真田氏の館 三代録 名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録
真田関連書籍なら
戦国歴史Book Store

■幸村薩摩落ち伝説目次■

真田幸村生存説は抹殺された

大坂冬の陣

大坂夏の陣

秀頼、幸村の大坂城脱出

秀頼、幸村の薩摩入り

幸村と信幸の書簡

真田幸村の隠密旅

豊臣秀頼の逸話

真田大助の行方

真田幸村の頴娃潜入(傳説)

谷山の歴史

江戸時代の真田幸村の子孫

真田幸村の墓

真田幸村の末裔(真江田家)

頴娃町別府大川難波家

豊臣秀頼の末裔

サイトマップ

ホーム > 真田三代の部屋 > 真田幸村 > 幸村薩摩落ち伝説 >
幸村薩摩落ち伝説
※本コーナーでは濱崎秀達様よりご投稿頂いた内容を掲載しております。

  • 真田大助の行方
    真田大助は、島津貴久の弟・忠将に実子がなかったことから、その養子となり、(宮崎県)佐土原島津家中興の祖となった。明治維新後、島津斎彬の孫で、忠義の子久範はこの佐土原島津家を継いだ。久範の二男久永は、近上天皇の妹清宮貴子を嫁にし、禎久という子を儲けている。久永は、現在、ソニーの取締役をしていた。島津久永、貴子、禎久の3人は、小和田雅子さんが皇太子妃に正式に決定してから催された小和田家、天皇家の親戚を集めての夕食会には、皇族として出席した。

    この件については、佐土原町に問い合わせたところ、郷土史家もそのような話は聞いたことがないということであった。年代も若干ずれており、何よりも、真田大助幸昌が薩摩入りする前に、佐土原島津家中興の祖である島津幸久は既に亡くなっており、父・秀男が曾祖父や秀頼の子孫から話を聞いた際、何らかの取り違えがあったのかもしれない。真田大助については、別の記録もある。

    真田大助の子孫と称する旗本があった。蓮華院月牌帳によると、享保12年、江戸の旗本、従五位下滋野正周(八木主税助)という者が大助の位牌を立てているが、それによると、大助はのちに長佐衛門と称し、慶安4年(1651)7月20日に死んだという。「八木系図」によると、大助は落城後堺に住んで高井長佐衛門と称した。その子・平右衛門元理のとき将軍家綱に召し出され、その子・正周は綱吉に信任されて千五百国にまで累進した。『寛政重修諸家譜』には、八木は滋野氏の条に納められているが、真田大助の子孫だとは書いていない。たぶん編集者があやしいと思って削ってしまったのだろう。また、讃岐木田群井戸村の名族真田氏は、この地に逃げてきた幸村の子孫だという。

    秋田県大館市では、真田大助は、はじめ「真田長佐衛門幸昌」と称したが、のちに「信濃屋市兵衛」と改め、89歳で死亡、一心院に葬られたという。
<<豊臣秀頼の逸話 真田幸村の頴娃潜入(傳説)>>
真田幸隆 - 真田昌幸 - 真田幸村 - 真田一族 - 史跡めぐり - 用語辞典 - その他 - サイトマップ
(C) Copyright 1999-2009 真田氏の館