真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
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■幸村の生涯目次■

幼少時代

人質時代

初陣

秀吉の死

家康東下

犬伏の別れ

昌幸・幸村上田へ

関ヶ原の合戦

九度山時代

九度山脱出

大坂冬の陣

大坂夏の陣


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家康東下 (上杉征伐)
  • 家康東下
    会津攻め会津若松城
    この頃、五大老の内家康を除く4人(前田家は利家の嫡子・利長)は領国へ帰っていた。朝鮮の兵役から秀吉の死と休む間のなかった大老たちにとって、やっとできた領国統治の時間であった。
    家康は領国に帰っていた大老を個別に屈服させようとしていた。
    先ずはじめにターゲットになったのが前田利家の後を継いだ前田利長であった。慶長4年11月に利長は細川忠興とともに謀反の志ありとして家康から責められる。驚いたと同時に憤慨した利長は家康に対して兵を挙げようとするが、老臣に説得され、潔白を証明するため大坂に上った。利長が人質を出すことでこの件は落ち着く。
    次のターゲットになったのは会津120万石の太守・上杉景勝であった。家康は景勝に謀反の企てがあるとして、申し開きのために何度も上洛を求めた。しかし、景勝はこれを聞き入れず、軍備を固めることに力を注いでいた。
    景勝は上杉謙信の跡をついで越後を領していたが、秀吉によって会津に移されたばかりであった。その後は、秀吉の死など上洛することが多く、領国を留守にしがちであった。そのため、新しい領地の経営がほとんど進んでいなかったのである。やっと落ち着いて領国経営ができると思った矢先の上洛命令である。家康からの無理な上洛命令には応じることが出来ないとして、拒否し続けた。
    結果的に家康に売られたけんかを景勝が買ってしまったことになる。

    このような状況のもと家康は6月16日に上杉景勝討伐のために大坂城を出発した。伏見城に滞留後、江戸に向かったわけであるが、この時に信幸も家康に同行していることが分かっている。おそらく昌幸も同様の行動をとっていたと考えられている。家康は7月2日に江戸城に帰着している。この間に石田三成は、反家康派の諸大名に参陣を呼びかけた。

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