日本の政党政治−求められる政策集団
東京都文京区 松井孝司
日本は官僚が支配する国家
明治22年2月君主権の強大なプロイセン憲法を模範とした7章76条からなる大日本帝国憲法が発布され第二代内閣総理大臣黒田清隆に憲法原本が授与されて日本の立憲政治がはじまった。
黒田総理大臣は施政方針演説のなかで憲法は臣民の
1意見を容れるものではないとし、「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至高至正の道に居らざるべからず」と述べたため後日超然内閣の異名をとったが、明治政府にとって政党は有っても無くてもよい存在であり眼中に無かったのである。明治31年6月大隈重信創設の立憲改進党から生まれた進歩党と板垣退助が率いる自由党が合同して結成された憲政党は大隈が代表となって日本で最初の政党内閣を誕生させたが、総理大臣を支える政党の力は弱く官僚の抵抗と政党内の内輪もめにより誕生後わずか4か月で総辞職してしまった。
日本では米国の「共和党」「民主党」のような理念が異なる2大政党は誕生せず、今日に至るまで日本の政党は理念より権力を求めて離合集散を繰り返してきた。
日本の政党は「議員内閣制(=間接民主制)」を支える政策集団である。明治以来日本の政党政治は中央集権制が生む巨大な官僚集団の影響下にあり有力議員の殆どが官僚
OBである。唯一の例外は官僚を虜にした田中角栄総理であったが日本のメディアと検察は米国が提供する根拠の怪しい証拠にもとづき不当な弾劾を加え田中内閣を葬ってしまった。小室直樹氏は米国の陰謀を真に受けて田中氏を無実の罪におとしいれた日本のメデイアと検察官僚に激怒し「日本いまだ近代国家に非ず」と述べている。小室氏は京大数学科に学んだ後、阪大大学院経済学研究科、東大大学院政治学研究科を修了し、米国の
MIT、ハーバード大学に学んだ知の巨人であった。マックス・ウエーバーの影響を受けた独自の思想にもとづきソビエト連邦の崩壊を予見した異色の社会学者で、政治、経済への造詣も深く多くの論文を起草されているが日本の政党には理解されず、その該博な知識が政策に反映されることもなかった。小室氏は「経済には法則がある」ことを力説し経済を市場原理に任せる重要性を強調され、日本は封建制、資本主義と社会主義が混合する鵺経済になっていて市場原理が機能せず官僚支配の人治国家になっているとされ官僚の無能無責任を激しく攻撃された。
明治10年の西南戦争では官軍として参戦しながら官職を辞した谷干城は「行政の弊中最大なるものは高等官吏の責任無きにあり。数千万の国債を起こし、之をもって築港を企て、運輸を助け、鉄道を計画し、殖産工業を創設し、而してその功挙がらず、空しく中止或いは廃絶に帰し幾百万金を消びせしもの実に少なしとなさざるなり」「今此万民の血涙を集めて之を功なく、益なく、影なく、形なきものに徒消して、而して譴責に遇うものあるを聞かず」と指摘している。高級官僚の無責任は明治時代にすでに始まっていたのだ。
板垣退助監修の「自由党史」によれば日本が有司専制(官僚独裁)となる分水嶺は西郷隆盛が下野した明治6年である。税金を無駄遣いする政府の債務は
1100兆円を超えた。巨額累積債務の返済は増税では不可能であることを主権者となった日本国民は直視し、権利だけを求める自らの責任を自覚しなければならない。21世紀に求められる政策集団
日本は第二次世界大戦に敗北し、天皇主権国家から国民主権の民主国家に変身したが日本を大きく変えたのは米国であり日本国民の意思ではなかった。
第31代米国大統領であった共和党のフーバーによれば民主党のルーズベルト第32代米国大統領は容共主義者であり、ルーズベルト政権の中枢は共産主義者に侵食されソ連のスターリン勝利に手を貸したという。戦後
GHQから与えられた日本国憲法草案には「土地の国有化」が唄われており、当時の米国民主党が理想とする憲法を日本で実現しようとしたことが推測できる。フランスの哲学者ルソーは主権者の意思が反映されない間接民主制を偽りの民主主義として否定しているが、ルソーの時代には直接民主制を実現する手段がなかった。
現行の日本国憲法は地方自治体に二元代表制を認めている。行政担当の首長公選は直接民主制であり、米国の大統領制がモデルである。
一方、地方議会は殆ど立法行為をせず費用対効果が悪い無用の長物になっているところが多い。地方自治体の政策立案こそ議員による代議制ではなく直接民主制で実現できるのではないか?
ルソーの時代とは異なり直接民主制を実現する「インターネット」という格好のメデイアを人類は手にしたからである。議会が無くてもインターネット上で政策論争を展開すれば多くの人が同時に議論に参画できる。議論を尽くし住民全体の意志を問うこともインターネットを使えば瞬時に可能となった。直接民主制になれば政党の役割は激変する。
小室氏は未来への関門の一つは情報革命であり、情報革命に成功した経済は栄え、失敗した経済は亡びる。経済理論は情報革命後にこそ真価が現れ、はじめて実用的になるという。無店舗の電子商取引で市場経済は激変し、貨幣はインターネット上のバーチャルな存在になり価値の媒体である貨幣の発行は容易になるが現金取引は激減し、通貨は簡単に国境を越えるので世界で溢れる多様な通貨が市場を攪乱させる可能性もある。詐欺行為や虚偽情報を禁止するために新しい倫理にもとづく法整備が求められるのだ。
インターネット利用の巧拙が政党の盛衰も決める。日本の政党には人、物、金の流通に国境が無くなるグローバル化時代にふさわしい外交政策と政府が抱える巨額債務を解消するために国内総生産(
GDP)を倍増する異次元の経済成長を実現する理論構築と政策提言が求められる。明治維新や戦後社会の民主化で日本経済の高度成長を実現できたのは国民の価値観が激変し破壊的イノベーションに成功したからである。過去20年間経済が低迷するのは価値観が変わらないからであり、少子高齢化は成長をめざす日本経済にとって大きな障壁となるが、社会環境の激変は国民の価値観を変え新しい付加価値創造のチャンスに変えることができる。
21世紀に通用する普遍的価値は科学的合理性にもとづくものでなければならない。「生」と「死」はすべての生物に普遍的な一体不可分の自然の摂理であり、自然の掟を無視する集団はいつの日か消滅する運命にある。生きる権利を守るために付加価値を生まない事業に際限なく資金をつぎ込む国家の行き着く先は財政破綻しかないが、個人と国家、都市と農村、貧者と富者など相反する部分と全体を相互補完関係で結ぶことにより個人と国家の双方に利益をもたらすことができれば破綻は阻止できる。
世界で最初に民主主義を誕生させたギリシアが財政危機に遭遇し、アラブ諸国の民主化が社会の混迷をより深めたことから判るように直接、間接を問わず民主制は衆愚政治に陥りやすい。民主国家には無知、偏見にもとづく衆愚政治を阻止する仕組みが不可欠である。
当初
GHQから与えられた憲法草案は一院制であったという。その理由は日本には米国のような州がないからであるとするGHQホイットニー民政局長の答えに憲法改正担当の松本大臣は「これは議会制度を全然知らない人の答えである。各国で二院制を採用しているのは多数党が一時の考えでやったこと、あるいは一時のあやまりをもう一度考え直すことを必要とみているからである」と説明したら初めて二院制とはどういうものか知ったような顔をしたので驚いたと述べている。無責任ではあっても豊富な知識をもつ日本の官僚は戦後民主化による混迷を糾し衆愚政治の防波堤になり短期間ではあったが産業界を指導して日本経済の高度成長を実現した。
インターネットにはゴミ情報も多いが「知」の宝庫でもある。インターネットの活用で官僚集団に優る「知力」を持つ集団を創ることも不可能ではない。日本の政党に求められるのは巨大な官僚集団に優る政策集団を創ることである。
中国の国家資本主義の成否
21世紀には隣国の中国の存在が大きく浮上し、経済規模でも中国が米国を凌駕することに疑問の余地はない。小室氏を含め日本には中国の崩壊を予測する経済学者が多いが、日本政府の巨額債務を解消するには文化大革命の混迷を克服し毎年6%以上の経済成長で経済規模を倍増させてきた中国共産党の経験が参考になる。
中国共産党は国家が土地を所有して信用創造をする史上未経験の国家資本主義を支える政策集団である。結党以来中国共産党は失敗を重ね試行錯誤の連続であった。中国が欧米に倣って民主化したら忽ち衆愚政治に陥るだろう。
中国が大きく変身できたのは「社会主義市場経済」の理念を掲げ、市場経済の普遍原理である競争を容認したからである。この変更により中国は崩壊を免れ、中国政府の官僚は競争原理に晒されることになった。経済成長で実績を残し、競争に勝ち抜いた官僚のみが昇進する仕組みが出来上がったのだ。習近平政権はさらに「ハエもトラも叩く」政策により大小の汚職官僚を淘汰する。中国共産党は企業にも口を出し、赤字経営をつづけ債務超過を放置する無能な国有企業の幹部も淘汰されるだろう。
人類が生存競争による自然淘汰で進化したように市場における競争がシュンペーターの主張する創造的破壊で「淘汰」を促し、経済成長を促進するのだ。
マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は文献考証の不備を批判する人もいるが宗教倫理は資本主義の成否に大きく影響し、その倫理・道徳が「神の見えざる手」となり社会の秩序が維持されていることは歴史的事実である。
中国研究の第一人者遠藤誉氏は著書「毛沢東」の生い立ちの項目で毛沢東は小学校に学ぶため父親と離別する際、西郷隆盛が用いた月照の漢詩を使用し、日本の明治維新に高い関心をもっていたことを指摘している。また学費無料の湖南省第一師範での学習では社会科学にしか興味がなく、特に倫理学に強い関心をもち毛沢東思想を創り上げたという。
プロテスタントの内村鑑三は「代表的日本人」のトップに西郷隆盛をあげ、「
1868年の日本の維新革命は、西郷の革命であった」と述べている。事実、明治の諸改革は明治4年から6年までの数年間、岩倉具視一行が欧米を旅行中に江藤新平、大隈重信など佐賀の7賢人の手で断行されたが留守政府に西郷がいなければ改革は不可能であった。内村鑑三が西郷を評価するのは「敬天愛人」を座右の銘とし、公平無私の「天」を敬う精神の持ち主だったからである。西郷の思想はキリスト教と類似性が高い儒教の陽明学に学んだものとされているが、主君の島津斉彬は米国の初代大統領ジョージ・ワシントンを知勇兼備の賢者と高く評価しており、政府のあり方については米国の建国の理念に学んでいる可能性が高い。西郷は米国の大統領ジョージ・ワシントンに敬意を表し、常に「ワシントン殿」と敬称をつけて呼び、鹿児島の旧宅には「ワシントン・ネルソン・ピーター大帝」の版画がかけられていたと伝えられる。
A.トクヴィルは「アメリカの民主政治」の中でアメリカ連邦に政治的中央集権はあるが、行政的中央集権は無いと述べ、「行政的中央集権は、これに服従する諸民族を弱め衰えさせるもの」と指摘している。西郷が考える政府は規制の少ない「中央政府」であり、米国の連邦制を模範とする共和制であり、中央集権制には反対であった。「東京政府は無能弊悪なり」と考える西郷が中央政府と決定的な対立をすることは必然的な成り行きであった。福沢諭吉は「丁丑公論」で「西郷の死は憐れむべし、之を死に陥れたるものは政府なり」と述べている。
半藤一利氏は近著「歴史と戦争」(幻冬舎新書)の中で「西郷さんのことを理解するには、彼を毛沢東だと思えばいい」と述べているが両者には共通するところが多い。毛沢東は社会の内部矛盾が新旧社会の新陳代謝を促すと考える稀代の戦略家であり、西郷に惹かれ他山の石としていたように思われる。中国の中央政府は地方政府に大きな行政権限を委譲して地方の自立を促しているが、さらに進んで一国二制度の多様性を容認する連邦制の利点を理解する賢者の集団が中国共産党内に現れるか否かが中国の国家資本主義の成否を決めることになるのではないか。
生活者通信第226号(2018年1月1日発行)より一部修正して転載