真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
真田関連書籍なら
戦国歴史Book Store

■幸村の生涯目次■

幼少時代

人質時代

初陣

秀吉の死

家康東下

犬伏の別れ

昌幸・幸村上田へ

関ヶ原の合戦

九度山時代

九度山脱出

大坂冬の陣

大坂夏の陣



サイトマップ

ホーム > 真田三代の部屋 > 真田幸村 > 真田幸村の生涯 >
大坂夏の陣(幸村の最期)
  • 再び東西決裂
    しばしの平和
    冬の陣の和議が成立し、幸村にも平和が戻ってきた。
    しばしの平和を幸村は、真田本家の信吉、信政や家臣らと過ごしている。懐かしい故郷の話に花が咲いたことであろう。
    上田に住む姉の村松に宛てた手紙では、冬の陣で大坂方についたことで上田の真田本家に迷惑をかけてしまったことを詫びている。また、同じ手紙の中で「あすにかはり候はしらず候へども」と再び東西が手切れになることを予期していたことがうかがえる。
    幸村の予想通り、東西の手切れになる日は近かった。和睦も再戦も家康の調略の一部なのであるから、手切れになるのは当然ではあるが・・・。

    裸城となった大坂城
    話が前後するが、冬の陣の和睦の条件に大坂城の外堀の埋め立てがあった。
    東軍諸大名は割り当てよりも多くの人夫を動員し、作業は昼夜兼行で行われたという。その勢いで、大坂方に割り振られた部分まで横取りし、内堀までを埋めてしまった。これは、家康の覚えをめでたくしたいことと、割り当てられた作業を終えて軍役・夫役を軽減しようとしたためである。
    大坂方は自分達に割り振られた部分には手心が加えられることと、作業を引き延ばせばそのうち家康が死に、豊臣恩顧の大名が寝返ることを計算していたために、すっかり計算が狂ってしまった。
    堀を失い、本丸のみになった大坂城はすっかり惨めな姿になってしまった。再び東西が手切れになれば、結果は目に見えていた。冬の陣で、大坂方が持ちこたえることができたのは、大坂城があってのことである。堀がなくなった城では、到底東軍の大軍を防ぐことはできない。

    家康の要求
    家康は、再戦の口実を探していた。今回は、探すまでもなく、大坂方が口実を作ってくれたのであるが・・・。
    大坂方は東西の再衝突は免れないこととし、再び浪人を大坂城に入れていた。また、兵糧、弾薬の備蓄にもつとめ、軍備を整えていた。
    このことは、家康の耳にも入り、家康は、大坂方に、秀頼が大坂城を出て国替えに応じ、集めた浪人衆を追放することで、恭順の意思を示せときびしく要求した。
    もちろん、豊臣方はこれを受け入れるはずはない。再び、東西手切れとなり、大坂夏の陣がはじまるのである。

  • 西軍の不利
    夏の陣開戦
    大坂方は、東軍の出鼻をくじき、敵の士気を落とし、諸大名の動揺を誘うために、紀州(浅野氏)に侵攻した。先制攻撃をかけたのは大野治房であった。治房は手勢三千を紀州に侵攻したが、浅野氏は一族浅野忠吉らが奮戦し、西軍は先鋒・塙団右衛門の拙速な攻撃もあって、大損害を受けた。結局西軍の先制攻撃は、たいした戦果を上げることもなく空しく後退した。

    道明寺の合戦
    大坂方は、5月5日に後藤又兵衛が道明寺方面で決戦を挑むことに決まり、翌日の出陣の準備に入った。
    大和から河内平野に抜ける直前の道明寺付近に布陣し、ここから侵入してくる東軍を各個撃破する作戦である。いかに大軍でも、隘路(狭い路)を通行するには縦隊行軍をせざるを得なく、これを出口で攻撃すれば、勝利する可能性が高く、相手に与えるダメージは大きい。
    しかし、既にこの作戦は、内通者により家康の知るところとなっていた。東軍は既に隘路を抜け、道明寺の東(国分)に集結し、布陣していたのである。
    軍議に徒に時間をかけていたことが最悪な事態を招く結果になった。しかも、西軍は、東軍が既に道明寺付近に布陣していることを知らないでいた。
    5日の夜に行軍を開始した後藤軍は、続く真田軍、毛利軍と藤井寺で合流し、道明寺へ向かう予定であったが、真田・毛利軍らは濃霧に阻まれて行軍に難儀し、後藤軍は、これ以上後続部隊を待てないと判断し、独自に応神天皇陵に布陣した。
    翌日の朝に、東軍が布陣する国分に面した小松山に進んで戦備を整え、東軍に一斉に攻撃を加えた。後藤軍の攻撃はすさまじく、松倉重政、奥田忠次軍に大打撃を与えた。しかし、伊達政宗が後藤軍を側面から攻撃したため、後藤軍は小松山から撤退した。後藤軍は、自軍の損害も多くなったため、残存兵力を集結して、伊達軍への決死の突撃をしようとしたが、深田に阻まれて思うように行軍ができず、ついに又兵衛が戦死し、後藤軍は総崩れとなった。
    ようやく薄田兼相が到着したが、薄田軍も後続部隊を待たず、東軍を迎撃し、兼相は戦死してしまう。
    幸村らが到着したのはちょうどこの頃であった。幸村は後藤又兵衛らの戦死を知り、また、東軍が進出してきたことにより、このままでは敵中に取り残されると判断し、退却を決断した。迫ってくる敵を迎え撃ちながらの退却は難しいが、軍隊を入れ替えながらの波状攻撃を行って伊達軍の前進を止め、敗走させた。幸村は見事に殿軍の任務を全うしたのである。

  • 幸村、最後の戦い
    幸村の誤算
    道明寺の合戦の敗戦により後藤、薄田らの将を失い、若江・八尾の合戦の敗戦で木村重成を失った。これにより、西軍の勝利は、かなり厳しいものとなったが、大坂城にはまだ五万の大軍が温存されていた。
    5月6日に家康は天王寺口、秀忠は岡山口から攻めることが決定した。一方西軍は、真田幸村、毛利勝永らが天王寺口、大野治房は岡山口に布陣した。幸村が天王寺口(茶臼山付近)に布陣したのは、徳川方の主力が天王寺方面に進出してくることを予測してのことである。
    西軍は軍議の結果、茶臼山から岡山口への防衛ラインを整え、ここで東軍を退き付け、家康、秀忠の陣に向かって一丸となって突撃することや、機が熟すまで抜け駆けをしないことなどを申し合わせた。茶臼山より東軍を望見した幸村は、大坂城の船場・天満口の防御は不要と判断し、そこの守備に残っていた明石全登軍を茶臼山の南に移動させるように要請した。
    ところが、茶臼山東麓にいた一隊が、東軍に対して盛んに鉄砲攻撃を仕掛けた。これに挑発された松平忠直は、冬の陣の汚名を晴らそうと、いきり立って、前進をはじめてきた。明石軍の到着を待ち、一丸となって合戦に臨もうとしていた幸村の目論見はここでも崩された。

    家康の陣に突撃
    真田幸村、徳川家康を追い詰める ついに、幸村は、開戦に踏み切らなくてはならなくなった。幸村の目標は、もちろん家康の首である。
    家康の本陣は、幸村の全面に展開している越前軍一万三千の後方にあった。幸村はねらいを家康に定め、真田隊は一丸となって突撃を開始した。
    真田・毛利隊は越前勢を圧倒し、ついに家康旗本と遭遇した。真田隊も次第に戦死者が増えてきたが、幸村は態勢を立て直すと、果敢に突撃を繰り返した。この真田軍の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒されることになった。家康にとって、馬印が倒されたのは、三方ヶ原以来の屈辱である。家康も一次は覚悟を決め、腹を切ろうとしたが、側近に止めたられ、何とか思いとどまっている。
    真田隊の突撃は、家康に死を覚悟させるほど凄まじいものであった。
    しかし、さすがの真田隊も次第に寡兵となり、ついに目標である家康の首を挙げることはできなかった。

    真田幸村戦死跡之碑 真田 日本一の兵
    真田隊の攻撃力が弱まってきたために、東軍は勢いを盛り返し、形成は逆転した。切腹を思いとどまった家康は、総攻撃を命じた。ここでも幸村は、秀頼に出馬を要請したが、ついに実現しなかった。数度の突撃で傷ついた幸村は、安居天神の近くの畦に腰を下ろし、手当てをしている所を、越前軍西尾宗次に槍で刺され、ついに果てた。

    五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、いにしえよりの物語もこれなき由


←大坂冬の陣(真田丸での奮闘)
真田幸隆 - 真田昌幸 - 真田幸村 - 真田一族 - 史跡めぐり - 用語辞典 - その他 - サイトマップ
(C) Copyright 1999-2009 真田氏の館