大津皇子作品集
『日本書紀』に「尤も文筆を愛みたまふ。詩賦の興、大津より始まれり。(文章を書くことを愛した。詩賦が盛んになったのは大津皇子からである。)」と記述されている大津皇子の作品を紹介します。
大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首
あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに(巻2・107)
作者である大津皇子は『日本書紀』よると天武天皇の第3皇子となっています。大伯皇女の同母弟です。大津皇子は『日本書紀』『懐風藻』の記述を見ると文武両道で人望の厚いすぐれた人物であったようです。大津皇子から詩賦は興ったと『日本書紀』は伝えています。その歌は『万葉集』に全部で四首載っています。
「あしひきの…」は石川郎女に贈った恋の歌です。相聞歌です。「あなたがなかなか現れないから、しっとりと山の雫に濡れてしまったよ。」大津皇子のように魅力的な男性にこう言わせた女性、石川郎女は次のような歌を返しています。
石川郎女の和(こた)へ奉る歌一首
我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを(巻2・108)
「あなたが私を待って濡れたという山の雫になりたいものです。」なんてうまいのだろう!大津皇子の使った言葉を詠み込みつつ、柔らかい女性の歌にした石川郎女。大津皇子が歌を贈ったのもうなずけます。
大津皇子の歌で一つ気になるのが「我立ち濡れぬ」という表現です。直前に載っている姉の大伯皇女の歌でも「我が立ち濡れし」と使われているのは、偶然の一致なのでしょうか。
大津皇子、竊かに石川女郎に婚ふ時に、津守連通、その事を占へ露はすに、皇子の作らす歌一首
未だ詳らかならず
大舟の津守が占に告(の)らむとはまさしに知りて我が二人寝し(巻2・109)
石川女郎はその次にある草壁皇子の歌(巻2・110)から考えると、草壁皇子と大津皇子のふたりから求愛されていたようです。草壁皇子の歌に対する石川女郎の返歌はありませんでした。でも、大津皇子の歌に対しては返歌があり、さらにこの大津皇子の歌から、石川女郎は大津皇子を選んだと考えられそうです。占いに現されるというのは、世間に知られるということでしょうか。それを承知でいたというこの歌は、大津皇子の大胆さをうかがわせます。
大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余(いはれ)の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻3・416)
右、藤原宮の朱鳥元年の冬十月
大津皇子が死を賜ったときに作った挽歌です。謀反の罪によって捕らえられたのが10月2日、翌日に刑死となっています。「磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、わたしはこの世を去るのだろうか。」初冬の磐余の池の前で死を迎えようとしている大津皇子の悲痛な心がにじみ出ていると思います。静かに鴨が浮かんでいる夕暮れの磐余の池、その水面は寒々しい初冬の風に軽くゆれている、そんな風景がこの歌から浮かび上がってきます。それは、自らの死を直視している大津皇子の心象風景と重なっているように思うのです。
「雲隠りなむ」という表現から仮託説が唱えられていますが(石川郎女との相聞歌や大伯皇女の歌も「歌物語」としてとらえ、後世の仮託とする説があります)、これだけ痛切な思いを歌っているものを仮託と解したくはありません。大伯皇女の歌も同様です。
秋の雑歌
大津皇子の御歌一首
経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず娘子(をとめ)らが織るもみち葉に霜な降りそね(巻8・1512)
忘れられがちなこの一首。他の3首の陰に隠れてしまっているような感じがします。色とりどりの衣装を着た乙女達が舞っているのでしょうか。紅葉の美しさも同時に思い浮かべる歌です。
五言。春苑言(ここ)に宴す。一首。
衿(くび)を開きて靈沼に臨み、目を遊ばせて金苑を歩む。
澄清苔水(ちょうせいたいすゐ)深く、あん曖霞峰(かほう)遠し。
驚波絃(いと)の共響(むたな)り、哢鳥(ろうてう)風の與(むた)聞ゆ。
群公倒(さかさま)に載せて歸る、彭澤(はうたく)の宴誰か論(かた)らはむ。
衣の衿を開いてくつろぎ御苑の池に臨み、春の風景に目を楽しませ御苑を歩く。
澄んで清らかな池の水は深く澄み、暗く霞のかかった峰が遠くに見える。
騒ぐ池波は琴の音と共に響き、さえずる鳥の声は風と共に聞こえる。
宴に参加した諸公は酔いつぶれてしまい、さかさまに車に乗せて帰る。詩と酒に耽った彭澤の酒宴も、
この宴に比べたら論ずるまでもない。
彭澤というのは、陶淵明のことです。この詩は、中国のさまざまな文章を踏まえて作られています。大津皇子の博識ぶりがうかがえます。
五言。遊獵(いうれふ)。一首。
朝(あした)に擇(えら)ぶ三能の士(をのこ)、暮(ゆふへ)に開く萬騎の筵(むしろ)。
臠(れん)を喫(は)みて倶に豁矣(くわつなり)、盞を傾けて共に陶然なり。
月弓谷裏(こくり)に輝き、雲旌(うんせい)嶺前に張る。
曦光(ぎくわう)已に山に隠る、壮士且(しまし)く留連(とどま)れ。
朝に技能の優れた官人を選んで猟に行き、暮れに馬に乗った多くの勇士を集めて酒宴を開いた。
獲物の肉を食べてみんな陽気になり、酒杯を傾けて共に気持ちよく酔った。
弓は谷間に輝き、旗は嶺の前に張りめぐらされている。
日の光は既に山に隠れたが、猟に参加した強者たちはしばらくここに居続けよ。
大津皇子は狩りの腕前も相当だったようです。狩りとその後の酒宴を楽しんでいる様子が伺われます。
七言。志(こころばへ)を述ぶ。一首。
天紙風筆雲鶴を畫き、山機霜杼(さうちょ)葉錦を織らむ。
天のように広い紙の上に風のように自由に筆をとばして雲間にかける鶴を描き、
また山が機となり霜が杼となって紅葉という錦を織るように、
立派な詩文を作りたいものだ。
この作品は、後人の聯句(れんく)とあわせて一首となっています。『萬葉集』にある大津皇子の和歌(巻8・1512)との関連が考えられています。
五言。臨終。一絶。
金烏西舎に臨(て)らひ、鼓聲短命を催(うなが)す。
泉路賓主無し、此の夕家を離(さか)りて向かふ。
太陽は西の家屋を照らし、夕刻を告げる鼓の音は自分の短い命をせきたてるようだ。
黄泉路には客も主人もなくひとりきり、この夕べに家を離れて黄泉路へと向かうのだ。
『萬葉集』にある挽歌(巻3・416)に通じるものがあります。こちらの方が一人死に向かわねばならない大津皇子の哀切な響きが強いように思います。
参考文献
佐竹昭広、木下正俊、小島憲之共著『萬葉集 (本文篇・訳文篇・各句索引)』塙書房
小島憲之校注『懐風藻 文華秀麗集 本朝文粹 日本古典文学大系69』岩波書店
坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注『日本書紀 下 日本古典文学大系68』岩波書店