1983.THRILLER

 “家にビデオが来た日”それが僕とマイケル・ジャクソンの出会いの日だった。1983年、母親が買ってきた輸入版「スリラー」のビデオテープ…これを観るために我が家はビデオデッキを購入した。そして家のテレビに初めて地上波以外の映像が映された…。当時小学4年生だった僕は、脈打つ血の滴りで書かれたタイトル「THRILLER」を読むことが出来ず、字幕がないため大半何をやってるのか分からず、狼男になったりゾンビになって歌ったり踊ったりしている男が何者なのかすら知らなかったが、圧倒的パワーを持った14分の映像は僕を完全に魅了した。それから取り憑かれたように連日そのビデオを観まくった。

 1984.PEPSI-CM

 自然にマイケル・ジャクソンという存在は僕の中に根を下ろし、大きな存在となっていった。テレビに少しでもマイケルの姿が映ればビデオに録画する、そんな小学生になっていた。土曜日の深夜の番組「ベストヒットUSA」や「MTV」「CNN」…、日テレ深夜の「11PM」でマイケル出演のペプシコーラのアメリカ版CMが放送されると知れば裸のネェちゃんの映像を横目にこっそり録画したり…、家のビデオ棚はマイケル一色に埋め尽くされていった。当時、82年を最後にマスコミのインタビューをシャットアウトし、プライベートな部分を覆い隠していたマイケルの情報はあまりにも少なかった。少しでもいいから動いている彼を見たかった。アルバム「スリラー」がギネス・ブック入りする4000万枚のセールスをあげ、グラミー賞で8部門を独占し、音楽史上の記録を次々塗り替えていくマイケル。しかし彼の素顔について囁かれるのは「エレファントマンの骨を購入しようとした」などという奇人変人ぶりだけだった。

 1984.VICTORY

 どこか謎めいていて、だからこそ「知りたい」「見たい」欲求は増幅されたのだろうが、どこかでマイケルという人が実在しないような、そんな印象を持っていた。印象的だったのは「スリラー」の後、ジャクソンズを再結成して作られたアルバム「ビクトリー」(84年発売)からシングルカットされた「Torture(トーチャー)」のプロモーション・ビデオだ。この兄弟が結集して歌うビデオにマイケルはシルエットだけ登場する。シルエットに光る右手の手袋と靴下…僕にとってのマイケルは、そんな実体のないイメージだけの存在に感じられていた。

 1984.VICTORY-TOUR

 「見たい」欲求は遂に僕をアメリカの地にまで向かわせた。まだ彼が日本に来るとは夢にも思わない84年、同じく熱狂的マイケルファンだった母親と共にマイケルのコンサートツアーを見にロサンゼルスに旅だった。ドジャースタジアムを埋め尽くす数万人の観客の熱気の中で、2階スタンド遠くの席から豆粒のようなマイケルを見ながら「今、マイケルと同じ空気を吸ってる」ということだけを実感した。依然、見えるのはステージ横のスクリーンの中の彼でしかなかった。

 1987.9.9.come to Japan

 80年代、僕にとって最大の出来事はマイケルを見るための渡米、そしてマイケルの来日だった。87年、アルバム「BAD」を出した彼はワールドツアーのスタート地点に日本を選んだ。夢のような事だった。空港に行ったり、追っかけのようなことはしなかったが、コンサートには何度も足を運んだ。今度のコンサートでは、はっきり肉眼で彼の存在を確かめることが出来た。それは何よりも感動的なことだったが、それと同じくらい嬉しいことがあった。テレビでの報道を通じてではあるが、彼のプライベートの姿を見ることが出来たことだ。遊園地で遊んだり、玩具屋に行ったり、新幹線に乗ったり…、大統領に招かれた時ですらはずさなかったトレードマークのサングラスをはずして、マイケルはカメラの前で笑っていた。「日本では優しい声で、穏やかにしゃべる人が尊敬されるんだよ、アメリカとは大違いだ」マイケルがそんなことを言っていた。遥か遠くに存在すらしていないように感じていた彼を初めて近くに感じ、彼が気に入ってくれた日本という国に生まれて良かった、…マイケル好き少年だった僕は大げさでなくそんなことを感じていた。

井上 新八(いのうえ・しんぱち)
【初出】 『かい人21面相の時代・1976-1988年』( 毎日新聞社・2000年)

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