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ガラスの動物園 "The Glass Menagerie"  1987年米:ポール・ニューマン監督
テネシー・ウィリアムズ原作の戯曲の映画化。ジョアン・ウッドワード、ジョン・マルコヴィッチ、カレン・アレン、ジェームズ・ノートンの4人しか登場しない密室の詩的回想劇。 舞台はアメリカ内陸の都市セントルイス。 「トム、よく咀嚼してゆっくり食べなさい。人間は動物と違って唾液腺を働かせるのよ。」「コーヒーは?ブラックは胃ガンになるからミルクを入れて」 トムが夜な夜な家を抜け出して映画館に逃げ込む気持ちもよくわかる。
南部でのお嬢様時代を懐かしむ母親。 サザン・ホスピタリティ(南部式もてなし)という言葉のとおり、女性は貞淑で家庭的、機知にとんだ話術で来客をおもてなしできるよう厳しくしつけられたのだそうで、 タイプのテストというだけでプレッシャーから吐いてしまう(内緒で学校もやめてしまった)ような内向的な娘になんとか結婚相手をと、 息子に同僚を夕食に招待するよう強要した母親のもてなしよう着飾りようが気合い十分(娘時代に着ていたものとひと目でわかる、リボンのついた裾の長いドレス)。
冒頭、無精ひげを生やしたジョン・マルコヴィッチが荒れはてたアパートの一室で(カメラに向かって)話し出すことで、彼の回想による家族の物語だとわかるのだけど、 そのやつれ具合で物語の結末が暗示され、この母親の支配下でかろうじて保たれていた家族の絆が断たれてしまう瞬間まで緊張が続いてきつい。 だって「ガラス細工」のしかも一角獣じゃ、「ああこれきっと角がいつか折れちゃうんだ」とわくわくどきどきしてみているわけで。 みんなうますぎる。

『ガラスの動物園』はウィリアムズの自伝的要素の強い戯曲で、彼の姉は父親に殺されるという強迫観念にとりつかれロボトミー手術を施されたという(永倉万治の記述より)。 作中のトムの姉ローラがウィリアムズの実在の姉ローズと重なるとすれば、ローラに映画館でやっていた手品師の手つきを再現してみせる場面の台詞の美しさはそのまま ウイリアムズの姉への愛情のあらわれかもしれない。
ポール・ニューマンの演出は音楽を最小限(使う場面も、音量も。たとえばかすかに窓から向かいのダンスホールでかかるワルツが聴こえてくるという具合に)におさえ、 母親にはきんきん声で、トムとローラには囁くような小声で台詞を言わせている。 大きな物音といえば、母親と口論し、映画館へ逃避しようとするトムの乱暴につかんだ上着が姉の集めているガラスのいくつかに当たってしまったとき。 夢みがちでもろい姉弟自身の心をかばうようにあわててガラスに両手をさしのべるトム役のジョン・マルコヴィッチ。 『二十日鼠と人間』での哀れな大男とも、色男ヴァルモンとも別人のような(体型までひとまわり縮んだかのよう)。

家を出て放浪の末今は空家のアパートに戻ってきたトム。 残された母と姉のその後について説明はされないが、誰かが光の当たるところに移動してやらなければ輝けないガラス細工=彼らのことだとしたら、幸せになっているとは思えない。 香水店のショーウィンドウに並ぶガラスの小瓶に姉の気配を感じ慌てて逃れようとする自分が、それでも彼女を深く思っている、と涙をひと筋流す。 愛しいと思いながらもどうしようもなく疎ましい存在、家族の話。
マクベス "Macbeth" 1971年米:ロマン・ポランスキー監督
バンクオの亡霊を見た彼の顎が不意にがくんと落ち、両頬はふいごのようになり、ぽっかり開いた口が痙攣した…というのは演技スペースが(背景なし)床に描かれた黒い円の中、というトレヴァー・ナン演出/1976年にイアン・マッケランが演じたマクベス。 その後伏した夫人(ジュディ・デンチ)を腹話術の人形を扱うように椅子に座らせ、という記事には、その場面を見てみたかったなぁとほんとに思う。がそれはかなわないので、という事で。
映画ではより多彩な小道具(鏡など)や映像マジックを使え、視覚的にも楽しめそれもまた好き、ただ登場人物への思い入れは散漫になるかもしれない。 マクベス夫人の登場場面では、青い衣装の腰に寄せたドレープがとてもきれい。 洗いざらしたままの髪の彼女が、夫をそそのかし共謀して王を殺し即位する間にみるみる髪型も衣装も豪華になっていくのだけど、どんな装飾よりこのドレープがよかった。 夫の出世を願う妻の気持ちは置いといて、囁くような小声でもって言っている台詞の凄いこと。 私生活では身重の妻をめった刺しにされた上に首を吊るされ殺されたた監督が、自分の苦しみを反芻させるような場面を平然と撮れたのだろうか。 ポランスキーが撮るという事で、さらに話題性も増したに違いないこの悲劇で繰り返される死の場面は文字通り「血塗れ」。
音楽はThird Ear Band。オーボエの暗い音色がマクベスの未来を予言するかのように響く。 サントラには少年の歌う劇中歌も収録。
赤い影 "Don't Look Now" 1973年英 : ニコラス・ローグ監督
原作は『レベッカ』のダフネ・デュ・モーリア。 ニコラス・ローグ監督の描くヴェニスからは濁った水の臭いが漂ってきそうなほど暗く不潔で、本当に入り組んだ路地から異界へ引き込まれそう。 カメラマン出身だけに、水面に映る人影、画面の隅にちらりと見せる小道具の色、螺旋階段の効かせ方など凝っている。 『エクソシスト』のように首が回転したり緑色の液体を吐いたりする場面こそないが、観光客も途絶えたシーズンオフの水の都という舞台さえあればここまで不気味な演出が可能なんだな。
娘を亡くして以来神経が参っているローラ(ジュリー・クリスティ)が、霊感を持つ盲目の女性ヘザーに娘からの「自分は今も夫婦の間にいる」という伝言を聞いて急に朗らかになる様子が、いかにも脆そうで「見ていられない」と思わせ、うまい。 現実主義者の夫ジョン(ドナルド・サザーランド)の方にその能力が備わっているのも皮肉。

ヘザーがローラに頼まれて娘を呼び出す時に、胸をわしづかみにして呻き声をあげるさまが、あからさまに性的な感じ。 ジョンとローラの濃厚なベッドシーンの最中、その後のとりすまして服を身につける姿が(まるで暗い室内にブラインド越しに外の光が差し込むように)小刻みに挿入されるのも、意味深。
そして赤い影を追うジョン、なぜ門を閉ざしたのか。娘との間には妻でさえ入れないのだろうか。 赤い色は血、赤い影は赤頭巾、追う父は父という名の狼、は言い過ぎとしても、深読みができそうな作品だったが、ミステリーとしても見事だと思う。
原題(今見てはならない)には、ああそういうことだったのか、と思わず膝を打つ。
銃殺 "King & Country" 1964年英 : ジョゼフ・ロージー監督
トム・コートネイはいつも目がいい。それからあの薄い唇と身体から出る乾いた声。 早い話がそれ目当てで彼の出演作をせっせと観ているんだなぁ。 ダーク・ボガードは法の番人の無力さを、汚れた手のままコップに酒をつぐことで表現する、うまい。 泥を落とす所も、ぬぐう布きれもない。 ロージー独特の小道具、鏡。自問自答するボガードの心理をこちらが盗み見る感覚。

軍法会議で銃殺刑を言い渡されたコートネイ。最後の晩、看守の目を盗んで仲間が酒を差し入れにやってくる。 酔わせた彼に目隠しをし、鬼ごっこのふりをしながら銃殺隊を真似て彼にみえない銃口を向ける仲間たちはモノクロ映像の中でまるでネズミの群れのようだ。
『できごと』で上流階級の優雅な青年たちがスクラムの中でみせる醜い表情を見上げていたロージー監督のカメラはここでは見おろす超越者の目の位置にある。 懸命に手をのばし " Where are you, bastard! " と叫んでも、彼をいたぶる仲間(鬼)たちにも、自らは手を下そうとしない上官にも、そして 戦いに背を向ける者を決して許さない狂った戦争には届かず、まして目隠しをされた彼に敵の正体が見えるはずもない。
彼が志願し、忠誠を誓った祖国は彼の意識も尊厳をも奪ったまま、その引き金を引いた。

できごと "Accident" 1967年英 : Joseph Losey監督
脚本は『召使』と同じハロルド・ピンター。主人公の哲学教授にやはり『召使』のダーク・ボガード。 貴族階級の、結局ふたりの男に恋人を奪われる哀れな青年(必ず金髪と相場が決まっているのね)はこの作品で初めて大きな役を演じるマイケル・ヨーク、彼自身も舞台となったオックスフォード大の卒業生。 渦の圏外(金網越しに眺めているテニスが象徴的)に取り残され、知的だが魅力に乏しい3人目の子どもを妊娠中の妻にはピンターの当時の夫人ヴィヴィアン・マーチャント。 前年"Alfie"(この作品でも妊婦なんだな)でアカデミー助演女優賞にノミネートされている。
ロージーの『エヴァの匂い』でヒロインに骨抜きにされる小説家を演じたスタンリー・ベーカーが、この作品ではいかにも肉食という感じの精力的な同僚役で出演。 謎めいた美貌の留学生ジャクリーヌ・ササールの顔立ちがひところの宮沢りえに似ていた。

貴族の邸内で「ゲーム」としておこなわれるラグビーごっこの凄まじさ。 柔和な表情の上流階級の青年たちがスクラムの中では、顔を歪め目をぎらぎらさせ歯を食いしばりながらボールを奪い合うのを、内側に据えたカメラが冷たく見上げている。 次の場面の爽やかなクリケット風景がまるでそらぞらしく欺瞞に満ちたものにしか映らない。

「できごと」。情事も交通事故も、ふとしたはずみに誰もがつまずきかねないもの。 世間体を重んじ自尊心が高い彼らは内心の焦燥を相手に悟られまいとしてかえって大きな代償を支払うことになる。 「できごと」の呪縛は映画の終わりまでとうとう解けなかった。 このタイトル、秀逸。つくづく、Losey-Pinterコンビは上流階級の偽善が嫌いらしい。 やっぱりあれで幸せになっちゃあいかんですよ。
ゲット・カーター "Get Carter" 1971年英 : Mike Hodges 監督
ギャング組織の一員ジャック・カーター(マイケル・ケイン)は急死した兄の葬送に参列するため、故郷のニューキャッスルに戻る。 兄の死因に不審を抱いていた彼は事件に関わらぬよう再三警告されるのにも構わず、ついに隠し撮りのポルノフィルムに姪の姿を見つけ、兄の死の真相とその黒幕をつきとめる。

生活感がなさそうにみえて、妙に神経質な殺し屋ジャック・カーターを 演じきったケイン。健康管理に留意し、ビタミン剤を服用し、スプーンのよごれをナプキンで拭いてから使い、しかし食事の間も周囲に気を配ることも忘れない。殺し屋という 非日常的な存在だからこそ、この「普通の人間」的な小道具がカーターのキャラクターにリアリティを添えている。

棺に安置された兄の顔をみても、葬儀のあいだも、カーターは無表情だし兄の忘れ形見である姪に小遣いを渡すときもほとんど親愛の情は示さない。 大家の目の前で平然とボスの妻相手にテレフォンセックスをしてみせる男。
その彼が「先生のお気に入り (Teacher's Pet) 」と題されたフィルムに映った姪の姿をみて一瞬表情を和ませる。そのフィルムの目的を知るまでは…。彼は愛する者のために涙を流すこともできるのだ。 マイケル・ケインが殺し屋の冷徹なイメージにしばられてゴルゴ13のような仏頂面をしているわけではなく、この男が素直な愛情表現ができない、いびつな人間であることまで見通して演じていることをわかってもらいたい。
レイティングをR指定に抑えるために暴力シーンをカットしたそうだが、いまどきの映画のほうがよほど流血シーンが派手で残酷だと思う。「ゲット・カーター」で実際に血の流れるシーンは意外と少ないのだ。

カーターが自分の身の破滅も顧みず、復讐心につき動かされるように兄を死に追いやった関係者を次々に殺していく後半の歯切れのよさ、音楽のとりあわせの絶妙なこと。 マイケル・ケインのワーキング・クラス・ヒーローベスト3のひとつ(他は「国際諜報局」・「アルフィー」)。 故郷へ向かう列車の個室でカーターが"Farewell, My Lovely"を読んでいる場面はほんの数秒だが、ホッジス監督は実はここでこの物語の結末を暗示している。のりあわせた乗客に注意。

原作は Ted Lewis "Jack's Return Home" 、ジャック・カーターを主人公とした小説は "Jack Carter's Law(1974)" "Jack Carter and the Mafia Pigeon(1977)" が続く。とはいえこの結末では映画で続編がつくられるわけはないな。 いや、シルベスタ・スタローンでのリメイク版なら、結末によってはシリーズ化されるかも(ロッキーやランボーの例もあるしね)。
愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像
"Love Is The Devil - study for a portrait of Francis Bacon" 1998年英 : John Maybury 監督
恋人であっても表現者としてのベイコンの領域にどうしても立ち入ることを許されないジョージ・ダイアーが、孤独にさいなまれ追いつめられていく姿を、映像コラージュや鏡、螺旋階段、ベイコンの絵画(映画では使用許可を得られず、監督メイブリイによるそのイメージ再現をみられかえってよかったと思う)を挿入しながらこちらの感情にねじ込んでいく。

絵の具のにおいがこちらの鼻先に届きそうなアトリエ。 絵の具にまで嫉妬しているのか、ジョージは(マクベス夫人のように)執拗に手を洗い続ける。 石鹸をぬりたくり、見えない絵の具をブラシでこすり続ける彼を、最初はいたわりの目でみつめるベイコンもやがて彼に冷淡になり、ジョージはキャンバスを切り裂き、壁に描かれた便器に小便をかけ、酒と薬に溺れるようになる。 巨大な目のような螺旋階段の底には破滅しかないことがわかっているのに、抗えずに一段また一段とその円の中心に吸い寄せられるジョージを、いきつけの社交場であるサロンに同行させては笑い者にするベイコン。 オデッサの階段の場面、乳母車を目で追いかけながら興奮するベイコン。 それでも作品の裏には「ジョージへ、愛をこめて」と走り書きがみえる。手を焼きながらも彼をNYやパリに連れていく。 歪んではいるが、間違いなくベイコンは彼を愛していたのだろう。 アメリカのあの「彼(アンディ・ウォーホール)」など「作品とおなじでつまらない奴」と一蹴されても仕方がないかという気もした。 これはメイブリイ監督の本音だと思うが・・・。

ジョージ・ダイアーについての記録がほとんどないため、Daniel Craigは自由に演技することができたという。 しかし実在のベイコンを演じなくてはならなかったSir Derek Jacobiは大変だっただろう。 彼の才能とその特異なセクシュアリティを同時に表現しなくてはいけなかったから。 彼が質問に答えるのを聞いて、ベイコンの話し方とまったく違うのに驚いた。 あの口調、あの発声は完全に演技だったのか。 Tilda Swintonが一見彼女とはわからない容姿で出演している。こんなに下品になれることも知り、ますます好きになった。

フライトナイト"Fright Night"1985年米 : Tom Holland監督
主役のヴァンパイア、Chris Sarandonは女優Susan Sarandonの前の夫。 『狼たちの午後』でアル・パチーノ扮する銀行強盗の内縁のを演じ(てアカデミー助演男優賞候補になっ)た俳優で、よく通る低音の持ち主だ。 "Nightmare Before Christmas"で主人公のガイコツを吹きかえ(歌はDanny Elfman/Oingo Boingo)ているから声は聴いたことのあるひとがいるかもしれない。

越してきた隣人が実はヴァンパイアで、偶然窓からひとを襲う現場を目撃してしまった高校生チャーリーは視聴率低下で番組を降ろされたホラー・ショーの司会者の力を借りてヴァンパイアを退治しようとする(つきあっている女の子まで狙われているとあっては、なりふりかまっていられない)。 その司会者(その名も"Great Vampire Killer")の名前がピーター・ヴィンセント(ピーター・カッシング+ヴィンセント・プライス:いずれも有名なホラー映画スター)という。特撮(同じチームで後に"Ghostbusters"を担当する)も見事だがこういう小ネタでくすぐりをいれてあるので隅々まで楽しめる映画になっている。ヴィンセントのホストぶりはクリズウェル(50年代にテレビで一世を風靡した予言者:エド・ウッド"Plan 9 from Outer Space"のオープニングで棺の中から登場する)を知っているとおもしろい。 本当は孤独な小心者の老優ヴィンセントにRoddy McDowall(『わが谷は緑なりき』『猿の惑星』)。でも見どころはやはりサランドンの艶っぽいヴァンパイアだ。

ある愛のすべて"X, Y & Zee"1972年英 : Brian G. Hatton 監督
X(男= Michael Caine )とY(女= Susannah York )と Zee(= Elizabeth Taylor )。 映画の冒頭、卓球をしている夫婦(ケイン&テーラー)。 ふたりの間を行き来するピンポン球が愛情か、間に割って入り込む第三者か、とにかく暗示的。
倦怠期を迎え、派手好き・若づくり・無教養な妻にうんざりし始めた夫は物静かな美しいデザイナー(ヨーク)と愛し合うようになる。 妻は(実は不妊症という負い目がある。こども好きな夫のために別れようとまで)苦しんだあげく自殺をはかり、彼女を見舞ったデザイナーの秘めた過去を知るや、なんと夫から彼女を奪い取ってしまうのだ。

妖艶に微笑む妻と寝室の奥の愛人。三角関係の幕切れを悟ったケインの間抜けな表情で終わる、豪華なキャストによるトンデモ作品。 リズはこのころからかなりオーバーウェイト気味。英国オリジナルタイトル "Zee & Company" 。

リトル・ヴォイス "Little Voice" 1998年英 : マーク・ハーマン監督
原作は Jim Cartwright "The Rise And Fall Of Little Voice" という舞台劇。巧みに配置された女性ヴォーカルの歌詞が、そのときどきの状況説明も兼ねている。
北海をのぞむ漁港の町 Scarborough で撮影が行われた。
亡くした父親を慕い続けるLV(=Little Voice) は極度にひとを避け、部屋に閉じこもったまま父親の形見のレコードを1日じゅうかけている。 母親マリ( Brenda Blethyn )は、電話にすら出られない娘を「父親そっくり」といつもののしりながらも好き勝手にナイトライフを楽しむ。今度の彼氏は怪しげなタレントエージェントのレイ( Michael Caine )。 マリの家に招待されたレイは、ヒューズがとんでプレーヤーがかかるはずのないLVの部屋からジュディ・ガーランドの歌声がもれるのを聞く。 歌声の主がLVと知ったレイは、この才能を放っておく手はないと、マリをそそのかしてLVの歌でひと儲けしようともちかける。

LVは1度きりというふたりの言葉を信じ、レイとマリが全財産なげうってお膳立てしたステージに立つ。
LVを説得できたレイがドアの陰でガッツポーズをとると、すかさずシャーリー・バッシーの "Goldfinger" が流れるところ、最高におかしい。 触れるものすべて金に変えるミダス王の指を持つ男・・・・という歌詞がかぶさるのだから。
客席にダディの幻をみたLVはマリリン・モンロー、ジュディ・ガーランドがのりうつったかのように生き生きと歌い、ステージは大成功。
レイはさらなる成功を目論み有名な音楽プロデューサーを次のステージに招待するが、「1度きり」の約束だから歌ったLVはベッドから出ようとしない。 あちこちガタがきているLVの家の電気がショートし、家が炎につつまれる。パニックに陥るLVを、いつも彼女を気にかけていた心優しい鳩好きな青年 ( Ewan McGregor )が助け出し、「パパはもうこの世にいないんだ。まわりの、きみの事を心にかけてくれる、生きているひとたちのことを考えてごらん。」と優しく言い聞かせる。
ステージに穴をあけたレイは夢も消え、ステージで失意の歌 "It's Over" (迫力たっぷり)をやけになって歌う。

ダディのレコードを心配したLVが家に戻ると、マリが険しい顔で彼女を待ちかまえていた。レコードはすべてたたき割られていた・・・。

最初から快調にとばして、最後でほろっとくるコメディ。ブレッシン扮するマリのエキセントリックな話し方はLVが最後にぶちまける本音をより効果的に するよう計算されたものだ。一度としてまともに家族と向き合おうとしなかったマリが、成長した娘に背を向けられて気づく心の交流の大切さ。 それが押しつけでなく自然にこちらに伝わるのは脚本のおかげかもしれない。LVを演じた Jane Horrocks のいかにもはかなげな表情から一転したダイナミックな ステージが圧巻。もともと彼女のために書かれた劇であるため、生き生きとしている。
『ブロードウエイと銃弾』で過食症の英国俳優を演じた Jim Broadbent がナイトクラブの支配人兼ショーの司会者として登場。
1998年度ゴールデングローブ(ミュージカル・コメディ部門)最優秀男優賞をケインが受賞、アカデミー賞主演女優賞にブレッシンがノミネート。

ベント 堕ちた饗宴 "Bent" 1997年英:ショーン・マサイアス監督
マーティン・シャーマン原作の戯曲の映画化。1979年に初演。 ナチが実際に行った同性愛者迫害の事実をもとにした創作であるものの、同性愛そのものではなく、 いかなる状況におかれても「人間」の尊厳は奪えないという事が主題(と思うのは私の勝手)。
夏。まず、フィジカルな面で愛すること。もっとも手軽な方法だ。 しかし相手とふれあうことが許されない収容所でのマックスとホルストは、お互いの存在を身近に感じつつ、言葉によって愛し合う。 生きるために、自分を慕う者の命をナチに差し出した自分を恥じているマックスは、「ホモに愛( mental love )は向いてないんだ。」と、ホルストの愛の告白を 拒絶する。ホルストは、「俺が愛するのは自由だ」と言う。

冬。寒さと無意味な労働にに身も心も凍えきったホルストをマックスが言葉だけで抱きしめ、温める。 彼にも相手を慈しむことができたのだ。 咳のひどいホルストのために、マックスは仮病を装い新任の将校に性的に奉仕(マックスは金を払って待遇のましなユダヤ人として登録している)することで薬を手に入れる。
将校は彼らの関係に気がついているが、素知らぬふりで収容所の退屈しのぎにふたりをもてあそぶ。 ホルストに高圧電流の流れる有刺鉄線に向けて帽子を投げるよう命令し、それをとれと言うのだ。 とればたちまち感電死する、さらにマックスが愛する者の死をなすすべもなく見ていなくてはならないことも計算して。 将校が楽しんでいるのはマックスを執拗に「ユダヤ」と呼ぶことからも明らかだ。
ホルストはマックスに背を向けているから、彼を見られないまま、以前決めていた彼への愛のサイン(左手で眉を掻く仕草)をゆっくりとしてみせる。 相手とふれあえず、視線すら交わせず、言葉まで奪われ、なお「愛している」と。 マックスに、射殺されたホルストの始末をするよう命じて将校は立ち去る。

彼は初めて、ひとがひとを愛する自由はいかなるものにも奪うことはできないと理解する。 彼はホルストの上着を身につけ、胸に縫いつけられたナチからもっとも 卑しいとみなされた同性愛者の印、ピンクの三角形を勲章のように撫で、裾をきちんと直し、おもむろに有刺鉄線に両手をかけ、ホルストを愛した「人間」としてこときれる。

オルランド"Orlando"1992年英:サリー・ポッター監督

原作は1928年に発表された Virginia Woolf のファンタジー小説。親友(恋人だったという説もある)である貴族 Vita Sackville-West が彼女に「女性である自分にはこの広大な私有地の相続権がない。男に生まれたかった」と語ったことが、 この小説を執筆するきっかけとなった。ふたりは1922年から25年間に渡り親交があり( Woolf は1947年に自殺)、Vita の息子である Nigel Nicholson はこの小説を「文学のかたちを借りたもっとも長く魅力的な恋文である」と評価している。あらすじについてはあちこちで書かれているので省略。
監督の Sally Potter は10代の頃からのこの小説のファンだったという。
「最初に読んだ時から、いくつものイメージがまるで燃え上がるかのように心の目に浮かんだのです。私は映画化するにあたり、1600年から現代まで、そのイメージのいくつかをハードルを飛び越すようにつないでいく手法をとりました。」
Manfred Karge の舞台 "Man to Man" で、男性らしさと女性らしさを自在に操る Tilda Swintonをみて、Orlando 役を彼女に決めました。」

この作品のテーマを重視したキャスティング。主人公を寵愛するエリザベス1世にはゲイであることを若い頃から隠さなかった評論家 Quentin Crisp 、大使として中央アジアに派遣された主人公と兄弟の契りを結ぶ王子に Lothaire Bluteau ("Bent") 、エリザベス女王を讃える歌を舟上で歌う(ラストの天使も)のは、 ゲイを支援する活動で知られる Jimmy Sommerville など。
衣装の Sandy Powell (Caravaggio , The Crying Game) , グリーナウェイ作品を数々手がけた美術監督チーム( Ben Van Os & Jan Roelfs )のバックアップもあり、監督は映画製作にとりかかったが、より効果的と考えれば原作を大胆に変更した。 原作は Woolf が1928年にペンを置いたところで終わっているが、監督は Orlando に二度の世界大戦を含む激動の20世紀を経験させている。

原作と決定的に違うのは、映画での Orlando が母親になることである。女性になった Orlando はアメリカからやってきた旅人、Shelmerdine ( Billy Zane )と出逢い、恋におちる。彼は「自由の国アメリカへ一緒に行こう」と誘うが、Orlando は英国にとどまる。すでに(女性になってしまったので)相続権は剥奪され、妊娠した彼女は再びゆっくり 年をとり始める。戦後、現代に現れた白いシャツにパンツ姿の Orlando は長い髪を後ろで編み、女性的な服装から解放され、娘を連れてかつて自分の住んでいた城を訪れる。
草原を走る娘を手持ちカメラが追う( Orlando の視線)。17世紀に詩を書いた木陰。彼女の瞳に宿る涙をみた娘が「泣いてるの」と尋ねると、Orlando は "I'm happy." と応えるのだ。 見上げれば空には天使がうたう、そこは地上とも天国ともつかない Orlando がようやくたどり着いた安住の地のようである。

殺しのダンディー "A Dandy in Aspic"1968年英:アンソニー・マン監督
Mia Farrow の映画デビュー作。 操り人形で始まる幕開け、操りの糸がぷつっと切れて人形がくずおれる幕切れ。監督が撮影途中で急死したため、製作・主演の Laurence Harvey がかわって仕上げた。 Harvey は英国諜報部に潜入しているソ連の二重スパイ。十数年も素性を偽り続け、諜報部の妨害工作に当たってきたが、同志が緊張と不安から逃れるために麻薬に溺れ、わずかなミスが原因で自分の身辺も徐々に危うくなっていく。本国に帰りたいが、上層部は許さない。 折りも折、ドイツから帰国した凄腕の精鋭が自分と組むことになった。実はこの男が大好きな Tom Courtenay だからこの映画も捨てられないのだ。いたって面白みのない( Courtenay の酷薄さと Harvey の焦燥感は伝わる)作品だが、マイナーなスパイ物に 一時入れ込んでいたので。Peter Cook が若い局員の役で出演しているもののお笑いはいっさいなし。
ちなみに "aspic" とは、肉や魚のだし汁にゼラチンを加えて固めたもの。琥珀の中に閉じこめられた昆虫のように、じわじわと身動きがとれなくなっていく主人公の心理がタイトルに。
  ドリームチャイルド "Dreamchild" 1984年英:ギャビン・ミラー監督
オックスフォード大学の数学講師、チャールズ・ドジソン(ペンネームはルイス・キャロル)が友人の娘たちに即興で話して聞かせた物語が、有名な 『不思議の国のアリス』として後に出版された。
当時10歳だったアリスももう80歳。コロンビア大でのルイス・キャロル生誕100年の記念式典に招かれた彼女は英国からはるばる海を渡る。 下船する彼女をマスコミがとりかこみ、彼女は敢えて思い出さないようにしてきたドジソンの自分に対する特別な感情をよみがえらせ、心にさざ波がたつのを抑えられない。

彼が少女に特殊な執着をもっていたことは事実で、ヌードを含む少女の写真を数多く撮っている。ただし敬虔なカトリックの信者である彼は写真を撮影する際に必ず保護者の了解を得ていたという。
アリスはまだ幼く、ドジソン先生を父親の友人として以上の目でみることはないが、彼が自分に寄せる、他の姉妹に向けられたものとは違う感情を察している。

ある昼下がり、テムズ川を下るボートを漕ぎながら、ドジソンは目の前のアリスを黙ってみつめていた。アリスはそのまなざしに耐えきれず思わず彼の顔に水を浴びせかけてしまう。彼女はその頬にキスをして許しを乞い、ハンカチで濡れた顔を 拭いてやるのだが、その時のドジソン( Ian Holm)の至福の表情が印象的。その思い出を彼は永遠に忘れないようにと、即興でつくった物語を本にまとめ、最初の1冊をちょうど1年後、「あの金色の昼下がりの記念」としてアリスに贈る。 自分だけを見つめ、「髪の毛1本も変わってほしくない」とまで 讃美する彼を心のどこかでおそれている。だからこそ、吃音癖のある彼にわざと発音しにくい箇所のある歌をリクエストするなど、こどもならではの残酷な仕打ちも平気でする彼女であるが・・・。

老いて死期の近いことをさとった彼女は、封じ込めていた彼との思い出を徐々に解き放つ。彼が自分に寄せた愛情の深さを、当時知ることのできなかった彼からの贈り物のほんとうの価値を、彼女はようやく受け容れることができ、こころからの感謝の気持ちを記念スピーチで、彼女にはそこに感じるドジソン本人に伝えるのだ。

彼を笑い者にしたあと、姉が気づかって(姉妹は先生のアリスに対する感情を理解している)、『不思議の国のアリス』結びの文章を朗読する。こどもらしい豊かな心を保ち、あの幸福な夏の日々を喜びをもって思い出すことができるように、という彼の愛情あふれる言葉を聞いたアリスが、そっとドジソンに腕をまわして寄り添うシーンが美しい。

『不思議の国のアリス』に登場するさまざまな生き物たち(帽子屋、三月ウサギ、グリフォンなど)は Jim Henson チーム(『ダーク・クリスタル』)により製作された。 80歳のアリスと10歳のアリスが夢と現実を行き来する、また過去と現在、そして不思議の国の彼岸とも呼べる海岸が錯綜しながらドジソンとアリスの感情的な結び目を徐々にほぐしていく構成。

Ian Holm の底力。ドジソン先生をたいそう静かに、まなざしだけでその感情のすべてを表現している。80歳のアリスを演じるのは、Vincent Price 夫人だった Coral Brown 。アメリカでちゃっかり彼女のマネジメントをつとめる元新聞記者に、『セックスと嘘とビデオテープ』『ショート・カッツ』で相変わらず 濃い顔を披露している(でも好き)Peter Gallagher 。ドジソンが歌う水辺のシーンでほんのふたことながらセリフを喋る James Wilby もお見逃しなく。

まぼろしの市街戦 "King of Hearts" 1967年仏:フィリップ・ド・ブロカ監督
第一次世界大戦末期、パリの北に位置するある村。敗色濃いドイツ軍は、村をまるごと吹き飛ばすほどの時限爆弾を仕掛けて撤退する。 レジスタンスから通報を受けた英国軍のバイベンブルック大佐は、スコットランド小隊の通信兵プランピックにレジスタンスから爆弾のありかを聞き、撤去するよう命じる。
伝書鳩にシェークスピアを読んで聞かせるような夢想家のプランピックだが、たまたまフランス語が話せるというだけで捨て石同様に扱われる。上官の命令に逆らうこともかなわず、 しぶしぶ村に赴く。通報した当人はドイツ兵により射殺され、時限爆弾のことを知った村人は家財道具もそのままに逃げ出し、精神病院の患者たちとサーカスの動物たちが残された・・・。

ミシェル・セロー(『 Mr. レディ Mr. マダム 』)、ジャン=クロード・ブリアリミシュリーヌ・プレール(『 肉体の悪魔 』)、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドによる狂人達は、優雅で仕草のひとつひとつまで パントマイムをみているようにうつくしい。彼らはもぬけの殻となった村に住みつき、村人の残した衣装に身をつつみ、ごっこ遊びを楽しんでいる。僧正、床屋、侯爵夫妻、サーカスの団長、娼館のマダム、警視総監・・・。 プランピックは彼らに手を焼き、時限爆弾の仕掛けられた場所は杳として知れず、やけ気味になりながらも次第に彼らの、愛情豊かでひとを憎むことを知らない心に惹かれてゆく。

プランピックは狂人たちを救うため村の外に連れだそうとするが、彼らは村を離れようとしない。なんとか爆弾を処理し、村が救われたと思ったのもつかの間、戻ってきたドイツ軍と プランピックからの連絡が絶えた事にしびれをきらしてやってきた英国軍が鉢合わせをしてしまい、戦闘の末相討ちになる。
この愚かな姿を眺めていた狂人たちは、「よく遊んだ、さあ、帰ろう」と、衣装を脱ぎ、外の世界から自らの心をを守るかのように病院の内側から鍵をかける。
隊に戻ったプランピックは、「退去したら村を破壊する」と上官が話すのを聞いてしまう。
走り出すジープの中で彼の瞳が光る。彼は伝書鳩だけを連れ、生まれたままの姿で精神病院の呼び鈴を鳴らすのだった。

タイトルの「ハートのキング」とは、ドイツ兵に追われたプランピックが精神病院に逃げ込んだ際とっさにトランプ遊びの仲間に紛れ込み、貴様は誰だと問いつめられたときに 答えたカードの名前。転じて、狂人からは「王様」と慕われる彼の立場、そしてこの物語の真の主役・・・もっとも尊い心の持ち主・・・であるこの世界では「狂人」と呼ばれる患者たちの事を さす。プランピック役のアラン・ベイツは、鳩を携えた平和の使節を力強く演じている。
それにしても、前線で捨て石にされるのはやはりイングランドの兵ではなくてキルトを履いたスコティッシュなのだ。