パストラルケア(スピリチュアルケア:心と魂のケア)(松本信愛 1998年)
〈ねらい〉病人やその家族の心のケアについて考える。
〈資 料〉拙著『患者と家族の心のケア』ー米国のパストラルケアに学ぶー、日本図書刊行会、一九九四年。
最近はほとんどの人々が病院で亡くなっています。しかし、近代病院は、検査・診断・治療・延命をするためには向いていても、死を迎えるためには必ずしも適当な場所とはなっていません。もちろん、治る可能性がある限り、手を尽くして治すよう努力するのは当然です。しかし、亡くなるということは、治らないということです。その治らない患者に対して病院が何をしてくれるかというのが問題なのです。日本の近代病院は、そのような患者に対しては、時間的延命を最優先してきたといっても決して言い過ぎではないでしょう。しかし、たとえ治すことはできなくても、延命以外にもっと積極的にできること、しなければならないことがあるはずです。
まず、痛さのために苦しみもだえていては、人間らしく生きることはできません。そのため、医学的に身体的苦痛を取り除くということは、よく生きるためにも、よい死を迎えるためにも大切な要件の一つです。そして、これは、治らない場合にもできる医学的処置です。
つぎに、治らない場合にもできることで大切なことは、心のケアです。この「心のケア」という言葉には、精神的ケア、霊的ケア(宗教的ケア)等が含まれています。通常の場合でも、人には、物質的な肉体のケアだけでなく、心のケアが必要ですが、肉体が弱り、医学的に手の施しようがなくなった場合には、特に、このような心のケアが必要となります。
このように、病人の心のケアを専門にすることを、英語ではパストラルケア(pastoral care)といい、欧米では、そのような専門家が大抵の病院にいます。しかし、日本では、一部のホスピスを除けば、どこの病院にもそのような専門家はいないのが現状です。
そこで、まず、日本ではまだほとんど馴染みのないパストラルケアというものがどのようなものであるかを紹介いたします。そうすることによって、多くの人々が、「これは日本にも是非必要である」と感じるようになることが、パストラルケアが日本でも受け入れられるためにどうしても必要だからです。もちろん、パストラルケアの専門家になるためには特別な訓練を受けることが必要です。しかし、そのアイデアと方法を少しでも利用することによって、多くの人々が、自分の家族や友人を見舞いに行くときによりよい訪問ができれば、とりあえず、それでいいと思います。
パストラルケアとは、もともとパスター(pastor=羊飼い)が羊を世話するように人々をケアするところから来た言葉です。そして、現在欧米を中心に広がっている「病院でのパストラルケア」というのは、病人やその家族の「心」を専門的にケアすることです。具体的には、精神的ケアおよび霊的ケア(宗教的ケア)ということになります。このような仕事を専門にする人々を「チャプレン」と呼びます。チャプレン(chaplain)という言葉はチャペル(chapel=病院などの礼拝堂)と関係のある言葉で、そのため、従来はチャプレンといえば神父や牧師だけを指していました。しかし、今では、病院でパストラルケアの仕事を専門にしている人々は神父や牧師以外の人々も多いので、従来のチャプレンという言葉のイメージは変えなければなりません。そして、このような病院専門のチャプレンを養成するコースをCPE(Clinical Pastoral Education)と言います。
以下、筆者がアメリカの病院でパストラルケアの訓練を受けたときにチャプレンとして経験したいくつかの例を通して、パストラルケアというものがどのようなものであるかという事を紹介いたします。
患者が病名を告知されたとき
当番である自分のポケットベルが鳴り、呼ばれたナース・ステーションへ行くと、「検査入院していたXX号室の患者さんが、今、検査の結果を医師より知らされてショックを受けているから行ってあげて下さい。」ということでした。こうして後はパストラルケアに委ねるわけです。このようなケアのシステムがあるから、いわゆる「告知」することができるのですが、もちろんチャプレンはここからが大変なのです。とりあえずは病室へ入って"I am sorry."と言いつつ患者の肩に手を置くことくらいしかできませんが、それからじっくりと日を重ねて心のケアをしていくのです。
救急車で運ばれてくるとき
救急車が病院に向かっているときには、その旨が病院中にアナウンスされます。それを聞いた当番のチャプレンは、救急車の到着する入口へ行って、医師や看護婦と共に待機します。患者が運び込まれると、チャプレンは自分がケアすべき家族を見つけてその横へ行き、タイミングを見計らって応接室へ案内し、まず、ゆっくりと話を聞きます。これだけでも、気が動転している家族にとって、大いに助かっていると思われます。
また、救急車で運び込まれた患者が亡くなったような場合、当然、そのことを聞かされた途端に家族の者は泣き出します。チャプレンとしても、そのようなときにはティッシュを取って渡し、背中をさすることくらいしかできませんが、それでも、そのようなときに、そのような担当者が居るというだけで、家族にとっては大いに助かっていると思われます。その後、少し気分がおさまった頃を見計らって、何かしてほしいことはないかを尋ねたり、医師や看護婦との間に入って、必要な労をとります。
患者が危篤になったとき・亡くなったとき
日中であれば、患者が危篤になると呼ばれますが、夜中の場合は亡くなってから呼ばれる方が多かったと思います。いずれにしても、このようなケースでは「祈り」以外にあまり積極的にできることはありませんし、家族も誰かがリードして祈ってくれることを期待しているのです。ただ、アメリカの場合は、宗派は違っても、ほとんどがクリスチャンなので、共に祈ることはそれほど難しくありません。その点、日本ではどうするのがよいか、今後の課題です。
付き添っている家族が大変なとき
午前二時頃に、当番である自分のポケットベルが鳴ったので、ナース・ステーションへ行くと「XX号室の患者さんに付き添っている人は、今日のお昼頃から付き添っており、だいぶ参っているようなので行ってあげて欲しい。」ということでした。その病室に入ると、患者は苦しそうな息をしており、そのベッドの側に不安気な七〇歳近くの婦人が座っていました。そこで、自分はチャプレンだと名乗って、まず、かなり汗をかいていた患者の顔を二人で拭いてから、その婦人の横に座り、話を聞き始めました。婦人は「こんな時間でも来てくれるとはありがたい。」と礼を言って、病人についての思い出話などを話し出しました。その後、一緒に祈りをして、やがて他の親族が到着したので退室しました。
特に呼び出しのないとき
特に呼び出しのない時のパストラルケアのやり方に関しては、病院によって異なるので一概には言えません。筆者が訓練を受けた病院では、全ての入院患者は二四時間以内にチャプレンの訪問を受けることになっていました。そのため、当番でなかったり、特別な呼び出しがない場合、チャプレンは、まず自分の担当病棟の新入院患者を訪問し、ついで残りの患者を順に訪問するのが常でした。このようにして患者を訪ねているうちに、心のケアを必要としている人々に出会っていくのです。
以上見た例から明らかなように、患者やその家族の立場からは、心のケアを専門にしてくれる人が病院に居てくれることを望む声はかなりあると思います。人間は肉体的な存在だけでなく、精神的・霊的な存在でもあるので、病院において、患者の心のケアをする人がどうしても必要なのです。しかし、精神的・霊的価値を非常に大切にしているキリスト教の影響力の強いアメリカでさえ、このような専門職はなかなか認めてもらえなかったということを考えるとき、日本の病院で、パストラルケアのアイディアが受け入れられるようになるかどうかは疑問です。
しかし、だからといっていつまでも待っているわけにはいきません。今でも毎日、多くの人々が心のケアを必要としているはずです。そこで、皆さんが病人を訪問するときに少しでもよりよい訪問ができるように、パストラルケアのアイディアを紹介したいと思います。パストラルケアは、(一)よい聞き手となり、(二)気持ち(feeling)のレベルで共に歩み、(三)霊的ケア(宗教的ケア)をする、というのが三本柱です。以下それぞれについて説明いたします。
よい聞き手になる
患者という立場は、ほとんど自分でイニシアティブを取ることができません。ですから、せめて心のケアをする人が訪問するときは、患者が自分からイニシアティブを取ることができるようにするということが大切なのです。患者がイニシアティブを取るということは、できるだけ患者に話したいことを話してもらい、心のケアをする人は「聞き手」になるということです。
さらに、心のケアをする人が「よい聞き手」でなければならない根本的理由があります。パストラルケアで、患者やその家族の心のケアができるのは、心のケアをする人と患者やその家族が「気持ち」のレベルで溶け合って(一致して)、心の深いところで通じ合ってはじめて可能になるのです。そのためには、相手の気持ちの奥深いところで、肝心なものにふれあうことが必要です。しかし、その肝心なものが何であり、それがどこにあるかは本人しか知らない(しばしば本人さえよく分かっていない)ことなので、心のケアをする人はよい聞き手となって、相手をうまく導く手助けができるようにならなければならないのです。
また、同様の理由で、対話中に質問するときにも気を付けなければなりません。なぜなら、質問の仕方によって、患者が話そうと思っていなかったところへ話がいってしまうことがしばしばあるからです。
「よい聞き手」というのは、状況によって必ずしも一様ではありませんが、肝心なときに患者自身が心の奥深くへ入っていけるような聞き方をするのがよいのです。訪問中に相手の「心の琴線」に触れることができると、二人だけの秘密を持ったようになり、両者はより近い関係になります。こうして、二人の心と心が通じ合うようになれば、心のケアができるようになるのです。この「心の琴線」は「気持ち」や「感情」のレベルにあるということを多くの経験が示していますので、次はそのことについて触れてみましょう。
気持ちのレベルで共に歩む
多くの経験が示しているように、心のケアをするためには、医学も他のいかなる知識もほとんど役に立ちません。よい心のケアができるのは、気持ちのレベルで触れ合うことができたときだけです。そのためには、相手の気持ちを正確に把握し、心の奥深く入っていくことが必要です。
相手の気持ちを正確に把握するためには、相手に自分の気持ちを「言葉で」表現してもらうことができれば、それが一番よいでしょう。しかし、自分の気持ちといっても、簡単に言葉で表現できるものではありません。自分の気持ちをうまく言葉で置き換えることができない人もおり、また、しばしば本人にも自分の気持ちがはっきりしていないということもあります。このために、しばしば、心のケアをしようという人が相手の気持ちを言葉で表現して確認していく必要があります。言葉で表現すれば、正しいときは相手が肯定するでしょうし、間違っていれば否定するでしょう。言葉で表現しないで、推察だけで応答していても、実際にその推察が当たっているかどうか分かりません。また、心のケアをする人が言葉で相手の気持ちを表現することで、その相手の人が、自分の気持ちをはっきりと認識することができるという利点もあります。
確かに、実際に相手の気持ちをいつでも言葉にして言うわけではありません。それはケース・バイ・ケースです。しかし、よい心のケアをする人になるための訓練としては、常に相手の気持ちを言葉で表現する練習は必要です。この練習ができていなければ、必要なときにも相手の気持ちを言葉で表現することはできないでしょう。さらに、言葉で確認しなければ、分かっている「つもり」でも、本当に正しく把握しているかどうかのチェックもできません。少なくとも練習としては、あらゆる機会を捉えて「人の気持ち」を言葉で表現する練習をしておくことが必要です。
そのために、CPEの訓練では、「自分の気持ち」を言葉で表現することを学びます。それは、自分の気持ちでさえ言葉で表現できないものが、他人の気持ちまで表現できるはずがないからです。また、常に自分の気持ちを言葉で表現しようと意識することによって、「気持ち」というものに対して敏感になり、より正確に他人の気持ちを把握することができるようになるからです。
実際に自分の気持ちや他人の気持ちを言葉で表現するためには、それらの言葉を日頃から口にする練習が必要です。他人の気持ちはもちろん、自分の気持ちでさえ「言葉」で表現するのは意外と難しいものです。気持ちを表す言葉を、「うれしい気持ち」「悲しい気持ち」「怒りの気持ち」「不安な気持ち」「どうしてよいか分からない気持ち」等に分けてリストを作成してみるとよいでしょう。
これらのいろいろな気持ちの中でも、特に「怒り」の気持ちがしばしば問題となります。なぜなら、多くの人々が、たとえ内心では怒っていても、怒っていることを否定したり、それを表に出すことを避けたりするからです。怒っていることを否定するのは、「怒る」ということは倫理的、宗教的に悪いことと思っているからでしょうか。しかし、誰も、自由意思で、腹を立ててやろうと思って腹を立てるのではなく、何かが起こったときに「自然に」あるいは「突然に」、すなわち、自分の自由意思とは無関係に「腹が立つ」のです。このように、自分の自由意思とは無関係に起こることに関しては、倫理的には責任がないのです。すなわち「腹が立つこと」「怒ること」は倫理的には悪いことではないのです。問題なのは、怒りの気持ちを持った結果、どのような行動をとるかということなのです。(「怒りの気持ち」に関しては、第一章「『愛する』ということ・・・嫌いな人でも?」の項参照)
ですから、心のケアをしようと思えば、怒りの気持ちを持っている人には、むしろその怒りをうまく出させてあげることが必要なのです。医師、看護婦、病院に対して怒りの気持ちをぶつけてきたならば、それをその人の気持ちとして受け止めて、よく聞いてあげることが大切なのです。病院側の弁護に回る必要はありません。その人は、心の中のそのような気持ちを外に出す必要があるのです。しかし、それを直接本人達には言えないので、誰かが聞いてあげなければいけないのです。また、神様をののしるような怒りを表したときにも、じっくりと聞いてあげるべきです。神様は、私たちに弁護してもらわなくても大丈夫ですから。
心のケアをしようと思えば、このように、怒りの気持ちを持っている人には怒りを出してもらい、泣きたい人には泣いてもらわなければならないのです。本人が泣きたいのに、それを押さえ込むようなことをしていては、心のケアはできないのです。
祈る
心のケアをしようと思う人は「祈り」についても知らなければなりません。一般的に言っても、入院患者は「不安・恐れ・疎外感」等を感じているのが普通です。それが、特に、不治の病であるということを知らされたり、死が近づいてきたりしたときの患者の気持ちは、それらに輪をかけたようなものでしょう。そのようなときにこそ「心のケア」が要求されているのです。その場合にも、もちろん先に述べた「よい聞き手」(時には沈黙していて、どちらも話さない場合もあるでしょうが、それも状況によってはベストの聞き手です)、および、「気持ちのレベルで共に歩む」というのは有効なのですが、このような場合、特に、「共に祈る」ということが効果的な場合が多いのです。
「祈り」といっても、キリスト教的な祈りもあれば仏教的な祈りやその他の形式も考えられます。またいわゆる既成の祈り(祈りの本などに書いてあったり、熱心な信徒なら暗記しているような祈り)もあれば、その場で自分の言葉でする即興の祈りもあります。心のケアをする人と相手が同じ宗教を信じている場合は、その宗教の既成の祈りを利用することも可能です。しかし、多くの場合、相手の状況に合わせた「即興の祈り」が効果的です。そのような場合は、次のような点に注意すればよいでしょう。
(一)祈り始める前に少し沈黙の時をとる
(二)相手の名前を祈りの中に入れる
(三)相手の望みやニーズ、気持ちなどを祈りの中に入れる
しかし、実際にこのような形で祈れるのは、お互いがクリスチャンの場合くらいかも知れません。多くの日本人にとってそのような祈りは馴染みがないでしょう。そのような場合は、「こういうことを祈りましょう。」といって先に内容を説明して、お互いに沈黙のうちに祈ればよいのではないでしょうか。
以上見たように、パストラルケアで病人やその家族を対象に行おうとしている「心のケア」は、一般的に、家庭、学校、会社等でよいコミュニケーションをとるために必要なことでもあると思われます。要するに、相手の気持ちを汲み、相手を大切な人として接するということは、全ての人間にとって大切であり、必要なことなのです。