ご近所散歩道シリーズ・
アンドロメダのかなたに
画家の家は、わたしの家のすぐ近くにあった。
コンビニへの近道、車がやっと一台通るくらいの路地に建っている、古くて天井の
低い二階屋だ。
以前散歩のとちゅうで、画家らしき男を見かけた。
彼は月明かりの庭先に鉛筆を走らせて、柿の木をスケッチしていた。
目の前にある柿の木よりも、もっと柿の木らしいモノクロのデッサン。わたしはそ
れに心を奪われた。
画家は、ここで女を待っているのだと言った。
画家に愛想をつかして、とうの昔に、子供をひき連れて家を出たその女を。
画家は、待ってる、と言った。
だが、その女がけっして帰って来ることのない彼方にいることも、彼は知ってい
る。
わたしにはそんな気がした。
「あ、そこそこ、わたし、その家に住んでたの」
社員食堂で、マナはサンドイッチを頬張りながら言った。
以前わたしの家の近所に住んでたとマナが言うので、頭に地図を広げながら、あれ
これと話していた。だが、画家の家はあくまで地図上のポイントであって、まさか当
の家に住んでたなんて、思いもしなかった。
住む人もなく今は廃虚だ。だが数年前まではたしかに、人の住む気配があった。庭
先には、子供の自転車がぽーんと立てかけてあったような、そんな記憶がある。
「それがわたしの子供。今、三年生なんです」
マナは画家の家族か何かなのか、とわたしがいぶかしそうにしてるので、マナはそ
れを察して言った。
「あの家は、もともとは、父の勤めている会社の社宅だったんです。ほら、近所に
大きな工場があるでしょう、あそこに父は勤めていたの。それで定年までの5年間、
わたしたちはあの家に住んでいたんです」
その頃にわたしは画家らしき男と会っている。あの男はいったい誰だったのだろう
か。
「そう?? でも、若い男なんてあの家にはいなかったわ。画家はずっと昔に、三十に
ならないうちに死んでしまってるし。その後、跡継ぎも家族もいないままで家だけが
残って。それで父の会社が引きとって社宅にしたの。まあ、名前のある画家の家だっ
たから、残しておきたかったのもあるんだろうけど。あ、そこに住んでた時ってわた
し、出戻りだったんですよ」
しみひとつないきれいな肌に薄色のストレートヘアのマナは、印象が何度もコロコ
ロと変わる。
派遣社員として最初にここに来た時は明るすぎる髪の色が浮ついて見えた。だが意
外に仕事の手際はよくて、模範的な派遣社員らしく余計なことは何ひとつ言わなかっ
た。
それが半年たって口数の少なさがやっと信頼に変わる頃、マナは時々素の自分に戻
るようになったが。まるで苦労知らずの独身女のように飄々としていて、バツイチに
はとても見えない。
時間はまだたっぷりあった。マナはその日めずらしく、自分について長々と語っ
た。
マナは短大を卒業して、最初は地元の保険会社に就職した。
自宅から自転車で通える会社は通勤には便利だったが、ほぼ定時に終わって会社を
あとにすると途方にくれた。毎日母親の作る夕食を食べる年ではない。そのうち同僚
と居心地のいい居酒屋を見つけ、そこに入りびたるようになった。
そこでバイトしていた男と知り合い、閉店後にバイクの後ろに乗る事を覚えた。男
は信号待ちのたびに大丈夫かとマナを振り返り、今考えてみればそれは数をこなした
男の余裕だったのだが、それですっかり参ってしまった。カーブのたびに身体を倒し
て地面を滑りぬける感覚にクラクラして。そして自分もすぐに免許を取って、中型の
バイクを買った。
「若いときって、そうですよね。好きな人のすることって、何でもやってみたくな
っちゃうの。まったく同じ形になりたくなるんですよね。だけど、そのまま結婚しち
ゃうから苦しいの。お互い、知らないところがあったっていいのに。わたしね、芸能
人の結婚するときのインタビューを聞くと、だいたいこの人たち別れるな、っていう
のがわかるの。ほとんど当たりますよ。だって、経験者だもの。あんなに相手のこと
ばっかり見てたら壊れちゃうって、手に取るほどよくわかるの」
その言葉どおりに、男と結婚してから彼女は壊れた。
男は居酒屋で働き続け、閉店後のバイクには別の若い女の子が乗ったりもした。
独身の頃は、男を見ていると、これくらい漂っていても生きられるんだと安心し
た。だが、子供が生まれると、自分も同じようにするわけにはいかない。マナのバイ
クは埃をかぶったまま、一歩もガレージから出ないようになった。
子供はいつも見つめてくれる存在を望んでいて、マナはそれに応えようとした。だ
が、男はしょっちゅうその事を忘れた。一歩でも外に出ると、家族がいる事を忘れ、
自分の家がそこにあることすら忘れた。
それで、不自由な自分を憎むかわりに、男を憎んだ。
憎んでも憎んでも、この男を形成する根本は変わらないのだ。憎むごとにそれを知
りつくして、無駄に話し合うこともなくすっぱりとマナは子供を連れて家を出た。
以前は二階建ての集合社宅だったマナの家は、父親の昇進を機に、戸建ての家に変
わっていた。
それが件の画家の家である。
両親は傷心の娘とその子供を手厚く迎え入れた。相手が若くて将来性もなかったた
め、マナの結婚はもともと歓迎されていなかったのだ。マナにはアトリエらしき洋室
が与えられた。その部屋の木枠の窓からは、やわらかくくすんだ光が差し込んでい
て。歓迎されても戻りづらかった家ではあったが、それでほっとした。
専業主婦である母親は、日中孫を連れて買い物に出かけるのを無上の喜びとした。
マナはその間、家事や部屋の片付けをして過ごした。少しの時間でも子供から目を
離せる、それで気持ちに余裕ができた。こわれものが損なわないようにと、ずっと緊
張していたのが、少し、ほぐれたような気がした。
「でも、それからなんです。わたしが男を待つようになったのは」
待つつもりなんかなかった。もう、いい、と思っていた。
だけど、子供と母親が出かけた後に部屋にいると、男が迎えに来るような気がし
た。迎えに来たらどうしよう、どうやって断ろうか、と思っているのに、男はいつま
でたってもやって来ない。
それでいつの間にか、じりじりと待つようになった。
板張りのアトリエに腰掛けて、ドアのベルに耳をすました。いつか、意を決して男
は弱々しくベルを鳴らす。もう一度一緒に住みたくて、必ずここに来る。
そう思うと音楽も聞けなかった。少しでも動くと、衣の擦れる音で聞き逃してしま
いそうで、床に座ったままで、庭木が風に揺れるのをいつまでも眺めていた。秋には
紅葉が赤く染まり、冬にはハラハラと散り落ちた。季節はすぎてゆく。時間は次へと
進む。だが、次に何があるというのか、男と三人で暮らしたあの生活以外に、わたし
はどういう生活をするというのか、どうしても思い浮かべることができなかった。
愛しているのだろうか、やはり、わたしは戻りたいのだろうか。
何度もそう自問してみた。けれど答えはいつもノーだった。男を憎んでいるのは間
違いなくって、一緒に住む気もないのだが、それでも、男がここに来るのを待ってし
まうのである。
実体なんて何もないのはわかっていた。だがそれでも念だけが残っているみたい
な、不思議な感じだった。そしてその気持ちは、時間とともに消えることもなく、現
実とは裏腹にいつまでも心にひっかかったままだった。
「わたしは離婚しても全然平気だと思ってました。もともとわたしはいつも、誰に
も相談せずに何でも決めてしまうタチなんです。結婚したときもそうでした。でもそ
れで後悔したことなんかなかったのに、今度ばかりは自信がなかったのかもしれませ
ん。わたしは、母が子供を見てるあいだ部屋にひとりでいて、本当にこれでよかった
んだろうかと、いつも思ってました。やってしまったことなのに、いいかどうかわか
らないなんてちっともわたしらしくないんですけど。おかげでその頃わたしはいつ
も、変な夢ばかり見ていました」
マナは夢の中で、いくつも取りかえしのつかないことをしてきたと言った。
例えば、散歩に連れていった子供をどこかに置き忘れてそのまま帰ってきた。どこ
に置き忘れたかどうしても思い出せない、ただ、二度と戻って来ないことだけが夢の
中ではゆるぎなかった。
つきまとうストーカーに我慢がならず、その男の頭にふりむきざまにハンマーを降
り下ろしたこともあった。ハンマーは骨をかち割って、ぐにゃりとした感触で脳みそ
にのめりこんで、その感触はいつまでも手から離れなかった。
そしてその後に夢の中で必ず、マナは後悔するのである。警察につかまって、あ
あ、もうこれであの家には戻れないんだな、と思った。泣いている両親を前に言い訳
することもできずにぼろぼろと涙を流した。
たったひとつの出来事で、人は一生分の後悔をするのだ。マナは夢の中でその事を
知った。
それは、けっして現実世界で知ったものではなかった。夢がそういう感情をマナに
訴えてきたのだ。
朝が来ると、傍らでは子供が寝息をたてていた。
虚構から生還した朝。マナはいつもアトリエの壁に描かれた絵を触った。
「そこは壁紙も何もない白いペンキを塗っただけの壁でした。壁には、女の人の横
顔が描かれていたんです。鉛筆で描かれた荒々しいデッサンで、女の人は夢でも見て
いるようにうっすらと目を閉じていました。おそらく画家が描いたものなんでしょう
けど。夢を見た朝は、悲しくて悲しくて、わたしはいつもその女の人の顔を触ってい
たんです」
やわらかにカールした髪を撫でた。何度も指でその顔を包み込むように撫でまわし
た。すると、なぜだか涙がとめどもなく溢れてきた。
これはいったいどういう気持ちなのだろうか。共感なのか同情なのか。それとも夢
の恐ろしさを紛らわせようとそうしているのか。
自分でもわからないが、全てのことが限りなくその人に繋がっているような気がし
て。自分の中にある渾沌を、すべてこの人は知っているような気がして。
マナは、明け方の部屋で、何度も何度も、その女のデッサンを撫でまわし、時には
女の唇に口づけをした。
それは、絶望にも似ていた。待つことが無駄だと知っているのに、それでも待って
いる、絶望。だがその絶望がどこかに繋がっている、そんな共犯の甘美さが、そこに
はあるような気がした。
マナは紙コップのコーヒーを飲み干した。
ぐぐっと飲み干して、そして遠くを見ながら、それから次の言葉を探していた。
マナは静かにわたしの方を見た。その時その目には、今まで見たことのない鋭い光
が宿っているような気がした。
「わたしの思い浮かべる宇宙って。いつも限りない闇の中なんです。アンドロメダ
のかなたまで、深い闇が限りなく続いている。もちろんそこには、いくつもの星の光
があるけれど。それでもわたしにとっては、宇宙は闇なんです。そうしてこの闇には
終わりがないのだ、そう思うといつも、気が遠くなりました。そもそもわたしは、宇
宙という場所にどうして自分がいるのかさえ、何も知らないんです。
わたしはいつもいろんな不安にかられていました。生きていることの不安。世界の
果てなさへの不安。大切にものをなくしてしまうことへの不安。不安は、生きている
ことと同じものように、当たり前にわたしの身体の中に組み込まれていました。だか
らそれはけっして消えてしまうことがなかったのです。
だけども、あのデッサンを見ているときだけは、そのことを瞬間忘れられたんで
す。壁に描かれた女の人を見ているとわたしは、ここに宇宙の闇をかき消す光がある
ような気持ちになりました。それが、絵の力なのかもしれない。どこまでも続く、自
分の中にある渾沌を、たったひとつの絵が、鎮めてゆくのです。
描くことで人は、自分の中にある果てしない闇をかき消そうと望んでいる。
あるいは、ほんとうに、描くことで、一時的にせよ、闇は光へと変わることができ
るんです」
マナはわたしの目を見てそう言った。
だが、それが本当にマナの言葉なのか、わたしには自信がなかった。
あの日、月明かりの差し込む庭で柿の木を描いていた男のまなざしが、わたしを見
つめていた。
男は、マナの姿を借りてもう一度、わたしの前に現れたのだ。
画家は不遇の生涯を送った。
賞を取って中央画壇に賞賛された時期もあったが、それが生活の糧になる時代では
なかった。
恋人を失ってこの地に帰り、放浪の末に病を患った。
画家は骨董屋を呼び寄せ、家財道具を処分するように申し入れた。武家の出身であ
る画家の家には、換金できそうなものがまだ、幾らかはあった。
「一切合財を。みんな処分してくれ」と画家は言った。
「この布団もですか」
「そう、布団も」
画家の家にはもう、何も残っていなかった。何もない場所でそのまま果てることを
彼は望んでいた。
「でもそれでは、あなたの眠る場所がなくなる。荷物もかさばることだし、布団だ
けは置いてゆきます」
骨董屋はそう言い残してリアカーを押して去った。
その骨董屋はわたしの祖父であった。
結局マナは数年をその家で過ごしたのちに、子供とアパートへ移った。
マナの父親が二年前に定年退職し、社宅であるその家を離れたためである。両親は
郷里の長崎に居を構え、そこに二人で住んでいる。
画家の家は老朽を重ね、社宅として使うことはこれ以上は無理であった。
空家となって季節をひとめぐりして、庭には掃く人のない紅葉の葉が敷き詰められ
た。
来年にはこの家は、市内の公園に移転することになっている。
マナは仕事の関係もあって、子供を連れて市内のアパートを借りた。その頃にはも
う以前のような不安定な感情は、つきものが落ちたように消え去っていた。新しい恋
人に恵まれ、最近入籍を済ませたんだと、マナは笑いながら言った。
「あの家は、どんな感じだった? 画家の念みたいなものが、やっぱりあの家には
あったのかな」
「まさか。そんなことないですよ。お化け屋敷だなんて思ってたら、いちいち住め
ませんよ。それにさっきも話したとおり、わたしは離婚した後にずいぶん不安定な時
期をおくっていたんです。画家や亡霊のことなんて考える余裕もなかったわ。まあ、
あのアトリエは素敵だったけど、でも、古いし隙間風も吹くし、それに保存建築物と
かで、手直しもできやしないんです。わたしはやっぱり今のアパートの方がずいぶん
いいと思うな」
そう言ってマナはケラケラと笑った。
午後の仕事が始まろうとしていた。
外には冷たい風が吹いているのかもしれない。だが、食堂にはどこまでも、暖かい
光が降り注いでいた。
宇宙の闇をかき消す光は、当たり前のようにここにはあった。
そして人類は今、その光の中で、二千の年月を数えあげた。
こがゆき