真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
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■幸村の生涯目次■

幼少時代

人質時代

初陣

秀吉の死

家康東下

犬伏の別れ

昌幸・幸村上田へ

関ヶ原の合戦

九度山時代

九度山脱出

大坂冬の陣

大坂夏の陣


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秀吉の死(真田家の試練)
  • 秀吉の死
    太閤の最期
    伏見桃山城 全国制覇成し遂げ、戦国の世に終止符を打った豊臣秀吉が慶長3年(1598)に京都伏見城(右の写真)で没した。百姓から身を起こし、天下統一を成し遂げた英雄の死は誠に哀れなものであった。秀頼が家康をはじめとする大名の前に無力であることは十分に分かっていたために、秀頼の身を心配し、五大老に保護を依頼(依頼というよりは哀願という表現の方がふさわしいほどであった)したのであった。 しかし、後にその秀吉の願いも無残に破られるのであるが・・・。
    秀吉から近世大名としての地位と身分を保証されていた真田家も再び争乱の中に巻き込まれることになる。

    秀吉の遺言によって五大老(徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家)と五奉行(石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政)による合議制が行われるようになった。秀吉の親友・前田利家の存命中はそれでも収まっていたが、利家が没すると家康の横暴がひどくなり、五大老・五奉行合議制は有名無実化していった。家康は大坂城に入り、秀頼の後見人としての立場を主張した。しかし、このような家康の横暴を快く思わない者もいた。ご奉行の一人・石田三成である。

    文官派V.S.武闘派
    慶長4年(1599)に前田利家が没すると、加藤清正、福島正則、細川忠興らはかねてから恨みを持っていた石田三成を殺害しようと石田屋敷を襲った。三成は伏見に遁れて、対立関係にある徳川家康の保護を受け一命を取り留めた。しかし、三成はこれが原因で佐和山に隠居することになってしまう。三成の隠居により家康の天下の実権者としての地位は確立したといってよい。

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