番外編

大津ファンクラブの会長職にありながら、実は大伯皇女の歌の方が好きなのです(^^;)
というわけで、大伯皇女の歌を紹介します!


大伯皇女の作品

    大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首 
 
 我が背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし(巻2・105)
  二人行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(巻2・106)

 この二首は、相聞歌に分類されています。大伯皇女は天武天皇の皇女。伊勢神宮の斎宮を務めていました。大伯皇女を訪ねて伊勢までやってきた同母弟の大津皇子が明日香の都に帰るのを見送ったときの歌とされています。この姉弟は、幼い頃に母である大田皇女と死別しています。大田皇女は、天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后である鵜野讃良皇女(持統天皇)の同母姉です。彼女が生存していたら、天武天皇の皇后は大田皇女となり、皇太子の座は大津皇子のものとなったかもしれません。
 父である天武天皇の崩御によって、大津皇子の立場は非常に危うくなりました。現皇太子である草壁皇子は、鵜野皇后の子。しかし、大津皇子がとても評判がよいのに対し、草壁皇子は凡庸だったようです。大津皇子は鵜野皇后に警戒され、謀反を起こしたという理由で死を賜ることになります。そんな大津皇子が伊勢に向かったのはなぜだったのでしょう。死を覚悟し、長い間別れて暮らしていた、たった一人の姉に会いたかったのでしょうか。大伯皇女は、大津皇子を「大和へ遣ると」と言っています。そこには、帰したくはないけれど帰さなければならない、そんな気持ちがあるように思います。また、詞書の「竊かに」が、おだやかならぬ状況を物語っています。大津皇子の伊勢行きは、いくつかの問題を抱えています。天皇以外の男性が伊勢神宮を訪ねていること、天武天皇の病状が思わしくない時期(伊勢行きの時期については天武天皇崩御の前後両方の説があります)に都を離れていることなどです。このことは大津皇子にとって謀反の疑いをかけられる材料になったかもしれません。それを承知で伊勢に行ったのだとすると、自らの死を覚悟していたことになりそうです。大伯皇女もその緊迫 した状況を理解していたからこそ、弟を明日香に帰し、その姿が見えなくなってもなお見送り続けたのかもしれません。たった一人で秋山を越え、明日香へと帰っていく弟を思う大伯皇女の気持ちが痛いほど伝わってきます。

   大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首
  
神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに(巻2・163)
  見まく欲り我がする君もあらなくになにしか来けむ馬疲らしに(巻2・164)


   大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首
  
うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む(巻2・165)
 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありとはいはなくに(巻2・166)

    右の一首は、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢神宮より京に還る時に路の上に花を見て、感傷哀咽して、
   この歌を作るか。
 大津皇子が死を賜った後の歌です。挽歌に分類されています。大伯皇女の歌は全部で六首『萬葉集』に載っていますが、すべて大津皇子のことを詠んでいます。大津皇子の死後、大伯皇女は伊勢から京へと戻ってきます。「もう、会いたいと思う大津皇子はいないのに、何をしに京へ戻ってきたのだろう。」大津皇子を失った大伯皇女の悲しみの深さがうかがえます。
 二上山に移葬された大津皇子。現世にいる大伯皇女は、二上山を弟として見つめていきます。この後、京に戻った大伯皇女がどのように過ごしたかは、一切記録に残っていません。わかっているのは、大津の死より15年後、41歳で薨去したことだけです。大津皇子を失った悲しみが癒されることはなかったのでしょうか。
 「磯の上に生ふる馬酔木を…」についている注釈ですが、別に移葬の際の歌としてとらえても問題はないような気がしているので、詞書通りにわたしは読んでいます。


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