カトリック的良心に関する一考察

 

松 本 信 愛

 

はじめに

 

一般的に、倫理的善悪を判断し、善を行い悪を避けるように我々を促すものを「良心」と呼んでいる。そして、現実を見るならば、その良心は、習慣、しつけ、教育、宗教等、外部の環境の影響を大きく受けることは明白である。さらに、個人主義が強くなり多元的社会といわれる現代を考えるとき、「10人居れば10の良心」があるかのような様相さえ伺える。本論文では、そのような外部の影響の中でも、一つの大きな要素になると思われる「宗教」の観点より良心について考察してみたい。

 

宗教によっては一夫多妻が認められているものもあるが、キリスト教ではそれは許されていない。また、同じキリスト教でも、たとえば離婚に関して、ある宗派で認められている離婚もカトリックでは認められていない。まず、これらのどの宗教、どの宗派を、自分のものとするかを決断するときに「良心」がかかってくる。次に、これらの「許されていない」または「認められていない」行動を採るか採らないかを決断するときにも「良心」がかかってくる。このように、特に宗教は人の生き方そのものに関わってくるものであり、それだけに良心への影響力は強いと考えられる。

 

そこで、本論文では「カトリック的良心」に焦点を当て、その「内容」を吟味していく。すなわち、現代のカトリック教会が「良心」という言葉を使用するとき、それが示し、意味しているものが何であるかということを考察する。確かに、最終的な良心は、宗教だけでなく、習慣、しつけ、教育等の影響も受けて形成されるはずである。しかし、生き方の根本姿勢として「カトリック教会」の信仰を自分のものとしたカトリック信者には、その宗教から来る価値観によって方向付けられ、規定される「良心の枠」というものがあるはずである。本論文では、そのような、カトリック的良心の枠ともいうべき、または、カトリック的良心の共通項ともいうべき点に関して考察する。

 

方法論としては、1962年〜1965年に開催された「第二バチカン公会議」の公文書を分析、吟味することによって、現代における「カトリック的良心」の内容を吟味していく。本論文のために「第二バチカン公会議の公文書」を根拠にする理由は以下の通りである:

 

(1)「第二バチカン公会議」は「普遍公会議」(コンチリウム・エクメニクム)であり、100年に1回あるかないかの「全教会を包括する公会議である。」(1)そのため、その公文書の内容の重みは、著名な神学者の論文や著書とは比べられない重みがある。

 

(2)「普遍公会議」の性格からして、「第二バチカン公会議」の公文書に現れている内容は、過去に教会が受け入れてきた、聖書の解釈、教父や神学者たちの教え、過去の公会議の内容等の全てが前提、または、受け継がれているはずなので、「現時点での教会の教え」を吟味する対象として十分、その任に堪えるはずである。

 

(3)「第二バチカン公会議」の公文書の本文にはconscientia(ラテン語、通常「良心」と訳される)という単語は71回使用されているが、同公会議が直接「良心について」論を展開しているのは1項目のみ(「現代世界憲章」16)である。そのため、他の箇所で「良心」という言葉を使用するときは、公会議に参加していた教父たちが、すでに持っており、通常使用している意味での「良心」の内容を前提として使用されていると解釈することができ、この方が、かえって「現代のカトリック教会における良心」の通常の意味を見ることができると考える。

 

 

1.「良心」という言葉

 

 日本語の「良心」という言葉は孟子に由来しているというのが通説であり、それは性善説を唱えた孟子の「良知良能」の観念と連関している。(2)そのために、すでに「良」という色が付いており、英語のconscience等、欧米の単語とは語源的にはかなり異なる。conscience は語源的にはcon-science(共通の知識)という意味であり、そのため、英語では、good conscience、 bad conscienceという表現は全く通常の表現であるが、日本語では「良い良心」といえば同語反復になり、「悪い良心」といえば矛盾となるのを見ても、欧米のものとはかなり異なるということが分かる。しかし、明治初期の日本において、当時の学者たちはこのことを承知の上で、conscienceの訳語として「良心」という言葉を当てはめて定着させていったのである。(3)

 

 第二バチカン公会議の公文書はラテン語が原文であり、英語のconscience に当たるラテン語のconscientiaが使用されている。本論文では、上記の歴史を承知の上で、「良心」という語はconscientiaの「単なる訳語」として扱う。とはいえ、実際に第二バチカン公会議の公文書が訳されたときは、日本語の前後関係を考え、元々のラテン語のconscientiaを自動的に「良心」という訳語を当てはめるわけにもいかず、いろいろな訳語が使用されている。(4)

 

 

2.「良心」の種々の定義

 

 先に述べたように、本論文では、第二バチカン公会議の公文書を基にして論を展開する予定であるが、その前に、幾人かの学者による「良心の定義」を概観しておきたい。ただ本論文の目的から、神学者や教会関係者の、それも、第二バチカン公会議前後のものを中心とする。

 

 とはいえ、中世の大神学者であり、第二バチカン公会議においても、まだ、大きな影響力を及ぼしているトマス・アクイナスを無視するわけにはいかない。トマスは『神学大全』において良心論を展開したとき、「良心とは、本来的にいえば、能力ではなくしてはたらきである。」(5)と述べている。このトマスの理論を展開するとき、大切なポイントは「いつ、どこで、どのように働くのか、また、なぜそのように働くのか」ということである。

 

 第二バチカン公会議当時の偉大な倫理神学者の一人、B.へーリンクはその著名な著作『キリストの掟』において、「良心はそれ自身でその不思議な深みから、真実を創造しつつ真実をほとばしらせるような神託ではない。良心に固有の働きは、認識された真実に意思が一致するように刺激し、決意する前にその真実を求めるように押し進めることである。」(6)という。ここでもっとも大切なことは「何が真実かを見極めること」である。

 

 B.へーリンクは『キリストの掟』から14年後に出版した『キリストにおける自由』では良心について次のように述べている:「現今のたいていの倫理神学者たちは、良心が他の能力と並ぶような一つの心的能力ではないということにおいて、傑出した心理学者や療法家たちと意見が一致している。良心は、知性や心情の中における以上に意志の中にその本拠を持っているわけではない。むしろそれは、調和に向けてのもっとも内なる設定であり、魂の最奥の根底に根ざしているのである。」(7)すなわち、良心は「能力」ではなく、「魂の最奥に根ざしている、調和に向けての内なる設定」であるという。ここで問題となるのは、「調和とは、具体的に何と何の調和か」ということである。

 

 筆者の学生時代、上智大学神学部の倫理神学教授であったJ.モレイは「現代の多くの学者たちは、良心の知性面と情意面を共に強調し、したがって良心の声を根本的に、善いことを行い悪いことを避けるようにという意志の強い傾きを伴う、今ここで行うべき具体的行為の善悪についての判断とみなしている。」(8)という。ここでは、「意志と理性」の働きとしての良心が強調されている。ここで大切なことは「正しい判断と強い意志」である。

 

 上智大学で、J.モレイの後を受け継いで倫理神学を担当したJ.マシアは、まず「自由」について「自由とは、自分によって、自分に従って行動することである。」(9)といい、その自由との兼ね合いで「良心」について「良心とは・・・われわれが自分自身になるように、われわれが自分自身に出会うようにと招く声である」「良心は、成長した自己の声、また本来の自己に出会い、本来の自分に従おうとする際の声として受けとめられている。」(10)という。ここでは「本来の自己とは?」という大きな問いが立ちはだかるであろう。

 

 日本国憲法に「良心」という語が2回出てくるので、法学者たちも「良心」について関心が深い。ホセ・ヨンパルトと金澤文雄は、その法的考察の中で、良心を「人間のその場、その時の行為に関する道徳的判断、あるいは道徳的義務づけの命令」(11)ととらえている。ここで特に強調されているのは「その場、その時」ということであり、静止的な理性の判断ではなく「具体的な時と場」での判断である。

 

 第二バチカン公会議から10年、20年と経つに従い、伝統的な考えと刷新的な考えが入り乱れ「良心」に関しても神学者たちは危機を感じた。「良心の替わりに、専門家の権威と責任を持ってこようとする。良心を役立たずのものとして取り除こうとする」(12)人々が現れる。そこでPh.シュミッツは、「良心は倫理的経験の場である」とし「できるだけ多くの同時代人が、良心を倫理的経験の場として位置づけ、この経験の言葉を解読することができるときのみ、良心は最も重要な倫理規範としての役割を認識することができるのである。」(13)という。問題は、この「経験の言葉の解読」が正しくできるかどうかである。同様の観点から、K.ケリーは「成熟した良心」の必要性を説いている。(14)

 

 

3.第二バチカン公会議に見る「良心」(15)

 

(a)「神の声」としての良心

 

過去において、良心はしばしば「神の声」という表現で表されていたが、第二バチカン公会議が、この点に関してどのように扱っているかを吟味してみよう。

 

 まず、「現代世界憲章」に「良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。」(「現代世界憲章」16)とあり、はっきりと「神の声」という言葉が使用されている。

 

 その他の箇所では「神の声」という言葉は使用されていないが内容的に、それに近い表現がある。たとえば、「教会憲章」の「事実、本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。」(「教会憲章」16)という箇所の「良心の命令を通して認められる神の意志」は、ほとんど「神の声」に近い内容を含んでいると言えるであろう。

 

 また、「人間は自分の良心を通して神法の命令を知り、そして認める。」(「信教の自由に関する宣言」3)という箇所も、「人間は良心の奥底に法を見いだす。この法は人間がみずからに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、常に善を愛して行ない、悪を避けるよう勧め、必要に際しては『これを行なえ、あれを避けよ』と心の耳に告げる。人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳であり、また人間はそれによって裁かれる。」(「現代世界憲章」16)という箇所も、「神の法」という表現ではあるが、「神の声」というニューアンスを感じることができる。

 

(b)「良心の自由」について

 

 人が、倫理的な責任を負うのは「自由」が前提であり、その中でも重要なのは「良心の自由」である。このことは、あまりにも当然であるためか、第二バチカン公会議において、直接「良心の自由」という表現が現れるのは1箇所だけである:「聖なる教会会議は、教会の数多くの教書の中にすでに明らかにされたように、あらゆる種類とあらゆる等級の学校を自由に建て、経営する教会の権利をふたたび宣言する。同時に公会議はこのような権利の行使が良心の自由と両親の権利を守るために、また文化そのものの進歩のために大いに役だつことを想起させる。」(「キリスト教的教育に関する宣言」8)

 

 この「良心の自由」が顕著に現れるものとして「信仰の自由」がある。どの宗教を信じるかに関して、各人は自分の良心に基づいて選択、決定すべきであり、公権等によって制限や束縛を受けてはならない。これこそ「良心の自由」の問題である。そのことを「信教の自由に関する宣言」ははっきりと述べている:「宗教問題においても、何人も、自分の良心(確信)に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の良心(確信)にしたがって行動するのを妨げられないところにある。」(「信教の自由に関する宣言」2)(16

 

 このように「強制されない」というのが「良心の自由」の別の表現であるが、第二バチカン公会議の文書の中に、この点に関して少し紛らわしい表現がある。「神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々を招いている。そのため、人間は良心において束縛されてはいるが、強制されてはいない。」(「信教の自由に関する宣言」11) すなわち、われわれの良心は「神の方へ向くように、善を行うように」(神によって)求められている(=定められている=束縛されている)。にもかかわらず、それに逆らって行動することができるほどの「自由」を(神より)与えられている(=善を行うように強制されてはいない)のである。

 

(c)良心の「絶対性」について

 

良心が「絶対的なものである」というとき、第二バチカン公会議は二つの観点を強調している。まず、一つは、「良心は絶対的なものだから、人はそれに絶対に従わなければならない」という観点である:

「人間のすべての行為は、たとえそれが現世的な事がらに関するものであっても、神の支配から除外されないものであるから、どのように現実的な事がらにおいてもキリスト教的良心に従わなければならないことを記憶すべきである。」(「教会憲章」36) 

しかし、同時に、弱い人たちに対しては、たとえかれらが誤っていても、尊敬し、そうすることによって『われわれひとりひとりが自分のことを神の前に報告しなければならないこと』(ローマ1412)、すなわち、自分の良心にだけ従う義務があることを示している。」(「信教の自由に関する宣言」11)

 

 他の一点は、「良心こそが絶対的」なものなので、他から強制されたり妨げられたりしてはならないという観点である:「したがって、自分の良心に反して行動するよう強制されてはならない。また、特に、宗教の分野において、自分の良心に従って行動することを妨げられてはならない。」(「信教の自由に関する宣言」3)

 

(d)良心と「権威」

 

先に見た良心の「自由」と「絶対性」は、国家や教会の一員として振舞うときに相矛盾するようにも見える。すなわち、良心は全く自由であるから、国家や教会の指図によって「その自由が妨げられてはならない」という考えと、その一員である限り(個人的意見を抑えてでも)国家や教会の「勧めに従わなければならない」という考え方である。この点に関して、第二バチカン公会議は、いくつかの段階を持っているようである。(17)

 

(第1段階)まず「一般的に」自分の属する団体に関しては「良心の義務」を果たすために、前提として「知識、教養」を高めることを勧めているが、その前提そのものが、一般的にいう「努力目標」のようにも解釈できる:「各自が、それぞれ自分自身と自分が属する諸団体とに対する良心の義務を、もっと正確に果たすよう、今日人類の手中にある種々の手段を利用して、教養を高めるように熱心に努めなければならない。」(「現代世界憲章」31)

 

(第2段階)教会において、司教等「所轄権限所持者」が下す決定については、「正しい良心の法」に則して「その決定に従う義務がある」という:「したがって、読者や視聴者が倫理の規準を守るには、これらの事がらに関して所轄権限所持者が下す諸決定にできるだけ早く精通し、正しい良心の法に則してその決定に従う義務があることを忘れないことが必要である。」(「広報機関に関する教令」9) ここでの前提は「正しい良心(の法)」である。

また一般の「政治上の権威の行使」については次のように述べている:「政治上の権威の行使は、・・・共通善を目的として合法的に定められた、または定むべき法秩序に従って行われるべきである。その場合、国民には良心に基づいて服従すべき義務が生ずる。」(「現代世界憲章」74)ここでのチェックポイントは、目的が「共通善」であるかということと、「合法的」であるかということである。

 

 (第3段階)政治共同体と教会との関係で、第二バチカン公会議は「一市民として行うこと」と「教会を代表して行うこと」の間に区別を置いている:「政治共同体と教会との関係について、正しい見方を持つことは特に多元的社会において重要である。またキリスト信者個人または団体が、キリスト教的良心に基づいて一市民として行うことと、牧者とともに教会を代表して行うことを明確に区別することは重要である。」(「現代世界憲章」76)

 

 (第4段階)最後の段階は、権威あるものが勧めている事に対して、「良心的に」どうしても従うことができないような場合、権威よりも自分の良心に従うことを認めている。第二バチカン公会議は、国民としての義務であっても従わなくてもよい例として、いわゆる「兵役拒否」のケースを具体例としてあげている:「なお、良心上の理由から武器の使用を拒否する人が、別な方法で共同体に奉仕することを受託すれば、法律によって人間味のある処置を規定することは正しいと思われる。」(「現代世界憲章」79)

 

(e)「誤った良心」について

 

 今まで見たとおり、良心がそれほど絶対的であるならば、人は「良心にさえ従っておればよい」ということになるのであるが、その良心が「間違った、変な」良心の場合、それはとんでもない結果を生むであろうということは容易に推察できる。そこで、教会の内外で、歴史的に「良心は誤りうるか」とか「誤れる良心は拘束するか」ということが問題となった。(18)このテーマに関して教会ではすでに肯定的な答えが出ており、第二バチカン公会議もはっきりと「良心が誤ること」を認め、さらに、「誤っていても良心に従う義務がある」ことを述べている:

 「しかし、同時に、弱い人たちに対しては、たとえかれらが誤っていても、尊敬し、そうすることによって『われわれひとりひとりが自分のことを神の前に報告しなければならないこと』(ローマ14・2)、すなわち、自分の良心にだけ従う義務があることを示している。」(「信教の自由に関する宣言」11)

「打ち勝つことのできない無知によって、良心が誤りを犯すこともまれではないが、良心がその尊厳を失うわけではない。ただしこのことは、真と善の追求を怠り、罪の習慣によって、しだいに良心がほとんど盲目になってしまった人にあてはめることはできない。」(「現代世界憲章」16)

 

(f)良心の「形成」について

 

 人が人として責任ある行動をとるとき「良心にだけ従う義務」があり、しかもその良心は「誤る可能性」があるとなれば、倫理、道徳の全エネルギーが「正しい良心の形成・育成」に傾けられて当然である。このことを証明するかのように、第二バチカン公会議は「正しい良心の形成・育成」について繰り返し述べている:

 

 まず、単純に「正しい良心の形成」について述べているところを見てみる:

「これらの機関に関係のあるすべての人々が、その使用に関して正しい良心を形成することは絶対に必要であるが、殊に最近激しく論議された若干の問題に関しては、なおさらそうである。」(「広報機関に関する教令」5)

「地上の国の生活の中に神定法が刻み込まれるようにすることは、正しく形成された良心をもつ信徒の努めである。」(「現代世界憲章」43)

「子供を何人産むかに関する決定は、両親の正当な判断に依存するものであり、けっして公権の判断にゆだねることはできないからである。しかし、両親の判断は正しく形成された良心を前提とする。」(「現代世界憲章」87)

 

 ここで、真に問題となるのは、「どのようにして」正しい良心を形成するかということである。この答えがあれば、親や教師は喜んでそれに従うであろうが、第二バチカン公会議から、「直接」その答えを期待することはできない:

「好ましくない教唆にはただちに抵抗し、よい勧めには完全に従うよう、適当な手段によって自分の良心を正しく形成するよう心がけなければならない。」(「広報機関に関する教令」9)

 「これらの事務局の任務は、特に、広報機関の活用に関して、信者の良心が健全に育成されるよう配慮すること、さらに、この領域でカトリック信者の行なうすべての仕事を促進し、秩序づけることである。」(「広報機関に関する教令」21)

「神は、人間が神の摂理のやさしい計画によって、不変の真理をよりよく認めることができるように、自分の法に人間をあずからせている。したがって、人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探究する義務と権利をもっている。」(「信教の自由に関する宣言」3)

 

 最後の「信教の自由に関する宣言」の引用の部分は、特にカトリック信者に対してというより、「人間、皆」に対して述べている。ここから一つ見えてくることは、「良心の正しい形成」のためには「宗教に関する真理を探究する」ことが必要であるという主張であり、第二バチカン公会議は、それは「神の計画のうち」に入っているので可能であると確信している。

 

 ただ、特に「キリスト信者」は良心の形成のために「教会の教え」に従う必要性が述べられている:「キリスト信者は、自分の良心を形成するにあたって、教会の確実で聖なる教えに忠実に従わなければならない。」(「信教の自由に関する宣言」14) こうして「正しい良心が力をもてば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになる。」(「現代世界憲章」16)のである。

 

 

結論

 

第二バチカン公会議以後、カトリック教会の関係で「良心」について発言する場合は、誰でも「現代世界憲章」16番の「良心の尊厳」という項目の内容を「必ず」引用するといっても過言ではない。(19)「現代世界憲章」16番が引用される場合、その前半、すなわち「良心とはどのようなものか」という説明がまず採り上げられのが普通であるが、最後の部分、すなわち「誤った良心」に関してもよく採り上げられている。(20)

 

 次によく引用されるのは、「信教の自由に関する宣言」3番の「自分の良心に反して行動するよう強制されてはならない。また、特に、宗教の分野において、自分の良心に従って行動することを妨げられてはならない。」であろう。(21)特に「信教の自由」を強調するときには絶対に必要な箇所である。

 

 直接にはあまり引用されなくても、第二バチカン公会議で非常に多くの箇所で触れられているのが「良心の形成」である。人が人として責任ある行動をとるとき「良心にだけ従う義務」があり、しかもその良心は「誤る可能性」があるとなればその「正しい形成」については、いくら強調してもし過ぎることはないはずである。

 

 以上見たように、第二バチカン公会議から見える「良心」は、何ものにも強制されることも、妨げられることもなく「完全に自由」で、なおかつ「絶対的」な力を持った「神の声」と呼ぶのにふさわしい、心の奥底にある法である。その法は、「これを行え、あれを避けよ」と命令するが、人間の限界から、良心が「誤る」こともあり、誤っても、人はそれに従うべきなので、その「正しい形成」が人々の最大の関心事となるべきなのである。

 

 初めに見た、いろいろな学者の「良心の定義」の大切なポイントも、結局は「良心が正しく形成されるべき」ということを言っていることになる。トマスの「はたらき」にしても、B.へーリングの「何が真実か見極めること」にしても、J.モレイの「正しい判断と強い意志」、J.マシアの「自己の発見」、Ph.シュミッツの「経験の言葉の解読」、また、K.ケリーの「成熟した良心」にしても、すべて、「正しい形成」と結ばれていかなければ意味をなさない。

 

教皇ベネディクト十六世は自分の最初の回勅『神は愛』において、政治的なことに関して述べるとき、「教会が望むのは、政治生活における良心の教育を助けることです。」(22)と述べ、ここでも、まさに「良心の形成」の作業を中心においている。

 

 

 

 

(1)フーベルト・イェディン 『公会議史 − ニカイアから第二ヴァティカンまで −』 梅津尚志、出崎澄男訳、158頁。ちなみに、「第二バチカン公会議」の前の普遍公会議は、1869年〜1870年の「第一バチカン公会議」であり、その前は、1545年〜1565年の「トリエント公会議」である。

(2)金子武蔵編 『良心 − 道徳意識の研究』 283頁参照。

(3)同書99-100頁参照。

(4)具体的には、「意識、自覚、痛感」等、さらに、義務感や責任感の「感」、道徳心や道義心の「心」がconscientiaの訳として置き換えられている。

(5)トマス・アクイナス 『神学大全』 大鹿一正訳、188頁。トマスはその理由として2点を挙げている:@conscientia という言葉の意味から。すなわち、それはcum alio scientia(他のものにつながる知)という意味であり、「何ものかに対する知の適用ということは、何らかのはたらきによっておこなわれるものにほかならない」という。A良心に帰属することがらから。「良心は、すなわち、『証する』といわれ、『拘束する』とか『励ます』といわれ、また『非難する』とか『呵責する』乃至は『譴責する』といわれる。」これらは全て「行うこと」すなわち「はたらき」であるという。(同書189頁参照)

(6)B.へーリング 『キリストの掟 T』 渡辺 秀他訳、181頁。

(7)B.ヘーリング 『倫理に望む根本姿勢』 中村友太郎訳、139頁。

(8)ホセ・モレイ 『社会の良心』 75頁。

(9)ホアン・マシア 『倫理の再検討』 35頁。

10)同書39頁。

11)ホセ・ヨンパルト、金沢文雄 『法と道徳』 34頁。

12)フィリップ・シュミッツ 「良心 − 危機に立たされる倫理規範 −」 上智大学神学会 

『神学ダイジェスト』'80、 73頁。

13)同書76頁。

14)ケヴィン・ケリー 「良心の成熟を目指して」 上智大学神学会 『神学ダイジェスト』'87、 57〜69頁参照。

15)引用は、南山大学監修 『第2バチカン公会議公文書全集』より。番号は本文の「項」の番号。ただしアンダーライン等の装飾は筆者。

16)日本語の翻訳では「確信」となっているが、あえて「良心」と直して「確信」という元の翻訳を括弧に入れた。憲法における「良心の自由」との兼ね合いもあり、この箇所のconscientiaこそ「良心」と訳すべきであり、あえて「確信」に置き換える必要性は感じない。

17)第二バチカン公会議が「段階」を示唆しているわけではない。ただ、全体的に見たとき、そのように見ることができるということである。

18)山内清海 『良心について』 61-89頁参照。

19) たとえば、教皇ヨハネ・パウロ2世の倫理的回勅『真理の輝き』(VERITATIS SPLENDOR)の第2章の2「良心と真理」のなかでは4回引用されており、『カトリック教会のカテキズム』の第3編、第1部、第1章「人格の尊厳」の第6項「倫理的良心」も「現代世界憲章」16番の引用で始まっている。また、日本カトリック司教協議会監修『カトリック教会の教え』第3部、第2章、第1節「人間の良心の尊厳」においても「公会議が説いているように」という言葉に続けて「現代世界憲章」16番が引用されている。

20)「誤った良心」でも人はそれに従うべきであるという教えは、パウロの「コリントの信徒への第1の手紙」8章および10章の「偶像に供えられた肉」の話しに基づいて、初代教会から言われていることを、第二バチカン公会議は再確認したに過ぎない。

21)この箇所は、バチカンから発行された『カトリック教会のカテキズム』(1782番)にも、日本カトリック司教協議会監修の『カトリック教会の教え』(312頁)にも引用されている。

22)教皇ベネディクト十六世 『神は愛』 55頁。

 

 

 

 

参考文献

 

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竹内修一、 Conscience and Personality - A New Understanding of Conscience and Its Inculturation in Japanese Moral Theology - 、 教友社、 2003年。

教皇ベネディクト十六世 『神は愛』 カトリック中央協議会、 2006年。