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お名前: ボナンザ
最近、チャクラが出た「金曜娯楽館」のビデオを見る機会がありました。
ムーン・ライダーズやヒカシューと競演していた1980.7.25に放送されたものですが、
私の見たのはチャクラがゲストとして単独で出ていた物でした。
「福の種」と「先生」を演奏していましたが、7.25以前なのか、それ以後なのかはわかりませんが、
面白いバンドだなと思ってレコード屋に買いにいったら置いてあったので、
多分デビューしてすぐの頃だと思います。
あれから20年過ぎても記憶に残っているってことは、衝撃的なことだったのですね。
[2004/02/09 20:02:46]
お名前: no12
私も金曜娯楽館が美潮さんとの出会いでした。すぐさまレコードを買いカセットテープに録り仕事の行き帰り車の中で聴きまくりました。
ただそのころはライブハウスというものの存在そのものを知らず、その存在を知った時の驚きと喜び。
81年7月2日いざ新宿loftへ!
[2003/11/11 23:32:43]
お名前: akisy(家主)
「美潮さんとの出会い・しょの3」
そうこうするうちに,うずまきまずうや美潮さんのソロライブをジロキチ辺りで観る機会が増えてきました。
そして,”いざ高山へ”(正確には清見村)ということになったわけです。
高山合宿ライブについては,本サイトでもリポートしているので,概要は省略するとして,その前の話しを少し。
今はなきパソコン通信のPC-VANのMUSIC*SIGの掲示板にて,小川美潮不完全版ディスコグラフィーみたいなものを
連載しました。
何でこんなのを書き込んだのか忘れましたが,たぶん"4 To 3"以前の美潮さんの活動を知らない人に,
聴いて貰いたかったり,再評価して貰いたかったりしたかったからでしょう。
これは結局現在の”まだ・・・”の原型になりました。ちゅうか,ほとんど同じです(^^;
美潮ディスコグラフィーをUPしてから,何故かPC-VAN以外の人からメールを貰いました。
Largoさんとかですね。NIFTYの美潮パティオの関係者から参加のお誘いがあったのでした。
NIFTYは既に入会していたので,パティオにもすぐに参加しましたが,あまり活発に書き込んだりすることはなく,
そのうちにやめてしまいました。コアすぎたのかな〜 VANと両方維持するのは面倒だったのかもしれません。
実はPC-VANやNIFTYなどのパソ通つながりの人達と,高山合宿ライブで知り合った人達とは,ほとんど接点がありません。
どうしてなのか,よくわかりません。
高山での体験は今になってみるとけっこう衝撃的でした。
あのとき知り合った人達の多くとは,いまでも交流があります。
また,初めて美潮さんと落ち着いてお話ししたわけです。あのときの印象と今の印象と,美潮さんはまったく同じです。
今時あんなにナチュラルで,正直(に感じられる?)人はいません。
何となく気むずかしい人が多いと思っていた,ミュージシャンのことを根底から覆してくれました。
また,ライブが終わった後,出演者を出待ちする取り巻き連中を気味悪く思っていたのですが,自分がそうなるとは,
思ってもいませんでした。
人生何が起こるか分からない。高山はその発端なのでした。
しょの4に続くかもしんない・・・
[2003/10/12 22:42:44]
お名前: akisy(家主)
「美潮さんとの出会い・余録」
茨城の職場バンドが練習していた公民館は,管理人が同じ会社の人だったので,タダで使わせてもらいました。
正式な名前もないこのヘタッピなバンドのレパートリーは,イーグルスとかビートルズとかルーモアとか,
ポリスとかキッスとかツェッペリンとか,エンケンとか,まあ,テキトーなもんでした。
このいい加減なバンドの練習を時々見に来ていたアホがいまして,それは管理人のお子さん達でした。
そのうちの男の子の方は,後に尾崎豊のツアーのミキサーになったと,聞きました。
あの壮絶なヘタッピ・バンドも何らかの影響を与えたのでしょうか?(んなわけない)
尾崎豊が亡くなって,彼も田舎に戻ってきたらしい。
あぁ,遠い昔の話だな〜
[2003/09/29 16:58:44]
お名前: akisy(家主)
「美潮さんとの出会い・しょの2」
その後,Wha-ha-ha-やソロアルバムの小川美潮などはフォローしましたが,80年代は仕事や東京に出て行く
金がなかったりして,結局ライブには一度も行くことはありませんでした。
チャクラのライブを観る機会を得なかったことは,一生の不覚であります。
そうこうしているうち,メディアに美潮さんのことが載ることは希になってしまい,私の中では美潮さんの存在は
とても大きかったので,どうしてるんだろう?といつも思っていました。
そして,とうとう[4 to 3]を引っさげて,美潮さんは颯爽と表舞台に復活したのでしたのでした。
待ちに待ったこのアルバムは,期待に違わぬ大傑作でした。
しかし,最初に聴いた時にはかなり違和感を覚えました。
何故かというと,「お笑いがない」からです。
エッ! どうしちゃったの? という印象を覚えました。
美潮さんのライブ映像を記録した”はにわオールスターズ”もなかなか笑えるパフォーマンスでしたので,
[4 to 3]は,あまりに生真面目に思えました。
しかし,お笑いがなくても,このアルバムは聴けば聴くほどにスルメの様に出汁が利いてくる様な味わい深い
作品でした。
美潮はお笑いがなくても凄い! と感動し,チャクラ時代にライブに行けなかった思いを取り戻すために,
ツアーは全て見にいくようになりました。
ソニー在籍当時のライブの印象は,サイトにも書き込んでいます。
美潮さんのライブは,いつも「完璧に素晴らしい」という印象を持つことはありませんでした。
しかし,この完璧に素晴らしいワケではないと言う部分は,常に次ぎの機会に期待を抱かせるものだったし,
逆に細かな部分でも,常に予想と違う新しい発見がありました。
だからこそ,今までずーっとライブを見続けているのかもしれません。
・・・しょの3に続く・・・
[2003/09/21 21:34:25]
お名前: akisy(家主)
「美潮さんとの出会い・しょの1」
akisyが美潮さんの歌を初めて聴いたのは,金曜娯楽館でした。
茨城の職場に就職したばかりの年,職場の仲間とにわか仕立てのバンドをでっちあげ,毎週金曜日に近くの公民館を
タダで借りて,練習していました。ちなみに,ベース担当でした(^^;
公民館は夜10時前に閉められ,普段だったら飲み屋に出向くところですが,その日はたまたま先輩の家に上がって,
バンド仲間とテレビを観てました。貧乏な新入社員だった私は,ベースを買えても,テレビは買えず,まだ自宅にはなかったのです。
当時YMOがテクノとして売れ始めていたときで,金曜娯楽館は日本のテクノ?バンドを何組か招いて紹介していました。
チャクラの演奏が始まり,私達の目は釘付けになりました。
特に森昌子の「先生」のカバーにはぶっとびました。
これは凄い奴らが出てきたと,特にそのセンスには心底感動しました。
翌日鹿島市のレコード屋に出向くと,あるではありませんか。あの中国服のジャケットが目に入りました。
帯掛けに書かれた矢野誠プロデュースの文字を見つけ,即座に購入した次第です。
アルバム「チャクラ」の印象は,当時のakisyの日記に残されており,「ふっきれた感じがする」となっていました。
ともあれ,以来20年以上に渡って,小川美潮さんはフェバリット・アーティストになったわけです。
あの夜,先輩の家でテレビを観ていなかったら,へたくそなバンドをやっていなければ,きっと美潮さんにも
出会っていなかったでしょう。
「全ては偶然」「全ては必然」「全ては運命?」
[2003/09/17 22:01:54]
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