首相公選論について


文京区 松井孝司(tmatsui@jca.apc.org)

公開討論会を立ち上げた小田全宏氏はいま「首相公選」実現のために奮闘されている。自民党議員でつくる首相公選制を「考える会」は「実現する会」に格上げする動きがあると小泉純一郎氏は公言され首相公選はにわかに時の話題となりそうだ。
しかし、反対論者も多く実現は容易ではないだろう。
今から40年前に中曽根康弘氏は首相公選を提案されたが憲法改正という難関を突破できず議論は立ち消えになっている。(脚注参照)

俵孝太郎氏は「首相公選を推進している人は憲法改正の道具として首相公選論をいっている。それにルアーに飛びつく馬鹿な魚みたいにひっかかる人が多い」と批判している。
また社民党の辻元清美氏は「独裁者公選制になりかねず、極めて危険」と反対している。
イスラエルは大統領がいながら首相が公選される格好のモデルとなっていたが、首相の地位が安定せず首相公選反対の格好の材料にされてしまった。
小田氏はこれら反対意見のすべてに近著「首相公選」(サンマーク出版刊、定価1200円+税)で回答している。
首相公選に賛成される人は勿論、反対される人もこの本を読んでから首相公選に対する自分の意見を確かなものにしていただきたい。
私はこの本「首相公選」で触れていない問題に言及しておきたい。

いうまでもなく「首相公選」制は直接民主制に分類されるもので、元祖はフランスの有名な哲学者ジャン・ジャック・ルソーである。
ルソーは「近代個人主義の先駆者」と評価される一方で「国家社会主義の創始者」と批判する人がいる。国家社会主義者とはヒトラーやスターリンのことである。
ルソーの評価は人によって180度異なるが、ルソーを正しく理解すれば、直接民主制の本質が見えてくる。

ルソーは「社会契約論」の中で「主権とは一般意志の行使にほかならぬのだから、これを譲りわたすことは決してできない」「人民の代議士は、一般意志の代表者ではないし、代表たりえない」として代議制を否定し、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大きなまちがいだ。彼らが自由なのは議員を選挙する間だけのこと」と述べている。
また、ルソーは「主権は分割できない」という。三権分立の思想を否定し、立法権、執行権や司法権は主権から出てくるに過ぎないものを主権の一部だと取り違えたことから生じる誤りとしている。わが国の選挙後の現実を直視すればルソーの言う通りである。三権分立は名ばかりで国民の意志に忠実に主権が行使されていないことも周知の事実だ。
「首相公選」は執行権を行使する代理人を主権者が直接選任する行為に該当する。しかし、法律の執行権だけでは主権者の期待に応えることは出来ない。長野県の田中康夫知事の例を見れば、それが判る。主権者の意志に基づく立法と司法が同時に機能しなければ主権を行使することにならないのだ。
この一般意志と権力不分割の思想がルソーを人民独裁の元祖とする理由だろう。直接民主制が独裁者を生むと危惧される理由でもある。
しかし、ルソーは「支配者ができた瞬間に、もはや主権者はいない。そして、たちまち、政治体は破壊されるのだ」と述べている。そして「民主政ほど、烈しくしかもたえず政体が変わりやすいものはなく、その存続のために警戒と勇気とが要求されるものはない」とし「真に自由な国では、市民は自分の手ですべてを行い、金銭ずくでは何もしない。自分の義務をまぬがれるために金を払うどころか、金を払ってでも自分の義務を自分で果たそうとするであろう」とも述べている。
首相公選によって支配者が出現し、主権者がいなくなるようなシステムは民主主義ではない。この観点からとりわけ重要なことは立法権と司法権の信託も主権者が自ら行うことであり、人任せにしないことである。税金を払うだけで権限の行使を人任せにすると支配者が出現し、民主主義は崩壊するのだ。
昨今金融の世界では間接金融から自己責任を伴う直接金融への転換が叫ばれるようになり、信託に応え、厳しい監査に耐える金融機関だけが存続を許されるようになったが、政治の世界も例外ではない。


生活者通信第69号(2001年5月1日発行)より転載 

注)
弘文堂編集部編「いま首相公選を考える」(弘文堂刊、定価1600円+税)が刊行されました。
第1部では1960年代の中曽根康弘氏の論文「首相公選論の提唱」を含む吉村正編「首相公選論−その主張と批判−」を復刻し、第2部には今日にいたるまでの「首相公選論」に対する賛否両論を一纏めにして収載しています。
小田全宏氏の「首相公選」(サンマーク出版刊)「首相公選で日本はこう変わる」(角川書店刊、Oneテーマ21、定価571円+税)と併せ購読されることをお薦めします。