真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
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■幸村の生涯目次■

幼少時代

人質時代

初陣

秀吉の死

家康東下

犬伏の別れ

昌幸・幸村上田へ

関ヶ原の合戦

九度山時代

九度山脱出

大坂冬の陣

大坂夏の陣


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関ヶ原の合戦(第二次上田合戦) 
  • 上田城堅し
    昌幸、秀忠を挑発 小諸城
    徳川家康は東海道を西上し、徳川秀忠は中山道を西上することになった。秀忠軍に中山道を行かせたのは、真田が、家康が去った後の江戸を上杉らと呼応し奪うことを恐れ、抑えておきたかったからであろう。
    中山道を通り、西上するのに上田を通る必要はなかった。真田を抑える兵を置いて、すぐに西上するべきであったが、まだ若かった秀忠は敵がいるのを無視して通ることは出来なかった。
    8月24日に宇都宮城を出発した秀忠軍3万8千は9月2日に小諸城(右の写真)に入った。
    秀忠は、まず昌幸を降伏させようと、信幸と本多忠政(忠勝の嫡子)を使者として送り、9月3日に信濃国分寺で会見が行われた。昌幸は頭を丸め、開城する旨を申し入れた。使者に立っていた信幸は父の申し入れを半信半疑のまま秀忠に伝えた。これにより秀忠が真田を降伏させることに成功した・・・かに見えたのだが。
    昌幸・幸村父子は上田城に兵糧、弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせるなど、軍備を固めていた。そして、万全の軍備を固めることができた。いつまでたっても開城しないことを不審に思った秀忠は、開城を催促する使者を立てると、昌幸は会見を破棄し、宣戦布告をしてきたのである。
    これに対して、怒った秀忠は9月5日に上田城への攻撃命令を下す。

    真田昌幸は秀忠軍3万8千を決戦場(関ヶ原)に遅参させることが目的であり、少しでも長く秀忠軍を上田城に引き付けておく必要があった。上田城を無視して行かれては昌幸にはどうしようもなかった。なんとか上田城に目を向けさせるために挑発をしたのである。 若い秀忠は昌幸の挑発にまんまと乗ってしまったのであった。

    秀忠軍を翻弄真田、徳川両軍の動き
    まずはじめに上田城の北に位置している戸石城を落とすために、真田信幸隊が進撃した。戸石城は真田幸村が守っていたが、幸村は兄との戦闘を避け上田城に撤退した。信幸は無人となった城を確保し、これを守備した。
    秀忠は9月6日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲した。そこに、昌幸・幸村が4、50騎を率いて城外に偵察に出てきたのである。昌幸は戦わないで城内に引き揚げると、徳川軍は昌幸を追って上田城に迫った。しかし、続く兵が少ないので後軍が来るまで待機していると、そこに真田の伏兵が現れ激しい戦いになった。上田城西櫓次第に押されてきた真田軍は城に退き始めた。これにつられた徳川軍は追撃をはじめ、上田城近くまで迫ったとき、伊勢崎城(虚空蔵山)から現れた伏兵が手薄になった秀忠本陣に襲い掛かった。徳川軍は混乱し、そこに向かって真田鉄砲隊が射撃をはじめた。さらに、真田幸村隊が城から討って出、秀忠軍を挟撃した。徳川軍はかろうじて総崩れを免れたが、大損害を受けた。後軍は救援に来ようとしていたが、神川が増水しており流れが激しく渡ることが出来ない。これは、あらかじめ幸村が神川の上流をせき止めておき、徳川群の状況を見て、せき止めを切ったためであった。しばらくして、徳川の後軍がやって来たので、幸村は上田城に退却し、篭城策をとった。秀忠はなおも上田城を攻撃したが、為す術がなく、また、老臣達の進言もあり、上田城攻略を諦めて、関ヶ原への道を急いだ。しかし、秀忠軍が関ヶ原に着いたのは、決着がついた4日後であった。(『真田一族』小林計一郎著 によると、虚空蔵山の伏兵、神川のせき止めはなかったことになっている。地理的に無理があるようである。)

    真田の戦略
    小勢で城に篭り、大軍を迎え撃ち、奇策をもって大損害を与えるというやり方が真田の戦略である。
    この戦いでも、昌幸はわざと逃げて徳川勢を城近くまで誘き寄せ、一斉射撃で足並みを乱し、その隙に伏兵をもって秀忠の本陣へ奇襲をかけ、混乱する所を城から撃って出て、勝利した。
    さらに、この戦いで重用だったのは、秀忠を挑発して怒らせることであった。怒らせることの目的は二つある。一つ目は決戦場(関ヶ原)に行かせない事である。上田城を無視されては昌幸の謀略も発揮することが出来ない。そのため、秀忠を怒らせ、上田城を攻めさせなければならなかった。二つ目は兵を混乱させることである。秀忠が怒り陣頭に立って攻めてくれば、兵(徳川軍)は総大将の前で手柄を立てようとわれ先にと突進する。そうなっては、軍令も何もあったものではない。そこが、昌幸のねらい目であった。

    勝利の敗将
    上田合戦での勝利にもかかわらず、関ヶ原で西軍が敗北したために、昌幸・幸村父子は敗将になってしまった。敗将は死罪が普通であったが、信幸の懇願で高野山に流刑になった。上田を出るときに、昌幸は、
    「さてもさても口惜しきことかな。内府をこそ、このようにしてやろうと希うておったものを」
    と言い、涙を流したという。


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