2004年3月17日〜20日、ローマにおいて「国際カトリック医師会、教皇庁生命アカデミー」主催の国際会議が開催された。そのときのテーマが「延命治療と植物状態―科学進歩と倫理的ジレンマ」であったので、これを機会に、このテーマに関するカトリック教会の教えを整理、吟味し、われわれのとるべき態度を見極めてみたい。
いわゆる「植物状態」(1)の患者の治療に関しては、「尊厳死」の観点より、どこまで治療するべきかが問題となる。それは、「人工延命装置」と言われるものの使用に関する問題であったり、人工呼吸器や栄養の点滴の問題であったりする。それらの問題も最終的には「栄養・水分の補給を中止するか否か」の問題となる。
日本の学会においても異なる見解が見られる。日本医師会の生命倫理懇談会が1992年にまとめた「尊厳死を認める報告」と、日本学術会議が1994年の総会で承認した「尊厳死についての最終報告案」では、前者は「栄養補給は中止すべきでない」といい、後者は「中止してよい場合がある」という(2)。法的には「栄養・水分」を含む「治療行為の中止」を認める方向で動いている(3)。
ピオ12世
教皇ピオ12世は1957年の「国際麻酔学会」の質問に次のように答えている。(4)
(質問1)「まったく希望のないケースでも、近代的な人工呼吸器を、常に使用してもよいか、または、使用しなければならないか。」
(回答1)「使用する権利はあるが義務はない。」
この回答の説明としてピオ12世は次のように述べている:一般原則は「通常の治療方法」であれば行わなければならないが「特殊な治療方法」の場合は、それを行う義務はないというものである。「人工呼吸器」そのものは倫理に反することではないので、患者本人が望めば使用してもよいが、それは「通常の手段を超えた、特殊な手段」なので、それを行う義務はないのである。
(質問2)「人工呼吸器装着後、数日経っても進歩がないとき、たとえその結果血液の循環が止まる場合でも、その装置を外してもよいか、または、外すべきか。」
(回答2)「その装置を外してもよい。」(5)
この回答の説明は、第1の質問に対する回答ですでに明らかであるとしている。すなわち「人工呼吸器」を着装するという治療方法は「特殊な方法」と考えられているので、そのような治療方法をとる義務はないということである。
1957年という時代を考えれば、「人工呼吸器」はまったく「特殊な手段」であったと思われるが、現在ではどうであろうか。昔は「特殊な」治療方法であっても、時代とともに「普通の」治療方法となったものは多い。「人工呼吸器」に関しても、その判断が分かれ目となる。
教皇庁教理省「安楽死に関する声明」
1980年に発表された教皇庁教理省の「安楽死に関する声明」(6)は「死ぬ権利」というものに関して認められるものと認められないものを指摘している。「認められる」のは「人間としての、またキリスト者としての尊厳をもって平安のうちに死ぬ権利」であり、「認められない」のは「自分の手で、あるいは人の手を借りて、自分の気のむくままに自分の死をひきおこす権利」である。(7)ゆえに、カトリックの観点からは、延命治療の最後の段階の「治療中止」を、いつ、どのような形で行うかを決定するときに、この原則が考慮されなければならない。
すでに見たように、ピオ12世の時代では、ある治療方法を止めてもいいかどうかの判断をするときは、それが、「通常の手段」か「非常特別の手段」かによって判断していた。しかし、時代と共に医学も進歩し、以前「特別な手段」と思われていたものが、もはや特別ではなくなったという事態が生じたため、この「安楽死に関する声明」では新しい概念が導入された。
その新しい概念として「釣り合いのある手段」(proportionate means)と「釣り合いのない手段」(disproportionate means)という単語が同声明では使用されている。すなわち、治療方法が治療を受ける患者に関係なく、その方法だけで「通常」だとか「特別」だとか見るのではなく、それぞれの患者の状況に照らし合わせて、その患者にとってどうかを見るのである。その治療の内容(複雑さや困難さの程度)や副作用(危険の度合い)やそれにかかる経費とその患者の容体や体力・気力およびその治療によって期待できる成果を比較して、そこに十分なバランスが見てとれるか否かで、その治療を行うか止めるか等を検討するべきであるというのである。(8)ここから容易に推察できることは、同じような治療方法でも、患者によってするかしないかの判定が異なるということである。患者も、一人一人別の人間であるということを考えるならば、これはむしろ当然のアプローチであると思われる。
また同声明は「もし、好ましい効果の期待できる処置がもはや他にありえないという状態に立ち至ったら、患者の同意を得た上でなら、最新の医療技術の生み出したばかりの手段を用いてみることも許される。」(9)と述べ、これに続けて、「このような手段による医療は一旦開始された上でも、期待通りの成果が得られそうにもないことがわかった場合、それを打ち切ることもまた許される。」と述べ、そのような治療の中止を認めている。そして、その判断をするときに、上にあげた「釣り合い」を考慮するはずであると述べている。(10)その結果「それゆえ、すでに実用化されてはいても危険が伴っていたり、過度の重荷となるような治療を受けることを誰も病人に強要することはできない。」(11)と主張している。
そして「死が近づき、しかもどんな手段を用いても、もはやこれを阻止することができないような状態になった場合、ただ、かぼそいあるいは苦しみに満ちた生命の維持でしかないような延命のための処置は止めてしまう決定をしても、良心上なんの問題もない。」(12)と言う。ただしそのような場合でも「そのような状態にある病人一般に普通与えられることになっている程度の措置だけは行わねばならない。」(13)と述べている。
同声明は、「そのような状態にある病人一般に普通与えられることになっている程度の措置」が具体的にどのようなものであるかは触れていないが、教会関係の他の文章からそれをみることができる。
教皇庁科学アカデミー会議の宣言
1985年10月に開催された教皇庁科学アカデミーの「人為的延命に関する倫理的・医学的・法的問題に関する会議」で採択された科学者たちの宣言では「もし、患者が、予見される限り、永久的で回復の見込みのない昏睡状態にあるならば、治療する必要はないが、食物供給を含むあらゆる看護は施さなければならない。 (中略) 治療が患者にとって益とならない場合は、看護は続けながら治療を打ち切ってもよい。」(14)と述べている。ここから、まず、同アカデミーは必要最小限度の看護の中に「栄養補給」を入れていることは明らかであるが、さらに同宣言は「看護」という言葉を、「危険な状態にいる人々なら誰でも当然与えられる同情や愛情または精神的支え等『病人に対して行われるべき通常の援助』という意味で用いている」と説明している(15)。すなわち、必要最小限度の看護として、「栄養補給」および「精神的支え」を具体的に挙げているのである。
米国司教協議会の指針
1995年に発表された、米国司教協議会の「カトリック医療機関のための倫理的・宗教的指針」(16)は「すべての患者に対して、医療器具による補給が必要な患者も含めて、患者に与える負担にまさるよい結果がある限り、常に栄養および水分の補給はなされるべきである」(17)と述べている。さらに、同指針は、人工延命装置の脱着に関する患者の判断について、「患者の意識がはっきりしており、その判断が自由に、そして、十分な情報に基づいてなされているならば、常に尊重され、カトリック倫理の教えに反しない限り、通常はその判断に応じるべきである。」(18)と述べている。すなわち、ここでは、「栄養および水分の補給」に関して、まず、患者に与える「負担」とその「結果」を比較して結論を出すように勧めている。それは結局、次に挙げられている「カトリック倫理の教えに反しない限り」という基準と同じことである。すなわち、先に見た教皇庁教理省の「安楽死に関する声明」で指摘されている「釣り合い」があるかないかというのが、現時点でのこのテーマに関する「カトリック倫理の教え」であると思われるからである。
「延命治療と植物状態」に関する国際会議
2004年3月にローマで開催された「延命治療と植物状態に関する国際会議」の参加者に対するスピーチ(19)で、教皇ヨハネ・パウロ2世は、植物状態の患者は「基礎的健康管理」を受ける権利があるといい、その基礎的健康管理の具体的内容として「栄養・水分補給、清潔、保温など」(20)を挙げている。また同教皇は「水と食物の摂取」は「医療行為」としてではなく、「生命を自然に保つ手段」として行われると説明している(21)。さらに同教皇ははっきりと「栄養と水」は「通常ケアとして義務」であると言い、「植物状態が1年以上続いている」とか「回復の望みが少ない」という理由で「水と栄養の投与を中止することは倫理的に正当化されない」と言い、「投与の中止の結果は飢えと渇きによる死をもたらす」ので、「故意で意図的にこれが行われるならば、不作為の安楽死である」と言う(22)。
この国際会議が発表した「共同声明」(23)の中で、特に「延命治療の中止」に直接関係ある個所には次のような表現がある(24):
「植物状態の患者は人間であり、人間として、その基本的権利が十分に尊重されるべきである。」
「その権利の第1のものは生きる権利であり、健康が守られる権利である。」
「植物状態の患者には、水分・栄養補給、保温、清潔を含む基本的ケアを受ける権利がある。」
「栄養・水分補給の中止は必ず患者の死を招くので、その行為は不作為による安楽死と考えられ、倫理的に許容できない。」
当然のように、この共同声明は、教皇ヨハネ・パウロ2世のスピーチの内容とほぼ同じラインである。これが、現時点でのカトリック教会の公式見解ということになるであろう。
例外はあり得るか
以上見たところでは、終末期患者の場合、条件がそろい、本人が望めば、治療を中止することはカトリック倫理の観点から受け入れられるが、そのような場合でも「栄養と水分の補給は最後まで行われるべきである」というものである。この点に関して例外を認めている公文書的なもの(25)を探してみた。
そこで見出したのが、米国ペンシルバニア州の司教団が1991年に発表した声明 Nutrition and Hydration: Moral Consideration (26)である。
1991年といえば、米国において「植物状態の娘から、栄養補給の管を外してほしい」という親の訴えに対して、最高裁判所の判決が初めて出た翌年である。まず、その背景について簡単に整理しておこう。
米国で、初めての「尊厳死裁判」と言われたのは、Karen Ann Quinlan の裁判であった。カレンは1975年の4月に意識を失って人工呼吸器を付けていた。そして約半年後の1975年11月に両親が「人工呼吸器を外してほしい」と訴えたのが始まりであった。そして、最終的には、1976年3月のニュージャージ州の最高裁判所の判決でそれが認められた。(27)
それから10年後、1986年に、「娘の栄養補給の管を外してほしい」という両親の訴えが裁判所に持ち込まれたのである。その娘の名はNancy Cruzanといい、1983年1月にミズリー州で自動車事故のため意識を失っていた。ナンシーは自分で呼吸ができたため、人工呼吸器は必要なかったが、栄養を取るための管がつけられていた。こうして、事故から3年後の1986年に、両親が「娘の栄養補給の管を外してほしい」と裁判に訴え、最終的には、1990年6月25日、連邦最高裁判所が、米国ではじめて「意識のない患者から栄養補給の管を外すこと」を認めたのである。(28)
このナンシーに関する裁判の間、米国では、賛否両論が飛び交った。結局ナンシーは栄養補給の管が外され、1990年12月26日に息を引き取るのであるが、その後も、「栄養補給」を止めてもいいか否かの議論が続いた。(29)
このような状況の中で、ナンシーの死の1年後、1991年12月12日付けで、Nutrition and Hydration: Moral Considerationという声明が米国ペンシルバニア州の司教団によって発表されたのである。
この声明は、導入のところで、ナンシー裁判の判決に触れ、「今や、具体的なケースにおいて、栄養と水分の補給を行うか止めるかに関して、意見が分かれている。」(30)という言葉ではじめている。そして、いろいろと吟味した上で、結論として次のように述べている:
「一般論として言えることは、ほとんどのケースにおいて、意識のない患者に栄養と水分を供給し続けることは義務である。」(31)
「そうではない場合がありうるが、それは例外であって、ルール化してはならない。」(32)
「もし、それが患者にとって役に立たず非常に重荷となる場合は、栄養と水分の供給を止めても、倫理的に問題ではないと、私たちは考えます。」(33)
「しかし、患者の命はもはや自分たちのケアの対象となる値打ちがないと考えて、生命維持装置を外そうとする人たちを、私たちは認めることができません。」(34)
結 論
以上概観したところから、延命治療に関するカトリック教会の立場をまとめると、以下のようにいうことができるであろう。
(1)末期患者の場合、どのような方法であっても、患者自身が望む「治療」であれば常に行ってもよい。
(2)「非常特別な治療方法」と思われるものや、「患者の受ける利益と比べてマイナス面が大きすぎる治療方法」と思われるものは、無理にしなくてもよいし、すでにしていた場合、止めてもよい。
(3)通常「栄養と水分の補給」は(2)のような「治療方法」とは考えられない。それはむしろ「医療行為」というより「生命を保つため」の基本的健康管理または必要最小限の看護の部類と考えるべきである。
(4)ある患者にとっては「栄養と水分の補給」が「過度・過剰な行為」と思われ、「中止」はやむを得ないと考えられる場合もありうるが、それはあくまでも「例外」であり、「例外」を一般化してはならない。
結局は一人一人条件も個性も異なるので、このような原則を保ちながら、それぞれのケ
ースについて具体的に検討していくことになる。ただ、原則は、あくまでも患者中心で、「患者のため」を考えるべきであり、周りにいる者の感情や都合だけで結論を導き出すのは、患者の基本的人権を犯すことになる。なぜなら、それらの決断は、患者の生死にかかわることだからである。
注
(1)医学的には「遷延性意識障害」といわれ、臨床的には、意思疎通、自力移動、発語、視覚認識、食事自己摂取のいずれも不能であり、糞尿失禁が3ヶ月以上続くものをいう。医歯薬出版株式会社 『医学大辞典』 681頁参照。
(2)1994年5月27日「毎日新聞」参照。
(3)1995年3月28日の「東海大安楽死裁判判決」(1995年3月28日「毎日新聞夕刊」)、および2004年6月8日設立の「尊厳死法制化議員連盟」(仮称)に関する記事(2004年6月9日「毎日新聞」)参照。
(4)The Pope Speaks, Vol.4 No.4 (Spring 1958)
393頁〜398頁参照。
(5)ピオ12世は、ここで、その装置を外すタイミングとして、「病者の塗油がまだなら、それが終わるまで外すべきではない」としているが、続けて「血液の循環が止まった後の病者の塗油の有効性に関してはYesともNoともいえない」と述べている。同書398頁参照。
(6)宮川俊行 『安楽死について』 中央出版社、1983年、所収。
(7)同書137頁。
(8)同書143頁、参照。
(9)同書149頁。
(10)同書153頁、参照。
(11)同書160頁。
(12)同書164頁。
(13)同上。
(14)L’Osservatore Romano, Weekly Edition,
November 11, 1985。
(15)同上
(16)National Conference of Catholic Bishops, Ethical and Religious
Directives for Catholic Health Care Services, United States Catholic
Conference, Inc., Washington, D.C., 1995。これは、1971年に発表されていたものを24年ぶりに改めて発表したもので、内容的にも大幅に改められ、量的にも約2倍に増えている。
(17)同指針58番。アンダーラインは筆者。
(18)同指針59番。アンダーラインは筆者。
(19)http://www.vatican.va/holy_father/john_paul_ii/speeches/2004/march/
documents/hf_jp-ii_spe_20040320_congress-fiamc_en.html。 このスピーチの邦訳は、慈生会病院の浅野浩による。
(20)同スピーチn.4。
(21)同スピーチn.4参照。
(22)同上。
(23)http://www.vatican.va/roman_curia/pontifical_academies/acdlife/documents/rc_
pont-acd_life_doc_20040320_joint-statement-veget-state_en.html。
(24)同声明n.10。
(25)すなわち、単なる個人の意見ではなく、教皇、バチカンの諸省、司教団等の公式文。
(26)Nutrition and Hydration: Moral Consideration (A Statement of The Catholic Bishops of Pennsylvania),
1991。
(27)B.D.コーレン 『カレン 生と死』 吉野博高訳、 二見書房、 1976年、参照。
(28)Karen Shedd Guarino, RN, JD, and Consultant, Mary Powers Antoine, RN,
JD, “The Case of Nancy Cruzan: The Supreme Court’s Decision,” in Critical
Care Nurse, volume 11, Number 1
(January 1991), A Cahners Publication, 32頁〜40頁参照。
(29)Medical Decision-Making and the “Right to Die” after Cruzan, in
Law, Medicine & Health Care, Volume 19:1-2, Spring, Summer, 1991, A
journal of the American Society of Law & Medicine 参照。
(30)同書1頁。
(31)同書22頁。
(32)同上。
(33)同書21頁。
(34)同書22頁。
参考文献
『医学大辞典』 医歯薬出版株式会社、1987年。
The Pope Speaks, Vol.4 No.4 (Spring 1958)
教皇庁教理省 「安楽死に関する声明」 1980年。邦訳は、宮川俊行 『安楽死について』 中央出版社、1983年、所収。
教皇庁科学アカデミー 「人為的延命に関する倫理的・医学的・法的問題」 in L’Osservatore Romano, Weekly Edition, November 11, 1985。
米国司教協議会 「カトリック医療機関のための倫理的・宗教的指針」 1994年。
in National Conference of Catholic Bishops, Ethical and Religious Directives for Catholic Health Care Services, United States Catholic Conference, Inc., Washington, D.C., 1995。
ヨハネ・パウロ二世 「延命治療と植物状態に関する国際会議での講話」 2004年。
http://www.vatican.va/holy_father/john_paul_ii/speeches/2004/march/
documents/hf_jp-ii_spe_20040320_congress-fiamc_en.html。
延命治療と植物状態に関する国際会議 「共同声明」 2004年
http://www.vatican.va/roman_curia/pontifical_academies/acdlife/documents/rc_
pont-acd_life_doc_20040320_joint-statement-veget-state_en.html。
Nutrition and Hydration: Moral Consideration −A Statement of The Catholic Bishops of Pennsylvania, 1991。
B.D.コーレン 『カレン 生と死』 吉野博高訳、 二見書房、 1976年。
Karen Shedd Guarino, RN, JD, and Consultant, Mary Powers Antoine, RN, JD, “The Case of Nancy Cruzan: The Supreme Court’s Decision,” in Critical Care Nurse, volume 11, Number 1 (January 1991), A Cahners Publication, 32頁〜40頁。
Medical Decision-Making and the “Right to Die” after Cruzan, in Law, Medicine & Health Care, Volume 19:1-2, Spring, Summer, 1991, A journal of the American Society of Law & Medicine。