高校時代の鉄マル活動


いよいよ高校時代です。この頃から鉄マル活動が本格化します。というか、ピークであったかもしれません。なぜかというと、鉄道研究部という同じ志を持つ共同体の存在でした。

 

1.高校1年生時代

前述の通り、私が入学した高校には鉄道研究部(以下、鉄研)があった。多分今でもあると思う。ところが、私が入学した当時の鉄研は廃部の危機に瀕していた。部員は3年生が1名だけ。つまりこの年我々の代で誰も入らなければ来年は部員ゼロとなり、休部になってしまうのだ。そんな理由と中学時代からのバドミントンを続けたいということもあって、私はバドミントン同好会(現在はバドミントン部に昇格)に入会した。ところが、その後妙な噂を聞いたのである。曰く、「あの鉄研に1年生が1人入ったらしい」。ここで気持ちが揺れ動いた。「1人いるんだったら俺も入ろうかな?」その動きは、新入生歓迎会というミニ文化祭のようなイベントで鉄研が展示している教室に行き、入部を表明することで決着がつく。その時はその1年生しかいなかったので後日3年生の方にお会いした。この3年生の方が後々、というか今でもいろいろとお世話になっている松本氏なのだが。その時の会話を紹介。

松本氏「じゃあ、まずキャリアから聞こうか」
私「あ、はい。主に電車に乗ることが趣味です」
松本氏「模型とかはやらないわけ?」
私「あ、やったことありません。ですから、ここでいろいろと学びたいと思います」

ほとんど就職の面接である(笑)。こんな風にして、私は鉄研に入ることになった。その後、のちの部長氏が連れ込んだろん氏が入部したり、私が同じクラスであったひこ氏やらを連れ込み、5月末時点で1年生部員は5人を数えるようになった。

 

この頃の私は主に休日に120円旅行をしていた。印象深かったのは6月9日、そう、皇太子結婚式のため休日になった日である。このときは上野−我孫子−成田−銚子−成東−大網−成東−千葉というふうに旅行した。思いっきりキセルである。成田から成東までは冷や汗ものであった。幸い検札はなく、無事に帰ってこれた。

失敗もある。鶴見線がそうだった。この時は南武支線から入ったのだが、浜川崎に中間改札(というか出口)があることを着くまで知らなかった私は120円旅行をうまく説明できず、浜川崎までの正規運賃を払ってしまったのである。さらにその後扇町に行き大川に行ったのだが、なんとその大川で検札に遭った。そのときもなぜか私は浜川崎から120円の切符しか持っていなかったので、また払わされた。この時はあまりの自分の不甲斐なさに腹が立ち、予定していた海芝浦に行かずにそのまま帰ってしまった。結局海芝浦は後日正規運賃を払って乗った。

6月になると部会が開かれ、松本氏が引退し1年生5人で部を運営していくことになった。部長は当然1番最初に入った人がなったのだが、そこで私はなぜか会計になってしまった。この理由がなんとも馬鹿馬鹿しいのだが、残り4人の数学のテストの成績を比べたのである。1番高かった私が会計になってしまった。私もたかだか55点だったのだが、他の3人はそれより低かったのである。しかしその後、私とひこ氏を除く全員が理系に進学した。よくわからないものである。しかしこの会計になったことで、私は後輩部員から部長と並ぶ実権を持つ影の実力者として君臨していたと見られていたらしい(これは後になって知ったことだが)。

 

この夏は2回旅行に出かけた。1回目は家族で北海道旅行。行きは飛行機を利用した。1日目は千歳〜札幌。2日目は札幌〜富良野。3日目は富良野〜札幌〜函館。4日目に函館から寝台で帰ってきた。このときに札幌や函館の市電に乗った。また北海道大学も行き、その雄大さに憧れ、受験の最後の最後までここを受けようか迷った(結局センター試験の点が悪く、諦めた)。乗った寝台は「エルム」であった。実は寝台列車に乗るのは初めてであった。全国に鉄道ファンは数多けれども、初めて乗った寝台が「エルム」だという奴は希少であろう。

2回目は帰ってきた2日後、1人で故郷の愛知方面に出かけた。実はこの時初めて青春18きっぷを使った。入学までその存在すら知らなかったのである。他の部員が大学生協まで行き、ばら売りを買ってきた。
とは言っても普通に行ったのではつまらなさ過ぎる。しかし中央線も飯田線も乗ってしまったし、北陸経由ではその日の内にたどり着けない。そこで東海道を下りながら、支線や地方私鉄に乗ることにした。御殿場線、静岡鉄道、天竜浜名湖鉄道、武豊線、太多線の残りに乗った。帰りは372Mを利用することにした。普通夜行に乗るのも初めてであった。当時の372Mは西岡崎で日付が変わるので、東海交通事業と愛知環状鉄道に乗り、岡崎で372Mを迎え撃った。8月の372Mに途中駅から乗るという、今考えればとんでもないことをしていたのである。その時はたまたま席があったから良かったものの、下手をすれば席なしの状態になるところだった。その日は水戸線、水郡線、磐越東線に乗って帰ってきた。

二学期になり、文化祭が近づいてきた。鉄研では模型と冊子を出すらしい。全て松本氏の指令によるものだが、私は模型は出来ないので主に冊子製作を担当した。区民センターで印刷できることを突き止め、重い紙を持って印刷した。区民センターのおばちゃんに怒られたりもしたが、なんとか冊子は出来あがった。ちなみにこの時に私は本作りの楽しさを知り、以後大学も含めて7年間この役職に就き、就職でも出版業界を志望することになるのである。

 

11月になった。実はこの時期から高校の校舎改築が始まった。これによって部室が、なくなってしまった。新しいプレハブ校舎に幾つかの部が共同使用する倉庫部屋が設けられ、鉄研はかねてから犬猿の仲だった演劇部と同居することになってしまう。領土合戦の始まりである。これを部内では第一次演鉄闘争と呼んでいた。

この頃は部長氏と写真を撮りに行った。12月改正で「出羽」や「あいづ」がなくなる頃だったのでよく上野に行った。「みずほ」「八甲田」「鳥海」いずれも今は亡き列車達である。この時撮った写真をどこに流用したかというと、政治経済の授業で出した自主研究報告冊子の表紙に、代表者特権で「八甲田」の写真を使ったことは爆笑であった。これで「どろっぷ=マニア」の構図がクラス中に知れ渡ったと思う(ちなみに裏表紙はN’EXだった)。

冬休みは特にどこにも出掛けず、春に鉄研のメンバーで18きっぷを使い4泊5日の旅にでかけた。計画立案は私。全て車中泊という後の私の旅行スタイルの原型であった。0〜1日目は今は亡き中央線山岳夜行に乗車。この時点で既に臨時化されており、松本着は早朝5時前であった。大糸線から北陸線に乗り、トンネル駅の筒石で下車。その後豊野でメローイエローを飲んだり、新潟で忠犬タマ公なる銅像を見つけたりして時間を潰し、ムーンライトに乗車。2日目は関東の自由行動であったので、私は未明3時の高崎で降り、吾妻線、日光線、烏山線に乗って帰京。そのまま品川駅に並び、大垣夜行に乗車。3日目も関西の自由行動であったので、草津線、関西線、桜井線、和歌山線、阪和線、東羽衣支線に乗車。この1日で関西地区のJRをかなり稼いだ。そのまま新宮夜行に乗車。ここでは徹夜でひこ氏と語ってしまった。そのせいか翌日午前は常に寝ぼけており、意味不明なことを口走っていたという。その4日目は紀勢線を上り参宮線、名松線に乗車。伊勢神宮も少し観光した。再び大垣に戻り美濃赤坂に行ったりして臨時東京夜行に乗車。東京には5時前に着き、ここで解散となった。私はこの日も久留里線などを回るつもりだったがさすがに疲れていたので、青梅五日市線だけに乗り、そのまま帰ってきた。この旅行の成功が、夏の北海道旅行夜行9連泊を生むことになる。

 

2.高校2年生時代

年次が変わり、2年生になった。新入生の勧誘をしなければならないのだが、必死の勧誘にもかかわらずなんと1人しか来てくれなかった。この時点で鉄研の未来に暗雲が立ち込める。

5月には遠足がある。鉄研の大きな仕事の1つに遠足時刻表を作る、というのがある。実はウチの高校の遠足は現地集合、現地解散。しかも場所は学年別で横浜とか御岳山とか、杉並区からすればとんでもないところであった。一般人からすればどうやって行ったら、何時に家を出たらよいかわからない。そこで鉄研が学年ごとに専用の時刻表を3パターン製作し、配布するのである(学校側からそういう依頼が来る)。もっとも実際はMATT時刻表を見て写したり繋げたりするのだが。

私の学年は京急の馬堀海岸駅(浦賀駅の1駅手前)に集合だった。本線と久里浜線との乗換駅である堀ノ内は快特が止まらないので、時刻表では特急を勧めておいた。さてそこで私がどのように馬堀海岸に行ったかというと、まず遠足時刻表に載っている時間よりも1時間前に品川に着いた。そして品川から各駅停車浦賀行に乗って集合場所を目指したのである。知ってのとおり京急は駅間距離が短い。凄くイライラする。堀ノ内までに特急6本、急行5本、回送3本に抜かれた。ときには一気に三本抜かれを食らったこともあった。

前述のようにこの時代、私の学校は校舎改築中であった。それまで運動場だったところにプレハブ校舎を建てて勉強していた。つまり外での体育は基本的に出来なかったのである。それでもやはり運動会はやりたいだろうということで、駒沢競技場の一部を貸しきってやることになった。ここでまた鉄研が登場する。学校側から「運動会時刻表を作ってくれないか」と依頼が来るのである。運動会に関しては学年ごとの集合場所がバラバラでなかったので1パターン作れば良く、簡単であったが、この運動会時刻表はたった3回しか作られなかった幻の逸品であろう。

 

夏になり、私は9ヶ月温存していたプランを実行することにした。1人での北海道夜行9連泊旅行である。原案は昨年の10月に作ってあったのだが、春に夜行5連泊を経験して自信がついた。この頃は兼部していたバドミントンが忙しく(なぜか代表職にあった)、終業式の出発になった。使用切符は北海道ワイド周遊券。まずムーンライトで村上へ。普通電車を乗り継ぎ(あの忌まわしき701系に乗ったのもこれが最初であった)、青森からはまなすを使用して渡道。その後は下りおおぞら→上りオホーツク→下り利尻→下りオホーツク→上りミッドナイト→上りミッドナイトと、おおぞらとミッドナイトを除いて自由席を寝床として北海道を駆け巡った。おおぞらは自由席が1両しかなかったので指定席を取り、ミッドナイトはカーペットカーで寝た。途中に札幌市交通局や北海道ちほく高原鉄道、函館市交通局を挟み、江差線を最後に北海道の鉄道の完乗を達成した。印象に残ったのはこの1年後に廃止になった深名線。特に朱鞠内でのマニアの行動は素晴らしかった。ああはなりたくないと思ったものである。この後すでに臨時になっていた津軽で帰ってきた。

この夏はもう1回旅行に行った。部員3人と18きっぷを使った3泊3日の旅行である。計画立案は私。もちろん全て普通夜行使用であったのは言うまでもない。出発は例によって山岳夜行。糸魚川から今回は富山方面に向かう。北陸を一路関西方面へ向かい、お決まりの新宮夜行に乗る。2日目は新宮到着後、紀勢本線を引き返す。その年の6月に開業したばかりの関西空港に行くためである。その後大阪城を観光したりして片町線や奈良線に乗り、大垣に戻って東京夜行に乗った。この日で注目すべきことは、木津にて私が見つけてきたファンタレモンで皆で乾杯したことであろう。あのころファンタレモンは関西限定だった。3日目、東京に着いた時点で解散になったが、私はもったいないと思い旅行を続けた。高崎線から碓氷峠を越えたのだが、この時点で私は疲労がピークに達しており、高崎出発後目が覚めたら軽井沢であった。きっかり碓氷峠を寝過ごしたのである。その後また寝てしまい、目が覚めると長野であった。降りる予定は小諸だった。仕方なく小海線はあきらめ、未乗であった篠ノ井線にターゲットを変更。その後身延線に乗る予定だったが、少々遅れるものの家に帰れることを確認するや否や身延線を強行乗車。かなり無謀な旅をしていた。

9月の文化祭も乗り切り、修学旅行のシーズンになった。行き先は萩、津和野、宮島、広島である。何気に私は新幹線を新大阪までしか乗ったことがなかったので、修学旅行によって完乗率が増えるという事態になった(小郡まで乗った)。津和野では集合時間にもかかわらずSLやまぐち号を一目見るべく入場券を買ってホームにへばりついたし、宮島では乗った船が松大汽船であることに憤りを覚えた。ちなみに3泊で睡眠時間は8時間であったが、これは標準であろう。

11月の紅葉シーズン、後輩に誘われ東北地区の紅葉を見ると同時に50系客車に乗りまくる旅を実行した。12月改正で多くの50系客車が消えてしまう、というので乗りに行ったのである。使用切符はハートランドフリー切符。現在のウィークエンドフリー切符である。陸羽東線や北上線、田沢湖線の紅葉を見たり、東北線、男鹿線、磐越西線の客車に乗った。また田沢湖線はこの後秋田新幹線開業のため改軌工事を行った。実はこの旅行は、初めて私が立案しない旅行であった。結構新鮮に感じたのである。

 

例によって冬は旅行せず、高校3年を控えた春に1人で18きっぷ旅行を実行。今回も4泊5日を守り、全て普通夜行を使った。初日は関東地区の掃除。久留里線、鹿島線、水郡線支線を乗って関東地区JR完乗達成。その足でムーンライトに乗りこみ、2日目は新潟へ。信越線の残りから南下し、前回乗れなかった小海線に乗車。そのまま東京に帰り、臨時大垣夜行で関西出撃。米原から敦賀、そして小浜線に乗る。そのまま山陰線に入り、和田山で乗り換え待ちの時間中に衝撃の事実を知ることになる。地下鉄サリン事件である。その後は播但線、加古川線など被災地迂回ルートを通り、新宮夜行へ。私の名誉のために言っておくが、この播但→加古川というルートは始めから私の頭の中にあった。地震が後から勝手に起きたのである。このことはご理解頂きたいと思う。新宮到着後は名古屋に出て親戚宅に寄り、夕飯を御馳走になる。大垣から東京夜行で帰り、茨城交通に乗って旅は終わった。

この旅を最後に私は「休旅宣言」をする。この後大学合格まで大きな旅行はすることがなかった。

ちなみにこの年度、クラス文集なるものが作られたが、その中のアンケート項目「マニアックな人物は誰か」に私は22票を獲得し、得票率50%を越える高得票で当選を果たした。30以上あるアンケート項目の中で、過半数を取ったのは私だけであった。ちなみに2位はひこ氏で15票獲得した。クラス43票の内37票を鉄研部員2名で独占したのである。いかに鉄研部員が変な目で見られていたか、当時を物語る資料である。

 

3.高校3年生時代

新入生勧誘のシーズンである。今年は後輩に任せて傍観モードでいたのだが、後輩がオウムネタに走ったため新入生から敬遠され、新入部員ゼロという結果に終わった。しかしなんとか準部員らしき人物を3人引き連れてきた(3人は、その後輩から「正悟師」の位を授けられたらしい)。その中の1人が小田井人夫の人々氏である。彼が正式入部するのは文化祭後になる。

5月になり、例によって鉄研は遠足時刻表を作る。今年の遠足は横浜であった。集合場所は横浜スタジアム前であった。なんとか変わった行き方で行きたい、さてどうやって行くべえと悩んだ結果、新宿から小田急線に乗って海老名に行き相鉄線を完乗してから(ちゃんといずみ中央にも行った)横浜に向かったのである。ちなみに杉並から自転車で来た奴らもいたが、彼らといい勝負である。スタジアム集合後は基本的に自由行動なので、鉄研のメンバーと三崎口へ向かった。その後横須賀線に乗り、戸塚から横浜市交通局に乗車。関内に着いたところでタイムアップとなった。遠足なのか乗り潰しなのかよく判らない旅行だった。もちろんこの3週間後には運動会時刻表も作った。

 

本当にこの頃は受験勉強1色だった。夏休みはせいぜい夏期講習に行くくらいしか出掛けなかった。そのなかで私はあがきを見せた。とある講習がそこしかやっていないという理由で千葉校舎の授業を申し込んだのである。真夏の4日間、6時起きして杉並から千葉まで出掛けることになったが、帰りのコースに変化を付け、いい気分転換になった。

そして迎えた文化祭。鉄研は展示部門2位という栄誉を得た。この時私は他の部員にも助けられながら200ページの部誌を200部印刷した。この記録は大学に入っても破られることがなかった。そして3年生は、正式に鉄研を引退し、後輩に権力を譲ることになる。

なぜかこの頃、部長になった2年の後輩は学生運動にハマり、演鉄闘争(まだやっていたのである)にケリをつけるべく総攻撃を仕掛けたいから手伝って欲しいと依頼が来た。この頃鉄研は演劇部に対し執拗な嫌がらせを行った。演劇部の領域内においてある鞄の中にバラストを撒き散らしたり、日々境界線を前進させるべく物入れを少しずつ動かしたりした。そして12・24総決起集会において部室領域内に椅子机及びテレビを設置するスペースを確保したのである。

 

11月上旬、ひこ氏を誘って各大学の学園祭巡りに出掛けた。C大学、M大学、R大学、W大学を巡った(伏せ字にしてもバレバレですな)。C大学では部誌を1000円で売っていてびっくりした。W大学ではHOゲージの模型に驚いた。この中で1番印象に残ったのはM大学であった。なにしろ暗い教室に薄暗い模型が動いているだけ。客も居らず、「あと何人でこれまでの記録更新かも」とはしゃいでいる始末。私は絶対この大学に入ってやろうと心に決めた。どちらかというと小人数のアットホームな雰囲気のほうが今の鉄研のようで親しみやすかったからである。ひねくれ者の私にはぴったりであった(当時は、どの大学に入るか=どの鉄研に入るか、であった)。

そして2月23日、私は1つの学部に受かることが出来た。こうなれば25日の国立の試験なぞ知ったものではない。散々な出来だった。来年度から通う大学も決まり(M大学であるかどうかはご想像にお任せします)、晴れて卒業式を迎える。

大学進学が決まればやることは1つ、卒業旅行である。鉄研部員6名で四国にでかけた。計画立案はまたも私。四国はさすがに夜行列車は走っていないので、普通に宿に泊まることになった。急行東海の特急格上げラスト1日前が出発日だったので東海に乗って出発。国立の後期試験が終わって直行して来た人もいたので、高松に着く頃に6人が揃った。初日は高松泊。2日目は一旦阿波池田まで行った後引き返し、そのまま予讃線を下り宇和島泊。3日目は予土線→土讃線→徳島線と乗り、徳島着。後輩や浪人したメンバーのために学駅にも降り、入場券を買った。4日目は牟岐線で南に行った後鳴門線や高徳線に乗車し、僅か3日でJR四国を完乗。そのまま寝台特急「瀬戸」で帰ってきた。ちなみにこの瀬戸ではロビーカーでひこ氏、まえすとろ氏と終夜語り明かし、寝台に入ったのは小田原を過ぎてからであった。寝台料金6千円をどぶに棄てたようなものだ。

 

以下大学編に続くわけですが、ここで1つ重要なことを。卒業後私は家族ごと葛飾に引越しする準備のため毎日荷物作りしていたのですが、1日だけ暇をもらって後輩の終業式の日に高校に遊びに行きました。予想通り何人かメンバーが来ていました。そこで私は偶然にも「ときめきメモリアル」というソフトと出会うことになるのですが…………これは別の機会に、ということで。

 


鉄道のページへ

トップページへ