性(セックス)(松本信愛 1998年)
〈ねらい〉セックスに関しては理性どおりにいかないことがかなりあるということを認識させると共に、セックスの本当の意味と目的について理解を深めさせる
〈資 料〉『青少年の性行動』(日本性教育協会編・発行)、「慰安婦」「セックス・ツアー」「ジャピーノ」「子ども買春」「強制売春」「援助交際」等の記事またはビデオ
まず、今回資料として使用する日本性教育協会の『青少年の性行動』という報告書について少し説明しておきましょう。この調査は、1974年に総理府青少年対策本部の委託を受けて実施して以来、7年ごとに行っており、現時点では、第4回目にあたる1994年発行のものが最新のものです。同調査は、監督者が学級におもむいて簡単な説明を行った後、質問票に解答を記入してもらい回収するという方法をとっています。第4回目のものも、大都市、中都市、町村の9地域における中学生から大学生まで、約5千人をこの方法で調査しており、その内容の客観性と信頼度はかなり高いと思われますので、発行者の承諾を得て、ここでもそれを利用させていただきます。
ところで、セックス経験の低年齢化が指摘されている中で、いつ頃セックスについて話すかという問題があります。あまり後まで延ばしていると手遅れになります。『青少年の性行動』によりますと、12歳、13歳、14歳の男子がそれぞれ14・9%、10・2%、6・0%、12歳の女子が7・7%の割合で「性交」という言葉の意味が分からないと答えています。(同書90頁参照)この問題を話す対象によっては、その点の考慮が必要かと思われます。
さて、若者たちは、セックスに関して相当興味と関心を持っているはずですが、それだけになかなか正面切って話し合う機会は少ないと思われます。また、教師の方もストレートに言うことにためらいがあるかも知れません。しかしもって回ったような言い方ではかえって変になる危険性もあります。セックスについて話すときには、「今日は、セックスについて、ストレートに話しますから・・・」と前置きして単刀直入に話す方がよいと思われます。ただし、若い生徒たちに、皆の前で質問に答えさせるのは、少なくとも現段階の日本ではまだ無理があると思われますので、質問をしても、答えは無記名で紙に書かせて、集めたものを教師が読むという方法をとるのがよいと思われます。
このテーマにどこから入っていくかというのも一つの大きな問題でしょうが、まず、単刀直入に、セックスの「意味と目的」について考えさせてみるのはどうでしょう。最終的な答えは、このテーマの勉強の結果出るはずですが、その前に生徒たちの持っている考えを出してもらうのです。そうすることによって、生徒自身は、日頃ただ何となく思っていることを整理し、問題に取り組むきっかけともなるでしょうし、教師にとっては、自分の生徒たちの考えや状況を把握するよい材料となるでしょう。
〈質問1〉人にとってセックスの意味と目的は何でしょうか、箇条書きして下さい。
この質問に対していろいろな答えが出てくるでしょうが、大きく分けると次の3つに分類できるのではないでしょうか。
(イ)快楽のため
(ロ)子どもをもうけるため
(ハ)二人の特別な関係形成のため
官能の喜び、肉体的喜び等はすべて(イ)に入れて考え、愛の確認、精神的一致等は(ハ)に入れて考えればいいでしょう。そして、セックスとは、元来、このようにいろいろな要素が組み合わさっているものであるということを確認し、次に、問題となる(イ)だけを切り離したセックスについて考えていきます。
〈質問2〉前記の(ロ)と(ハ)を排除した(イ)だけの例を知っているだけ挙げて下さい。
さて、生徒たちはどこまで挙げることができるでしょうか。55年ほど前の、いわゆる「従軍慰安婦」は日本の軍人が力で女性をセックスの対象にしたものでしたし、25年ほど前、東南アジアへ大挙して出かけ、「日本人は恥という言葉を知らないのですか。」と言われた「セックス・ツアー」はお金の力で女性をセックスの対象にしたものでした。これは今もまだまだ続いているようです。(1991年5月24日の『朝日ジャーナル』に「ゴールデン・ウイークにバンコクを占拠した日本人買春ツアーの威風堂々」という記事がありました。)また、同類のものとして、日本人男性がフィリピン人女性に産ませたまま、養育を放棄している混血児「ジャピーノ」は、1万人とも2万人とも言われていますが、その父親は、既婚者が大半だということです(1993年5月1日付け「毎日新聞」夕刊参照)。さらに、最近のフィリピンでの「子ども買春」や、日本に滞在している外国人女性の「強制売春」の話などは聞いたことがある生徒もいることでしょう。また、多くの生徒は、「テレクラ」や「ツーショット・ダイヤル」等によって知り合った相手とホテルへ行ったり、「援助交際」と称して売春している若い女性の話なら知っているでしょう。
これらはすべて、「子どもをもうけるため」でもなければ、「二人の特別な人間関係を形成するため」でもなく、ただ、快楽のためだけにしているセックスです。それを、力で無理矢理または強制的に相手をさせるのは言語道断ですが、援助交際と言われているもののように、両者合意の上でならどうでしょうか。
セックスが快楽を伴うことは事実ですが(これがなければ人類は滅亡するかも知れません・・・)、それは同時に、子どもをもうける手段でもあり、二人(夫婦)の特別な関係をつくるものでもあるのです。
もちろん、前述のような快楽だけを求めたセックスからでも妊娠はあり得るわけで、その結果は、中絶かジャピーノのような状態になるということは明らかです。ジャピーノのような状態は、人道的にあってはならないことですし、中絶の非は過去二回にわたってここで見てきたとおりです。では、子どもさえできなければ快楽だけを求めた前述のようなセックスは問題ないのでしょうか。
先に見たとおりセックスには、快楽と子ども以外に、「二人の特別な人間関係を形成する」という観点があります。すなわち、セックスは人間関係の中で、「特別中の特別な」人間関係をつくるものなのです。結婚している人(または、将来する人)にとって、「夫婦」という関係だけの特別なものがなく、夫または妻以外の人との間にも同じような関係があったのなら、夫婦という「特別な」関係が成り立たなくなってしまうはずです。(だから、現実に離婚が増えているともいえますが・・・)
この意味では、既婚者の不倫が認められないのはもちろん、援助交際などの未婚女性側の行為も大いに問題があると言わなければなりません。なぜなら、そのような女性は、将来結婚したとき、夫との間に、夫婦だけの特別な関係をつくることができないからです。夫との特別な人間関係をつくるはずのセックスを、すでに他の人ともしておれば、夫婦の間にしかない特別な関係というものはもはやあり得ないわけです。援助交際等をしている女性から、セックスを指して、「減るものではないから」という言葉がしばしば聞かれますが、以上のように考えると、将来の夫や自分の子どもに対して、また、将来母親になるはずの自分に対して、そのような女性が精神的に失っているものはかなり大きいと言わざるを得ません。
それなら、将来結婚を考えている二人ならどうでしょうか。そのようなカップルについても「ノー」と言わなければならない理由が二つあります。まず第一に、たとえ盛大な結婚式を挙げ、多くの人々の前で生涯の愛を誓ったた二人でも、離婚という結末をむかえるカップルが多い世の中で、結婚していない二人が「将来自分たちは結婚します。」といえば「それならいいでしょう。」とはとても言えないということです。つぎに、たとえ本当に結婚しても、結婚までにすでに最後の関係(セックス)まで行ってしまっておれば、精神的、肉体的に「結婚」する前と後との決定的変化がなく、結婚というものが特別なものでなくなってしまうということです。教会は結婚というものを本当にすばらしい「特別なもの」として捉えているので、そのスタートとなるべき「結婚式」を真剣な、まじめなものとして取り扱っています。二人の特別な関係を、結婚式の前にすでに作り上げていて、式の前も後も特別な変化がないのでは、結婚式は形式だけの「茶番劇」になってしまうでしょう。現実にはこのような結婚式が非常に多くなってきていることは否めません。(このような風潮も、最近離婚が増えている要因の一つであると思われます。)
ここで、「従軍慰安婦」「セックス・ツアー」「ジャピーノ」「子ども買春」「強制売春」「援助交際」等の現実を知らせるビデオや記事を見せて、歪められた性と、元来あるべき性について考えさせましょう。
こうして、妊娠したら困るという状況の中で、二人の人間関係よりも一時的な快楽だけを求める「歪められたセックス」と、親になってもよいという前提と、二人の特別な人間関係を形成しつつ、精神的・肉体的喜びを味わうという、「元来あるべきセックス」について考えたところで、「普通の生徒」でも元来あるべき姿から逸れたセックスへ行ってしまう危険性について考えてみましょう。
元来あるべき姿のセックスに関して話を聞く機会のあった子どもや生徒で、以上述べたようなことを納得している者でも、実際にはセックスまで行ってしまうところに、この問題が一筋縄ではいかないところがあります。その理由も決して単純ではないと思われますが、少なくとも、前もって教育することで役に立つ点といえば、男女の感情の動きの違いについて教えることでしょう。
まず、「異性に近づいて親しくなりたいと思う気持ち」は男女の差はあまりないということを生徒たちに知らせます。(『青少年の性行動』48頁によれば、このような気持ちを表明しているのは、中学男子49・3%、女子57・1%、高校男子82・2%、女子78・0%、大学男子94・3%、女子90・8%です。)つぎに、「異性の体に触ってみたい」というような気持ちは男女でかなりの差があるということを説明します。(同書51頁によれば、このような気持ちを表明しているのは、中学男子43・8%、女子13・8%、高校男子81・0%、女子32・3%、大学男子93・9%、女子53・9%です。)大体2倍から3倍の差だということができるでしょう。
すなわち、異性に近づきたいという気持ちは男女とも同じくらいあるので、自然に両者から近づいても不思議ではないわけです。しかし、その後、男子は、彼女が自分ほど身体的接触を望んでいないということを理解しておく必要がありますし、女子は、彼が自分以上に身体的接触を望んでいるということを理解しておく必要があるのです。この理解がない男子は、相手も自分と同じような気持ちだろうとの推測で行動に出て相手の気持ちまで傷つけてしまうことがありますし、この理解がない女子は、意識はしていなくても、結果的に男子を挑発している場合がかなりあるということを知っておかなければならないのです。
次に、セックスに関しては理性の歯止めが利かないポイントというものがあり、そのポイントも人によって異なるが、一般的に言って、男子のポイントの方が女子のそれより早くくるということを教えておく必要があるでしょう。すなわち、日頃いくら頭で理解していても、性的な気持ちがあるレベルまで上がってしまうと、理性のコントロールが利かなくなるということを説明し、後で後悔しないためには、そのようなポイントへ行く前にストップをかける必要があるということを教えておく必要があるでしょう。そして、先の説明でも分かるとおり、女子はまだまだそのポイントの前だと思っていても、多くの場合、男子はすでにそのポイントへ来てしまっていて、戻ることができなくなるケースがよくあるということを、前もって説明しておくことは決して無駄ではないと思われます。
しかし、なによりも大きなことは、親、教師も含めた大人が、「婚前性交は避けるべきである」ということを子どもたちにはっきりと言わないばかりか、それをすすめるようなものが町にあふれているので、若者たちがそのような考えを持つはずがないということです。前述の調査報告書によれば、婚前性交に関して、「どんな場合でもいけない」と答えた若者は3・6%で、「結婚が前提ならかまわない」と答えたのは7・3%です。「愛し合っていれば(結婚が前提でなくても)かまわない」というのが38・2%で、援助交際予備軍とも言える、「お互いに納得していればかまわない」というのが35・7%もいるというのが現状なのです。(『青少年の性行動』67頁参照)
セックスは結婚した夫婦のためだけのものとしてリザーブしておくという考えは、古いとか、堅いとかいうものではなく、人間にとって当然のものであり、結婚というものにとって本質的なものであるということを、親、教師、大人が確信を持って言わない限り、中絶を含めた性にまつわる悲劇は今後も続くでしょうし、結婚制度というものも、やがて、崩壊の危機にさらされることとなるでしょう。
カトリック教会はこの点に関して、常に断固とした態度をとってきました。最近のものからいくつかを紹介しておきましょう。
1930年に結婚に関する偉大な回勅を発表した教皇ピオ11世は、セックスについて次のように明確に述べています。
「新しい生命を生むという、神から与えられた能力の正しい使用は、創造主自身の命令と自然法とによれば、ただ結婚のみの権利であり特権であるということができる。それゆえ、この能力の使用は、絶対に、結婚の聖なる限界の中で行われなければならないのである。」(岳野慶作訳 『カスティ・コンヌビー』 中央出版社、1958年、27頁)
1975年にバチカンの教理省は「性倫理の諸問題に関する宣言」を発表しましたが、その中でも「性行為は真の結婚においてのみ、そのまことの意義と道徳的正当さがある」と述べています。(初見まり子訳『性倫理の諸問題に関する宣言』 中央出版社、1976年、10頁)
現教皇ヨハネ・パウロ二世は、1981年に発表した「家庭」という使徒的勧告の中で、いろいろな角度から性について述べています。(長島 正・長島世津子訳 『家庭』 カトリック中央協議会、1987年、30頁参照)
*性は、男女が配偶者のみとの限られた固有の行為を通じて自分を互いに与え合うもの。
*性は、生物学的なものではなく人間の最も深い存在そのものにかかわるもの。
*性は、死に至るまで男女が互いに自身のすべてをささげ合う愛の統合された部分。
*性は、人格全体をかけて全人的に自己を与えるしるし、または、結果。
*性は、人間を生むものなので、本質的に純生物学的な秩序を越えて、人格的な価値 体系すべてにかかわる。
ヨハネ・パウロ二世は、このように、性を「全人格をかけて自己を与えるもの」として捉え、「自己を与えるという真理が実現する唯一の場」として「結婚」をとらえているのです。(同書31頁参照)
このテーマに関する教会の指針を見る以上、日本司教団が1984年に発表した教書『生命、神のたまもの』(カトリック中央協議会発行)の第3章「各分野の方々への呼びかけ」の中の「教育にたずさわる方々へ」というところを省略するわけにはいかないでしょう。
同教書は、教師たちに対して、まず、性教育において陥り易い二つの極端を避けるように注意を促します。「一つは、単なる生理学的な説明に終わってしまうことであり、もう一つは、単なる道徳律の提供に終わってしまうことです。」(同書19頁)そして、性を「人格の形成と人間としての成長の中で」捉えるようにすすめ、「そのような性のとらえ方に基づいて、性と愛との結びつき、および結婚と性の本質的なつながりを若者が学ぶよう配慮することが必要です。」と説いています。(同)
同教書は続けて「性の真の理解への道」は、「結婚の尊さ」の理解にあるということを強調し、最後に、「性の倫理に関するさまざまな問題に解答を与える前に、次の基本的な原則を理解する必要がある」と述べています。(同書20頁)
(イ)性と愛において自分自身を本当に大切にするには何をすればよいのか、という自己への忠実の原則。
(ロ)性と愛において相手を本当に大切にするには何をすればよいのか、という他者への誠実の原則。
(ハ)愛において生まれてくる生命と、その生命が育てられる社会を本当に大切にするには何をすればよいのか、という社会への責任の原則。
最後に、性の問題との兼ね合いで、いわゆる「まじめ」と言われている人々に反省していただきたいことがあります。クリスチャンにとって「最大の掟は何か」ということを今一度考えてみてほしいのです。もちろん、答えは「愛」です。ということは、「最大の罪は何か」となれば、当然「愛に背くこと」です。「性的に乱れていること」ではないということです。すなわち、「愛に背くこと」(私たちはしばしばやっていないでしょうか?)の方が、「性的な罪」より悪いはずだということです。蛇足ながら、このことに注意を向けたのは、「性的なこと」が大したものではないということを言うためではなく、人にとって、いやみ・いじめ・不親切等「隣人愛に背くこと」がいかにいけないことかを理解していただくためです。