.kogayuki. |
ブックレビュー
盛田 隆二
|
|
「ありふれた魔法」
2006 光文社
盛田 隆二
|
「ありふれた魔法」というスピッツの歌からの引用と表紙のおだやかな写真をみると、なごやかな恋愛ものを想像されるかもしれません。
が、なかなか、どうしてw
「リセット」を思わせる疾走感が終始つきまとい、おい、ふつうの日常のありきたりな話だろ? と不安になってきたりもします。
主人公の智之は銀行の某支店の次長。部下の茜との淡い感情を軸として、銀行社会から脱落してゆく者、家族の問題などが織り交ぜられています。
どこにでもある結婚を伴わない淡い感情、仕事でのトラブルや人間関係。それがなぜこうも、読者に疾走感を抱かせるのかを考えているうちに読者は気づきます。そうだ。ありふれた日常なんてどこにもない。普通に仕事して普通に家庭を持っている自分でさえも、この年になって責任を持つごとにいまだとまどい、淡い恋にささやかな喜びを感じているじゃないか。自分はふつうの人生をおだやかに過ごしているのではない。まわりがどう思っていようとも、自分は自分の日常を疾走しているんだと。
そうして疾走している自分の日常がここにあるんだと思い、最後には自分を抱きしめたくなる小説です。
|
|
「ふたりのルール」
野性時代 2004年12月号収録
盛田隆二
|
結婚している男の人と遊ぶのが好きだった。
それを不倫と言えばそれまでだろうけど、あまりそんな感じもなかった。どちらかと言えばお気楽な関係。
なんでそうだったかこの小説を読んでわかった。
彼等はわたしに何も求めなかった。自分に関わる大切な何かを。だから終わらせる必要もなかったし、いつまでもそんなふうにだらだらと遊べるような無敵さだけがあったからだ。
いま、振り返ってみると、自分に関わる大切な何かをやりとりできない関係という意味では、それほど執着がなかったのかもしれないとも思う。
もちろん「ふたりのルール」に出てくる花織はそうではない。きちんと執着し、きちんとさみしさを感じ、そして少し泣いたりもする。それでも「終わらずにこの人と一生関わっていきたい」と思っている。
結婚というゴールのない関係は、わたしのようなサイドから見るととても気楽だ。
だが、真摯に愛していて、それでいて「ゴールがないから、いつまでも終わらないでいられる」と言うには、どれだけ自分の心への自問があっただろうかと思う。
このふたりはとても似ていると思う。
白石の方は、最終の電車までに必ず帰ることを自分で定めている。最低限のルールを決めないと、ほどけたセーターのようにバラバラになってしまいそうで、と言う。
恋することにおいて、すべてがバラバラにほどけてしまう「夜の果てまで」の対極にこの物語はある。
ストイックさによって支えられている恋愛だ。
ストイックはストイックゆえに大事件が起きない。
だからと言って、心が動いていないわけではない。むしろ、ストイックというのは、ある一定の高ぶりに心を保つすおいエネルギーがいる作業だと思う。
これが元になってひとつの長編ができればいいなと思った。
花織はもっともっとそれによって遠くまで行けるだろう。
想像しながらもけっして行けない遠くまで。彼女に行ってほしいと思う。
そんな、自分には到達できない場所を想像させる物語だと思った。
(2007年2月現在、このふたりの物語は「幸福日和」としてカドカワの「本の旅人」に連載中です。長編でふたりの話を読むというのぞみはある意味叶いました)
|
|
「ニッポンの狩猟期」
2005 角川書店
盛田 隆二
|
作者だけに見える世界がある。
作者の目には、現在のニッポン(正確に言えば近未来)はこういうふうに見えている。
だから、これはフィクションではない。
孤児や在留外国人やホームレス、それを取り締まる新宿浄化団。都内には少数民族の自治区。
現在わたしたちは少しばかりおしゃれして、財布に幾らかの紙幣とクレジットカードを入れ、新宿西口の駅で降りて都庁や公園まで安全に歩いてゆくことだってできる。
一枚のフィルターを通した新宿。だが、そのフィルターをはずした姿があることだってうすうす気づいている。うすうす気づいているが、そこに目を向けようとしない。
フィルターのないニッポンがここに描かれている。
荒んだ子供たちの世界なのに、それにうんざりしないのはなぜだろう?
彼等が生きているから。生きてはいけないほどの環境の中で、生きているからだと思う。
とりわけ魅力的なのはカズだ。彼があらゆる手段を使って生き延び、そしてぼろぼろになった「心の姉」リーと再会するとき、涙せずにはいられない。
混沌や腐敗を描くことによって浮き立った「生」が、この物語の中には一貫してあるように思う。
|
|
「ラスト・ワルツ」
2005 角川書店
盛田 隆二
|
飛行機で行くべき距離のところを、ぼんやりと本でも読んで過ごしたいと思い列車を選んだ。本を読んだり、車窓を眺めたりしながらどろどろに溶ける予定が、1冊の文庫に夢中になってしまった。泣きそうになったり、大声を上げそうになったりしながら一度も座席から動けずに読み続け、結局家に到着するまでに全部読んでしまった。
「ラストワルツ」だった。
「夜の果てまで」の盛田隆二さんの文庫。初出は1993年新潮社からの出版だが、そのベースとなる作品もあり、事実上の処女作だという。10年以上の年月を経てそれを読めたことはラッキーという他ない。
家出した18才の少年が1973年の東京に生き、1985年(この物語では現在?)の自分の生活の中に、その頃の人々が現れてゆく。
子供のいる年上の女性との危なげな関係、そして1985年に用意されていた「現在」の残酷さ、安穏さ、切なさ。小さかった子供「なっちゃん」の成長した姿、必死で生きてきた花菜子さんの傷だらけの姿。
70年代と80年代はまったく違うものだ。そのふたつの時代を真摯に適応させて生きていく人間もいれば、80年代に失速してゆく人間もいる。ストーリーよりも、彼等の肉声に揺さぶられる。
単なる不倫ものではない、妻は怒り涙するが結論はでない、自分自身も選ぶことに躊躇しているように思う。その曖昧さが「物語」のストーリーでは描ききれないものを描いているような気がした。
昔、わたしたちは「さみしさ」と向かい合っていた。
さみしさを補うために、人と繋がり、傷つけ、それでも補いきれない孤独に絶望した。
現在わたしたちは、さみしさを「薄める」方法を知ったように思う。それはどこでも繋がれるケイタイだったりメールだったりインターネットだったり。
さみしさを薄めることを知ったわたしたちは、さみしさの本質を見ないように生きているのかもしれない。だけども、どれだけ薄まったとしてもさみしさは決して消えてなくなりはしない。
これは、薄めたはずのさみしさが濃度100パーセントになって襲ってくるような作品だ。
|
|
「散る。アウト」
2004 毎日新聞社
盛田 隆二
|
浮浪者を主人公にした小説だって犯罪に巻き込まれる小説だって意外な展開に驚かされる小説だって世の中にはヤマほどある。
なのに、なぜ「散る。アウト」だけ、こんなにも引き込まれるのだろうか?
舞台は東京からモンゴルへ。主人公は冴えない浮浪者である。彼はミステリー小説に出てくるような頭脳ひとつでいろんな事件を解決してゆくタイプではない。同行のダワの機転に助けられたり、判断を間違えたのではないかと迷ったり。そんな等身大の主人公だからこそ、わたしたちは同時にその細やかな感情の動きに同調できる。
モンゴルの町の風景が細部にわたって描写される。だが取材したものを羅列するだけではない、かといって過剰な感情も含まれていない。だが、確実にその場所の「空気」が緻密に描かれている。だから、だからわたしたちは、未知の町に迷い込んだひとりの人間となってその場所に立つことができる。
ダワという女性が美しい。とても力強く物語りを引っ張ってゆく。
カードがどんどんひっくり返るように、いろんな事が起こる。それに同調して脈拍がどんどん上がってくる。
これはミステリー小説ではない。日常から、自分を始点としてはじまる心の強さ、悲しみ、動いてゆくものたちを描いた小説だ。同調し、絶望し、悲しみ、そして散る、アウト。
その中で、すれ違い、繋がってゆく数々の人々がいて。ひとりひとりが自分の人生を生きていて、そして繋がっている。
ラストを迎えても、まだ、熱は冷めない。
ひとつの物語が終わっても、ダワのことや、主人公のその後などを想像しないではいられない。
そしてまた、読み返す。
筆の細やかさが織りなす世界にいつまでも身をおきたいと思う、これまでにないタイプの小説だと思った。
***
またもしつこく、ケチをつけてみようのコーナーです。
舞台は2006年。世界情勢を細かく描写したこの小説。チェチェン独立派なども登場するんですが。激動の世界は今後どうなるかわからないもの。
案外その頃には、チェチェンが独立国になってたりして・・・
いや、わたしは、そこんとこ詳しくないんでわからないんですが。
どっか突っ込んでみたかったりして・・・
|
|
「夜の果てまで」
2004 角川書店
盛田 隆二
|
朝、目覚めてみて、自分の記憶があやふやなことに気づく。
本を読みながら寝たのだと思う。
だけども、もうひとつ、記憶があった。
わたしは、夜中に目覚めてコンビニに行って買い物し、その後で小さなチョコレートをひとつだけ万引きした。何が原因という訳ではないが、雑多な面倒が多すぎた。それと、夜のバイト担当の金城(金城武に顔が似ていたので、わたしは勝手にそう呼んでいた)に、気づいてほしかったのかもしれない。
その男(金城)と恋に落ち、わたしたちは、失踪する覚悟を決める。夫も捨て、子供も捨て。遠い場所に行く。もう、後戻りできない。大事なものを捨てても、わたしは行くしかないのだ、と思いながら、泣いている記憶だった。
ベッドの中でしばらく考えて、自分は失踪なんてしていない事に気づく。
その証拠に自分は、いつものようにこのベッドにいるではないか。
それをたしかめたときに、胸に強烈な痛みを感じた。
ずっと昔のことだ。
あのとき。その男と一緒になるためには、何もかも捨てなければならなかった。だけども、わたしはそういう選択をしようとは思わなかった。男もまたそれを望まなかった。戯れの中でそんなことを想像することはあっても、それは別の世界の話でしかなかった。
好きという言葉が、単なる好きでいられるのはいつまでだろう。好きという感情は絶えず、形を変えてゆく。
恋をしているあいだじゅう、わたしはそれが重たくて仕方ない。
それが移動して「夜の果て」まで行ってしまうところを、想像しては怖くなり、それでも想像しないではいられない自分がいる。
もう既に遠くて、掘り起こしても掘り起こしても、けっして変えられない記憶。
その記憶が、一晩にして覆される。
わたしは、あの日の感情の続きがあることを知る。
それが、どこへ行くものなのかを知る。
記憶の中で、わたしはその人生を歩む。それはけっして「もうひとつの人生」などというものではない。それはわたしの中にあったものだった。ただ、それを選択しなかった、それだけのことだ。
その本を読んで、緻密な感情の動きに、自分を重ねあわせ、自分の記憶が覆される。
そんな本に、これからどれくらい出会えるだろう。
いや、できれば出会わずにいられたらいい。
もっと違う人生を歩めるような本の方がいい。
片付けてしまったはずの服を引っ張りだして、散乱させたままのように。
心の中がいつまでも片付かない一日だった。
それは、おそらく、わたしだけの特別な感情ではないと思う。誰もが、そんな、自分の中の小さないびつさを掘り返されるにちがいない。
そんな、本を。読んでしまった。
|
| .kogayuki. |