新憲法を公募しよう


国民が主権者で在るならば、憲法は国民の名において新規に制定しなければならない。

現在の日本国憲法は国際法に反して占領下にGHQより押しつけられた屈辱憲法を明治憲法の改正として国民の同意を確認することなく制定されたため、論理整合性のない支離滅裂な憲法を解釈論で無理やりねじ曲げて運用せざるを得ない状況となっている。
そもそも憲法改正とは従前の憲法の基本原理を維持しつつ、正規の改正手続きにしたがって憲法正文を変更することであり、正規の改正手続きによらないで憲法正文を実質的に変更する憲法変遷や憲法の基本原理を変更する憲法制定と区別される。
現在の日本国憲法はその告文において『朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。御名御璽』とし、天皇が臣下の申し出た大日本帝国憲法の改正に許可を与えて公布してやったと明記し、明治憲法と同じく昭和憲法も天皇が憲法制定権力を護持する朕定憲法で在ることを宣言している。

憲法制定権力とは憲法をつくる権力 pouvoir constituant を,憲法によってつくられた諸権限 pouvoirs constituレs と区別して呼ぶときの文言であり立法権・司法権・行政権を総攬する大権である。
すなわち現在の憲法に制定されている国民主権も基本的人権も法の下の平等も全て天皇の制定した憲法の条文に拠って付与された処権限にすぎず、大日本帝国憲法を改正して制定した現日本国憲法は、その告文に明記されているように、その制定の正当性を支配者たる天皇の神性に基づく権力に拠るとしている。天皇は現憲法を何時でも明治憲法に戻すことが論理上可能となっているのです。
立憲君主制における憲法とは臣下が専制君主の権力に憲法による規制を突きつけたものであり、日本の朕定憲法とは根本的に異なることに気付かない人があまりに多すぎる。
日本のように政治社会の支配の正当性が支配者の神性に基づいている体制を神権政治と言う、政治と宗教が未分化の原始社会、未開社会はほとんどがそうである。又、憲法以下の法構成はあらかた大日本帝国憲法時代のままであり、天皇の官吏である役人が法律の規定を自由に解釈運用することを可能とさせている。

代表的事例として
刑事訴訟法 第247条【国家訴追主義】公訴は検察官がこれを行う。
刑事訴訟法 第248条【起訴便宜主義】犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。
検察審査会法 第41条【検事正の職責】検事正は、前条の規定により議決書謄本の送付があった場合においてその議決を参考にし、公訴を提起すべきものと思科するときは、起訴の手続きをしなければならない。
その他、行政事件訴訟法には行政の恣意的不作為を追求できる規定は存在せず、無名抗告訴訟としてかろうじて訴えを起こすことは出来ても官吏である役人の裁量が法の規定より優位との明治憲法時代からの判例が踏襲される。
要するに民事訴訟以外の裁判は役人以外起こすことが出来ない。法律の解釈運用は広範な役人の裁量に任されており、例え国民の代表者で組織する検察審査会の裁定であろうと役人は従う義務はないのである。
国民は告訴・告発によって役人に犯罪事実を申告し裁判にかけるよう嘆願することしか許されず、役人の思惑次第で適当に処理できるのである。民主主義法治国であれば訴えの提起は国民誰でも起こせるのが当然でなければならない。法律は誰が読んでも解釈の余地のないように書かれ、その書かれた通りに行われることを法治と言う。
日本では未だに明治憲法時代の体系が残って居るために、天皇が任命し直接統括していた官吏の犯罪・責任の追求は天皇の裁量であり、臣下の者はお上に従うのみであった関係が踏襲され、未だに役人が国民から訴追される事のない法の上の存在であることが温存され、無責任極まる人治国家となっている。

主権在民が国民の意思ならば、この根源的問題を解消し、日本に真の民主主義の礎を築くには、まず国民主権を超越する天皇の大権のもとに存在を許されているに過ぎないことを明示する現憲法の冒頭部分は直ちに削除し、国民こそ真の主権者で在る事を宣言した上で、新憲法を公募し、論議を重ねた上、国民投票に拠って選定し、新憲法及び新法体系を真の主権者たるべき国民の名において制定しなければならない。民主主義の国であるならば権力の正当性は被治者の同意にこあることは当然である。未だ日本は国民の名において法律を制定したことすらない、えせ民主国家なのである。
天皇を象徴として残すかどうかは、日の丸・君が代の法制化問題と共に、憲法制定権力を名実ともに国民のものとした後、論議を尽くし国民投票で決めるべき事である。
権威の世襲や起訴便宜主義等役人が法律以上の存在であることを容認する現法体系は国民主権・法治主義と敵対するものであり、民主憲法を標榜するにはあまりにも不適切と言わざるを得ない。
日本は世界有数の経済大国でありながら世界の先端を争えるのは生産技術だけの未だ二流の国であることを深く自覚する必要がある、憲法を作るということは単に法律の問題ではなく哲学・思想・政治等を総合した自然科学の英知の結晶を作ることである。

日本にはこの分野で世界に誇るべき学者は一人も存在しない後進国である、依ってまず当初制定する日本国憲法は他国と変わった主義や思想を持ち込むこと無く世界の大勢、文明の方向を見習って世界の常識に従い平凡な、軍備についても世間並みのことを定めたものとし、世界の常識に合わせた平凡で特徴の無い憲法をとりあえず早期に制定する必要がある。
自然科学後進国の日本ではこの世界の常識すら理解するものが少なく、まして理路整然とした簡素明瞭な法体系を構築する能力があるのか甚だ心もとない、そこで海外も含めた憲法草案の公募を提案したい、多くの思想、理念の発表に触れながらまずは国民主権の法治国家としての当たり前の機能を持った憲法を制定させたい。
日本が先進的憲法を制定出来るようになるのまだまだ先の事と思えるが、焦ることはありません、まず基礎となる平凡な憲法の下でじっくりと論議を尽くし、思想を高め、人類の英知を結集して崇高なる理想を模索し徐々に形として行けばよいのです、
憲法は時代の要請、国民の意思の変化に合わせ国民の幸福追求のために常に変化し続けなければならないと思います、公募によって得られる多数の草案を基に論議が尽くされ日本に真の国民の意志による憲法が制定されることを祈る物であります。

国民憲法を創憲しよう。

憲法は国の体制の骨格です。民主主権の国ならば、この国の根幹をなす最重要事項である憲法の制定権限が国民に在ることは当然でなければならない。
主権が天皇から国民になったのであれば、当然新憲法は改正ではなく新規に制定されなければ筋が通らないのです。
憲法学者西修氏の調査によると、占領下に強権をもって当時の日本に同意なく憲法を強制するのは国際法に露骨に違反するので、日本人が自主的に従前の憲法を改正したことにするためにGHQに対し上部組織である極東委員会が明治憲法との一貫性を装うため天皇が公布するとの告文をつけさせたのだそうです。
憲法改正ではなんべんやっても従前の基本原則が踏襲され憲法制定権力は天皇のままです、国民が疑義の余地なく主権者となるには、国民の名において憲法を制定し憲法制定権力が国民に在ることを宣言しなければならない。現憲法廃棄、新憲法制定なら明治憲法の呪縛から国民の過半数の同意で解放されます。

大前研一氏も大前研一通信VOL59、99年8月10日発行の中で。
「…一連の動きはつまるところ日本の国家元首は誰か、という議論に向けて進んでいると見て間違いないと思います。国旗国家法を押している人々は、次に日本の国家元首は天皇である、とという所に押してゆくと思います。外交関係の人々というのはプロトコールを重視します。江沢民の相手は首相なのか天皇なのか、という議論です。先日一新塾で挙手してもらったら80%の人は首相が国家元首だと思っていました。しかし、外務省的に言えば、また中国の政府の公式見解では、小渕さんとは朱首相が、天皇には江沢民が「同格」としてプロトコールを組んでいます。橋本さんが中国を訪問した時もそうでしたし、外国の報道機関はすべて、朱首相は”HIS EQUIVALENT(彼と同格)”の小渕と会った、という報道をしています。
みなさんはいかがお考えですか?
日本は不思議な国で、国家元首が誰か、という議論を50年もしないで今日まで来てしまっています。今回の君が代の論議でも、未だに国会で首相や官房長官の定義が毎日変わることからわかるように、外務省のタカ派は後ろでやきもきしているのです。
在外公館に菊の紋章と天皇・皇后の写真を飾っておきながら、ほかに適当なシンボルがないのでキクは日本の象徴である、と平気で言っています。天皇家の家紋であることは疑いの余地がないのに。また大使は特命全権大使として、天皇から任命されて赴任する習わしになっています。決して外務大臣や首相ではありません。ですから、外務省にしてみると、この問題は諸外国との解釈の違いを埋める意味でトテモ大切なことなのです。
それから天皇という言葉ですが、英語ではエンペラーと言います、これは日本以外の場合には「皇帝」と訳されています。外国人ではこの二つの違いは解りませんから、当然日本はまだ皇帝が国家元首をしている国という解釈をしています。それ以外の解釈はありえないのです。また外務省は日本以外の所ではそう説明しています。」
又89年6月発行の著書(平成維新)の中で、よりよい天皇制の模索として。
「政治の世界を規定する憲法に天皇制を盛り込んだために、むしろ祭政一致、または祭政混同の呪縛から逃れられなくなったのが昭和憲法の特徴である。たとえばイタリアの場合、「国家とカトリック教会は、各自その固有の領域において、独立・最高である」と定められている。このほうがよっぽどすっきりとしていないだろうか。つまり両者は無縁なのである。又、日本人は2000年以上にわたって天皇を統合の象徴として仰いできたわけで、これを憲法や政府機関の中に入れるということ自体が不自然なのだ。だから少なくとも組織としての宮内庁は天皇家の内的執行機関として位置づけ、むしろ自由な行動をとってもらったほうがいいのではないかと思われる。」(以上ごく一部の抜粋です)としている。

天皇制は役人にとって国民に対し、お上として君臨できる最も居心地のよい体制です、国民は役人の不正を追及出来る情報も手段も持てないのですから。

アメリカでは税金を1セントでも使われた物は全て納税者の物だという意識が徹底しています。全ての情報が全面開示されていなければ国民は判断することができません、情報開示こそ民主主義の前提条件です、日本のような小出しの情報公開ではなく、アメリカのよう基本原則として、自動的にすべての情報開示をすることが電子情報開示法によって義務づけられ、インターネット上やあらゆる電子媒体によっていかに低コストで開示するかが追求されている、又、直ちに情報開示すると国益や基本的人権を犯すおそれのある物は法によって開示を遅らせる期限を定め、期限が来ればどんな情報であっても開示し、責任者を明確にする姿勢が徹底しています。
日本では未だ、明治・大正・昭和に至る天皇の御前会議等での発言・指示・命令がどのようなものであったか公式資料は大部分未公開のままです。

主権が国民にある証として、憲法が国民の名において制定されて、初めて象徴天皇の論理が成り立つ事なのです、国民主権が天皇の公布した憲法の文言によって付与された権利であるかぎり外国から見れば天皇の統治する国であり、閣僚・役人は臣下であり、国民は臣民であるのです。私は日本をまともな国民主権の民主主義法治国にしたい、出生・性別によってその地位が確定される、生まれつき尊い人を認めることは、当然、生まれつき卑しい人の存在を肯定する事になります、これは思想・信条・出生による差別を禁止した基本的人権に反します。

東京都文京区音羽1−17−11
(株)花和 代表取締役 大山 悦男
電話03−3941−1187


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