真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
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■幸村の生涯目次■

幼少時代

人質時代

初陣

秀吉の死

家康東下

犬伏の別れ

昌幸・幸村上田へ

関ヶ原の合戦

九度山時代

九度山脱出

大坂冬の陣

大坂夏の陣



■真田氏アンケート

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人質時代(上杉、豊臣へ)
  • 神川合戦(第一次上田合戦)

    徳川家康と決別
    天正12年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康の対立が表面化してきており、4月には小牧・長久手で両者が対決することになった。局地戦では徳川軍が勝ったものの、合戦後は秀吉の優位が確定的になった。
    家康も秀吉と対立するとなると、関東の雄・北条氏と事を構えたくない。後顧の憂いを絶つために北条と組むのが得策であると判断した家康は、北条氏と和を結ぶことにした。
    徳川と北条の講和の条件に、沼田を北条に渡すことがあった。この時、真田は徳川家に臣従していたために、家康は沼田を北条に渡すように真田昌幸に命じてきた。それに対して、昌幸は「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」と言い、沼田の引渡しを拒絶した。徳川家の要求は理不尽なものであったが、秀吉と天下を争うほどの家康(しかも当時は主家)に背いてまで維持を貫いたというのが昌幸らしい。
    当然、徳川家は真田家と断絶し、真田を攻めてくることは明らかであった。

    上田築城
    築城当時の上田城本丸 昌幸は天正11年(1583)4月頃に上田築城に着手している。前年に主家・武田家が滅び、大名化の道が開けてきた時期である。この頃の真田家は徳川に属しており、上杉に対する備えとして上田に城を築くことを家康に申請し、認められていた。しかし、結局はこの城が徳川軍を撃退することになるのであるが・・・。
    上田城の完成は天正13年の末といわれている。真田家は、この年に徳川と手切れになり、まだ築城中の上田城に篭り、徳川軍を迎え撃つことになる。
    築城当時の上田城本丸には櫓が七つあった。現存する(ただし、仙石氏の時代のものである)のは北櫓、南櫓、西櫓の3つである。
    (右のイラストをクリックすると拡大図を見ることが出来ます 45KB)

    幸村、上杉家の人質となる真田を取り巻く勢力
    真田が徳川と戦うには当然後ろ盾が必要であった。真田の後ろ盾として最も適切であったのは上杉家であった。当時の真田を取り巻いている勢力は右の図の通りである。上杉は徳川、北条などに比べると小国であったが、当時の上杉家には背後に秀吉がついており、間接的に秀吉の援護も期待できた。
    しかし、昌幸は上杉家を裏切ったことがあり、景勝が昌幸の要求を受け入れてくれるか難しいところであった。そこで、昌幸は臣従の証として、幸村に叔父・矢沢頼綱の嫡子・頼幸を付け、軍兵をそえて、上杉家に人質に出した。
    上杉の将・須田満親は、矢沢頼幸に手紙を送り、幸村の人質を謝し、真田家への援助を述べている。景勝も7月15日付で昌幸に起請文を与えている。その中で、景勝は手違いがあっても謀反の噂があっても、惑わされずに情をかけると大いに歓待につとめている。
    上杉にとっても徳川、北条は敵であり、真田と手を組んだ方がよかったのである。景勝が一度は裏切った真田をこれほど歓待に扱うとは、表裏比興の真田が人質を出すから助けてくれと言ってきたことがよほどうれしかったのであろう。

    幸村、景勝から1千貫文賜る
    景勝は昌幸へ与えた起請文の中で、昌幸に沼田・吾妻・小県のほか屋代の跡を宛がうことにしている。屋代の跡とは、上杉家を離反し家康のもとに走った屋代秀正の旧領のことである。景勝は屋代の旧領3千貫文の内、1千貫文を幸村に与えている。

    真田軍、徳川軍を翻弄
    昌幸の沼田引渡し拒否および徳川家からの離反に対して、家康は大いに怒り、天正13年(1585)8月、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを将とし、信濃・甲斐などの軍勢もあわせ総勢7千の大軍に上田城攻撃を命令した。
    上杉景勝は、海津城代・須田満親らに命じ、命令次第で行動を起こすように指示している。
    真田方は、昌幸は500の手勢で上田城本丸を固め、信幸は戸石城に、矢沢頼綱は矢沢城に、城下にはあらゆる所に柵を互い違いに設置し、200名のおとり部隊を神川付近に配置し、徳川軍を待ち構えた。
    やがて、やって来た徳川軍は神川を一気におし渡り、真田おとり部隊に襲い掛かった。おとり部隊は軽く戦っては引き、それを追う徳川軍は一気に城壁の下まで攻め寄せた。
    真田方からの攻撃がほとんどないまま上田城下にやすやすと入り込んだ徳川軍は、城中の兵が少ないとみて鬨の声を上げた。
    これは昌幸の作戦どおりであった。徳川軍が城下に入ったのを見計らって昌幸は城兵に命じて、町屋に火をかけさせた。折からの風にあおられ、火は四方に飛び移り、徳川軍を襲う。城内からは柵のせいで動きが取れない大軍に向かって鉄砲が一斉に放たれた。さらに四方に伏せておいた農民兵が混乱する徳川軍をめがけて、打ちかかった。大混乱に陥った徳川軍は、逃げようとするが、互い違いに組まれた柵に退路を阻まれ、次々に討たれ、総崩れとなった。
    やっとのことで引き揚げてきた徳川軍は神川を渡れば安心とわれ先に渡ったが、真田隊によって上流の堰が切られており、増水した神川に流され、溺死した者も数多かった。

    丸子城も落ちず、徳川軍撤退。
    徳川軍は上田城攻略が失敗したことで、兵の士気が下がってきていた。何とか士気を上げるために、上田の属城・丸子城を攻めるが、これも落ちなかった。
    徳川軍は上田城への再攻を伺っていたが、徳川家の重臣・石川数正が豊臣家に走ったことから、全面撤退した。
    徳川の大軍を追い返したことにより、真田の武名は天下に轟いた。

  • 秀吉と幸村

    表裏比興の者
    昌幸は徳川軍と対陣中に、はじめて秀吉に書状を送り、援助を依頼した。これに対し、秀吉は天正13年10月17日付けで昌幸に手紙を送り、「委細の段聞こし召し届けられ候心安かるべく候」と返事をしている。
    秀吉はこのようにして、真田昌幸を家康に背かせ、自分の味方している。
    さらに、「家康は天下に対して表裏を構えたので、家康の使者・石川数正に対し、徳川家の重臣の人質を出すように要求したところ、重臣は家康の不実を知っているから人質を出さない。石川数正は困り果てて、徳川家を出奔した。この上は人数を出し家康成敗を申し付ける。」などと昌幸に対して書状を送っている。
    しかし、翌年には、秀吉は家康と和解し、母を岡崎に送っている。さらに、家康に対して、「真田は表裏比興の者であるから成敗をすることが大切である。」と言っており、上杉景勝には、「真田は表裏比興の者であるから成敗をするので、真田を助けることのないように。」と命じている。昨年と全く反対のことを言っている。秀吉こそが表裏比興である。

    幸村、秀吉に出仕
    少し話が前後するが、天正13年11月に秀吉は昌幸への書状の中で「早々に罷り上るべく候。」と言っており、早速上洛出仕することを求めている。天正14年6月に上杉景勝が上洛する折に、幸村は大坂城の秀吉に出仕した。
    幸村出仕に関しては、次のようなエピソードがある。
    景勝が上洛して留守のうちに、昌幸が幸村を呼び戻し、秀吉に出仕させた。これに対して景勝は怒り、秀吉に返してくれるように頼んだが、相手は天下人・秀吉であったので諦めた。
    面白い話であるが、おそらく景勝が上洛する時に幸村を連れて行き、秀吉に気に入られたことから出仕することになったものと思われる。
    幸村の出仕により、真田家は豊臣家の直臣となった。


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【関連項目】

大河ドラマ「天地人」放送記念 直江兼続と真田幸村
大河ドラマ「天地人」放送記念 直江兼続と真田幸村

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