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松代藩の分地であった沼田領は、1658年2月に松代藩主信政が没すると、松代十万石の相続争いが、沼田3万石の城主信直(信利)と信政の六男で二歳の信房(後の幸道)との間に起き松代藩は紛糾した。信直を応援したのは父信吉(信之の嫡男)の妻の実家(信直は庶子で「沼田町史」は母の名を小野お通としている。)の厩橋15万石の大老酒井雅楽頭忠清と信直の妻の実家の高知20万石の山内対馬守忠豊。それに親類の高力左近太夫高長、真田勘解由信就などで、信房を擁立したのは祖父の信之と信政に従って松代へ移ってきた家臣団であった。この争いは深刻であったが6月に到ってようやく信房に決定した。 この時から今まで松代藩の分地であった沼田領がはじめて独立したが、信直の心中は「真田氏の嫡男系でありながらそれを無視された」として不満であったに違いない。そして信之、信政が沼田城から持ち去った軍用金の返還を求める訴訟を幕府に提出したりする。 信直は1681年11月22日「両国橋の普請を助け勤むるのところ、材木の事により不束のきこえあり、しかのみならず、旦封地の制度もよからざるのむね上聞に達し、御気色こうぶりて城地を没収せらる」として改易となった。昌幸が沼田に入城してより百年、信之が城主となってより九十年、真田氏五代は沼田城から消えた。信直に対する幕府の糾問十ヶ条は以下の通りである。
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