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「三国志」「水滸伝」と中国の古典エンタメの翻案に取り組んできた著者が、我が国ではあまり知られていないが中国では前記二作と並ぶ人気を誇る作品に取り組んだもの。建国間もない宋を支える武人一族・楊家の活躍を描いた堂々たる歴史小説であり、文句なしのエンターティメント大作。三国志や水滸伝が好きな人なら本書も必読といえる。 時代は10世紀後半。北漢に仕えていた楊業は、その指揮官としての卓越した能力の故に、かえって主君の信頼を得られず、自らの能力を評価してくれた宋に帰順する。宋は建国の勢いをもって、北の強国・遼に支配されている燕雲十六省の奪還を図るが、騎馬戦を得意とする精強の兵でなる遼に対し、歩兵中心の宋の兵は脆弱。外様の将として譜代の将軍達から妬みを受けながらも、宋軍の先頭に立ち、遼に立ち向かう楊業と7人の息子。楊家の男達は、一人一人がキャラクターが異なるとはいえ、共通して武人としての美学とストイックさに満ちてる。読んでいてかなり痺れる。楊家のライバルである遼の名将「白き狼」耶律休哥も良い。楊家の息子達と耶律休哥との戦闘の駆け引きなども臨場感に富んでいて、手に汗握るものがある。 原典は五代に渡る楊家の活躍(苦闘)を描いているものらしいが、どうも原作にあたる「楊家将演義」の小説としての出来があまりよろしくないらしく、中国でも小説としてよりは京劇や講談で語り継がれてきたものらしい。著者も小説版の後半には感心していないようであり、意識的に第一、第二世代で話をとめたらしいので、続編はちょっと期待薄かもしれない。 |
フードファディズム(食べものが健康や病気に与える影響を過大又は過小に評価すること)についての優れた啓蒙書。健康に良いといわれる食べものについてはその根拠について疑問を呈し、逆に悪いといわれるものについては食べもの自体を悪者にするのではなくその特性を十分に踏まえて適切に利用すればよいと説く。科学的知見に基づくバランスのとれた記述が本書の特色である。
本書では、いわれてみれば当たり前のことであったり、科学的に根拠がないにもかかわらず根強く流布している風説などもについて指摘が行われている。例えば次のような事項である。
また、著者は、宣伝広告が消費者の誤解を誘うような形でなされている現状にも警鐘を鳴らしており、宣伝文句の「行間を読むな」と主張する。例えば、ある飲料について「脂肪・塩分・カロリーはさようなら」「カルシウム、マグネシウム、食物繊維は補給」との宣伝文句があった場合、実際にこの飲料のミネラル、食物繊維の含有量は微々たるものであるにもかかわらず、消費者は勝手にこの飲料を飲むと「さようなら(できる)」「補給(できる)」と(できる)を付加して読んでしまうが、このような勝手読みを行ってはいけないということである。また、別の例として、「バランス栄養食」と銘打たれた食品が実は脂肪比率が非常に高いことを示し、バランスのとれた食事代わりになると考えるのは問題であることを指摘する(ただし、一方で、この食品を「脂質が豊富に含まれている、ビタミンとミネラルが添加されたクッキー」と正しく認識して適切に摂取するのであれば一定の意義があることもキチンと触れているのが本書の良いところ) さらに、指摘されてある意味感心したのは、「栄養機能食品」制度を悪用した手口。「栄養機能食品」とはミネラル類5種類とビタミン類12種類のいずれかを一定の基準値を含んでいれば個別の認可なく「栄養機能食品」と表示できる制度であるが、例えば、基準値のビタミンを含有させて「栄養機能食品」と表示し、その隣に「クロレラ」や「大豆イソフラボン」といった表示をすれば、あたかも「クロレラ」や「大豆イソフラボン」の効果が一定の公的認証を得ているかのように誤解させることができるというもの。 以上、一部紹介したが、全編このような興味深い話題に満ちている。本書は、同じブルーバックスから以前に出ている「「食べもの情報」ウソ・ホント」の続編的なものであり、前著に比してやや栄養学解説的記述が多いので(難解さは全くないので理解は容易だが)、とっかかりとして前著から読んでもよいかもしれない。「思いっきりテレビ」や「あるある大事典」の視聴者に是非読んでもらいたい本である。 |
「産廃コネクション」で一躍脚光を浴びた千葉県の産廃Gメン、石渡氏の近著。「産廃・・・」から二年程の間に産業廃棄物を巡る社会状況が一変していることに驚かされる。主要な要因は中国経済の台頭である。リサイクルコストの観点から我が国では廃棄物でしかないものが、人件費の安い中国では資源として利用可能であり、その結果、「闇」のビジネスの世界でも不法投棄から中国向けの輸出へのシフトが急速に進んでいる。産廃も実体経済の一部であり、経済活動に関する知見を抜きにして産廃問題を論ずることはできないというのが従前からの著者の一貫した主張であり、本書においても著者の基本的視点は一貫している。 我が国では、2000年以降、容器包装リサイクル法、家電リサイクル法等の各種リサイクル法が次々に施行されるなど関連法制整備が進んでいる。末端消費者のリサイクル意識の向上ともあいまって、著者が「産廃・・・」でその必要性を提言していたリサイクル制度の整備が一見進んでいるかのようにみえる。しかし、著者は、一連の法制度整備自体については一定の評価を与えつつも、その制度内容が実体経済の状況、特に中国経済の台頭に伴う産廃の流通の変化を十分に反映しておらず、逆に規制によって経済原理にそぐわない流通が強いられることとなる結果、非効率な高コスト構造やそれを利用した法潜脱の動きが生じており、そのことがリサイクルシステムの崩壊の危機を招いていることを指摘する。また、法制度が内包する中央集権的全国一律制度と自治体が抱える地域毎に異なるリサイクル現場の実態との間に差違があり地方離脱的な動きを誘発する原因となっていること、各種行政機関(経済産業省、環境省などの中央官庁、地方自治体)が設けている(あるいは設けようとしている)各種制度が必ずしも統一的な制度設計・運用になっていないこと、経済産業省VS環境省をはじめとする行政機関相互間の主導権争いがあること、などがいずれも効果的なリサイクルを阻害する要因となっており、最終的に消費者が不利益を被っていることも指摘する。 「産廃...」ではアングラビジネスの実態を描くことに力点が置かれていたが、本書は「アンダーグラウンド」という表題になっているものの、上記のように制度面の問題に重点が置かれた構成となっている。もちろん、リサイクルについては一定の法規制により、外部性まで視野に入れて単純な市場原理に基づくものではない行動をとることを関係者に求めなければならない部分もあり、漫然と実態経済に追随すればよいというものではない。また、法制度には可変性とと同時に安定性も求められるものであり、あまりに短い射程の経済実態のみを考慮して法制度を整備することが必ずしも適切であるとは思えない。実体経済の動きは目まぐるしく変わり得るものであり、本書において著者も触れていることだが、中国との関係においてもいつまでも日本からの産廃の出超という状況が続く保証はない。しかし、少なくとも現在の制度の在りように種々の問題があるとの著者の指摘は、本書を読む限りにおいて相当程度説得力があるように思える。関係する行政機関の見解、特に直ちに施行することは「国家的詐欺」とまで書かれている自動車リサイクル法についての経済産業省の見解などを是非聞いてみたいところである。 |
日本では「黒人選手は生まれつき足腰のバネが強い」とか「黒人は日本人に比べてリズム感がいい」とか言っても、特段の違和感なく受け止められる。しかし、黒人の肉体的優位性を社会的環境(nurture)ではなく、遺伝的特性(nature)に求める言説は米国社会においてはタブーである。このような言説は、かつて黒人差別の歴史の中で展開されてきた"肉体的優位性>野生に近い存在>知的劣位性"という思想を依然として内包するものとみなされるからである。本書は、「Taboo: Why Black Athletes Dominate Sports and Why We're Afraid to Talk About It ?」という原題が示すように、このタブーに挑戦したものである。著者は、黒人の肉体的優位性について遺伝的特性としての要素を全く排除することは合理的な思考ではなく、過去の歴史に影響された社会的抑圧を離れ冷静な議論を行うべきことを主張する。 取材は非常に丹念になされており、示されるデータと論理展開には説得力がある。例えば、長距離のトップレベルの選手は東アフリカ、しかもその多くはケニアのごく狭い特定の地域の出身者が占めている(逆にこの地域からは短距離のトップレベルの選手は排出されない)ことは、この地域の社会的環境がアフリカの他の地域と比べて顕著に異なる要素はないこと、地域住民の流動性が高くないこと等と重ね合わせると、何らかの遺伝的要素が関与している可能性が高いという結論は素直に首肯できるものがある。もっとも、詳細に見ると遺伝生物学的な掘り下げは薄く、疫学的又は社会学的な状況証拠の集積という面はあるのだが、これは事柄の性格上やむを得ない部分はある。白人の著者が米国社会において本書のような作品を書くことについて様々なプレッシャーがあったであろうことは容易に想像できるのだが、その徹頭徹尾ジャーナリスティックな姿勢は敬服に値する。 ところで、本書の問題提起をさらに一歩押し進めれば、「遺伝によって肉体的能力に差違があるのであれば、知的能力についても差違がありうるのではないか?」という議論が当然でてきうる。この点については、おそらくは、「知的能力」という概念が「運動能力」以上に社会的価値判断に密接に関係するものであるだけに、"タブー"を押し切って議論を行うことにはより慎重な姿勢が求められるだろう。少なくとも、現時点では、「知的能力」と「遺伝と環境」の関係について冷静な議論ができるほど我々の社会は成熟していないことは確かである。 |
舞台はいつもの仙台ではなくて一応東京なのだが、実際の東京というよりは「東京」と名付けられた人為的空間で展開される物語のようだ。亡き妻の思い出を支えに妻の復讐を試みようとする鈴木だけは一般人であるが、他の登場人物は「自殺屋」「押し屋」など一風変わった殺し屋、あるいは職種はともかく危ない業界の人々。一般人が特殊な世界に入り、とまどい、危機に陥りながら何とか切り抜けるという形式だけからいえば「オーデュボンの祈り」に近いともいえる。登場人物も、例えば「押し屋」は「優午」に似ていたりというように、他の作品のキャラクターを多少引きずっている(もっとも、同じ著者なのである意味当然ではあるが)。ただ、自分が自殺に追いやった者の亡霊に悩まされる「自殺屋」という設定は、これまでの伊坂作品にはなかったキャラクターでおもしろい。愛読書が「罪と罰」という設定はがややあざとい気もするが。 個々の場面場面の登場人物の台詞回しなどは、クールでスタイリッシュな伊坂調。ただし、全体としてはこれまでの作品に比べてずっとドライでざらついたテイストがある。これまでの作品と比較すると、印象がかなり異なり最初少し違和感があるが、仮にこの本を初読だと仮定すれば独特の雰囲気で悪くないともいえる。著者なりの新しい試みなのかもしれないが、評価はちょっと時間をおきたい気もする。 なお、様々に引いた伏線を統合して物語を収束させていく手法は著者にとって自家薬籠中のものといったところだろうが、相変わらずうまいとは思うものの、伏線の引き方や収束のさせ方が今回はやや強引な印象を受ける。 |
日韓両国間で領有問題の対象となっている竹島(韓国名:独島)について、江戸時代にまでさかのぼり、記録・文献を丹念にあたって、問題の発生した起源とその後の展開及び、日韓両国の主張などを丹念に解説した労作。本書によれば日本の主張の方が正当なものであるのはほぼ明らかだが、だからといって韓国が納得するわけではないのが領土問題の難しいところ。おそらく、同様の本を韓国側でかけば、本書では信用性が薄いとされている韓国側の記録と日本側の記録の信用性評価が逆転するであろうことはほぼ確実。 「日本側の歴史の捏造云々」といった主張も出てきかねないのは日韓論争の常。政治問題の中でも領土問題は最もセンシティブであり、理屈での解決は難しいだろう。とはいえ理論武装は必要。本書の内容を読むと竹島問題の経緯は、竹島問題と並んでよく取りあげられる日本海−東海問題(「『日本海』という名称は日帝併合時代に押しつけられた名称だから『東海』にすべき」という全く根拠のない噴飯ものの主張)と比較して結構複雑なので、もし韓国人と論争しなければならないようなときに備えて、一読しておくのは無駄ではないだろう。 |
ピアノ調律業界の内幕ものだが、全く未知の世界の話だったので興味深く読めた。 本書の著者の一人である高木クラヴィアの社長である高木裕氏の半生記仕立てだが、その中心をなすのは高木氏と松尾楽器商会(本書中では「松葉楽器(仮称)」とされている)との軋轢の顛末。そもそもスタインウェイにはニューヨークとハンブルグの二系統があるのだが(本書を読んではじめて知った)、スタインウェイの世界戦略上日本はハンブルク・スタインウェイの市場とされており、その総代理店(当時)である松尾楽器がハンブルク系統のスタインウェイの独占的輸入・販売と納入したピアノの調律サービスを一手に握っていた。高木氏は、ニューヨーク系統のスタインウェイの音色に惹かれ、努力の末ニューヨーク・スタインウェイ社とコネクションを築き、ニューヨーク・スタインウェイの個人輸入とコンサートホールへの持ち込み調律という新しいサービスを初めたところ、松尾楽器から陰に陽に妨害受けたがこれに負けず、日本の音楽界に確固とした地歩を築いたというもの。 ピアノという商品だけに着目すれば、総代理店による並行輸入業者の妨害というある意味典型的な事例であるが、ニューヨーク系統のスタインウェイの導入だけにとどまらず、ピアノ調律の世界に「持ち込み調律」という新しいサービスを導入したことが高木氏の功績、。コンサートホール備え付けのピアノはどのような最高のピアノであっても、初めて弾くピアニストにとっては慣れない楽器にしかすぎず、一流のピアニストにとっては、自分の好みにあった、自由にコントロールが効くピアノこそが最高のピアノであり、ピアニストが慣れ親しんだピアノを持ち込み、そこで最適の調律状態にするのが最高の音楽を産むことにつながるという高木氏の考え方は一理あるものといえる。 本書の高木vs松尾の顛末は、全面的に高木氏の側に立って書かれているので、松尾楽器商会側の言い分もあり得るところだろうが、松尾楽器商会が平成8年に公取委から不公正取引で勧告を受けているのは事実なので、本書の内容にはそれなりの信憑性はあると考えられる(なお、この勧告自体は、高木氏以外の業者の並行輸入に関するものも含め複数の事案をまとめて取り扱っている)。 高木氏がニューヨークのスタインウェイ社に単身趣き、そこのピアノ調律師フランツ・モーア氏をはじめとする親交を結ぶに至る部分も興味深い。モーアをはじめとする調律師達のピアノに対する真摯な態度には強い印象を受ける。 本書の直接の執筆は、共著者のもう一方であるノンフィクションライターの大山氏だが、全体としてかなり週刊誌的な仕上がりとなっている。リーダビリティという点ではこういう書き方もあるのかもしれないが、もう少し品格のある表現を試みた方がよかったように思う。また、取材が薄いと思われる点も目につく。特にスタインウェイ社の買収劇を巡る顛末は事柄の性格上詳しくはかけないことは理解できるが、これはこれで興味を惹かれる話題であり、取りあげる以上もう一歩深みのある記述が欲しかった。高木氏のピアノ調律に取り組む姿勢に共感を覚えるだけに、さらに厚みのある取材を行い、より冷静な筆致で記述したほうが、高木氏のためにもよかったのではないかと感じる。 なお、本書を巡っては、本書内で批判的に取りあげられ人物によるとみられる高木氏を厳しく批判する内容の書評が各種書評サイトに書き込まれており、これに対して高木氏側が法的措置をとったことが上記の高木クラヴィアのサイトに書かれている。問題となった書評は書き込んだ本人によりかなり削除されたようだが、本人が削除できない仕組みのサイトではいまだに掲載されている(例えば、最も目に触れやすいAMAZONの同書のレビューではこの批判書き込みを読むことができる)。 |
人の老後は中年時期にやってくる危機(ミッドライフ・クライシス)を如何に乗り切るかで決まるというのが本書の基本思想。この思想自体、必ずしも一般化できないような気もするのだが、著者の描くところの英国社会の実相をみる限りにおいて、なるほどなと思わせる面はある。本書は、冒頭で主題(ミドクラの実態とその乗り切り方)を提示し、これに沿って英国社会の様々な様相を論じていくという構成をとっている。全体として、かなり社会評論的な色彩が前面にでており、同じく英国社会を論じていてもこれまでの3冊のエッセイとは相当趣が異なっている。著者の達者な描写力もあり、これはこれで興味深い内容に仕上がってはいるが、私は評論的な要素を強く出さない方が著者の持ち味がよりいかされるのではないかと思っており、この意味で本書についてはやや評価は辛めである。 なお、書名もあまりよろしくない。著者は英国社会についての論客だが、日本について論じているわけではない。こういうステロタイプのタイトルは、はやりに便乗した安直な比較文化本との印象を与えかねず、この著者の良さをかえって損なっている。書名については、著者も同意しているにせよ、編集者の責任が大きいと思う。 |
茅田 砂胡 (中公文庫) | ||
(感想はシリーズ終了後にまとめて記載予定) |