辰巳用水と兼六園


 兼六園の始まりは、延宝年間(1673〜81年)に5代目加賀藩主・前田綱紀が金沢城外郭としてたてた蓮池御亭といわれている。

 兼六園の名称は、宏大と幽遂、人力と蒼古、水泉と眺望というそれぞれ相反する六勝をすべて兼ね備えているところからつけられた。「天下の名園」といわれる所以である。
 なかでも、電動ポンプなどない時代に、すぐれた眺望の高台で曲水の美を実現し、水泉・眺望を兼ね備えたところに、兼六園の大きな価値がある。

 兼六園の曲水の水はすべて、辰巳用水を流れてくる犀川の自然の水である。兼六園からおよそ10キロ上流の東岩取水口から取り入れられた水は、平均勾配230分の1という緩勾配の辰巳用水によって、勾配差を利用して高台の兼六園に揚げられているのである。
 かつては多くの名園で自然の流水がつかわれていたが、栗林公園や後楽園など、現在ではほとんどの公園でポンプによる揚水が行われており、いまなお自然の流れで水を引いている兼六園の価値がいっそう高まってきている。

 三代目加賀藩主・前田利常の命を受けた町人・板屋兵四郎(いたや・ひょうしろう)の指揮のもと、辰巳用水がつくられたのは、いまから360年以上前の1632(寛永9)年である。当初の取水口は、東岩より少し下流の雉(きじ)取水口であった。
 取水口から兼六園までのおよそ10キロのうち4キロあまりは水トンネルで、もっとも緩やかなところの勾配は600分の1、さらに日本ではじめて伏越の理(ふせこしのり=逆サイフォンの原理)をつかって兼六園から金沢城に水を引いていた。

 この用水が、機械もない時代に、わずか1年足らずの短期間で完成させられたのである。

 逆サイフォンで金沢城に引かれた辰巳用水の水は、城の防火用水でもあり、内堀を満たす水でもあった。辰巳用水なくして、加賀百万石・前田家はなく、兼六園もなかったのである。

 兵四郎以後も各時代の最高の技術がつかわれ、辰巳用水は今日まで生き続け、兼六園に絶えることなく水を注いでいる。水トンネル部にところどころあいている「窓」とよばれる横穴から中をのぞくとき、誰もが感動と畏敬の念を抱かずにいられない。
 金沢城、兼六園、辰巳用水は、文字どおり一体の文化遺産として、後世に伝えられなければならない。


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