SAN-SYOKU-TEI
 
 
 
 
 

 
 
MESSANGER

 

 


 
ふわっと夜気が、部屋のカーテンを巻き上げた。
どこかねっとりとした空気が、気怠く部屋の中に振りまかれる。
あたしは、ある気配を感じて、ふと視線をあげた。
明かりすらつけていない部屋の中は、
鋭い月の光以外、照らすものはない。
だが、それは、目で見るよりもはっきりと感じ取れる気配だった。
部屋に満ちているこの闇よりも、まだなお昏い闇───。
「何の用? ゼロス」
あたしは緩やかに問いかける。
影が、闇の中から一歩を踏み出した。
いやになるほど見慣れた黒い神官衣が、銀色の光のなかにぼんやりと浮かび上がる。
「面白かったでしょう。リナさん」
ゆったりと影が囁いた。
「何が?」
あたしは鋭くゼロスを見る。
佇むゼロスのその表情は、影になってあたしから見ることはできない。
でも、判るような気がした───見えなくても。
きっと、彼は笑っているのだろう。
───あの───いつもの笑みを浮かべて───。
ぎりっと鈍い音がした。
それが、自分の手が椅子の背を握りしめる音だと───あたしはしばらく気づけなかった。
「何が───あんたに、何が判るっていうの?」
問いかける声が、僅かに掠れた。
目を閉じるまでもなく、その記憶は脳裏に浮かんでくる。
あれは、忘れてしまうにはあまりにも痛すぎた。
今でも───あたしははっきりと覚えている。
力を失い、頽れていく彼女の体や、それを支えていた彼の表情。
そして、欠片すら残さず消えてしまった彼の───あの想いも。
あたしは、それを確かに見ていた。
でも、あたしにできたのは、結局───。
あたしは、ゼロスをきつく見据えた。
ゼロスが無邪気な表情で首を傾げる。
「僕に何が判るか───ってことですか?
判っていますよ。人というものが、いかに脆いものか、ということは。
───それはあなたにだって判ってるでしょう───?」
その囁きは、辺りを包む闇のようにねっとりと甘い。
「人というものが、どれほどたやすく誘惑されるか。そして、いかにたやすく堕ちていくのか───」
「───違う───」
あたしはゼロスの言葉を遮った。
「人が脆い訳じゃない。
あれは起こらずに済んだはずのことだった───あんたたちが何もしなければ」
「おやおや」
ゼロスがあきれたように笑ってあたしを見た。
軽く肩をすくめてみせる。
「私たちが一体何をしたと言うんです? 私たちは、ただ、囁いただけじゃないですか。
己の望むことをせよ、と。
その結果がどうあれ───それは彼らの望みです。
彼ら自身が望んだ選択です。
自分のしたいことをした───。
ただそれだけのことが、何故、いけないんです?」
「いけなくは───ないのかもしれないわ。でも、あんたたちが変なことをしなければ───」
「それがなければ、『彼』が魔王になることもなく、あなたは今より、もっと平和な気持ちでいられた」
くくっと低い声でゼロスが笑う。
「ご友人をその手に掛けることもなく、そして───」
闇より昏い双眸があたしを見る。
「そして、あなたもイヤなことを思い出さずにすんだ。
そうそう。あなたも昔、滅ぼところだったんですよね───この世界を───」
「───ゼロス───」
あたしの声は低く掠れていた。
「貴女には、それだけの力がある。
そして、動機も───」
ゼロスの囁きがあしの髪を嬲る。
「あなたも、既に『彼』が越えた一線を越えている。
どうですか? あれは甘美な想いではありませんでしたか?
自分の大切なもののために全てを───世界すらなげうって。
あなたは意思が強い。どんなものでしょうね。あなたの絶望の味は───ねえ?」
ぱしんと、あたしは肩に伸ばされてきたゼロスの手を振り払った。
「『デモンスレイヤー』、リナ=インバース………」
「そんなのはあたしの名前じゃないわ」
きつく、あたしはゼロスを睨み付ける。
「でも、もし、あんたたちがまた余計な手出しをしてくるようなら───」
「おや。これは手厳しい」
ゼロスはふわりとその黒い神官衣を舞わせて飛び退いた。
「では、そろそろお邪魔虫は退散するといたしましょうか。
どうやらあなたの相方もそろそろお戻りになるようだ」
そして、嫌みなくらい優雅に一揖する。
「どうぞ、ゆっくりと時をお過ごしください───甘美な時を。
そして───」
そう言って昏くゼロスが笑む。
「そう、そして───いずれまたお会いしましょう。リナさん。
───いずれ───ね」
「二度と会いたくないわ」
あたしの声に、低い笑い声が応えた。
ふわりと、カーテンの揺れる気配がして、闇だけが後に残される。
あたしは緩やかに首を振った。
そのまま、どれくらい佇んでいたのだろう。
ドアの外からノックの音がする。
そして、とても慣れ親しんだ声が。
あたしはそれに答えるために、ゆっくりと戸口へと向かった。
 
 

  

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