著者は、我が国において、環境リスク評価という新しい分野を開拓してきた第一人者。本書は、その基本的な考え方をコンパクトにまとめた優れた啓蒙書である。高邁な思想と高度な内容が誰にも理解できる平易な言葉で書かれている。現代社会に生きるすべての人が読む価値がある本である。
全体は5章構成。第1章は、今春、著者が横浜国大を退官する際の最終講義の再録。下水道問題から出発し、水循環の促進という問題意識からリスク研究に踏み込んだ経緯と現在に至るまでの展開が、その時々の具体的事例の説明とともに語られる。我が国の環境リスク学の発展の歴史であると同時に、孤立にも圧力にも負けず、前人のいない世界を切り開き、さらに進み続けようとする一人の学者の歴史でもある。淡々とした記述だが、読んでいて感動を覚える。著者の思想・行動の核となっている個人史にも触れられており興味深い。 第2章は、リスク評価の基本的考え方を解説するQ&A。リスク評価について、その歴史、意義、批判とそれに対する考え方等多角的な観点から、著者の経験と思想に則した説明がなされている。肯定的側面だけではなく、内包する課題も含めて、リスク評価について鳥瞰できる有益な入門編になっている。 第3章は環境ホルモン。1998年に著者が雑誌に発表した論考の再録であるが、発表当時は環境ホルモンをめぐって社会的に大きな騒ぎになっていたことを思い起こすと、当時からその危険性の過大評価を疑問視していた著者の見識の確かさと、その基盤となっているリスク評価思考の有効性が確認できる。 第4章はBSE問題。本章も雑誌に発表した論考の再録だが、発表時点は今春。まさに現在進行形の問題に関する提言。本稿において、著者は全頭検査に対し強い疑問を提起する。著者が提示する「検査率をあげてもリスクは減らない」という結論は、一見すると常識に反するものだが、この結論を導いた思考プロセスは誰にでも検証が可能な形で提示されていることが重要。著者がここで問うているのは、科学的検証の努力が不十分なまま、漠然とした社会不安に漫然と追随する形で過大なコストを要する政策を継続することの合理性の是非である。おりしも、月齢20ヶ月以下の牛を対象とする全頭検査の緩和の議論が行われている中、改めて読まれるべき論考である。 第5章は、著者が自身のサイトに連載している「雑感」から抜粋・加筆したもの。普段意識していないものも含め我々の社会が実に多様なリスクを抱えていることを今更のように思い知らされる。と同時に、新たなリスクを提示された場合にも、リスク評価というツールを用いることにより、過度な不安に陥ることなく、思考・行動に一定の足がかりが得られることが示されている。 本書では、リスク評価には、現時点では多くの課題と限界があることは率直に示されている。しかし、にもかかわらず、リスク評価というツールが、「不安としてのリスク」と「実態としてのリスク」のギャップを埋めるものであり社会的資源の適正な配分に資するものであること、政策決定に際して誰でも参加できる議論の基盤となり得るものであり国民の責任ある社会参画意識の涵養につながるものであること等が強い説得力を持って伝わってくる。換言すれば、リスク評価は、様々な問題の解決に際して必ずしも明確な解答を示してくれるものではないかもしれないが、雑多な情報に振り回されることなく、その時々において各自の思考と行動について大きな方向性を決める手がかりとして強力なツールであり、まさに本書の副題が示すように「不安の海の羅針盤」といえるものであることが理解できるのである。 【上記と同趣旨の文章をオンライン書店bk1に書評として投稿しています。】 |
「反***」というタイトルは逆説的な意味であることが多いが本書も同様である。中味は極めて正統な社会学本といってよい。世間に流布している社会学の衣をまとった一見もっともらしい「常識」について、その根拠や内容がいかにあやふやなものであるかを、著者は様々な統計データ等を駆使しながら批判していく。筆致は軽妙かつ挑発的で、読み物としてもなかなか楽しい。
取りあげられているテーマは「少年の凶悪犯罪」「パラサイトシングル」「フリーター」「少子化」等々多岐にわたる。これら一般的には大きな社会問題とみなされている事象が、著者の手にかかると、全く別の様相をもって立ち顕れてくる。 例えば、「キレやすいのは誰だ」と題する章では、最近10年間の犯罪動向に基づき「少年犯罪が急増している」という「常識」について、より長期の統計データを示すことにより、戦後少年の凶悪犯罪が最も多かったのは昭和30年代であることを示し、その数分の一のレベルで推移していることを隠したまま最近10年間のみを切り出して「少年犯罪の急増」という取りあげ方をするのは一種の捏造であることを指摘する。さらに進んで、犯罪統計からみる限り「戦後最もキレやすかったのは、昭和35年の17歳」、すなわち現在の50代・60代の人間であり、まさに少年の危険性を声高に叫んでいる当人達の方こそが危険なのではないかと皮肉たっぷりに結論づける。 他のテーマについても同様であり、各章毎に「今回のまとめ」として、既存の「常識」を完全に転倒させるような結論を導いていくのだが、この「まとめ」を導く過程において、著者は統計データ等に依拠しつつも、その解釈において正攻法の論理と飛躍した論理(あるいは詭弁ともとれる論理)とをないまぜにして用いている。(例えば、最近10年間のデータのみを用いるのは不適当というのは真っ当な論理だが、昭和30年代に少年犯罪の件数が多いことを以て、人格的危険性(キレやすさ)を当該世代の人間全体の特徴として論を進めるのは飛躍した論理といえる。) もちろん、このような混交した論理の使用と極端な結論の導出は意図的なものであろう。著者の主張に安易に賛同するのではなく、問題の所在と解決の方向性を自らの頭で改めて考えてみる方向に読者を誘導するための一つの工夫とみるべきである。 上述の例に戻れば、最近10年間のみのデータにより少年犯罪の急増を論じることの不適切さを認識することは極めて重要であるが、その認識の上に立って「だから少年法の強化等をはじめとする少年犯罪対策の在り方は疑問」という立場もありうるし、逆に「昭和30年代と比べると少ないとしても、やはり過去10年間の少年犯罪増加傾向は看過できず何らかの対策強化は必要」という考え方もありうる。要は、流布している「常識」やあるいは他者の意見などを漫然と鵜呑みにせず、考え得る様々な角度から自分なりに十分に分析・評価を行った上で、自らのスタンスを決定していくというプロセスこそが重要なのである。本書の内包しているメッセージもおそらくはそこにある。 なお、本書は、一年くらい前からネット上で話題を呼んでいた「スタンダード反社会学講座」の書籍化。ネット上の連載は今でも随時更新されている。著者の正体についてもネット連載当初からあれこれいわれているが、こういう詮索は野暮であり、その芸風を楽しむべきものだろう。 【上記と同趣旨の文章をオンライン書店bk1に書評として投稿しています。】 |
広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 スティーヴン・ウェッブ著・松浦俊輔訳 出版社 青土社 発売日 2004.07 価格 ¥ 2,940(¥ 2,800) ISBN 479176126X bk1で詳しく見る |
地球外における知的生命体や文明の存在を探査する試みのことを通常「SETI」と称している。"Search for Extraterrestrial Intelligence"の略である。1960年に米国の天文学者フランク・ドレイクによる「オズマ計画」が行われて以来、世界の様々な機関によるSETIプロジェクトの数は数十に上り、いくつかは現在も継続中である。最近では、膨大なリソースを必要とする宇宙からの信号解析に有志のボランティアを募り分散コンピューティングによって対処しようとするSETI@homeプロジェクトが大きな関心を集め、参加者は全世界で数百万人にのぼっている。しかし、このような半世紀近くにわたる多様な試みにもかかわらず、現在にいたるまで、地球外生命・文明が存在することを示す信頼のおける証跡は発見されていない。 ここで出てくるのが「地球外知的生命体がいるのなら、なぜ我々は彼らにコンタクトできていないのか?」という問いである。この問いを一般に広めた20世紀を代表する物理学者エンリコ・フェルミの名をとって、一般に<フェルミ・パラドックス>と呼ばれている。 本書は、フェルミ・パラドックスについてこれまでに述べられた様々な説について、物理学者である著者の目から見て興味深いと思われるものを【実は来ている】、【存在するがまだ連絡がない】、【存在しない】の三通りに分類し、解説を付して紹介するものである。取りあげられている「解」は、可能性がゼロに等しいものから、現時点ではかなり有力と思われているものまで多岐にわたる。いくつか並べてみる。
【実は来ている】 このような「解」が49通り、それに著者自身の考えを加えた合計50の「解」が取りあげられているのだが、それぞれの解に付されている解説のカバーする領域が半端ではない。数学、生物学、地質学、宇宙物理学、言語学、進化論、科学哲学、果てはSFにいたるまで驚くほど広範囲な分野の知見にも触れることができる。それだけでも知的好奇心を刺激されること請け合いである。また、このようにある問題を設定し可能性を一つ一つつぶしていくというプロセスそれ自体が一種の知的遊戯であり極めて楽しいものである。本書の場合、問題設定自体が魅力的で、かつ多様な解答が引き出せる深遠な内容を含んでいることから、この楽しさもひとしおである。本書を読み終わって、自分なりの「解」を考えてみるのもよいかもしれない。サイエンス・ノンフィクションが好きな人には強くお勧めである。 |