居」と、あと書きがすばらしい。
若い頃、関川夏央さんのエッセイを読んでこんな中年になってみたいと思っていた。
今は、佐藤正午さんみたいな中年になりたいものだと思っている。
不惑の年齢になることは、「自分の考え方が固定すること」だと以前は思っていた。だけどこの本を読んでいると、そうではないような気になってくる。「固定する」ことではない、思考も出来事も人の心もすべて「繰り返し同じようであって、移り変わるものである」ことを受け入れることだと思えてくる。
作者はいろんなことを不思議に思う。「両手でおつりを渡す店員」「ジーンズの名前の由来」そうして自慢のスパゲッティのレシピもまた、発明者の手によって進化していったことを知る。
変わらないことなど何ひとつもない、常識という固定観念を軟化させて、疑問を持ち、受け入れ、そしてただひとつを自分のものせずに、流れるように受け入れてゆく。
とてもいいな、と思う。
今日、ホカ弁の女の子は両手でわたしの手を包み込むようにしてお釣りを渡してくれた。
「きちんと接客したい気持ち」のアンバランスさが、真っ赤な髪の女の子をとても魅力的な子にしてくれた。
生きることの大半は繰り返し、だけど、流れる中につかの間光るものを見つめる目があれば、それはそんなに退屈なものではないのかもしれない。
そういう気持ちにさせてくれる極上のエッセイだと思う。
なお、表題の「豚を盗む」については、この本のあと書きをぜひ読んでください。
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「花のような人」
2005 岩波書店
佐藤正午
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「大人のための絵本だ」と言った人がいた。
牛尾 篤さんの挿絵も美しい、そしてたくさんの女性たちの細やかな心の動きが、まるで色とりどりの花のよう。短編のひとつひとつが読み応えがある、お得な一冊。
雑誌「PHPカラット」で連載されていた作品だった。1ページめの見開きにきれいな花の写真とともに載っていた短い文章で、毎月楽しみにしていた。
それが一冊の本になったとき、印象がまったく違う。牛尾 篤さんの挿絵と、名コンビである岩波の坂本編集さんの手腕?
女性の心理描写であったり、情景描写であったり、喋っている女性だったり。
彼女たちは、みんながみんな「いい人」ではない。だがすごく上手に自分の内面を見つめている。
まとまりのない生徒を受け持った女教師が、その子供たちをばらばらに咲き乱れる花のようだという。そこには少しばかりの諦念と愛情が溢れている。
彼の家に週末に「仕事のように」訪れる女性が、駐車場の車を数えながら、好き、嫌い、と花占いをする。答えの出ない自分に対する誠実な迷い。
もしかしたら、心の中にある様々な雑念は、百花繚乱の花のようなものではないか?
どれもこれも、どれもこれも、作家の目線で描かれると、嫉妬も憎しみも疑惑も、生きている者たちが持つ静かに完成された花のような感情ではないか思える。
そうしてわたしは、今わたしの中に渦巻く言い様のないものを、花として認める。
小さな充足感が訪れる。
子供が好きな絵本を100回読むようにして、何度も読んでいたくなる作品だ。
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「花のような人」
PHPカラット 2004年12月号収録
佐藤正午
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佐藤正午さんに関しては、ファンというよりかマニアの領域なんだと思う。
ファンとマニアとどう違うか、と言われれば返答に困るのだが。たとえば、岩波の小冊子「図書」とか、PHPカラットの1ページ目に掲載されている「花のような人」とか、そんな短い雑誌でも読んでいない号があるとなんだか落ち着かない。「花のような人」なんてたったの1ページなのにだ・・・
PHPカラット12号の「好き、嫌い、好き」はとてもいい作品だと思った。
女性が毎週末恋人のマンションに通っている。そしてある日駐車場に車を止めて、ふっと「自分は会社に通うように恋人のマンションに通っているのではないか」と思う。
駐車場の車を1台1台頭の中で消去しながら、好き、嫌い、好き、と花占いのように数えてゆく。
最後に1台が残る。
それは「好き」なのか? 「嫌い」なのか?
わたしのイメージでは「嫌い」だ。そのまま女性は駐車場から自室に引き返すような、そんな潔くも悲しい結末が想像される。もちろんそんなことは、一言も書かれてない。それは「空気」あるいは「わたしの心象風景」としか言い様がない。
会社に通うように恋人の元に通うのは、会社を辞めるのがこわいからだ。
もちろん会社勤めを辞めたって、新しい会社を探すなりバイトするなり失業保険ももらいながらぼおっとするなりして何とか生きていける。
だけどよほどイヤなことがない限り会社は辞めない。それと同様のことが恋人に関しても言える。
恋人に関しても言えるのだが、それは彼女にとって潔いことではない。そんな女性はとても魅力的だと思う。
安心を確保するために恋をしていないか?
そんな疑問を突きつけられて、心当たりをいくつも数えてみたりもする。瞬間の幸せを持続させるのは、あるいはエネルギー、あるいは惰性の運動だ。
潔い疑問は、何日もわたしの胸にくすぶる。
ここ最近の佐藤正午さんの短編は、短ければ短いほど、そぎ取られた部分が透けて見える様な気がする。
ああ、まとめて読みたい・・・今月で最終回の「花のような人」。一気読みしたいなあ・・・
いや。その前に早く、次の長編(いつでるかわからない)が、待ち遠しくてたまらない。
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「愛の力を敬え」(アンソロジー「人の物語」より)
2001 角川書店
佐藤正午
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夜の町を徘徊していて、ゆるやかな坂に白くはっきりと浮かび上がる「モスバーガー」を見つけた。
このモスバーガーで、森幸乃と、初対面の安部純と、小説家である私が、自分たちの意思による物語を紡ぎだしてゆくのだ。
そう思ったら、ただのモスバーガーが、まるで映画のセットのように異質な空間に見えてしまった。
短編は、断片でしかない。 この物語には「描かれていない部分」が、かなり隠されている。
たとえば森幸乃はいわゆる不倫をしていて、200万の手切れ金を受け取ろうとしている。だが、幸乃と男の別離に関する心の動きは冷徹なまでに削ぎ落とされている。
安部純と、森さちことの関係も、事実は書かれているものの謎が多い。
駆け落ちのすえ一ヶ月ホテル暮らしをして、郷里に帰るにもかかわらず、そのあとお互いに一度ずつ電話を入れていることになる。別れていながら、気持ちの上では決定的に別れていない。そこには何らかの絆があるようにも見える。
「あたしなら(あたしが森さちこなら)、もし200万持っていたら貸してあげるかもしれない」
森幸乃のその言葉にも理由がない。今でも愛しているはずだから貸してあげる、というのとも違う、昔世話になったから貸してあげる、というのも陳腐だ。
だが、貸してあげてもいい、と思う。そんな絆がたしかにあるように思えるのだけれど。そこには、理由づけの言葉は何ひとつない。
ラストシーン。森幸乃は、安部純を追いかけてバスターミナルまで200万のお金を持ってゆく。
小説家である私は、幸乃の車の中で彼女が戻ってるのを待っている。
ひどく中途半端なシーンだ。
どうなんだ。200万を渡して車に戻ってきてハッピーエンドなのか?
いや、本当に森幸乃は戻ってくるんだろうか?
そのどちらも匂わせるラストシーンに、ひどくとまどってしまった。
小説の手法として問題があるのではない。
文章の隙間から漂う不穏な匂いに、いてもたってもいられなくなってしまうのだ。
おそらく幸乃は戻ってこないだろう。
この状況で、わたしが幸乃なら、一緒に飛行機に乗るだろう。安部純を追っかけて飛行機に乗って「さちこ」の気持ちをなぞってみたいと思うはずだ。
幸乃は「さちこ」が一ヶ月の間宿泊していたホテルの名前を聞くだろう。
そうしてそのホテルに泊まってみるにちがいない。それは一泊だけかもしれないし、連泊であるかもしれないが。安部純と一緒には泊まらないと思う。
安部純を愛してみたいと思っているわけじゃない。
さちこが日常を捨ててまで追いかけた軌跡と、別れてまでもどこかで信頼しあえた愛の力。それを感じてみたいのだ。
そして、幸乃がそれを感じられたとき。200万のお金は安部純に手渡されるのだろう。
「(さちこなら)貸してあげるかもしれない」
その言葉に翻弄されて、読了後に、とてつもなく長い旅をしてしまった。
しかしそれはけっして、わたしの想像から出た旅ではないことを、読み返してみて、改めて実感する。
短編は、断片でしかない。
その向こうには、とても長い物語が隠されている。
それはまるで爆竹のあとの煙のように、行間に力強くたちこめていて。
その「隠された物語」によって、読者は、愛の力を敬うことを、自らの想像力によって模索してゆくのだ。
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「ありのすさび」
2000 岩波書店
佐藤正午
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佐藤正午氏のエッセイ「ありのすさび」を読むとまず、作者の、小説家としての非常にストイックで真摯な姿勢が浮かんでくる。
いや、そういう本じゃないんじゃないか、と思われる方も多い(?)かもしれないが、少なくともわたしにはそう映る。
締めきりを大幅に遅れた小説のこと、ひっきりなしにかかってくる酒場への誘いの電話、競輪、女ともだち、インターネットなどのよもやま話は、読み手の印象を意識した味のよいスパイスとなっているが。読後に残るのは、ひとりで小説に向き合う作者の生き方である。
小説の第一行を書くために、机に座っている。友人からの電話を断ると、「締めきりか?」と尋ねられる。いや、そうではない。だけども机に向かうために、その電話を断るしかない、と作者は思う。
そこには想像をはるかに越えた集中力と、今から書きはじめる世界への愛着と、その世界をきちんと描けるだろうかという怖れが込められている。辞書や引用文を徘徊するうちに時間が過ぎてゆく様も書かれているが、読者には伝わりづらい細部までの執着がそこにはある。
ひとつの世界を構築するとは、こういうことなのだ、と襟を正さずにはいられない。
と言っても、そういうことばかりを主張したエッセイではけっしてない。それが全てだとしたら、それはあまりに無味である。
他者は、水が流れ込むようにして、作者の生活に介在してくる。そこにいる生きている自分がいなければ物語なんて語れはしない、そのことがユーモラスに、そしてほのかな愛着を漂わせて描かれている。
たとえば、通った歯医者の奥さんがファンで、サインをプレゼントした話。受付の女性から、
「これからもがんばってください」と言われた作者は、彼女にもサインをプレゼントしなかったことを悔いる。ずっと心に引っ掛かっていて、その後に受付の女性が当の奥さんだったことを知る。些細なことに迷う誠実さがなければ、こんないい文章は書けない。
エッセイのとちゅうで、ピンチヒッターをたてて逃亡したという嘘話。これにはクレームがついたというおまけつき。度を超したジョークが作者の持ち味なのだと知っていなければ、ここはクリアできない。(わたしもずいぶん騙されているような気がする)
「佐藤正午」のホームページについての生い立ちも、このエッセイで知ることができる。友人であるrain氏が、誕生日プレゼントとして、ホームページの試作版を贈る。これを公式ホームページにしたいという作者に、rain氏が「めんどくさいけど、まあ、いいや」と答え、そうしてホームページが誕生する。
この誕生日プレゼントがなければ、わたしはここに居られなかったのだ。
もちろん佐藤正午氏は、ストイックに小説を書き進める作家なのだから、年中ホームページでのやりとりにつきあう余裕などない。
だけど。
**ただ例年の冬と一つ違うのは、ホームページを訪れてくる未知の読者との交信のおかげで、ひとり暮らしの寂しさがいくらか紛れる*** と記されている。
わたしたちの無駄なよもやま話も、まんざら無駄なだけではないのだ。
生きている作者が呼吸をしている場所がここにあり、その日々の雑感がいくつものストックとなって、新たな物語が誕生こともあるのかもしれない。
インターネットが持っている、そんな「距離の短さ」を、エッセイでの断片は、わたしに再確認させてくれた。
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「ジャンプ」
2000 光文社
佐藤正午
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ハードカバーの帯には、失踪をテーマに、現代女性の「意志」を描く。と書かれている。まあ、本を読んで感じることってのは人それぞれなんだけど、ちょっとわたしの感じることと違うな、とまず思った。
たしかに失踪をテーマにしているのだけど、わたしの胸に迫るのは、失踪されて取り残された主人公の胸のうちだった。人を失うのは悲しい。そこに理由がなく。自分の落ち度もないとすれば。去っていった者よりも取り残された方がずっと悲しい。八日め、十四日め、一ヶ月、半年、五年後。誰かを失った人間にとっては、この日数というのが、嫌というほど身にしみるのだと思う。最初の衝撃は薄れてゆくものの、これくらいの期間で、一度ならず何度も立ち止まる。もう忘れてもいい頃なのに、振り返るように思い出してしまう。それくらいの時期の、それに見合った心情がいつも描かれている。
糸をたぐり寄せるように、足跡が見つけられてゆくが、それと同時に、いつまでも見つけられない苛立ちもそこにはある。この苛立ちが胸を打つ。大切な男と別れたとき、わたしは何度もこんなふうにくり返したのだと、思い出してしまった。
南雲みはると五年後に再会を果たした主人公の台詞が、印象的だった。残された自分は「自信喪失で、芯のないりんごのようだった」と言う。「五年間、解答欄はブランクのままだった。ずっと疑問が解けないままだった」とも。そうだよ、もっともっと言ってやれ。この苛立ちを言葉にできないまま、一度も再会できない人間たちが世の中にはたくさんいるんだ。わたしのかわりに、それができなかった読者のかわりに、きちんとした言葉でその気持ちを伝えてくれ、と。読み手の力の入るくだりだ。
もちろんみはるはそんなに悪いことをしたなんて思っていない。彼女は雲が風に流されるように、西へと移動していっただけだ。それに、主人公にだって落ち度がないわけではない。落ち度がないどころか、原因は彼の方にある。けれども、それすらも気付かない。不可抗力の空しさがそこにはある。
最後のどんでん返しは、意外でもあり、恐ろしくもあった。女ってのは、こんな恐ろしい愛し方をするんだなあ。
シークアンドファインドの形式を取りながら、次々と足どりを追ってゆける作品。だがそれ以上に、その時その時の心情が、素晴らしくよく描かれていた。だらしなさも、情けなさも、不注意さも。男のそういう部分を描かせたらこの人しかいない、というくらいに。存分に味わえた作品だった。
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短編集「きみは誤解している」
2003 集英社
佐藤正午
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(きみは誤解している)
数年前、父を癌で亡くし、父が死へと少しずつ近付いてゆくのをずっと見ていました。あの時から、自分がいつか死ぬ運命であることが、いつもちらちら頭をよぎります。それとまったく同質の不安をさらりと言ってのける主人公に共感を覚えました。
一枚の当たり券が、200万まで増えてゆくのは、おとぎ話しのようです。そして、それがゼロになり、また賭けてゆくという現実。「まんじゅうと資本主義とどっちが好き?」柴門ふみのまんがで読んだ、こんな台詞を思いだしました。資本主義は嫌いだ。だけども、毎日まんじゅうを買わないではいられない。表現はちょっと違うかもしれないけど、そんな主人公の潔さ、好きです。
(遠くへ)
子供の好きなスーパーヒーローの世界には。スーパーヒーローのあるべきイメージがあるし。競輪の世界には競輪の世界の、スーパーヒーローのあるべき姿があるのかもしれない。それは、その世界に身を置く人にしかわからないし、その世界を愛している人からしか、外への発信はできないんじゃないだろうか。そういうことを感じました。
決して折り返しでは買わない。幾人もの選手を押さえない。競輪の世界で潔くギャンブルをしてゆく女性。わたしは買ったことがないのでわからないけれど、この女性のような人はめずらしいんじゃないだろうか。その純粋なギャンブル性は。わたしにとっても遠くで。たぶん、彼女にとってもはるか遠くまで来てしまった自分で。だからこそかっこいいんでしょう。
(この退屈な人生)
沈み込みというのは、ひきこもりのようなものなのでしょうか。当たって、それで生活できることもまた退屈。一喜一憂のないギャンブルを続けて、たんたんと生活してゆくというのは、もしもすべての車券が当たったら、という想像から来てるのかもしれませんね。前二作に比べて、わたしへのインパクトは少なかったのですが。その空しさは、心に染みました。
入り込むのも蟻地獄のようならば。入り込めない人間の空虚さもまた。染み入る人生を感じさせました。
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