多元社会における教会の使命と役割
ー倫理神学の観点よりー
松 本 信 愛
(2001年)
1.概論
現代は生き方、価値観などあらゆる次元で多元主義の時代といわれている。これは教会にとっても、教理・倫理・諸宗教・多国籍の信仰者に関わる宣教司牧といった次元でも、新たな問題提起となっている。(1)ここでは「倫理神学」の立場から「多元社会における教会の使命と役割」について考察する。
「価値観」が異なれば、そこから導き出される「倫理的判断」も異なって当然である。その「価値観」はいろいろな経験、教育、躾等によっても培われるであろうが、大きなグループとしての「価値観」を考えるとき、宗教が大きく影響することは明白である。たとえば、キリスト教、仏教、イスラム教等のどれを信じるかによって価値観にも差ができ、そこから導き出される倫理的判断も異なるのである。
かつては「教会の外に救いはない」と、自分たち以外の宗教を認めない発言をしていたカトリック教会も、第2バチカン公会議では、公式に「信教の自由」を認めた。
「このバチカン公会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、・・・・宗教問題においても、何人も、自分の良心に反して行動するよう強制されることなく、・・・・正しい範囲内で自分の良心に従って行動するのを妨げられないところにある。」(2)
「自分の目的である神に到達するには、全ての行為において、忠実に自分の良心に従わなければならない。・・・・また、特に、宗教の分野において、自分の良心に従って行動することを妨げられてはならない。(3)
このように、「信教の自由」を認めたということは、もちろん「カトリック以外の宗教」を認めたということでもある。宗教が異なれば価値観が異なっても不思議ではなく、こうして「倫理的に」も「カトリックとは異なる判断」を教会も認めたということになる。
第2バチカン公会議が「信教の自由」を認めたのは、「良心の自由」を認めた当然の結果であるということが出来る。
「自分の良心に反して行動するよう強制されてはならない。」(4)
「人間は良心において束縛されてはいるが、強制されてはいない。実際、人間は自分の判断で行動し、自由を行使するが、神は自分自身が想像した人間の尊厳を考慮する。」(5)
このような「良心の自由」は、たとえ同じ宗教の内でも「価値観」を異にする者がいることを認めることになる。こうして、同じ宗教を信じている者の間でも「倫理的に異なる判断」をする者の存在を、教会は認めたということになる。
以上の一般的な考察をふまえて、以下に3つの顕著な具体例を見てみる。
2.異なる宗教の例(カトリックと大本における「臓器移植」)
2-1 <カトリック>
臓器移植や脳死について、聖書に直接記述があるわけではないので、この点に関するカトリック教会の教えは、命や身体に対する価値観や他人に対する態度等の応用問題の回答となる。
1990年にイタリアのバリで開かれた「腎臓病と移植に関する会議」にて、ヨハネ・パウロ二世は、「教会は、・・・臓器提供の必要性の認識を促してきた。」と述べ、さらに、臓器の不足に関して、「キリストはすべての人々の救いのためにご自分の命を与えられたのだから、腎臓移植のための臓器の確保の緊急性を、自分たちの寛大さと兄弟的愛への挑戦であるというように認識しなければならない。」と、非常に積極的に腎臓移植をバックアップしている。(6)その時の条件は、「すべてのことが、自然倫理法とキリスト教的倫理の基本原理を最大限に尊重する態度でなされなければならない。」(7)というものである。
また、ヨハネ・パウロ二世が承認した「カトリック教会のカテキズム」では、ドナーが「生者」である場合は「提供者の身体的・精神的危険性が臓器提供を受ける人のよい結果と釣り合いがある場合、臓器の提供は倫理にかなうばかりでなく称賛に値する。」(8)と述べ、ドナーが「死者」の場合は「死後に行われる無償の臓器提供は合法的であるばかりか称賛に値する。」(9)と述べられている。そこで明示されている条件は、ドナー側の「インフォームド・コンセント」である。(10)
さらに、1995年に発表されたヨハネ・パウロ二世の回勅『いのちの福音』では、「何の希望もない病人に健康を取り戻し、場合によってはいのちを永らえる機会を与えようとして、倫理的に認められる方法で実施される臓器の提供」を、「英雄的な行為」と称えている。(11)
昨年(2000年)8月の「第18回世界移植学会」におけるヨハネ・パウロ二世の講話では、移植医療に関してかなり詳しく触れられている。(12)まず、条件や注意事項として、以下の点が指摘されている:
@倫理的に認められる方法
A人間学的・倫理学的な面を考慮
B人間の尊厳性の考慮
D愛から生まれた純粋な行為
E臓器の商品化や人間の肉体を物として利用することの禁止
F提供者および受領者のインフォームド・コンセントの必要性
G臓器の分配は「差別的」「功利的」ではなく、「免疫学的・臨床学的要因」を基準
同講話では、「脳死」との関係で、「死の判定」に関しても触れている。(13)まず、「人の死」は「その人自身であるところのたった一つの統合された全体が完全に分解してしまうことを意味する」と述べ、具体的には「その人の肉体そのものから生命の本質(あるいは、魂)が離れたときに起こる」ものであるとしている。そのため、「人の死」は「いかなる科学的な技術や経験的な方法も、直接的に決定できない」出来事であるという。
しかし、「死んだ」からには、「何か生物学的な兆候」が必ず伴うはずであり、「医学はそれをますます厳密に判断するようになってきた」と捉えている。すなわち、医学的な「死の判定基準」は「人の死の正確な瞬間を科学・医学的に決定するものではなく、人が本当に死んだという生物学的な兆候を認識する科学的手段として理解されるべきである」という。
そして、そのような「技術的なことを教会は決定しない」といい、教会は「医学的な面から提示されたデーターをキリスト教的な人間の統一性という理解と照らし合わせ、人間の尊厳を尊重することを危うくすることになりかねない医学的な面との類似性や不一致を明らかにするという福音的任務に、その役割を限定する」としている。
この立場から「脳の全機能の活動の完全かつ蘇生不可能な停止」を意味する「脳死」は「その基準がより厳密に適用されたなら、それは健全な人間学の本質的な要素と相反することはなさそうである」と判断している。
以上見たように、カトリック教会は「臓器移植」を受け入れ、「脳死」を人の死として認める立場をとっている。
2-2 <大本>
日本の宗教界で、はっきりと、そして非常に熱心に「臓器移植」に反対し「脳死」は人の死ではないと主張している「大本」(14)の倫理観を考察する。
大本の倫理観の基礎となっている価値観の基盤は二つの根本教典である。一つは『霊界物語』であり、これは、大本の教祖、出口王仁三郎(1871−1948)が、26歳の時、郷里の京都府亀岡市にある霊山高熊山で1週間の霊的修業をした際見聞きした霊界の諸事象を1929年10月18日から口述した81巻にわたる物語である。もう一つは『大本神諭』であり、これは、大本の開祖、出口なお(1837−1918)が、1892年の開教から1918年に亡くなるまでの間自動書記的に記した筆先の中から、出口王仁三郎が漢字を当てて編纂した天啓の預言警告の書、全7巻である。(15)
人の死に関して、『霊界物語』にははっきりと以下のように書かれている(16):
「この(心臓の)鼓動が全く止んだときは、人間の本体たる精霊(霊魂)は、ただちに霊界に復活しうるのである」
「(肺臓と心臓の)活動が全く止むときこそ、霊と肉とがたちまち分離するときである」
「(心臓の)鼓動全く止むを持って、全部脱出するのである」
「心臓の鼓動が全く休止するまで、精霊(霊魂)がその肉体より分離させない理由は、心臓なるものは、情動に相応するがゆえである」
このように、教典にはっきりと「心臓の鼓動が止むまで」霊魂と肉体は分離しないと記されており、それを受け入れている限り、脳死の状態を人の死とすることは絶対に出来ないのは当然である。その結果、脳死の状態から臓器を取り出して移植することは、倫理的に許されることではないという結論が出るのは当然である。
「大本の教えからすると、この(脳死)状態ではまだ霊魂は肉体から離脱していない。たとえ脳は絶対不可逆状態でも、まだ人の個体死とはいえない。したがってこの拍動する心臓がレシピエントに移植されることは、死んでいない人からの移植で許されることではない。」(17)
では、脳死以外の状態からの移植に関する教えはどうであろうか。この点に関しては「教典」にははっきりと出ていないようであるが、出口王仁三郎が信徒との問答の中で答えているところが根拠となって脳死以外の状態からであっても移植に関して反対の立場を鮮明にしている。
(死後解剖をした人は霊界でどうなるかとの信徒の問いに対して)「解剖をすると霊界でもやはり鬼に同様のことをされるのであります。自分即ち心が承知したのであるから、霊界でも解剖されるは当然の理であります」(18)
(死後、目の不自由な人のために角膜を提供した場合、その人は霊界でどうなるかとの信徒の質問に対して)「霊界では目が見えなくなる」(19)
大本教学委員長の出口齋は以上のような価値観を総括して以下のように述べている:
「この教示は、移植医療の普及を願う社会にあっては物議をかもす内容かも知れない。しかし、霊魂の存在を無視しつづける現代にあっては、きわめて重要な意味を持つと思われるので、たとえ社会全体に痛みをもたらす内容であっても、真理は謙虚に受容すべきものと判断し、あえてここに記載した。
(中略) 生前に”献体”を決意しこれを実施した人は、その意志想念に応じ霊界でも幽体はバラバラにされるというのである。
このことを前提に考えるならば、生前に意思表示カードに肯定的に記入し実際に臓器提供をした人は、霊界において臓器が存在しない霊姿となり、その想念は永く後遺症的に霊魂を支配すると思われる。
つまり、神から賦与された肉体を私有物とみなし臓器を提供した人は、たとえ医学発達のため他者の幸福のためとはいえ、神意と神恩を無視した誤れる善意からの行為であって、霊界ではその誤れる意思は具象化し、相応の霊姿をとると思われる。」(20)
このような価値観に立てば、倫理的には当然移植に反対となるはずである。むしろ反対しなければ、倫理にもとることになるであろう。そこで、大本では、「脳死・臓器移植」に関する教団の「(反対)声明」「要望」「見解」「公開質問状」「緊急メッセージ」「コメント」等を、次から次へと発表し、『異議あり!ー脳死・臓器移植ー』という本を出版し、「ノン・ドナー」カードの普及に努めているのである。(21)
3.異なる宗派の例(カトリックとプロテスタントにおける「離婚」)
同じキリスト教で、少なくとも新約聖書に関しては聖書も同じはずであるのに、一方は離婚に関して「ノー」であり、他方は「イエス」である。
周知の通り、新約聖書には数カ所、結婚・離婚・再婚等に触れているところがある。「再婚」を認めているのは「夫が死んだとき」(ローマ7:3)で、「別れること」を認めているのは「宗教が異なるとき」(1コリント7:15)である。それ以外ではどこを見ても離婚を認めているところは見あたらない。(22)少なくとも「新共同訳聖書」では・・・
この問題は、結局、いわゆる「マタイの例外句」、マタイ5:32および19:9の「ポルネイア」を「どのように解釈」し「どのように訳」するかにかかっている。両者の表現方法は少し異なっているが、意味はほとんど変わりはなく、「ポルネイア以外の理由で」妻を離婚してはならないという内容である。離婚に関して、このような「例外」または「条件」が付いているのはマタイだけである。
この箇所の日本語訳で、離婚が「イエス」になる訳と「ノー」になる訳を分けてみると次のようになる:
<離婚イエスの訳>
「不品行以外の理由で」(日本聖書協会)
「不貞以外の理由で」(新改訳)
<離婚ノーの訳>
「同棲の場合は別だが」(バルバロ訳)
「非合法な結婚の場合は別だが」(フランシスコ会訳)
「イエス」の方は、妻が、いわゆる「不倫」をしている場合は「離婚」してもいいということになり、「ノー」の方は「正式の結婚でない」場合は別れてもいいということであり、「正式の結婚」の場合は「離婚」は認められていないということになる。そして前者の訳をしているのは「プロテスタント」であり、後者の訳をしているのが「カトリック」という風に、はっきりと別れていたのである。ただし、今回の「新共同訳聖書」では「不法な結婚でもないのに」と訳され、従来のカトリックの訳と同じ立場になってしまったので、多くのプロテスタントの人々は戸惑っているのではないかと思われる。
もちろん、この訳に至るまでには、いろいろな過程や背景があるわけであるが、信徒として、それぞれの訳の聖書を信じて受け入れたならば、離婚に関する倫理観が異なるのは当然である。
4.カトリック内の例(バチカン教理省とノーマン・フォード神父における「人間の始期」)
バチカンが人間の始期を「受精の瞬間から」としているということは一般的に知られているところであると思われるが、まずその点を簡単に整理してみよう。
1974年にバチカンの教理省が発表した『堕胎に関する教理聖省の宣言』には次のように表現されている:
「卵子が受精したときから(from the
time that the ovum is fertilized)、父のものでも母のものでもない生命が始まる。」(23)
「まさに受精の瞬間から(right from
fertilization)、人間生命の冒険が始まるのであり、その各能力が配備され、活動することができるようになるまでには、時が、かなり長いときが必要である。」(24)
また、1987年に同省が発表した『生命のはじまりに関する教書』では、「その存在の最初の瞬間から」という表現を使って、次のように述べられている:
「人間の生命は、その存在の最初の瞬間から(from
the first moment of its existence)、すなわち接合子が形成された瞬間から、肉体と精神とからなる全体性を備えた一人の人間として、倫理的に無条件の尊重を要求する。」(25)
「体外受精で作られた受精卵は人間であり、彼らの尊厳と生きる権利は、その存在の最初の瞬間から(from the first moment of their existence)尊重されるべきである。」(26)
これに対して、オーストラリアのカトリック神学者であるノーマン・フォードは次のような意見を発表している:
「発生中の細胞のかたまりは個としてのヒトとは考えられない。なぜならまだこれから分裂や分化を続けていくからであり、一人以上の個になる可能性(双子、三つ子)を秘めているからだ。個としてのヒトは、原始線条が出てくる受精後16日以前に認められることはない。」(27)
このように、ノーマン・フォードは原始線条(primitive streak)が現れるまでの「細胞のかたまり」はまだ「個としてのヒト」ではないという意見を持っているので、受精卵の実験・研究や、原始線条が現れるまでの中絶に関する倫理的結論は異なって当然ということになる。
ただ、このカトリック内の意見の相違に関して「私見」を述べるならば、ノーマン・フォードの方が「言い過ぎ」のように思える。なぜなら、カトリックの根本的教えでは、「人」の特徴は「霊的魂」を備えていることであり、それがいつ与えられるかは「科学的には証明できず、わからない」ので、はっきりと「否定することも出来ない」からである。双子や三つ子になるものには、最初から(神にしか分からない方法で?)その魂が備えられているかも知れないのである。
これに対して教理省の表現は非常に慎重である。「人間」という言葉も英語では human being と person が使い分けられている。例えば『生命のはじまりに関する教書』の上記に引用した箇所は次の通りに使い分けられている:
「人間の生命(the fruit of
human generation)は、その存在の最初の瞬間から、すなわち接合子が形成された瞬間から、肉体と精神とからなる全体性を備えた一人の人間(human being)として、倫理的に無条件の尊重を要求する。人間(human being)は、受胎の瞬間から人間(person)として尊重され、扱われるべきである。」(28)
さらに、もう一カ所上記に引用した「体外受精で作られた受精卵は人間であり・・・」も「人間」をpersonとはいわないでhuman beingといっている。
この person こそが「個としての人」であるが、教理省も「受精の瞬間からpersonである」とは主張していないのである。受精卵は明らかに新しい命であり、それがそのまま成長して人(person)になることは確実なので、どの時点で「霊的魂」が与えられるかということが証明できない限り、「最初からpersonとして尊重されるべきである」(最初からpersonであっても問題のないように扱うべきである)というのが、とるべき「倫理的態度」である。ここでの倫理的選択は、単なる科学的知識の結論ではなく、その人の生き方、生きる姿勢と大きく関わっていると思われる。
5.結論
以上見たように、倫理観の多元化は、価値観の多元化に基礎があり、その価値観は、宗教(無宗教)を含め、各人の生き方、生きる姿勢との関わりの中で各人が責任を持って選択していくものである。このような選択は、単なる理性的知識によるのではなく、人間として責任ある主体的な選択である。このような主体的選択をするのが主観的倫理基準といわれている「良心」である。
結局、この良心が「正しく成熟」しておれば問題はないのであるが、多くの場合「間違って」いたり、「未成熟」であったりする。この良心を「正しく、成熟した」良心として育てるのが、まさに「多元社会における教会の使命と役割」であると思われる。「信教の自由」と「良心の自由」を強調した第2バチカン公会議は、さらに力を込めて「良心の形成」を強調している。そのいくつかを引用してこの小論の結論としたい。
「好ましくない教唆にはただちに抵抗し、よい勧めには完全に従うよう、適当な手 段によって自分の良心を正しく形成するように心がけなければならない。」(29)
「広報機関の活用に関して、信者の良心が健全に育成されるように配慮すること」(30)
「人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断 を形成するために、宗教に関する真理を探究する義務と権利を持っている。」(31)
「キリスト信者は、自分の良心を形成するにあたって、教会の確実で聖なる教えに 忠実に従わなければならない。」(32)
「地上の国の生活の中に神定法が刻み込まれるようにすることは、正しく形成され た良心をもつ信徒の務めである。」(33)
「両親の判断は正しく形成された良心を前提とする。」(34)
注
(1)岩島忠彦 「日本カトリック神学会第13回学術大会パネル・ディスカッション『多元社会における教会の使命と役割』について」趣旨説明参照。
(2)「信教の自由に関する宣言」2。本稿における「第2バチカン公会議」公文書の訳は、南山大学監修 『第2バチカン公会議公文書全集』による。ただし、ここで「良心」となっているところを同書は「確信」と訳してあるが、ラテン語の原文はconscientiaなので、統一のため「良心」とした。
(3)「信教の自由に関する宣言」3。
(4)同上。
(5)同宣言、11。
(6)L'Osservatore Romano -English Edition- 7 May 1990, P5 参照。
(7)同上。
(8)『カトリックのカテキズム』1992年、2296番。
(9)同書、2301番。
(10)同書、2296番:「臓器の提供者や法的後見人がインフォームド・コンセントを与えていない場合は、臓器移植は倫理的に受け入れられない。」
(11)『いのちの福音』174頁参照。
(12)The Pope Speaks Vol.46, No.1, 21-24頁参照。
(13)同講話n.4-5参照。
(14)元々は「おほもと」であるが、現代仮名遣いでは「おおもと」と書き、漢字では「大本」である。当人たちは「大本教団」という表現は使用することがあるが「大本教」という表現は用いない。信徒数:約18万。
(15)大本公式ホームページ(http://www.oomoto.or.jp/)参照。
(16)『霊界物語』第47巻第11章。出口 齋「大本教義にみる脳死・臓器移植」月刊誌『おほもと』平成12年3月号・4月号。引用は公式ホームページより。
(17)出口 齋、前掲論文。
(18)冊子『宣伝使に対する聖師の教示並びに問答』昭和2年8月30日発行。出口 齋、前掲論文所収。
(19)桜井八州男元大本本部長聴取。出口 齋、 前掲論文所収。
(20)出口 齋、 前掲論文。
(21)「声明」「要望」等は「大本公式ホームページ」で見ることが出来る。『異議あり!』は「参考文献表」参照。「ノン・ドナー」カードは、「NON! DONOR 『脳死』は人の死ではありません 『脳死状態』による臓器提供はいたしません」と書かれた「臓器移植法に基づく『脳死判定・判定後の臓器提供』に同意しないことを意思表示するカード」で、大本の教祖、出口王仁三郎が設立した「人類愛善会・生命倫理問題対策会議」が発行している。
(22)マタイ5:32,19:9,マルコ10:11−12,ルカ 16:18,1コリント7:10−11参照。
(23)教皇庁教理聖省 『堕胎に関する教理聖省の宣言』 12番。
(24)同書、 13番。
(25)教皇庁教理省、ホアン・マシア他訳 『生命のはじまりに関する教書』 21頁。
(26)同書、27頁。
(27)ピータ・シンガー 「ヒトの生涯はいつ始まるか」 星野一正他編 『胎児の生命と尊厳』14頁。ただし、ここでは「16日」となっているが、ノーマン・フォードの原著では「14日」となっている。Cf., Norman Ford, When Did I Begin - Conception of the
human individual in history, philosophy and science - p.181
(28)教皇庁教理省、ホアン・マシア他訳 『生命のはじまりに関する教書』 21頁。ここに「受胎の瞬間から」という表現が出るが、教理省の文献を全体的に吟味すると、「受精の瞬間から」と同意語として使用していると思われる。この点に関しては、拙稿 「人間の始期について」 英知大学人文科学研究室紀要 『人間文化』第1巻、1998年、 3−14頁参照。
(29)「広報機関に関する教令」9。
(30)同教令、21。
(31)「信教の自由に関する宣言」3。
(32)同宣言、14。
(33)「現代世界憲章」43。
(34)同憲章、87。
参考文献
南山大学監修 『第2バチカン公会議公文書全集』 中央出版社、1986年。
L'Osservatore Romano - English Edition - 7 May 1990.
Catechism of The Catholic Church, Geoffrey Chapman, 1994.
ヨハネ・パウロ二世 『いのちの福音』 カトリック中央協議会、1996年。
"On Organ Transplants and Human
Cloning" - Address of
Pope John PaulUto The 18th
International Congress of The Transplantation Society - in The Pope Speaks Vol.46,
No.1, 2001, p.p.21-24.
大本公式ホームページ http://www.oomoto.or.jp/
出口 齋 「大本教義にみる脳死・臓器移植」 月刊誌『おほもと』平成12年3月号・ 4月号。
渡部良夫監修 『異議あり!
脳死・臓器移植』 天声社、 1999年。
教皇庁教理聖省
『堕胎に関する教理聖省の宣言』
カトリック中央協議会、 1975年。教皇庁教理省、 ホアン・マシア他訳 『生命のはじまりに関する教書』 カトリック中 央協議会、 1987年。
星野一正他編 『胎児の生命と尊厳』 蒼穹社、 1991年。
Norman Ford, When Did I Begin -
Conception of the human individual in history, philosophy and science - Cambridge
University Press, 1988.
村上和雄 『遺伝子からのメッセージ』 日新報道、 1996年。
フィリップ・シュミッツ 「良心ー危機に立たされる倫理規範ー」 上智大学神学会 『神 学ダイジェスト』'80、 1981年、 72−85頁。
山内清海 『良心について』 あかし書房、1981年。
ケヴィン・ケリー 「良心の成熟を目指して」 上智大学神学会 『神学ダイジェスト』'87、 1987年、 57−69頁。
ベルンハルト・ヘーリング著、 中村友太郎訳 『倫理にのぞむ根本姿勢』 中央出版社、 1987年。