真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
真田関連書籍なら
戦国歴史Book Store

■幸村の生涯目次■

幼少時代

人質時代

初陣

秀吉の死

家康東下

犬伏の別れ

昌幸・幸村上田へ

関ヶ原の合戦

九度山時代

九度山脱出

大坂冬の陣

大坂夏の陣


サイトマップ

ホーム > 真田三代の部屋 > 真田幸村 > 真田幸村の生涯 >
九度山脱出(大坂入城)
  • 方広寺事件
    徳川家と豊臣家
    昌幸が没した慶長16年、後水尾天皇の践祚(現在の即位にあたる)に参加するために上洛していた徳川家康は、その際に豊臣秀頼に二条城で対面することを望み、実現させた。
    これは、徳川家と豊臣家の立場が逆転したことを象徴する出来事であった。豊臣方は、徳川家は臣下の大名であるという認識をもっていたために、家康への不満は増し、表面上は平穏であったが、いつ爆発するか分からない状況であった。

    国家安康 君臣豊楽
    慶長19年、家康は、自分の目が黒いうちに豊臣家を潰しておきたいと考え、豊臣家攻略のための準備をはじめ、開戦の口実を探していた。
    おりしも同年8月に京都方広寺の大仏開眼供養が実施されることになっていた。ここで、家康は梵鐘の銘文に対して難癖をつけ始めた。
    問題の銘文は、「国家安康」「君臣豊楽」という部分である。銘の作者は博学能文の誉れ高い清韓長老である。
    家康が言うには、「国家安康」は家康を二つに裂き呪い、「君臣豊楽」は豊臣を君として楽しむと読むということである。実はこの銘文批判は家康の御用役人・禅僧以心崇伝と儒者・林羅山の考えによるものであった。もちろん、これは喧嘩を売ろうという徳川方の言いがかりである。

    片桐且元の苦悩
    大仏殿造営の奉公にあった片桐且元は、家康に釈明をしようと駿府におもむいた。しかし、家康は且元に面会を許さず、本多正純に命じて大坂方の不都合を攻めた。
    動揺した且元は、ひたすら家康の内意を憶測し、大坂城を明け渡すか、秀頼または淀君を人質として江戸に送ることのいずれかを承諾しなければ、問題の解決は困難であると豊臣家に報告した。
    淀君をはじめとする豊臣方が怒ったのは言うまでもない。家康と豊臣の板ばさみになった且元は、豊臣方から徳川に通じているのではないかという疑念を持たれ、命の危険を感じ、摂津茨木の居城に逃げ込んだ。
    家康は、且元を大坂城内で孤立させ、淀君らが且元を追放するように仕向けたのであった。且元を追放した豊臣家と徳川家の交渉は決裂し、豊臣家は挙兵するに至るのである。全ては家康の思惑通りであった。

    家康動く
    家康は、且元退去の当日(10月1日)、大坂城討伐令を布告し、江戸の将軍秀忠に通達して、自らは翌日駿府を出発した。また、本多正純らに命じて、近畿西国の諸藩に動員をかけさせた。
    その命令とは、伊勢、近江、美濃、尾張、三河、遠江の諸勢は淀、瀬田に、北国勢は大津、、阪本、堅田に、中国勢は池田に、西国勢は西宮、兵庫にそれぞれ布陣すること。四国勢は武軍を編成して和泉の沿海に碇泊。大和の諸城主は各自の城を堅固にして守備し、後命を待てというものであった。
    豊臣討伐のための準備は周到に行われていたために、討伐が決まってからの家康の行動はすばやかった。

  • 幸村、大坂入城
    秀頼の使者
    大阪城 徳川方との対決がもはや避けられないものと悟った大坂方は、抗戦を決意せざるを得なかった。しかし、関ヶ原の合戦の敗北により、豊臣家の禄はわずかに65万石。私兵は3万前後しかない。そこで、徳川家に対して不満を持つ諸国の浪人を呼び集める策を講じる。さらに、豊臣秀頼の名を持って、故太閤秀吉恩顧の大名らに援助を依頼した。
    大坂方が頼みとした大名は、福島正則、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生秀行、佐竹義宣、島津家久、前田利常、浅野長晟、池田利隆らであった。
    しかし、大坂方の期待は見事に裏切られた。豊臣恩顧の大名で秀頼に味方するものは誰一人としていなかったのである。
    一方、浪人集めの方は、期待通りの効果が表れ、浪人たちが次々と大坂城に入城してきた。

    九度山脱出
    もちろん、九度山で不遇を託っていた真田幸村の元へも大坂からの使者が訪ねてきた。使者は豊臣方へつくことを要請し、当座の支度金として黄金200枚、銀30貫を送って辞去した。
    幸村はこれを承諾し、10月9日に家族を伴って九度山を脱出し大坂へ向かった。
    幸村の九度山脱出に関しては諸説あるが、ここでは代表的な二説を掲載しておく。
    一つ目の説は、九度山の郷民をが幸村をかばったとする説である。幸村の脱出を知った紀州の浅野長晟は、軍勢を差し向けたが、すでに幸村らの姿はなく、付近の者達にたずねると、真田衆は三日前に立ち退いたと口々に答えたために諦めた。しかし、幸村が脱出してから三刻ほどしか経っていなかったという。日ごろから幸村は、郷民に礼を尽くしていたので、彼らも恩を忘れないでいたらしい。
    二つ目の説は、浅野長晟がわざと見逃したとする説である。浅野は、豊臣恩顧の大名で、表面上は徳川に忠誠を誓わなくてはならなかったが、心情的には豊臣に傾いていた。また、真田信之、信尹ら徳川幕下の武将の心証を害しないように、わざと監視の目を緩めたという。そのため、幸村は堂々と出立したという。
    下の逸話も幸村の九度山脱出についての一つの説である。

    真田一族の逸話 村中を酔わせて真田ずっと抜け
    幸村は、紀伊の大名・浅野長晟から付近の百姓達が幸村の監視役を命じられていたのをよく知っていたため、日頃からいろいろお世話になっているので振舞いをしたいと、彼らを屋敷に招き、散々酒を飲ませて酔い潰し、頃合を見計らって、荷物を百姓達が乗ってきた馬に付け、武装をして揚々と脱出した。
    幸村が謀略家といわれることからできた逸話であるが、あまり信憑性はない。

    大坂入城
    いずれにせよ、幸村の九度山脱出は見事に成功し、かねてから連絡をつけておいた故郷・信州上田から、百余人の旧臣が集まり、幸村は大坂城に入った。
    幸村をはじめとする浪人衆が入城した報告は、10月14日に京都所司代・板倉勝重から駿府の家康の元に届けられた。報告を聞いた家康は、真田が入城したと聞くと顔色を変え、その使者に向かって、「篭城した真田は親か子か」と尋ねた。戸を掴み、立ったままの姿勢であったが、その手は震え戸が音を立てて鳴ったと云われている。これに対して、使者が、篭城したのは子の幸村で、昌幸は既に病死したしたことを告げると、家康は安堵の表情を浮かべたという。家康の安堵が恐怖に変わるのはもうしばらく後のことである。

←九度山時代(高野山配流)     大坂冬の陣(真田丸での奮闘)→
真田幸隆 - 真田昌幸 - 真田幸村 - 真田一族 - 史跡めぐり - 用語辞典 - その他 - サイトマップ
(C) Copyright 1999-2009 真田氏の館