真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
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■幸村の生涯目次■

幼少時代

人質時代

初陣

秀吉の死

家康東下

犬伏の別れ

昌幸・幸村上田へ

関ヶ原の合戦

九度山時代

九度山脱出

大坂冬の陣

大坂夏の陣


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犬伏の別れ(父子兄弟の離散)
  • 犬伏の別れ
    石田三成挙兵
    家康は江戸に19日間とどまっていたが、その間に石田三成は挙兵し、7月17日に家康の罪を書いた密書を諸大名に送っている。また、大坂にいた大名の妻子を人質に取り、19日には徳川家の老臣・鳥居元忠が篭る伏見城を攻撃している。
    徳川秀忠は19日に江戸を発っているが、真田昌幸、信幸、幸村はこれに合流するために7月の上旬に上田を発っている。21日に下野国犬伏に到着した時、石田三成からの書状(密書)が真田父子の元に届いた。

    書状は長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状であり、内容は以下の通りであった。

    急度申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻之誓紙ならびに太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ、出馬候間、おのおの申し談じ、楯鉾に及び候。内府公御違の条々、別紙に相見え候。此旨尤と思い召し、太閤様御恩賞を相忘れられず候はば、秀頼様へ御忠節あるべく候。恐々謹言。
    7月15日
    長大正家(花押)
    増右長盛(花押)
    徳善玄以(花押)

    要するに、秀吉の遺言に背き、秀頼を見捨て出馬した家康に罪があるとして、秀吉の恩を忘れていなければ、秀頼に忠節を誓ってくれということである。忠節を誓うというのは西軍に見方をすることを意味している。

    昌幸・幸村、信幸と離散
    石田三成からの書状を受けた昌幸は、信幸、幸村と三人で真田家の去就について話し合っている。人払いをしていたため、三人でどのようなことが話し合われたかは分かっていない。
    犬伏の話し合いの内容ははっきりとは分からないが、おそらく信幸ははじめから徳川軍につく気持ちでいたと思われる。信幸は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を嫁にしていたことと、一時期徳川家に出仕していたことから、徳川家につきたいと思うのは当然である。犬伏では信幸が昌幸に対して徳川軍につくことの得を説いていたのであろう。しかし、昌幸は徳川につくことには反対であった。
    三成と昌幸は姻戚関係があった。真田昌幸という武将は姻戚関係によって味方をするような武将ではない。しかし、西軍につく一つの要因になったことは間違いないであろう。
    昌幸が西軍についた理由は大きく二つあると思う。
    一つは西軍についたほうが勝った時の恩賞が良かったという事である。昌幸にとっては関ヶ原の合戦は真田の家を大きくするための絶好の機会であった。この合戦は家が滅びるか大きくなるかという大きな賭けであった。そこで、リスクが大きい(この時点ではどちらが勝つかわからなかったが、会津攻めに参加していて西軍についたのは真田昌幸・幸村父子のみであった。)西軍についたというのが戦国の一匹狼・真田昌幸らしい。
    二つめの理由は、昌幸と家康の相性が悪かったということである。昌幸は秀吉に表裏比興の者と称されるほどの武将であったが、それは小国ゆえの表裏であった。大大名でありながら表裏のある家康は気に入らなかったのであろう。
    話し合いの結果、昌幸・幸村は西軍に、信幸は東軍につくことになった。しかし、喧嘩別れではなく、お互いの立場、考えを理解した上での別れであった。

    真田一族の逸話 真田昌幸、下駄で家臣の歯を折る
    犬伏で、親子三人で話し合った時のエピソードである。
    昌幸父子は宿営していた民家の近くの離れで人払いをして何か相談していたが、なかなか出てこない。そこで部将の河原綱家が心配して様子を見に行くと、昌幸は

    「誰も来るなと命じておいたのに、何しに来たのだ。」

    と怒鳴って、履いていた下駄を投げつけた。それが顔にあたって綱家は前歯が欠けてしまい、その後一生歯抜けのままだったという。智将昌幸としてはいささかはしたない行為だが、戦場でイライラしてくると、誰でも粗暴の振る舞いをしがちになるのであろう。それにしても、下駄を履いていたというのは面白い。


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