酬 舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子
の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしてい
ました。
この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱
いて、国家の正しいあり方を考えていました。
たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(け
まりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られ
ていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえること
ができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とう
のみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行
いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と
呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界
に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。
天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重い
ことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、
大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、
藤原の姓を賜りました。
藤原の姓はここに始まります。
鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より
帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を
建立しました。
大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像を
お祭りして今日に至ります。
(上記文は談山神社サイトのコピー)
撮影時の10.11.29は晴天に恵まれ、虹色の最後の紅葉を愛でる事が出来ました。これからは散り急ぎとなり、行く秋を惜しむことになるのでしょう。