受精卵・胎児(松本信愛 1998年)

 

〈ねらい〉受精卵も胎児もすでに人間であるという実感を持たせる

〈資 料〉「受精から誕生まで」「胎児の胎内生活」「誕生前後」等のビデオ

 

 まず、言葉の整理をしておきましょう。受精してから誕生するまでの人間は、「胎児」と呼ばれる以外に、特にその初期には、「胎芽」または「胚芽」、および「接合体」または「接合子」と呼ばれることもあります。「接合体」というのは、精子と卵子が受精した直後の受精卵を指し、「胎芽」は、その後より胎児と呼ばれるまでを指します。英語でも、区別するときは、接合体をzygote、胎芽をembryo、胎児をfetusと言います。以前は、日本産科婦人科学会では、妊娠8週未満を「胎芽」、8週以後を「胎児」と呼び、世界保健機関(WHO)でも8週以後をfetusと呼ぶのが常でしたが、最近の胎児学の発達の結果、特に「8週目」を境にして呼び名を変える根拠はなくなったとされています。それでも、ごく初期段階で、頭も手足の徴候も見えないときに胎「児」と呼ぶのも少し変なので、受精直後からごく初期段階までを「受精卵」と呼び、以後適当に「胎児」という呼び名で呼べばいいと思います。これは、法的なものではありませんので、その境目を週数等で決定することは避けておきます。最近は、英語でも、同様の主旨でembryofetusを使用しているようです。

 次に、妊娠の「週数」「月数」の呼び方についても整理しておきましょう。まず、一般的にはよく「月数」で呼ばれますし、公的にも以前は「月数」で呼んでいましたが(例えば以前の「優生保護法」の中絶できる時期)、現在は、特に断りがない限り、「最終月経の第一日より数えた満の週数」で呼ぶことになっています。特別な場合というのは、たとえば、医学的な説明で「受精XX週」というときのように、本当に受精したときから数えるような場合とか、以前の法律でまだ「月数」で数えている場合等です。

 言葉の整理をしたところで、今回は、「人間はいつから人間なのか」ということについて考えてみます。

 

 「実際にいつから人間か?」という質問は「現実に、いつから人間と呼ばれるか?(いつから人間扱いされるか)」というのとは違います。「いつから人間と呼ばれるか(いつから人間扱いされるか)」ということに関しては、現実に法律で決められたときになるでしょう。たとえば、「いつから大人と呼ばれるか(いつから大人扱いされるか)」ということに関しては、法律が「20歳」と決めれば「20歳」、法律が「18歳」と決めれば「18歳」ということになります。しかし、医学的または心理学的に、すなわち、「実際に」いつから大人なのかは、法律によって決められるものではありません。むしろ、医学的、心理学的に検討し、「ある時点」で大人であるという結論が出れば、法律の方がそれに基づいて変更されるべきです。同様に、「いつから人間と呼ばれるか(いつから人間扱いされるか)」ということに関しても、法律が「誕生の時」と決めれば「誕生の時」、法律が「妊娠25週目」と決めれば「妊娠25週目」ということになるでしょう。しかし「実際に」いつから人間なのかは、法律が先に決めるものではありません。科学的、理性的に「ある時点」で人間であるという結論が出れば、法律の方がそれに基づいて制定されるべきなのです。この意味では、法律がどう定めているかよりも、科学的・理性的吟味の方が大切だと言ってよいのですが、多くの日本人にとって法律の方が先に来がちなので、まず、法律に基づいて吟味してみましょう。

 

(質問1)「受精卵や胎児は人でしょうか? 人ではないでしょうか? 人でなければ何でしょうか? まず法律的に考えてみましょう。」

 

 生徒が特に法律に興味を持っていないかぎり、正確な答は言えないでしょうが、いろいろと考えさせるのが目的ですから、誘導尋問をすればよいわけです。以下の質問は順次回答を与えてから次に進みます。

 

(尋問例)

@民法ではいつから「人」と認めているでしょうか?

A妊婦を胎児も一緒に殺害した場合、「二人」を殺した罪に問われるでしょうか?

B現在の日本に「堕胎」を禁じている法律はあるでしょうか?

C1948年(昭和23年)にできた優生保護法では、当初「妊娠後いつまで」なら中絶でき たでしょうか?

Dその後、その「時期」に変化があったでしょうか? あったとすれば、「なぜ」変化し たのでしょう?

E病院は中絶した胎児をどうするのでしょう?

 

 @に関しては、民法第1条の3項に「私権の共有は出生に始まる。」とありますので、「出生したとき」というのが正解となりますが、ここで二点注意しておきます。まず、第1点は、これは、「私権」すなわち人間としての権利がいつ与えられるかを言っているのであって、科学的、哲学的に「その時」に人間になるというのとは観点が違うということです。第2点は、「出生」と言っても厳密なときはいつか、すなわち、赤ちゃんの頭がのぞいたときか、体全体が母体外へ出たときかを問います。正解は、(民法では)体が全部出たときです。これを「全部露出説」と言います。ここでAの質問に移るわけです。

 

 @の回答からみるならば、胎児の体が全部出てしまわない限り「二人」を殺したことにはならないはずです。しかし、刑法の「判例」は(胎児の体は母体の中でも)胎児の頭が少しでも外気に触れておれば、「二人の殺人罪」となるという方を取ってきました。いわゆる「一部露出説」を取っているのです。民法の全部露出説との間に時間のズレが生じています。

 

 Bの質問は、少しでもこのような問題に関心があればすでに答を知っているでしょうが、日本では合法的に中絶ができるので、「堕胎」を禁じている法律などはないと考えている生徒もかなりいるでしょう。むしろ、そのような生徒がいてくれる方が話を進め易いというものです。「刑法」にはれっきとした「堕胎罪」が今でもあり、212条では「自己堕胎」が禁じられていて違反者には1年以下の懲役、213条は「同意堕胎」で違反者は2年以下の懲役、214条は「業務上堕胎」で違反者には3カ月以上5年以下の懲役が定められています。この法律がなぜできたのか、そして今も残っている理由等を考えてみるのもよいでしょう。少なくとも、胎児のことがよく分からなかった時代でも、ある人々が主張していたように、胎児を母親の「できもの」のようには考えていなかったということです。

 

 Cの正解は「妊娠8ヶ月未満」です。当時は「月数」で数えていましたので、妊娠7カ月の終わりまでの胎児は同法によって合法的に中絶ができたのです。(現在の数え方では、「妊娠満28週未満」ということになります。)

 

 Dの前半の質問の答をまとめて記しますと、合法的に中絶できる時期には以下のような変化がありました。

(イ)昭和51120日の厚生事務次官通知により「妊娠第7月未満」(昭和5211    日適用)

(ロ)昭和531121日の厚生事務次官通知により「妊娠満23週以前」(昭和541       1日適用)

(ハ)平成2320日の厚生事務次官通知により「妊娠満22週未満」(平成311       日適用)

 

 (イ)と(ロ)は実質的な変化はありませんが、それまで「月」で表していたのを(ロ)で「週」表記に改めたのです。しかし、そのときは「未満」を使用しないで「以前」を使用しています。そこで、変化をわかり易く見るために、全てを現在の表現方法に統一して表してみますと、実質的には以下の3段階の変化があったことになります。「妊娠満28週未満」「妊娠満24週未満」「妊娠満22週未満」。結局、「この時期」を境に中絶をしてもいいか、いけないかを決めているのです。それは、そこを境に「人間であるか否か」を決めているのでしょうか。昭和51年末までは中絶が許されていた、満24週から27週の胎児も、昭和52年からは許されなくなるのですが、それまでに中絶されていた満24週から27週の胎児たちは、「なにもの」だったのでしょうか。同じことは、昭和52年から平成2年末までの、満22週と23週の胎児についても言えます。しかもその変化が「厚生事務次官の通知」で行われているのです。厚生事務次官に胎児の命を取る時期を決める権限がどうしてあるのでしょうか・・・このような疑問をみんなで考えてほしいと思います。

 

 Eに関する法律は、中絶された胎児が「4カ月以上」であれば、「死産届」を提出して「埋葬許可」を取り、埋葬することになっています。ということは、4カ月未満なら汚物として扱ってよいということです。これから見ると、「4カ月以上」の胎児は「人間」で、「4カ月未満」は「物」なのでしょうか。このことについても皆で話し合ってほしいと思います。

 

(質問2)「日本の法律には胎児を人間扱いしているようなものはないのでしょうか?」

 

 これも法律を知らなければ答えるのは無理ですが、以下のような法律が日本にもあるということを知らせるための質問です。

 (民法721条)「胎児は損害賠償の請求権についてはすでに生まれたものとみなす。」

 (民法886条)「胎児は相続については、すでに生まれたものとみなす。」

 これらは、胎児にも「損害賠償の請求権」と「相続権」を認めているわけです。もちろん、その権利の結果を得るのは生まれてからですが、とにかく、胎児にもそのような「権利」が認められているのです。「権利」が認められている主体は「物」のはずはなく「人」のはずではないでしょうか。

 ついでに、これは日本の法律ではありませんが、日本も認めていることなので触れておきます。それは、19891120日に国連総会で満場一致で採択された、「児童の権利条約」(この条約の「児童」という表記はよくないということで、ある人々は「子供の権利条約」と呼びますが、政府訳が「児童の権利条約」なので、ここではそれを使用します。ちなみに英語はchildで、対象は18才までです。)のことです。日本では採択後4年以上経った1994329日に批准され同年522日より施行されました。その「児童の権利条約」の前文には、19591120日に国連総会で採択された「児童の権利に関する宣言」を引用して次のように明記されています。「児童は、身体的及び精神的に未熟であるため、その出生の前後において、適当な法的保護を含む特別な保護及び世話を必要とする。」「出生の前後」すなわち、生まれた後だけでなく「生まれる前」から「法的保護を含む特別な保護及び世話」の必要性を認めているのです。と言うよりむしろ、ここでは、生まれる「前」も「後」もあまり区別していないと言うべきでしょう。 

 

 以上、「法的」な観点から胎児について見てきましたが、ここからは、私達の頭を使って「理性的」に考えてみましょう。

 

 先にみたように、法的には、赤ちゃんが生まれるか、まだ母親の体内にいるかで決定的な違いがありましたが、「人間である」ということに関して、理性的考察の観点からは決定的な違いを見ることはできません。

 例えば、すでに生まれた赤ちゃんを想像してみて下さい。その赤ちゃんの誕生の10日前は、まだ母親の体内にいたわけですが、もし、その10日前に帝王切開して取り出していたらどうでしょう。誰でも、その取り出された赤ちゃんは、百パーセント「人間である」と認めるでしょう。同じ赤ちゃんは、1ヶ月前でも、必要なら2カ月前でも同様に帝王切開で取り出して育てることができるのです。このように考えれば、赤ちゃんが、母親の体外へ出るか、体内にいるかで、人間になったり、人間でなかったりするのではないということが納得できるはずです。体内ですでに人間であった者が、体外へ出てくる、いわば、生きている「場所」が変わるのに過ぎないのです。

 このことは、いわゆる超未熟児として生まれた赤ちゃん達のことを考えると、もっと現実味を帯びてきます。例えば、1980年に千葉市立病院の未熟児病的新生児センターで生まれた赤ちゃんは「妊娠22週、522グラム」で生まれて元気に育っていますし、1981年に聖隷浜松病院未熟児センターでは「妊娠23週、510グラム」の赤ちゃんが誕生しています。1984年にはニューヨークで「20週、397グラム」の赤ちゃんが誕生したと報道されました。ギネスブックものでは、1938年にイギリスで世界最軽量の「283グラム」の赤ちゃんが誕生して、立派に成人したと報告されています。

 こうして、理性的に考えていくならば、妊娠20週、10週、5週・・・とさかのぼっていっても、結局は決定的な切れ目(人間でないところから突然変異でもして人間になるところ?)は考えられないのです・・・受精の瞬間まで。

 

 次に現代科学の目で胎児を見てみましょう。以前は、胎児の発育に関する知識は、中絶された胎児を観察することによって得られるのが常でした。中絶手術を行ったことのある医師は、何週目の胎児はどのようなものであるかということを目で見ていたはずです。彼らはそこに「非常に未熟な人間の赤ちゃん」を見ることはできなかったのでしょうか。

 1971年に出版された、剣持加津夫の『小さな生命』という写真集があります。(結婚生活社、絶版)中絶された胎児の写真集です。「私はカメラを通してこの小さな生命の代弁者になりたい」という著者の意図が十分に表れていて、形こそ小さいが、そこにあるのは、まさにバラバラ殺人事件と同じです。手、足、頭、内臓などが引きちぎられている写真です。10週、11週目頃の胎児には、しっかりと5本の指がついており、その手が中絶手術でちぎられています。この写真集を見ただけで、多くの生徒が「中絶はまさに殺人だ」という実感を持ちました。医師達こそ、まず実感を持って胎児を人間と見ることができた人たちだったのではなかったのでしょうか。

  今は、超音波診断装置などの発達で、誰でも容易に体内の胎児の様子を見ることができるようになりました。画面に映っている胎児は目を動かし、指をしゃぶり、おしっこをしています。このように、すでに私達と同じように目や手があり、母親とは別の血液(型)を持ち、子宮内で動き回っている胎児(そしてそのまま育てれば、私達と同じ一人の大人にまで育つ胎児)を、一人の人間の命とみないで、単なる母体の一部と考えることは、もはやあまりにも無理があると言わなければならないでしょう。

 トーマス・バーニーの『胎児は見ている』では、「厳密な科学的報告や研究結果に支えられて」胎児の精神的活動にメスを入れ「胎児は、見、聞き、感じ、さらには母親の思考や感情を読みとることさえでき、胎生6カ月目頃(ひょっとするともっと早く)から、積極的に精神的活動を行っている一個の人間なのである。」という結論を引き出しています(小林登訳、祥伝社、1982年、「著者まえがき」)。このテーマに関してもう少し深めたければ、レナート・ニルソンの胎児成長の写真記録『生まれる』(松山栄吉訳、講談社、1981年)や、M.ゲイブリエル夫妻著、ヒューイ・陽子訳『胎児は語る』(潮文社、1994年)および、同書の最後に挙げてある「参考文献」等が参考になるでしょう。

 

 以上のように、科学は、胎児を「未出生の赤ちゃん」(unborn baby)としてとらえ、肉体的にも精神的にも未発達な赤ちゃんが母体内で成長していく過程を私達に示してくれるようになりました。ここでも少し理性を使えば、出産を予定しているときの胎児だけが「かわいい赤ちゃん」で、中絶が予定されたとたんに、それが「人」でもなければ「赤ちゃん」でもなく「もの」のようになってしまうと考えることの不条理は、誰の目にも明らかなのではないでしょうか。

 

 ここでビデオを見せましょう。「受精の瞬間から誕生まで」「胎児の胎内生活」または「誕生前後」をテーマにしているものなど。今は、超音波診断装置を利用したものや、テレスコープといわれるカメラを利用したものなどでかなり詳しく見ることができます。目的は、生徒達が自分の目で胎児を見て、これは紛れもなく「人間である」ということを実感することです。そのため、「中絶反対」をテーマにしているものは「ここでは見せないで」次の段階で見せる方がいいでしょう。中絶反対の意見は、胎児がどのようなものかを実感した生徒が自ら納得して導き出してこそ本当に力を発揮できるからです。(NHKの「受胎の神秘」の「受精以後」、「母と子の絆」「赤ちゃん」等。サン・グラフ教育映像部の「生命創造」もよい教材です。)

 

 以上の過程を経て、生徒達が「胎児は人間である」という確信を持ってから、胎児や受精卵について、教会がどのように教えているか説明します。

 バチカンの教理省が1987年に発表した『生命のはじまりに関する教書』は、それまでの教会の教えを繰り返しながら、人間の始期と受精卵に関して次のように述べています。

 

「無害な人間(human being)であればだれでもが『受胎のときから死ぬまで』有している生きる権利は、不可侵である」

「全ての人間(human being)の生命は、受胎の瞬間から絶対に尊重されるべきものである」

「人間(human being) は、その存在の最初の瞬間から人間(person)として尊重されるべきである」

「人問の生命(human life)は、受胎の瞬間から絶対的に尊重され、守られるべきである」

「人間の生命(fruit of human generation)は、その存在の最初の瞬間から、すなわち接合子が形成された瞬間から、肉体と精神とからなる全体性を備えた一人の人間 (human being)として、倫理的に無条件の尊重を要求する」

「人間(human being)は、受胎の瞬間から人間(person)として尊重され、扱われるべきである」

「体外受精で作られた受精卵は人間(human being)であり、権利の主体である。彼らの尊厳と生きる権利は、その存在の最初の瞬間から尊重されるべきである」

 

  以上で明らかなように、教会も、受精の瞬間から「人格的人間(person)」であると断言はしていないのです。人格的人間にふさわしいように「尊重し」「扱う」べきであると主張しているのです。「卵子が受精したときから、両親とは別の生命体が成立することは、発生学と遺伝子学が示すとおり」ですが、どの時点で新しい生命体の「人格(person)」が始まるかは、科学も宗教も証明することはできません。しかし、このような場合でも倫理的態度は明かです。まずこのように厳密に人かどうかわからない場合には、その可能性のある時から慎重に(人間であっても問題がないように)取り扱うのが「倫埋的義務」です。その点から考えれば、受精の瞬間から「人格的人間生命」と考え、それにふさわしい取り扱いをするのが正論です。それは丁度猟師が森で動物を見つけたときに、銃を向けた獲物が「確かに人間でない」という確信がない限り、言い替えれば、人間である「可能性がなくなる」まで、引金を引いてはいけないのと同様です。ですから、たとえ「いつから人格的な人間生命か」ということを決定的に言うことができなくても、というより、むしろ決定的にそれを言うことができないからこそ、その可能性のあるとき、すなわち「受精の瞬間」から「人間生命のように」(あるいは「人間生命であっても問題ないように」)扱わなければならないのです。これが、「倫理的要求」なのです。

 

 このテーマの最後に、「胎内診断」に関する教会の教えについて触れておきましょう。新しい命をつくる過程においては、かなりきびしい条件を主張しているように見える教会も、一旦芽生えた命に対する「治療」等に関しては、かなり積極的に受け入れています。

 バチカン教理省の『生命の始まりに関する教書』は、「胎内診断」について次のように述べています。「受精卵や胎児を傷つけることなくその生命を尊重し、個人としてのその保護や治療のために行われるのであれば認められる。」また、胎児に対して行われる「治療」に関しても「人間の胎児(受精卵・胚芽を含む)を傷つけることなくその生命を尊重し、必要以上の危険を冒さず、直接に胎児の治療と結びつき、その健康状態を改善し、または個人としての生存を助けるようなものであれば、胎児に対して行われる治療行為は認められる。」と述べて、受け入れています。むしろこれは当然の結論なのです。胎児も人間であれば、私達と同じように病気を治すための治療を受ける権利もあるのです。

 

 私達人間は、受精の瞬間より始まり、母体内で成長して出産を迎え、その後も成長を続けて成人となり、やがて、いわゆる熟年を経て老衰していくのです。しかも、その間、本質的な変化はなく、常に連続性を持って成長している一人の人間なのです。