いつもと違うキス
…今更のように言うコトじゃないのかもしれないが…
自分の一日はキスで始まる。
髪や頬に触れる甘い感触で目を覚まし…ほとんど覚醒しないままで無意識に腕を伸ばすと…抱き寄せられてキスをされる。
「…お…はよう……」
それからやっと朝の挨拶の言葉が出て、もう一度軽くキス。
「おはよう、奥様…今日も愛しているよ」
そうやって軽い口付けを何度も交わしているうちに頭がやっと冴えてくる。
最後にギュッと抱き合って…その体温を感じられる幸せを噛み締めて…。
きっちりと身なりを整えてから朝食を摂る…という習慣は此処に嫁いでから身に付いたものだ。正直言って10代前半はそんな生活とは全くの正反対の…実に怠惰過ぎる日々を送っていたし。あの時の俺の生活ぶりを良く知っている幼馴染みの彼女が、今のこの生活を知ったらどれだけ驚くだろうか?…と、ふと考えたりする時もあるが。
朝食を摂る為だけの部屋に此処の主人とその妻が仲良く姿を見せれば、彼等の為だけに存在する使用人達が、それぞれの役割の仕事を果たすために一斉に動き出す。
元々贅沢嗜好が皆無に等しい総帥閣下であるので、公邸で働く使用人達の数はそう多くはない…にしても、彼の立場と邸の広さに見合うだけの人々が此処では働いているのだ。
「いつもの通り」と言えば、珈琲の入れ方もパンの種類も焼き方も、卵の調理の仕方も…何もかもが自分好みで用意される朝の食卓を、贅沢と思うよりは己の立場を考えて感謝をしよう、と思っている。
庶民な生活しか知らないで育った自分は、やはり最初は本当に贅沢だと思ったし、自分に合わない世界だと…とにかくこの食事スタイルだけでなく、公邸での全ての生活がとても緊張するものであったのだ。辛い想いもしたが……それも「総帥夫人」という立場を自覚していくうちに慣れてきた。周囲の気遣いと自分への扱い方にも助けられた。
そして何よりも住民の感情…此処ネオ・ジオンの住民達には、身分が高い憧れ?の人達はそれなりの生活をして貰わないと納得出来ない…という、アムロには未だに理解不能である思考がある…ようだ。解りやすく言えば「王様とお妃様にはお城に住んでいて華やかな生活をしていて欲しい」…という事らしい。
ナナイ大尉にそう言われて、解るような解らないような…未だにそんな気分なのであるが。何気ない会話といつもと同じ穏やかな朝食の風景で…
その時は何も感じなかったのだけど。
登庁する総帥閣下を見送る夫人の図…
という光景は、この公邸の平日の朝には欠かせない行事である。
「では行ってくるよ」
「うん…行ってらっしゃい」
短い会話の後に優しいキスを幾度か交わす総帥夫妻を見ているだけで、とても幸せな気分になれるのだ…とは公邸のメイド達の話。
特に何かが違うわけでもない。何処にでも居るだろうごく普通の夫婦の挨拶で、自然に交わされるキスなのだが。それでもそれを見ているとほんわか優しい気持ちになり…そして皆一様に「来たばかりの頃のアムロ様は随分と恥ずかしがっておられたけど…今はとても自然に様になってらっしゃるわ…」と懐かしく思い出すらしい。
シャアはその日もいつもと同じ様に、自分の腰を引き寄せて優しく唇を重ねてきて………
-----あ…れ?
何かを感じた…何だろう?
一瞬訝しむ表情になった妻をその夫は見逃さない。
「どうした?アムロ」
「あ…ううん…何でもない……気をつけてねシャア」
「?…ああ、君もな…互いに一日無事に乗り切れる様に祈っているよ」
もう一度軽いキスをする。
-----…あ…やっぱり…何か…
専用リムジンエレカに乗り込み車内から軽く手を振るシャアに、同じ様に手を振りながら…何となく心がざわめていてるアムロであった。
後部座席のアムロがずっと黙っている。
いつもの朝なら…たわいの無い、だが和やかな会話が流れるお迎えの車内なのに…アムロは唇に指を掛けて複雑な表情で考え込んでいる様子なのである。
そんな姿をバックミラーで見ている運転手のギュネイが気にならないワケはない。
だから思い切って声を掛けてみた。
「…少佐……えっとその……何かありましたか?」
思案に沈んでいたアムロは、その問い掛けにうっかりポツリと無意識に応えてしまう。
「……うん………何だかキスがいつもと違った……」
「!!…はあぁぁっっ…?!」
思わずハンドルを切り損ない、住宅地の繁み突っ込みそうになるトコロだった。その衝撃でアムロも我に返る。
「わわっ?!…なっ何でもないよっっ!ギュネイっっ!!」
「はっ…はいーっっ!…何も聞かなかった事にしますーーっっ!!」
バクバク躍る心臓に静まれっっ…と必死になった。総帥夫妻のキスシーンなど…アムロの護衛を務めるギュネイは、当然もう珍しくもないくらいたくさん目撃しているのだが…最初に見てしまった日から1年以上経った今でも…未だに何となく恥ずかしかったりする。彼の目には2人が妙に艶めかしく映るのだ…。そんな自分の様子を「童貞か、お前は」と一蹴したサド医者の言葉を思い出し、恥ずかしい気持ちがムカつく気分になったが…。うっかりギュネイに気持ちを漏らしてしまった事を後悔しながらも、アムロはやはりまだ気になっている。
-----なんだろう……あの感じ……もしかしたら……
MS部隊総本部のオフィスに着いても、アムロはざわざわした心が晴れなかった。
いや…寧ろどんどんそのざわめきが強くなるのだ。
こんな事は初めてで…どうしたら良いのだろうか…と焦る気持ちもあって。
「あっ…アムロ少佐……そこ違いますっっ」
「えっ…?」
はっとして手元の書類を見ると、全く違う別の決裁欄にうっかりサインをしてしまっていた。
「わわわっっ!…ゴメンよっっ!!」
慌てるアムロに事務官である女性士官はニッコリと笑いかける。
「大丈夫ですよーもう一度出力してきますので……少佐がボンヤリされるなんて珍しいですね」
そんな滅多に見られないモノを見たせいなのか、何故か嬉しそうに退出していく彼女の後ろ姿を見て…アムロは大きな溜息をついた。
-----勤務中にこんな調子だなんて…最低だな…上司失格っっ!!
MS総隊長としての責任と仕事はキッチリ果たすっ!…と常に自負してきたアムロである。大人として社会人としての常識と自分の矜持もある。そして「外」から来た自分の立場と他の元連邦軍兵士達の事も考えるし…何よりも「総帥夫人」としての周囲に対する意識がある。その立場のせいで自分は他の人間よりも仕事ぶりに注目度が高いのだ。此のネオ・ジオンで誰よりも頑張っている…宇宙一の働き者な「夫」の為に、自分にも誰にも恥ずかしくない働きぶりが必要だ。それを意識して、時間が経つに連れてその「総帥夫人」としての公私混同を自然に避ける様になったのだ。
……それなのに。
-----勤務中に「旦那」の事ばかり考えてるなんて……最低だ…
そう解っているのに…
椅子から立ち上がって窓から総帥府の建物を見やる。
-----ああ…どうしよう……どうしたらいいんだ……
この胸騒ぎがますます辛くなってくる。コンコンコン…とドアをノックする音。
思わずビクリっと必要以上に過敏に反応してしまう。
「入ります少佐、先日のシミュレーションで受けた課題のレポート出来ましたっっ!それからコレ経理のリィザ伍長から頼まれた決裁書類ですー」
いつもの様に勢いよく入室したギュネイ中尉…なのだが、アムロの様子が朝から変わっていない事に怪訝な表情を隠せなかった。
「…少佐…?あの…大丈夫ですか?」
「だっ大丈夫だよっ…えっと例のレポート…出来たのかい?」
「あ…はいっ…少佐が決めたシステム生成に基づいて…各MSの特にエネルギー消費率から自分なりに考えてですね……」
共用の液晶画面を使って説明を始めるギュネイであるが……頷きながらも一緒に画面を覗き込んでいるアムロが、どう見ても上の空である事は容易に知れた。
「あの少佐……」
「え…?あ、ああ…うん、良いと思うよ、コレで次はいこうか?」
「……まだ半分しか報告終わってないっス…」
思わず沈黙が流れる。
ギュネイにしてみれば、本当にこんな心此処に在らずな様子の上官を見るのは初めてだった。大抵の場合静かで穏やかで…しかし全てを見ている把握している…そして厳しいのだ。
だから逆に不安になる。何がこんなに少佐の心を惑わせているのだろうか?
………キス……がいつもと違った……
聞かなかった事にしていたあの言葉を思い出す。
ギュネイも思わず胸騒ぎを覚えた。それを他ならぬ「アムロが」気にしているのだ、という事実に…だ。
「…アムロ少佐……総帥府に…行きましょうっっ!!」
「え…ええーーっっ?!」
部下の思いも寄らぬ突然の提案にアムロは驚きの声を上げた。
「なっ何を言い出すんだっ?!ギュネイ中尉っっ!」
「だってっ…気になる…でしょう?大佐の事が!だったら…ヤバい事になる前に確認しに行きましょうっっ!!」
「でっ…でも……そうなんだ…けど……気にし過ぎ…なのかもしれないから」
「なーに言ってるんですかっっ!!此処ではどんな警備システムよりもですねーっっ!少佐のそのカンの方が遥かに頼りになるんですよっっ?!…事大佐に関してはっっ!!」
警備部門の士官達が聞いたらそれは怒るかもしれないのだが、自分は強ち嘘は言っていないぞっ…とギュネイは思う。
「で、でも……勤務時間中…だからさ…」
まだ迷っているアムロに年下の部下は一喝した。
「まだ言いますかっっっアムロ総帥夫人っっ!!万が一…手遅れになったらどうするんですっ?!」
ハッとしたアムロはみるみる顔が青ざめた。…嫌な予感を感じたのか…
「…ギュネイ……着いてきてくれっっ!!」
「はいっっ!喜んでっっ!!」
MS部隊総本部から総帥府までは普通に歩いて10分程度…
その道程を走っていくアムロと後ろに付いていくギュネイを、たまたま見かけた者達は何事かと思わず振り向いてくるが、2人はそんな視線に全く気に止める事は無く走ってゆく。
総帥府に着くと、普段ならわざわざ寄る事にする1階の秘書部の受付には寄らずに、直通エレベーターを目指した。そのままギュネイも同行する。アムロのIDカードと生体認証を当然受け付けて、エレベーターは総帥執務室のある階を一気に目指す。
弾む息を整えながら、ギュネイは同じ様に息を荒げるアムロに声を掛けた。
「…少佐…大丈夫…ですか?」
「うん……近付いたからかな……さっきよりずっとマシだ…うん、シャアは…まだ大丈夫…」
その応えに自分はそういう意味で言ったんじゃないんだが…とギュネイは苦笑した。先程は最悪の事態を一瞬考えもしたが…今のアムロの様子を見ていると、純粋にただ何かを心配しているのだ…それは総帥の身に関する事なのだろう…という事だけは解る。
エレベーターのドアが開いて、慌てる様に飛び出してきた総帥夫人を、警備士官達が心底驚いた表情で迎えた。
「ア…アムロ少佐っっ?!」
「何事ですかっ?!」
「ゴメンよっっ!…ちょっと総帥に会わせてねっっ!!」
そう言いながら彼らの横をすり抜けて、執務室の扉を開けにかかる。
扉の向こうに消えたアムロを呆然と見送った彼等は、後から少々バツが悪そうに着いてきたギュネイに直ぐさま説明を求めるのであった。
「シャアっっ……!!」
勢いよく開かれた扉と共に叫びながら現れた細君の姿に…さすがの総帥閣下も驚く事しか出来ない。
「アムロ…?!…どうした突然…」
只ならぬ妻の様子にシャアも椅子から立ち上がった。
足早に近付いて来たアムロは…大きな執務机を廻ってシャアの前に立ち…いきなり抱き付いた。
「…??…どうしたのだ…アムロ…?」
突然のこの愛情表現は素直に嬉しいのだが…普段のアムロを考えると到底理解不能な行動なのである。顔を上げたその表情はとても不安そうで…ますます訝しむシャアに、アムロはそっと顔を近付けて自ら……
キスをした。
これまた大変嬉しい行動なのだが、いったいどうしたというのか??と疑問符だらけの頭で、それでも更にその愛しい身体を抱き締めようと腕を伸ばし…た途端にアムロが唇を離した。その表情はますます不安に歪み…
「シャア……貴方……」
「…何だ…?」
「やっぱりっっっ!!…熱があるよっっ!いつもと体温が違うーっっっ!!」
「…大した熱じゃありません…ごく微熱です。風邪のひき始め…ってヤツですね」
「本当に?大丈夫なのか??」
それはそれはとても心配そうな様子のアムロに対して、いかにも面白くない表情でドクター・ビダンは答える。
「アムロさんは心配し過ぎですよっっ…こんなのまだ風邪のうちに入りませんからっっ!」
しかしアムロはまだ不安そうである。
「……俺には微熱をなめちゃダメだって…カミーユは言うからさ……」
そう言って泣きそうにさえ見える表情で、傍らに座るシャアの表情を覗き込む。それを受けるシャアもそれは愛しそうにアムロを見つめて、そっと抱き寄せて………
を見た途端やっぱりブチ切れた。
「アムロさんと『コレ』とは身体の基本構造が違い過ぎますからねっっ!!…そうそうウィルスだって取り憑く隙も無い、殺したって死なないだろーな大変ご立派な身体してるんですからっっ!心配するだけ無駄ですっ!」
「…随分と言ってくれるな…カミーユ」
「褒めているつもりで言ってますが…何か?」
黒いオーラを漂わせてニッコリ笑いかける…そんな扱い方をこのネオ・ジオン総帥に出来る男はこの宇宙でカミーユ・ビダン、彼一人だけに違いない。
「…本当に心配は要らないのかい?カミーユ」
やっぱり本気で心配しているアムロには…やはり態度は改めるべきだ。
「……確かに少しだけ喉が腫れてますから…ビタミン剤は出しておきますよ。今夜は温かくして早めに寝る様にしてください」
「うん…ありがとうカミーユ…わざわざ悪かったね」
そんな顔をされたら本当にもう何も言えないぜ…と、公式的にも総帥夫妻の主治医となりつつある青年医師は、心の中で大きく溜息を付いた。
久し振りに早めの帰宅となった総帥閣下だが、症状的に寝ているまでもないので取り敢えず居間のソファーで大人しくしている。
その妻が後ろで何やらカチャカチャと作っており……
「はい出来たよ、シャア…コレ飲んでね」
出されたのは見た目はミルクティーの様だったが、何やら香りが違う。
「?コレは?」
「レイ家の秘伝レシピで作ったジンジャー・ミルクティー…身体温まるよ」
そう言って柔らかに笑うアムロのその表情を見ているだけで、自分は温まりそうだが…とシャアは幸せをしみじみと噛み締めた。
そのまま隣に腰掛けて同じ様にミルクティーを飲んでいるアムロが…ポツリと呟く。
「……今日は…ゴメンよ……勤務中だったのにさ…」
「何故謝るのだ?…私はとても嬉しかったよ」
君がそんなにも私の身体を気に掛けてくれて…とシャアはアムロの額に軽やかな音を立ててのキスを送った。
「だって……シャアのそんな状態……初めてだったから…俺…焦っちゃって…だから…」
「大した事は無いよ…君に心配を掛けてしまって逆に悪かったな」
シャアの優しい言葉にもアムロは首を振って応える。
「風邪を侮っちゃダメだよ…それ以上酷くなったら大変だろう?貴方の代わりは居ないんだからさ…ホントに働き過ぎだよ…貴方…」
こんな時代になっても風邪のウィルスは相変わらず人類の一番の敵かもしれないのだ。そして自分をとにかく心配してくれる優しい妻の愛情が嬉しくて、シャアは愛しさと共にその身体を強く抱き締める。
「しかし君もキスで私の体調が解る様になったのか…それも嬉しいよ」
「…もう貴方の専売特許じゃないからねっっ……何千回…キスしていると思っている?」
「何万回……の間違いじゃないか?」
そのまま自然と幾度かのキスを交わす。そのまま当然の様に不埒なキスへと変わっていく事に、アムロは眉間に皺を寄せた表情で釘を刺すのだが……
「…シャア…今夜は…温かくして早く寝ないとダメなんだよ?」
「君が温めてくれるのだろう?」
「そう言うと思ったっっ……っっ……あっ…ダメだってっっ…もうっっ…」
「ん…君の唇も身体も…熱いな……」
……さて。
総帥閣下の風邪がその後どうなってしまったのかは…
皆様のご想像にお任せする事としよう。
THE END☆☆
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…いや…ウィルスも撃退するよーなゲロ甘をですねっっ…とほほ (2009/10/15 UP)