下弦の月

kyo

 

 
俺はゆっくりとグラスを傾けていた。
ここは宿としてはよくある作りで、2階が宿屋、1階が食堂兼酒場になっていた。
しばらく前までここも人でごった返していたが、
こういった村の朝は早い。
夜明けと共に起き出す人々は、とっくに夢路を辿っているはずの時間だった。
早々と店じまいしてしまった店内に、もう、俺以外の人影はない。
女性陣二人も、とっとと部屋に引き上げてしまっている。
そして、もう一人の連れは───今、ここにはいなかった。
手酌でグラスに酒を注ぐ。
芳醇な香りを漂わせ、琥珀色の液体がグラスに満ちた。
俺は何となく、あるものを待っていた。
ほどなく、かたかたという小さな足音が聞こえ、ひょいっと栗色の頭が酒場を覗き込んだ。
「あれ? なんだ、ゼル。起きてたの?」
姿を現したのは、リナだった。
「ああ、ちょっと………な」
片手に持ったグラスを示してやると、納得したようにリナが頷いた。
そのまま、リナは立ち止まって黙ってこちらを見ていた。
俺もそのまま黙ってグラスを傾ける。
やがて、かたんと俺の目の前の椅子が引かれ、リナはそこに腰掛けた。
「飲むか?」
「ん………? そうね」
リナが気のない視線をグラスに向けた。
物憂げに髪を掻き上げる動作は、普段の言動からは感じられない色香がある。
「………やっぱ、止めとこうかなあ………」
リナの言葉にかまわず、グラスに酒を注ぎ分ける。
氷を浮かべ、軽くステアしたグラスを渡すと、リナはしばらく黙っていたが、結局受け取った。
渡したグラスを、リナは両手で包み込むように持った。
その視線は見るともなしに。
「一人で飲んでたの? ゼル」
「まあ、な」
リナが来るのを待っていた、とは言えなかった。
それも、ただ、何となくそういう気がしたから、だとは。
リナは手にしたグラスにほとんど口をつけなかった。
そのまましばらく、グラスに氷の触れあう音だけを聞く。
「勝つさ」
その台詞は、ふと俺の口からこぼれ落ちた。
「え?」
リナがびっくりしたように顔を上げる。
「『戦うからには絶対勝つ』………お前さんの台詞だったろう?」
「よく覚えてたわね」
リナが苦笑に近い表情を浮かべる。
「あれは、忘れられんな」
それは、俺達が出会うきっかけとなったある事件でリナが口にした台詞だった。
万に一つも生還する望みなどないはずの戦い。
俺はそう思っていたし、それは旦那だって同じだっただろう。
だが、こいつは、それを十分承知したうえで、あの台詞を口にしたのだ。
その時から、俺の中で何かが変わったような気がした。
それは、旦那も同じだろう。
リナを見ている旦那の態度を見ていると、それがわかる。
俺はリナに判らないようにそっとため息をついた。
ふと、自分たちの置かれている今の状況を思い出したからだ。
リナは、手の中のグラスをもてあそんでいる。
ただ一点に注がれたその視線に、いつもの生彩はない。
俺は迷った末に、ある台詞を口にした。
「………だから………」
「え?」
ぼんやりしていたリナが、ふと顔を上げた。
「だから………」
その先の言葉を言うのに、一瞬迷う。
俺が口にしていいのかどうかが判らない。
「………旦那はきっと大丈夫だから」
「やだなあ」
リナが苦笑した。
その表情が、ふっと今にも泣き出しそうに見える。
だが、それは一瞬で消えた。
リナは、いつもの表情でグラスを掲げると、からかうような視線を俺に向ける。
「あんたが、そんなこと言うなんてね───ゼル? そんなにあたし、参ってるように見える?」
そう思う。
という言葉を、俺はすんでのところで飲み込んだ。
「………少なくとも、1日歩いてたどり着いた宿に夕飯が残ってなかったくらいには………まあ、な………」
リナが笑った。
「あんたに心配されるなんて、あたしもやきが回ったモンだわね」
くすくすという声がその後に続く。
だが、リナの視線は手元のグラスに落ちたまま、そこから離れない。
やがて、リナがぽつりとつぶやいた。
「………ありがとう。ゼル………」
ささやきとも言えない小さな声。
俺は黙ってその言葉を聞いた。
その言葉に答えるべきではないのだと………知っていたから。

そのまま、黙ってグラスを重ねて………どれくらいたったろうか。
リナがふっと窓の外を見た。
「いい月ね。………あたし、ちょっと外を散歩してくるわ」
かたんと椅子を引いてリナが立ち上がった。
「バカなことは考えるなよ」
つい、言わずもがなのことを言ってしまう。
リナがこちらを振り返った。
「この、あたしが?」
俺に笑いかける笑顔は、確かにいつもの通り。
でも、だからこそ、という言葉を飲み込んだ。
「別に、今夜に限ったことじゃないが」
いっそ爽快なほどの豪快さと………時折ふと見せる繊細さ。
どちらか片方だけだったら、こいつもきっともっと楽な生き方ができたのかもしれないが。
リナは自分の弱さを表に出すことをしない。
「あたしはね」
リナが少し表情を真面目なものにした。
「あたしは、まだまだやりたいことがあるの。
それを、ここで終わりにする気はないわ。
それに………ここであたしがやけを起こしても………それで助かるわけじゃないでしょう?」
『誰が』と、リナは口にしなかった。
「さっき言ったわよね、ゼル。あたしは『戦うからには必ず勝つ』って」
リナが一言一言、自分に言い聞かせるように言う。
「あたしは、勝つわ。絶対に。
そして、盛大に文句を言ってやるの。
女性を助けに来させるとは、何事か、ってね。
思いっきりぶっ飛ばしてやるんだから………。
その時は協力してよね、ゼル?」
そう言って笑んだその表情は、不敵で………それでいて何故か見ているものの心に痛みを感じさせた。
俺は、その表情に息を飲む。
何よりもリナをリナたらしめている、その、前を向く強さ。
───そして───もう少女ではない、一人の女性の表情を、そこに見た気がして───。

「それじゃあ、ね。おやすみ、ゼル。つき合ってくれてありがとね」
そう言ってリナは立ち去った。
残されたグラスは、半分ほどしか口をつけられていない。
俺はなんとなくため息をついた。
冥王の待つ町までは、あと2日ほどで着くだろう。
実際、誰が信じるだろう。
魔王の腹心の所に、人質になった友人を奪回に行く、などどいうことを。
しかも、勝つつもりで行くなどど。
だが、魔王との戦いの時とは違う。
俺は負けるつもりは、ない。
アメリアもそうだろう。
だが、リナは………。
先ほどの会話を思い出す。
負けるつもりは、勿論リナにはないだろう。
だが………本人もわかっているはずだ。
冥王が何故ガウリイをさらっていったのか、その意味を。
その時に、どうするつもりなのだろう………あの意地っ張りな少女は。
少し、意地の悪い気分で俺は考える。
リナが誰かを選ぶところを見てみたい。
だが、同時に見たくないとも思ってしまう。
俺は低く笑った。
いずれにせよ、それは………まだ、もう少し先の話だ。
ただ、一つだけ確かなのは。
助け出された暁には、旦那がリナに頭が上がらなくなるということくらいか。
多分、一生尻にしかれることになるだろう。
覚悟しておいたほうがいいぜ、旦那。
俺は心の中でそっと呟く。
でも、それもまあ、悪くない生き方なんだろう………特に、旦那なんかの場合は。
俺は苦笑した。
そんなことは、こいつらに出会う前は考えもしなかっただろうと気がついたから。
俺はグラスを今はいない相手に向かって掲げてみせた。
再び酒を酌み交わせる日が来ることを、信じて。
 
 



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