※これは2012/3/4にfacebookのノートへ投稿した文章の転載です。

宗教と科学の接点(2012/3/4)

1.はじめに
 私は基本的には無宗教で科学的知見を尊重している(これも一種の宗教だという人もいるが)。但し、人類の歴史を科学的に分析するなら、宗教は神に見守られている(見張られている)と考えることで人間の精神の安定をはかり社会の秩序を維持するために必要だったことも事実である。
 しかしながら、科学の発展に伴い既存の宗教で主張する神の存在や神による天地創造といった出来事は否定され、私のように宗教から離れる人間も増えていくであろう。それに伴い、社会秩序が乱れてしまっては困りものである。また、宗教は社会に深く浸透していいるため消滅はせず、宗教間の対立といった構図での国際紛争の担い手ともなっている。
 そこで宗教全般と科学の融合をはかれないものかと考え、代表的な宗教について勉強し宗教と科学の接点を探ってみた。日本は仏教と多神教の国であり、これらは感覚的にわかっているので、「不思議なキリスト教」(橋爪大三郎×大澤真幸)と「イスラームとは何か」(小杉泰)を読んで一神教について知識を収集した。各宗教の細部に立ち入るのは今回の趣旨では無いので、基本的な思想を捉えての大雑把な議論になる。

2.一神教
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ神を信じる同じ系譜の一神教でほぼ同じものである。違いはどの預言者(神の言葉を人間に伝える者)を尊重するかによっている。科学的に見れば預言者の存在自体がナンセンスなのだが、神の存在を信じることが本質であるなら神が言いそうだと皆が認める事を言う者を預言者としておけば問題無いとも言える。

・ユダヤ教
 預言者の一人であるモーセの律法を守る宗教である。この律法を守って生活する限り国家が無くなろうが世界中に散らばってしまおうが、ユダヤ教徒あるいはユダヤ人といったまとまった形での存続が可能である。
・キリスト教
 キリストは単なる預言者ではなく神の子とされる。キリスト教はローマ帝国内で次第に発展した経緯から、政治と宗教が切り離されている。聖典はユダヤ教のものである旧約聖書とキリスト以後の新約聖書の二重構造になっている。聖書内の記述には矛盾も多く(不完全とも言える)、人間が多数決で何か決めても「神の見えざる手が働いた」として正当化できるので融通が効き、民主主義や科学研究との相性は悪くない。
・イスラム教
 ムハンマドを最後の預言者と考え、ムハンマドが神から得た啓示をまとめたクルアーン(コーラン)とムハンマド自身の言行をまとめたハディースが聖典となっている。最後に出てきただけあって3宗教では最も完成度が高く聖典内の矛盾もない。完成度が高い反面、柔軟性に欠けるので世の中の進歩から取り残されるきらいはある。イスラムは国家を統治しつつ発展したので現在のイランのように政治と宗教が一体化しているのが正しい姿である。

 一神教の神は絶対であり全てをありのままに受け入れなければならない。地震や津波で多くの人が死んでも「神の思し召し」、名医による手術で病気が治っても「神の思し召し」、大変な努力をしたのに不幸に見舞われたら「神が試練を与えた」と考える。また死後に神の国に行くか永遠に焼かれるかは事前に決められていて生前の善悪の行いには依存しない。これには違和感を感じるが、これこそが一神教の神髄らしい。
 要するに世の中で起こること全てを神が支配しているように見えて、実は起こった事全てを「神の思し召し」の名の下に無条件で承認しているようなもので、始めから神など存在しないのと同じだと私には思えるが、神がいると考えないと精神の安定を支える支柱が無くなってしまうということなのだろう。

3.多神教
 多神教では万物に神が宿ると考える。海には海の神、山には山の神、森には森の神といった感じで。神を怒らすと恐いので神に祈りを捧げたりする。科学的にはそれぞれに神がいて神の意志があったり祈りが通じたりすることはあり得ないが、動きのあるものだと一神教の神よりも存在感があるような気がしないでもない。

4.仏教
 現在の日本の仏教は葬式と墓地管理の役目ばかり担わされているが、本来の仏教はこの世で起きている諸々のことを正しく認識して悟りの境地に達することを目的としている。この世の認識ということでは科学の目的も同じであり実は最も科学に近い宗教と言えるだろう。私の「宇宙文明論」も科学的に宇宙とその中に出現した知的生物および文明の存在意義や目指すものについて考え最終的に現在こそが理想の世界であるとの境地に達しており、まさに仏教的アプローチであったと思う。

5.科学的な見方
 科学的な立場でこの世を見る場合には段階があると思う。数学や論理の抽象概念であれば、この宇宙の特殊性に依存せず最も普遍的である。
 次にこの宇宙を現実に支配している物理法則になると特殊性を帯びてくる。素粒子の質量とか光の速さが一定値に決まっているとか、重力や磁力など作用する力がいくつか存在しかつ限定されるとか。しかしながら法則は法則であって、この宇宙の中では普遍的に作用し個々の物質で異なると言うことはない。物理学や化学の対象はこの範疇である。
 最後に個々の物質なり生命なりになると、それぞれが特殊であって個別のものである。生物学や地学は普遍的に捉えれば物理や化学に近いが、個別の生物種の形態や特定の火山の活動に着目すると個別の博物学的なものになるだろう。政治学、社会学、地理学、歴史学なども個別のものと普遍的なものの両方がある。
 各段階の関連について考えると、完全に真空で全く何も無い状態であれば物理法則が存在していても、その効力を確認するすべが無いので法則自体の存在が無意味となってしまう。同様に知的生物が発生し、法則や法則に従って動いている物質を認識しなければ、それらが顕在化する事ができない。

6.宗教と科学の融合
 各宗教と科学的見方には実はかなりの共通点があり、融合されていく余地があるように思われる。

(1)一神教の神の正体は、この宇宙を支配している物理法則である。この宇宙の一部分である人間社会にしても人間が作った法律に従って動いているわけではなく(法律は破られる)、物理的に可能な事は良いことも悪いことも起こり得るが不可能な事は起こらない。これは、何が起きても全て神の思し召しと言うのと同義であろう。

(2)多神教の考え方は物理法則ではなく各々の物質に重点を置いたものと言える。物質が全く存在しなければ法則は意味をなさず、逆に各々の物質には法則の作用が見えるので一神教の神の意志が姿を現したものとも言える。個々の物質に神の意向が反映されているので多神教となるが、根本は唯一の法則なので一神教と多神教は相反しない。

(3)最後に知的生物によるこの世とそれを支配している法則の正しい認識は、まさに仏教的アプローチである。

 かくして全ての宗教と科学は一つの考え方に融合できる可能性があると思われる。そして融合された考え方に基づいて人間社会のあり方と今後人類が進んで行くべき方向を考えていくべきだろう。

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