真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
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■幸村の生涯目次■

幼少時代

人質時代

初陣

秀吉の死

家康東下

犬伏の別れ

昌幸・幸村上田へ

関ヶ原の合戦

九度山時代

九度山脱出

大坂冬の陣

大坂夏の陣



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大坂冬の陣(真田丸での奮闘)
  • 浪人衆V.S.豊臣側近
    無念の篭城策
    大坂城で行われた軍議で、幸村は、単なる篭城策では勝ち目がないことを力説し、積極策に出ることを主張した。篭城策というのは援軍が期待できる時に有効な作戦であり、大坂の陣のように援軍が期待できない戦では無効な作戦である。
    幸村は、東軍の戦備が整わないうちに先制攻撃をしかけ、豊臣秀頼自ら出馬し天王寺に旗を立て、幸村、毛利勝永、後藤基次らで伏見城を落とし、宇治、瀬田に陣を構え、東軍の渡河を阻止し、木村重成らが京都所司代を屠って京都を占領し、長宗我部盛親、明石全登らは大和から奈良を攻撃し、秀頼側近衆が片桐且元の茨木城を落とし、大津に砦を築き、畿内を確保してから東軍と戦うことを提案した。
    後藤基次、毛利勝永ら浪人衆も幸村の幸村の提案に賛成し、畿内を制圧し、宇治、瀬田に出撃し、遠征疲れの東軍を迎え撃つことを主張した。
    しかし、大野治長をはじめとする豊臣側近は、家康の行軍速度が遅いことを指摘し、家康到着までに大坂方の軍勢が大軍であるということが広まれば、大坂方に寝返る大名が出てくると主張した。また、秀吉が築いた大坂城に絶対の信頼を寄せており、篭城策を譲らない。
    いくら浪人衆が主張しても、積極策は取り入れられることはなく、東軍のスパイである小幡景憲の後押しもあり、西軍の方針は篭城策に決定した。

    城の南に出丸を築く
    真田の抜け穴 積極策が取り上げてもらえなかった幸村は、次に大坂城の南方に弱点があることを指摘した。大坂城は北に天満川を控え、西は難波港がひらけ、東は深田といった湿地帯が展開し、城に迫るには南方の天王寺方面に抜ける丘陵地帯が最適であった。そのため、天王寺付近で激戦が展開されることは容易に予想できた。
    幸村はここに、砦を構えることで南方の弱点を補強しようと考え、砦を築く許可を求めた。しかし、幸村は新参者であるためになかなか信用してもらえなかった。真田本家(信之)は徳川家に奉公しているため、東軍への内通を疑われていたのであろう。後藤基次らの後押しもあり、最終的には砦建築の許可が下り、幸村に任されることになった。この砦が後に真田丸と呼ばれるようになる。真田丸は大坂城の堀を背負い、三方を空掘りで囲み、三重に策をめぐらし、矢倉などを設けた堅固な砦であった。
    右の写真は大坂城から真田丸へ通じていたといわれている真田の抜け穴跡である。

  • 真田丸の奮闘
    開戦
    11月15日、家康は大和路を大坂に向かい、秀忠は河内路を大坂に向かった。すでに、大坂方は篭城策を取っており、ここに大坂冬の陣の火蓋が切って落とされた。
    実際に戦闘が始まったのは19日である。緒戦は、軍勢の点でも、士気の点でもはるかに勝る東軍の勝利となった。
    大坂方にとって最大の誤算は開戦後、豊臣恩顧の大名が次々に寝返ってくるものと思っていたのが、一人も豊臣方に内応してこなかったことである。しかも、戦局は大坂方不利の状態で推移していったのである。
    しかし、豊臣方で唯一光る存在があった。真田丸を守る真田幸村隊であった。

    幸村の戦略
    大坂冬の陣布陣図 真田丸周辺 真田丸を守る幸村が注目したのは、砦の前方にある篠山という小山であった。篠山は真田丸の矢倉から200メートルくらいの所にあり、出丸に取り込むことも考えたが、そこまで取り込むと孤立するとして、割愛した所であった。したがって、前田利常軍が必ず布陣すると思っていた。しかし、篠山には前田軍が一兵も居らず、真田丸から見て篠山の向う側に柵を作り、割合のんびりと陣を構えていた。
    そこで、幸村は篠山に鉄砲隊の一部を潜ませ、前田軍に鉄砲を浴びせかけた。利常は家康から守備線を突出するなと命じられており、はじめのうちはそれをひたすら遵守していた。しかし、真田隊の鉄砲攻撃は毎日行われたため前田軍には毎日死傷者が出、次第に真田隊の攻撃に苛立ちを見せ始めた。苛立たせることが幸村の作戦であった。
    前田利常の家臣・奥村摂津守は、篠山を占領し、真田隊を追い払おうと手勢を率いて篠山に押し寄せた。しかし、篠山に着いてみると、真田軍はただの一兵もいない。幸村が奥村隊の出撃を見て、鉄砲隊を退却させたからであった。右往左往する奥村隊を真田丸から真田兵が嘲笑したので、前田軍は敵味方双方から笑いものとなり、面子を潰した。これが前田軍が理性を失うきっかけになった。
    翌日の夜に前田軍は篠山を攻めたが、やはり空であった。そのため、そのまま真田丸の堀際まで攻め寄せた。これを見た藤堂高虎、井伊直孝、松平忠直は前田軍の抜け駆けと思い、一斉に真田丸に攻め寄せてきた。
    このように敵が攻め寄せてくることを予測していた(というよりも幸村が攻め寄せてくるように仕向けた)幸村は、鉄砲で反撃し、空掘りに攻め込んだ敵兵数百を討ち取り、後続部隊を釘付けにした。
    多くの被害が出た東軍は、たまらず退却をはじめたが、ちょうどその頃、真田丸西後方の城壁を守る石河康勝隊で火薬桶に火縄を誤って落としたために大爆発が起き、矢倉が焼け落ちる事件があった。
    東軍に内応していた南条元忠が、寝返る手はずになっていたので、これをその合図であると見た東軍は、引き返してきて、平野口に殺到した。
    幸村は狭い所に集まっている東軍をじっくり引き付け鉄砲で攻撃した。狭い所にごった返す敵を討つのであるから、無駄弾はほとんどなかった。寄せ手は、南条元忠が内応したと誤認して攻撃をはじめたので、攻城兵器を使っておらず、被害が増大した。
    ようやく事態に気づいた東軍の先頭は退却しようとしたが、狭い所に後方から大軍が押し寄せてくるので、退くに退けない状態になり、退こうとする者と進もうとする者が折り重なり、衝突して、東軍は大混乱に陥った。
    敵の混乱を見てとった幸村は、門を開き真田大助、伊木七郎右衛門ら500人を出して、寺沢、松倉隊に甚大な被害を与えた。
    真田丸の攻防戦で、東軍は松平忠直隊480騎、前田利常隊300騎が戦死し、雑兵の戦死者は数知れないという大損害を受けた。真田丸での敗戦の報告を受けた家康は、機嫌が悪くなったという。

    和睦
    力攻めではなかなか落ちないと見た家康は、調略でもって落とすことを考えた。
    早速、大坂城に使者を送り、秀頼、淀君に講和を申し入れた。大坂城内では、幸村など浪人衆をはじめ、講和に反対の意見が多かった。
    淀君、大野治長らは、幸村達浪人衆は、講和をすると禄が食えなくなるので講和に反対しているとして、意見を取り上げなかった。
    淀君は、東軍の大筒の轟音に悩まされていたことなどから、精神的にまいっており、早く講和をしたかったのであろう。
    また、真田丸以外では豊臣方不利の戦が続いていたことから兵の士気は落ち、結局は家康との講和に応じることになる。

    信濃十万石の誘い
    冬の陣の講和が整う前に、幸村に対して家康から誘いの動きがあった。家康の側近・本多正純の許にいた真田信尹が、真田丸を訪ねて、「信濃十万石」を条件に徳川方への寝返りを勧めた。家康は、十万石なら飛びつくであろうと思っていたのだが、幸村はあっさりその誘いを断っている。幸村はあさましく利益に走る武将ではなかった。幸村の大坂入城の動機を考えれば、寝返る事は考えにくい。

    真田一族の逸話 木村重成、真田兄弟を激賞
    豊臣方の木村重成は寄せ手の真田信之の軍勢の様子を見て、
    「今、城攻めをしている六文銭の旗印は、貴公の一族ですか、それとも別の者ですか。城攻めのやり方が絶妙です。」
    と真田幸村に尋ねた。幸村は、
    「あの攻め手は、私の兄の伊豆守信之です。今、軍兵の先頭で命令をしている二人の若者の一人は真田河内守で15歳、もう一人は真田内記14歳で、二人とも私の甥です。」
    と答えた。重成は感心して、
    「二人はいつも何色の鎧を着用していますか。それを士卒にも知らせ、少年なのに、これほど優れた働きをする若武者をむざむざ鉄砲なんかで撃たないように注意させましょう。そうしてこそ、武士の幸せというものでしょう。」
    と言い放ったという。真田幸村の旗印

    大坂冬の陣に真田信之は、病気のため出陣していない。二人の息子が、信之の名代として参陣していた。幸村は大坂の陣では六文銭の旗印を使わず、真紅の旗印を使った。これは、兄の名代として参陣している、甥に対する気遣いからであると言われている。

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