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真田昌幸年表
この年表では真田幸村(真田一族)に関する事柄、その周辺(武田家、上杉家など)の事柄、中央(京都、天皇、将軍、織田家など)の事柄を扱っています。 真田信繁は「幸村」の表記で統一。真田幸綱は「幸隆」の表記で統一。真田信幸は改名後「信之」。
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| 天文16年(1547)〜天正10年(1582)
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天正11年(1583)〜慶長16年(1611)
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- 昌幸、真田幸隆の三男として生まれる。母は河原隆正の妹。
8月
- 晴信、佐久郡志賀城を落とす。
幸隆、武田方として参戦。
2月14日
- 晴信、上田原の戦いで村上義清に敗れる。
幸隆、武田方として参戦。
12月
- 長尾景虎(後の上杉謙信)、兄を隠居させ家督を継ぐ。
3月
- 晴信、佐久郡・望月源三郎に所領を与える。その際、幸隆がそれを取り継ぐ。
4月
- 春日城が落ち、望月・伴野の諸氏が武田家に降りる。
7月2日
- 晴信、幸隆に本意の上は小県郡諏訪形等千貫文の地を与えると約す。
9月
- 晴信、幸隆らと共に村上義清の戸石城を攻める。
10月1日
- 晴信、戸石城から退却する。(戸石崩れ)
7月
- 晴信、信濃に出陣することを飯富虎昌らに告げ、その旨を幸隆へ連絡させる。
1月
- 関東管領・上杉憲政、北条氏康に上野平井城を追われ、長尾景虎を頼る。
1月
- 小笠原長時、武田氏に信濃を追われ、長尾景虎を頼る。
4月9日
- 武田氏の攻撃により、村上義清の本城・葛尾城自落。
義清、越後に敗走し、長尾景虎に救援を求める。
4月22日
- 越後勢、村上氏救援のため、信濃に出陣。(川中島の合戦のはじまり)
- 武田軍後退し、義清は旧領を回復し、小県郡塩田城に拠る。
8月10日
- 真田昌幸、人質として甲府に在府。その引き換えに、晴信、幸隆に秋和(上田の近く)三百五十貫の地を与える。
9月
- 謙信、再び川中島に出兵。各地で武田軍と戦う。
10月5日
- 北条氏康、幸隆に吾妻郡在城を要請する。
4月
- 謙信、信濃に出陣。
幸隆、小山田昌辰と共に雨飾城の在番を勤める。
2月
- 晴信、出家して信玄と称す。幸隆も出家し、一徳斎と改める。
9月10日
- 昌幸、第四回川中島の合戦に、信玄の近習として参戦。昌幸の初陣といわれる。
9月21日
- 幸隆、信綱らと武田の将として川中島の合戦に参戦。
6月
- 幸隆・信綱連名で四阿山白山神社奥宮に戸張を寄進する。
3月
- 信玄、川中島の清野氏に岩櫃城の幸隆救援を命じる。
11月
- 上野国嶽山城の池田佐渡守ら、幸隆の仲介により武田氏に帰属する。
8月
- 甲信諸士が武田信玄に起請文を提出する。
- 織田信長、斉藤龍興の稲葉山城(岐阜城)を攻略し、そこに移る。
11月
- 昌幸、伊那高遠城に武田勝頼の嫡子誕生祝いの使者として赴く。
2月
- 信玄が駿河蒲原城を陥れ、陣中から幸隆、信綱に戦況を報じる。
10月
- 昌幸、相模三増峠の戦いで使番を勤め、一番槍の功をたてる。
4月
- 武田信玄、香坂虎綱(高坂弾正)に、後事を真田信綱に任せて伊豆の武田軍に参陣を命じる。
3月
- 幸隆、計略で上野白井城を攻略する。信玄がそれを賞し、箕輪城に在城して高坂弾正の指示を受けるよう命じる。
12月22日
- 真田衆、三方ヶ原の戦いに参陣。武田信玄が徳川家康の居城・浜松城の近くで徳川軍および織田信長の援軍を破る。
3月
- 白井城が上杉軍に奪われる。幸隆、上野で上杉方と戦う。
4月12日
- 武田信玄、三河からの帰陣の途中、伊那駒場で病没する。信玄の四男・勝頼が家督を継ぐ。
5月19日
- 幸隆が没し、幸隆の嫡子・信綱が家督を継ぐ。
5月21日
- 武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍と三河長篠で戦い、敗北する。信綱、昌輝が戦死し、昌幸が家督を継ぐ。
10月31日
- 昌幸、河原隆正に真田町屋敷年貢を宛がう。
3月
- 昌幸、上野榛名山に禁制を掲げる。また、高野山蓮華定院に宿坊に関する書状を発する。
- 昌幸、北条氏政の上野攻略を武田勝頼に報告する。勝頼が昌幸に北上野の防備を厳重にさせる。
8月
- 武田勝頼が昌幸の手紙に答えて織田信長の行動が活発なことを告げる。
3月19日
- 上杉謙信が病死。景勝・景虎両養子の間に争いがおこる。武田勝頼は景勝を応援する。
6月
- 甲越同盟が成立し、勝頼、昌幸に沼田城攻略と東上野の調略を命じる。
2月
- 武田勝頼が昌幸に上野石橋郷の内一軒分の諸役を免じる。
3月17日
- 昌幸、上野吾妻郡の地侍・海野幸光らに中山・尻高両城を奪取したと報じる。
9月
- 昌幸、矢沢頼綱(真田幸隆の弟)に沼田城を攻めさせる。矢沢頼綱ら小川・名胡桃城を攻略する。
2月
- 昌幸、僧某に上野倉内を手に入れたら所領を与えると約束する。
3月
- 昌幸、前例どおり高野山蓮華定院を真田郷民の宿坊と定める。
- この頃から安房守を称するようになる。
- 昌幸、再び矢沢頼綱に沼田城攻略を命じる。
4月
- 矢沢頼綱が沼田城を攻め、それを甲府出張中の昌幸に報告する。
- 武田勝頼、昌幸をすぐに帰城させることを知らせる。この後、昌幸は引き続き沼田城の攻略に従う。
5月23日
- 武田勝頼、沼田城代・海野幸光らに城内法度を与える。
8月
- 武田勝頼、東上野に出陣。昌幸、その先陣を務める。
9月
- 武田勝頼、金井外記に上野名胡桃50貫を宛がう。
6月7日
- 武田勝頼、14ヶ条のの軍役定書が示される。
3月11日
- 武田勝頼、甲斐国田野で一族とともに自殺し、武田家は滅亡する。
3月12日
- 鉢形城主・北条氏邦、昌幸に手紙を送り、北条氏直への臣属をすすめる。
4月8日
- 昌幸、信長に馬を贈り、本領を安堵され、滝川一益の旗下になる。
6月2日
- 京都本能寺で織田信長が明智光秀に襲われ死亡する。
7月12日
- 北条氏直、小県郡海野平に進攻。昌幸、北条氏に臣従する。
9月28日
- 昌幸、信尹(昌幸の弟)の斡旋により徳川家康に属する。
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天正11年(1583)〜慶長16年(1611)
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