安 楽 死 に つ い て

ーカトリックの立場よりー

 

 

松本信愛(1996年) 

 1996年6月、京都府京北町の町立「国保京北病院」で「安楽死」問題が表面化し、再び「安楽死」が日本中の大きな話題となった。「再び」というのは、1991年にいわゆる「東海大安楽死事件」が起こり、その判決が昨年の3月に出たばかりで、そのときも大きな話題となったからである。

 

 上記の2件とも「安楽死」という言葉を使用したのは、当時マスコミがその言葉で報道したからである。しかし、これらを本当に「安楽死」と呼んでよいのか、まず、そこから吟味してみなければならない。なぜなら、「安楽死」と一般に呼ばれているものの中にはいろいろな種類のものが混在しており、その内容はかなり異なるからである。安楽死問題を正しく理解するためにはそれらの言葉と内容をしっかりと把握しておかなければならない。

 

いろいろな安楽死

 

 「安楽死」という言葉が使用されているものを思いつくままに挙げてみるだけでも次のようなものがある。

 

 まず、なぜ「安楽死」などということを考えるのかという「理由」の観点から安楽死は、尊厳死的安楽死(もう人間として生きている意味がないと思われるから)、厭苦死的安楽死(あまりにも苦しそうでかわいそうだから)、放棄死的安楽死(病人の世話をしている者が限界にきたから)、淘汰死的安楽死(その病人より他のものに人力・財力を投入する方がよいと思われるから)等と区別されることがある。(注1)

 

 次に、どのようにして安楽死するかという「方法」の観点からは、積極的安楽死(命を積極的に取る)、消極的安楽死(医療行為を中止する)、間接的安楽死・結果的安楽死(直接の目的は命を取ることではないが、その結果命が短縮される)等の区別がある。

 

 また、「安楽死」という言葉は使用しないが、内容的に同じ、または、似ているものとして、「医師による自殺幇助」「慈悲殺」「尊厳死」等がある。 

 

どれを「安楽死」と呼ぶか

 

 このように、同じ「安楽死」という言葉を使用しても、その内容が同じではないので、まず、その言葉の使用方法を吟味しなければならないのである。それにもかかわらず、最も影響力のあるマスコミが「安楽死」という言葉を無秩序に使用するので、安楽死そのものに関しても混乱をきたしているというのが現状である。そこで、本稿では、その内容を整理して「安楽死」「尊厳死」「慈悲殺」の3種類に分類して考えてみる。

 

厳密な意味での「安楽死」

 

 「安楽死」が厳密に定義されているのは司法の分野である。1995年3月の横浜地方裁判所の判決は安楽死をまず「間接的安楽死」と「積極的安楽死」に分けているが、同地裁も認めているとおり、間接的安楽死というのは「副次的効果として生命を短縮する可能性があるものの、苦痛を除去・緩和するための行為」なので「厳密な意味」での安楽死から外す方がよいと思われる。そこで、結局、同地裁による厳密な意味での「安楽死」、すなわち「積極的安楽死」というのは次のようになる:(イ)死期が迫っている病人に(ロ)耐え難い肉体的苦痛があり、(ハ)その苦痛を除く代替手段がないとき、(ニ)本人の希望に基づいて(ホ)医師が(ヘ)故意に生命を終わらせる。(注2)

 

 横浜地方裁判所の判決は、上記の(イ)ー(ヘ)の全てが満たされておれば、「積極的安楽死」と認めて、その医師に罪を科さないというものである。(ニ)(ホ)(ヘ)は、諸外国でも「安楽死」というときにはその要件として必ず入っているが、その他の点に関しては国によって異なる。たとえばオランダでは、(イ)のところが、必ずしも「不治の病の終末期患者でなくてもよい」ことになっており、(ロ)の代わりに「精神的な苦痛」でも安楽死の対象となる。(注3)

 

 さらに、安楽死の法制化に関して世界をリードしているオランダ、アメリカ、オーストラリアでの安楽死のアイディアの中には、医師が薬を与えて患者が自分でそれを飲んで命を絶つ、いわゆる「自殺幇助」が入っている。

 

 以上が、現時点の「法的」な意味での積極的安楽死であり、このようなもの以外は直接に命を取る「安楽死」ではないので、厳密な意味で「安楽死」という言葉を使用するときは、この法的な積極的安楽死の概念に入るものに限定して使用する方が誤解を招かなくてよいと思われる。

 

尊厳死

 

 「尊厳死」という言葉には広い意味と狭い意味がある。広義の尊厳死は、「患者は尊厳のうちに死ぬ権利を有する」という考えに基づくもの全てを含む。ゆえに、前述の法的な意味での「安楽死」も、その考えに立って行われる限り、広義の「尊厳死」となる。

 

 それに対して、狭義の「尊厳死」は、「回復の見込みのない末期患者に無意味な延命措置をしないで(苦痛の除去のみを行い、)患者が尊厳のうちに安らかに死ねるように配慮した死」である。これは、故意に生命を終わらせる「安楽死」とは根本的に異なる。

 

慈悲殺

 

 前述の厳密な意味での「安楽死」に値するケースであっても、患者本人の希望または要請なしに行われるものは、たとえ医師によるものであっても、「安楽死」と呼ばれるべきではなく、敢えていうなら「医師による殺人」というべきものとなる。もちろん、それらのほとんどは、患者を楽にしてやろうという善意から生じたものであろう。そのため、これは「慈悲殺」と呼ばれる。

 

評 価

 

 以上の分類によれば、先の東海大でのケース(今回の京都のケースも?)は「慈悲殺」と呼ばれるケースであり、厳密な意味での「安楽死」の部類には入らないものである。事実、東海大のケースの判決は「安楽死の要件を満たしていないので有罪」となった。すなわち、「安楽死」事件でないものをマスコミが「安楽死」「安楽死」というので、多くの人々は(それを安楽死として考え)そのような「安楽死」に賛成だの反対だのと議論することになってしまったのである。それは「安楽死」の問題としてではなく、「慈悲殺」の問題として法的にも倫理的にも議論されるべきものなのである。そして、「慈悲殺」は一般的に、法的にも倫理的にも問題ありと考えられている。

 

 では、本当に「厳密な意味での安楽死」の場合はどうであろうか。この場合、そのような安楽死を法的に認めているところでは、医師は「法的」には合法的に患者の命を終らせることができる。しかし、このケースは、患者の命を医師が積極的に取る(または、患者が医師の処方した方法で自ら命を絶つ)ことになるので、無実の人の殺人(注4)および自殺を禁じている「カトリックの倫理観」では受け入れることはできない。

 

 「尊厳死」に関しては、いろいろな角度から考える必要がある。

 

 まず、広義の尊厳死に関しては、前述の「無実の人の殺人」にもつながる可能性を含んでいるため、一概に賛否をいうわけにはいかないが、バチカンの教理省が1980年に発表した「安楽死についての声明」は次のように述べて、ある種の「尊厳死」の権利を認めている:「(死ぬ権利というのが)自分の手で、あるいは人の手を借りて、自分の気のむくままに自分の死を引きおこす権利、というのでなく、人間としての、またキリスト者としての尊厳をもって平安のうちに死ぬ権利、という意味であるのなら、確かにそのような権利はあり、主張は正しい。」(注5)

 

 狭義の尊厳死は、(安楽死や慈悲殺のように)「殺す」という概念には入らず、(自然に)「死ぬ」という概念に入るので、前記のバチカンの認めている尊厳死に当てはまりそうである。さらに、狭義の尊厳死では「無意味な延命措置をしない」というのが本質であるが、この点に関してもバチカンの声明は次のように述べて肯定している:「死が近づき、しかもどんな手段を用いても、もはやこれを阻止することができないような状態になった場合、ただ、かぼそいあるいは苦しみに満ちた生命の維持でしかないような延命のための処置はやめてしまう決定をしても、良心上なんの問題もない。」(注6)

 

 それでは、狭義の尊厳死はカトリックの立場からみて問題はないのかというと、実はここにも一つの問題があるのである。すなわち、狭義の尊厳死で「無意味な延命措置をしない」というときに、「水分や栄養補給」もしないという考えと、「水分と栄養補給だけはする」という考えとがあるからである。(注7)

 

 前述のバチカンの声明は、無意味な延命措置をしない決定をするときも「そのような状態にある病人一般に普通与えられることになっている程度の措置だけは行わねばならない。」(注8)という条件を付けている。その条件についてバチカンの声明はそれ以上具体的なことはなにも言わないが、1985年の教皇庁科学アカデミーの宣言から推察すれば、それは、「栄養補給を含む看護」を指しているとみるべきである。(注9)

 

 このように、カトリックの倫理からみても、上記のような条件の下であるならば「狭義の尊厳死」を積極的に受け入れてよいのである。安楽死や慈悲殺のケースが起こるのは患者が苦しむからであり、苦痛の除去を最優先要件に入れているこの種の尊厳死が普及すれば、安楽死や慈悲殺の問題はほとんど起こってこなくなるはずなのである。

 

今後の見通し

 

 1986年に世界保健機関(WHO)が発表した「癌疼痛治療指針」等に従えば、癌の痛みはほとんどが解決できるといわれているのに、日本ではそのような除痛治療がまだまだ十分に実施されていないところにまず問題があるようである(注10)。その原因として考えられるのが、まず、日本の麻酔科医の数である。日本の医師は約22万人いるが、麻酔科医はそのうち6千人である。ところが手術を行う大病院が6千もあるので多くの麻酔科医は手術に追われ、癌の痛みを取ってくれる専門医が少ないというのが日本の現状である(注11)。それは、日本のモルヒネ消費量がイギリス、カナダに比べて約13分の1、アメリカに比べて約8分の1であるという国際麻薬統制委員会の報告(1993年)でも裏付けされている。(注12)

 
 以上で明らかなように、今私達にとって最も大切で好ましいことは、いろいろと問題のある「安楽死」や「慈悲殺」や広義の「尊厳死」に関して議論することよりも、そのようなものが不必要となる(狭義の)「尊厳死」について、もっと話し合い、積極的に取り組むことであり(注13)、多くの医師が名実共に(注14)それに応えてくれることである。そして、今私達が阻止しなければならないことは、安楽死や慈悲殺の方へみんなの関心が向けられることによって、真に尊厳の中に死ぬことや緩和医療の発展が妨げられることである。

 

 

(注1)  宮川俊行 『安楽死の論理と倫理』  東京大学出版会 1979年、23ー135頁参照。

(注2) 1995年3月28日の横浜地裁の判決参照。

(注3) 1994年6月21日のオランダ最高裁の判決参照(星野一正「安楽死・尊厳死を理解するためのキーワード」、『ターミナルケア』 1996年、103頁参照)

(注4) カトリックの倫理では、正当防衛の時のみ相手の命を取ることを容認しているため、自分に対して危害を加えてこない人を「無実の人」と呼び、いかなる場合でも「無実の人」の命を積極的に取ることを禁じている。

(注5) 教皇庁教理省 「安楽死についての声明」、 宮川俊行(訳)『安楽死について』中央出版社 1983年、137頁。

(注6) 同書 164頁。

(注7) たとえば、日本医師会の生命倫理懇談会が1992年3月18日に発表した「『末期医療に臨む医師のあり方』についての報告」では、末期患者に対する栄養補給を、最小限必要な「基本的療法」に含めているが、1994年5月26日に日本学術会議が総会で承認した「尊厳死について」の最終報告では「(水分を含む)栄養補給を中止してよい場合がある」と明記した。(1994年5月27日付け毎日新聞参照。)

(注8) 「安楽死についての声明」、 宮川俊行(訳)『安楽死について』 164頁。

(注9) 教皇庁科学アカデミ(1985年10月21日、バチカンでの国際会議における科学者達による宣言)参照。その中で次のように述べられている:「・・・もし、患者が、予見される限り、永久的で回復の見込みのない昏睡状態にあるならば、治療する必要はないが、栄養補給を含むあらゆる看護は施さなければならない。・・・当研究グループは「看護」という言葉を、危険な状態にいる人々なら誰でも当然与えられる同情や愛情または精神的支え等、「病人に対して行われるべき通常の援助」という意味で用いている。」

(注10) 山崎章郎 「ホスピスで実りある日々を」、 山崎章郎編 『がんの苦しみが消える』 三省堂 1994年、12ー21頁参照。

(注11) 1996年7月6日付け毎日新聞参照。

(注12) 1996年6月25日付け毎日新聞(夕刊)参照。

(注13) 事前に文書によって意思表示しておくのがよいと思われる。松本信愛作成「終末期治療および看護に関する要望書」参照。1992年3月18日、日本医師会の生命倫理懇談会が、また、1994年5月26日には日本学術会議が、それぞれ、「患者の意思」を条件に(狭義の)尊厳死を認めると発表した。いずれも、患者の意思は、たとえ文書で示されてなくても、家族など近親者の証言によって確認できれば「患者本人の意思として扱える」という立場をとっているが、文書があればより確実であることは確かである。また、最近では、1995年3月28日の横浜地裁の判決が「医療行為の中止の要件」としてあげている「患者の意思表示」の項で次のように述べている:「患者の明確な意思表示が存在しないときは推定的意思によることが許され、推定的意思を認定するには、事前の文書による意思表示(リビング・ウイルないしアドバンス・ウイル)や口頭による意思表示が有力な証拠となる。」(同日付け毎日新聞夕刊)いずれにしても、形式にとらわれる必要はないが、早い時期に自分の意思を文書化しておくことが望ましい。

(注14) 医師が肉体的痛みの除痛治療に習熟していることはもちろん、患者の心のケアにも配慮することによって、本当の「苦痛」が取り除かれる。水口公信 「がんの痛みは取れる」、 山崎章郎編 『がんの苦しみが消える』 三省堂 1994年、150ー168頁参照。「患者の心のケア」に関しては、拙著 『患者と家族の心のケア』ー米国のパストラル・ケアに学ぶー 近代文藝社、1994年、参照。