戦間期ヨーロッパとロマン・ロラン 山 口 俊 章




 戦間期ヨーロッパの諸状況との関わりにおいて、この時代のロマン・ロランの文学・思想をめぐる三つのテーマについて論究したい。
  一つは、第一次世界大戦後の仏・独・伊関係、とりわけドイツおよびイタリアの動向に対するロマン・ロランの見方である。『ジャン・クリストフ』の作家は、この時期、『魅せられたる魂』などの作品を書きつつ、イタリアのファシズム、またドイツのナチズムの動きをどう見ていたか、ということであるが、要は、それがロランの文学・思想にどういう影響を及ぼしたかということである。
  二つ目は、ロシア革命とその後のソ連の動向に対するロマン・ロランの見方である。ロランは、ロシア革命を擁護し、レーニンやゴーリキーに共感を寄せ、ロランなりに社会主義やその社会についてのイデー、イメージを描いたが、やがてスターリン体制となったソ連をどう見たかという問題は、みずから訪ソしてスターリンとも会見しているルポルタージュ『モスクワ紀行』が公刊されている現在、なお明らかにされるべきであろう。そしてここでも、ソ連および社会主義ないし共産主義に対するロランの見方は、彼の文学・思想にどう作用したか、というところに帰着する。
  そして三つ目のテーマは、戦間期のロマン・ロランが、ガンジーなどインドの思想に関心をもつにいたった内面のプロセスはどうであったのか、その関わりにおけるロランの思想・信条、あるいは精神の内奥を窺うことはできないか、ということである。

戦後と『自由芸術』

  ヨーロッパでは、戦間期ないし両大戦間という言葉、フランス語でいうl'entre-deux-guerresという言葉が定着し、こともなげに使われることがあるが、これは実に恐ろしい言葉で、二つの世界大戦の間に二十年ほどの間隔しかなかったことから生まれた言葉であろう。ヨーロッパでは多くの人びとが両次大戦を経験したわけで、しかも先の大戦が終わって結ばれた講和条約が、次の大戦の原因ともなりかねないことが確実視されるという現実があった。この時期、すなわち第一次大戦が終結した一九一八年十一月から、第二次大戦が勃発する一九三九年九月までの年月、ロマン・ロランは五十二歳から七十三歳の年齢を生きることになるが、そこにおける彼の文学的・思想的営為はどのようなものであったろうか。
  第一次大戦の終結直後、一九一九年三月、ヨーロッパの十字路ともいうべきベルギーのブリュッセルにおいて、『自由芸術』L'Art libreと称する雑誌が発行された。これは、フランス生まれの画家ポール・コランPaul Colin(一八九二−一九八五)、当時二十七歳の編集によるもので、最初は半月刊、後には月刊となって一九二二年六月まで、五十三号にわたって発行されたものであるが、ロマン・ロランはこの雑誌について、「戦後の当初数年間の国際的な芸術・思想に関するフランス語による最も貴重なもの」と評価した。
  芸術の独立を主張する『自由芸術』の指針の一つは、大戦中のロマン・ロランの「戦いを超え」たヒューマニズムとインターナショナリズムであった。「西欧の知識人の共感の絆」をつくりだすことを謳う『自由芸術』は、戦後の「世界の再生に協力する」ことを主張するが、しかしまだヴェルサイユ講和会議が進行中で、フランスではドイツへの報復熱で世論が沸騰しているさなかに、昨日までの敵国との融和を求めることは、多くの敵をつくることでもあった。ポール・コランは、すでに第四号(一九一九年五月)において、同誌が「敗北主義」defaitismeの烙印を捺されていることを取り上げ、これに正面から反駁した。
  すなわち、コランは、「われわれの指導者ロマン・ロラン」を擁護することが敗北主義ならば、われわれはたしかに敗北主義者であるといい、「ロマン・ロランはヨーロッパの良心を裏切らずにわれわれの世代の魂を救った唯一の指導者である」という。そしてまた彼は、バルビュスHenri Barbusse(一八七三−一九三五)や、年代のより近いデュアメルGeorges Duhamel(一八八四−一九六六)のように、戦場にあってなお「自己の最良の部分との崇高で内密な対話を中断しなかった」人びとに敬意を表しつつ、「人道主義と平和主義のユートピア」を信じることが、あるいはまた「武装解除されて勝利者の意のままにされている敵を侮辱する連中」を侮ることが敗北主義ならば、われわれはいかにも敗北主義者であると論じた。
  このように、『自由芸術』は、ロマン・ロランを師表としつつ、平和によって解放された人間と芸術の自由を叫び、インターナショナルの旗幟を掲げるとともに、諸国の芸術・文学・思想の動きを報じるほか、各国の芸術家・知識人らに誌面を提供し、その後のヨーロッパ規模の運動の先鞭をつけたのである。
  とりわけ、ロマン・ロラン自身の関わりを挙げれば、第八号(一九一九年七月)に、ロランの起草になる『精神の独立宣言』がロランほか十二カ国五十名の作家・知識人らの署名とともに掲載されたが、そこには、アインシュタイン、ヘルマン・ヘッセ、エレン・ケイ、ハインリッヒ・マン、ジュール・ロマン、バートランド・ラッセル、シュテファン・ツヴァイクら、戦間期に活動する国際的な自由主義知識人が名を連ねている。ヴェルサイユ講和条約調印と同時に公表されたこの『宣言』は、大戦中のロランの孤独な闘いの結晶として生まれたもので、戦後のロランの言論活動のスタートであり、戦後ヨーロッパ世界への訴えであった。
  『自由芸術』はまた、同じ一九一九年八月号を手始めに、バルビュスを中心とするクラルテ運動について大々的に報じたが、これが機縁となって、やがてこのクラルテ運動に加わることを留保するロランとバルビュスとの間に論争が生まれることになる。
  この論争について少々触れると、発端は一九二一年十二月の『クラルテ』Clarte誌に、バルビュスが『義務の他の半面−−ロラン主義について』と題する論説を発表し、クラルテ運動に加わることを留保するロランに対して、精神の独立を信奉する知識人には政治行動への無関心、いな嫌悪さえあることを指摘し、それは「超脱」あるいは象牙の塔への隠遁であると批判したことであった。そしてバルビュスは、知識人の義務は古い社会組織を破壊すべき批評活動とともに、新しい秩序の建設に積極的に参画することであるとし、その後者の義務に関わろうとしない傾向をロラン主義と決めつけたのである。
  これに対して、ロランは、『自由芸術』(一九二二年一月)に寄せた公開書簡でこう述べた。「私を知り私の著書をただの一冊でも読んだ人なら、その語調が〈超脱した〉人間のものであるか−−それとも逆に、世界のさまざまな苦しみに心を引き裂かれ、そのような苦しみを少なくするか、あるいは和らげるかするために闘っている人間のものであるかが分かるでしょう」。そしてロランは、『クラルテ』の発足当初から創設者たちの精神とは一致しないことを感じてきたとしつつ、バルビュスの文章を引用し、「『クラルテ』の一般的諸原則が(……)規定している革命的社会幾何学に誤算はありえない」とする、そうしたいわば教条主義を批判する。そしてさらに、「私はまた、あなたが共産主義の大義のためになしうる最大の奉仕は、その弁護をおこなうことではなく、率直かつ真正な批判をそれに加えることであると固く信じています」と直言したのであった。
 この論争は、当時の状況を反映し、知識人の在り方のいわば倫理性を強く問うものとして記憶される。つまり、彼らの前には、一方で革命の生みの苦しみの中からソヴィエト連邦を樹立しつつある国があり、またスパルタクス団の蜂起が鎮圧されて革命と反革命がせめぎあう中でワイマール共和国が誕生するという状況があった。そして他方、米英仏日の四連合国がロシア革命に対する干渉戦争を起こし、あるいはヴェルサイユ条約にもとづく賠償問題で苛斂誅求する疲弊した戦勝国のナショナリズムがあった。そうした現実は、正義とヒューマニズムを国境の内側にのみとどめることができない知識人にとって、座視しえないものである。バルビュス=ロラン論争は、そうした諸状況の倫理性のもとで理解されるべきであるが、当時誕生して間もないコミンテルンの影響下にあったバルビュスに対して、理想主義者であるがゆえに特定のイデオロギーや現実に妥協しえないロランの懐疑が作用し、二度の応酬があったものの、争点は対立したままに終わった。だが、ここには、両者の対立を超えて、その後のヨーロッパ、ひいては世界における人間の「当為」あるいはアンガージュマンをめぐる争点の原型が見出されるという点で、忘れがたいものであった。
 『自由芸術』は、ほかにも、ジョルジュ・デュアメルの『戦争と文学』という戦争体験者ならではの痛切な論説、あるいはマルセル・マルチネの『ロマン・ロランの作品への序説』と題する連載ものなど、いまなお有意義な論稿を掲載し、歴史の評価に耐えうる成果を残したが、これをいわば発展的に継承したものが、創刊者としてロマン・ロランの名をとどめる雑誌『ヨーロッパ』である。

『ヨーロッパ』に拠る言論活動と『魅せられたる魂』

  一九二三年二月、月刊誌として誕生した『ヨーロッパ』Europeは、編集主幹に作家のルネ・アルコスRene Arcos(一八八一−一九五九)とポール・コランが当たり、当初はロマン・ロランの名を掲げていないが、ロランの慫慂のもとに発行されたことは周知の事実であろう。
  戦間期のロランの言論活動は、主としてこの『ヨーロッパ』誌を舞台に展開されるわけであるが、一九二〇年代と三〇年代前半に同誌に発表された論説の多くは、『闘争の十五年』Quinze ans de combat(一九三五)として一冊にまとめられている。それらの内容を見れば、その間のヨーロッパの現実が如実に示されていると言ってよいが、一九二〇年代においては三つのライトモチーフがあって、第一は独仏和解のために、第二はイタリアのファシズムに抗して、第三はソ連擁護のために、というものである。
  第一の独仏和解のためにということでは、『ジャン・クリストフ』の作家の考えはきわめて明瞭である。以前の両大戦間、すなわち普仏戦争が終わった一八七一年から第一次大戦勃発までの大戦間を舞台に、ドイツ人の音楽家を主人公とする大河小説を書き、作者自身とほぼ同時代の独仏間の歴史的運命を超克ないしは克服すべき人間像を描き上げたロランは、独仏の戦いを「兄弟殺しフラトリシッド」として糾弾したのであるから、一九二三年のルール占領(ドイツの賠償義務不履行を理由としてルール地方にフランス軍を進駐させた)に際し、これは「独仏間の戦争再開と両国相互の破壊をもたらすであろう」と強く批判した。フランスの「抑圧者たちは、恐るべき未来に彼らの子どもを陥れている」というロランの声は悲痛であった。
  そしてまた、ロランは、同じ一九二三年の冬、『ドイツの不幸な人びとの救援を、フランス人に訴える』というアピールを発し、「苦悩を前にしては、もはや勝者も敗者もない」としてこう訴える。「ドイツの民衆が餓死しようとしている。罪のない多数の人びとが戦争の災厄の結果をむごたらしくも償っている。(……)いにしえの騎士道のフランス−−力強いユゴーはその最後の歌い手であった−−は、戦場に手を差しのべ、その傷に包帯をしたものだった。四年前に戦争は終わった、と人びとは言い、大地の新たな生命がその収穫物による盛んな風化で戦場を覆い隠している。しかし敗者は依然として横たわっており、救いの手もなく死んでいるのである。」
  こうして、ジャン・クリストフやオリヴィエたちの次の世代を案じ、かつ彼らに訴えかけるロランは、第二のライトモチーフ、つまりイタリアに台頭するファシズムに抗して声を上げなければならない。
 イタリアのファシズムは、終戦直後の一九一九年三月に結成されたイタリア戦闘ファッシを起源とするが、これはムッソリーニらの〈革命行動ファッシ〉のグループが中心となって結成したもので、やがてファシスト党を名乗り、ローマへ進軍して一九二二年十月にムッソリーニが政権を掌握した。この政権は以後二十年にわたる長期支配を続けることになるが、一九二五年一月にはムッソリーニによるファシズム独裁宣言、翌二六年には統領(ドゥーチェ)就任というように独裁体制を確立した。
 ロマン・ロランはその年、一九二六年四月、ムッソリーニのトリポリにおける戦争挑発行為に抗議して、『戦争とその挑発の手先らに抗して』という一文を書いたのを初めとして、イタリア・ファシズムへの批判を展開していくが、『闘争の十五年』の序文として載せた「パノラマ」にこう書いている。

  「イタリアは、私の青年時代、私の心情と思想の生活、また私の友情において、非常に大きな位置を占めていたので、私の運命とイタリアの運命とはからみあわないではいなかった。(……)イタリア人に対するイタリア・ファシズムの罪悪に、ヨーロッパに対する罪悪、すなわちムッソリーニが振りかざした戦争の脅威が加えられた。(……)戦争に反対する者は、戦争挑発の手先との闘争に入るべきであった。ムッソリーニがトリポリで戦争をあおりたてた翌日、−−私は(……)その闘争に入った。」

  ロマン・ロランの読者はよく知るように、大作『魅せられたる魂』が書かれたのは、一九二一年六月から一九三三年九月にかけての十二年間であり、これはいま少々振り返ったイタリア・ファシズムの台頭から独裁的支配の確立にいたる時期とほぼ重なっている。そして、『魅せられたる魂』は、一八七五年生まれとされている主人公アンネット・リヴィエールの二十三歳から六十歳までの生涯を描いていることからして、実際の歴史の年代では、一九〇〇年のパリ万国博覧会あたりから、この作品が完結された一九三三年までを背景としている、ということになる。言い換えれば、この作品の舞台背景は、作者ロランが生きてきた、そして現在なお生きている二十世紀の現実であり、同時代史なのである。ロランは作家としてもっともむずかしい方法を選び、あえてそれに挑戦した。それゆえ、作品の第六巻、もう終わりに近い『予告する者』の第二部「フィレンツェの五月」において、主人公の息子マルクがファシストによって刺殺されるという場面が描かれもすることになる。
  このように、ロランは評論なり論説なりで取り上げるファシスト批判を、小説に描きこむという手法、第二次大戦後に流行する言葉を用いるならば、いわゆるlitterature engageeを先取りしていると言ってよいであろう。

ロランのロシア革命観・ソ連観とインド思想

  ここで本論の二つ目のテーマであるロマン・ロランのロシア革命およびソ連についての見方(これは前記第三のライトモチーフであるソ連擁護と重なる)に移りたい。
  ロランは、二十一歳のとき、トルストイに手紙を書いて以来、トルストイを通してロシアの魂ともいうべきものに触れ、戦前一九一一年に『トルストイの生涯』を著していたが、トルストイの深い大きな愛への心服によって、ロシア民族、ロシアの民衆に対するいわば愛着を感じていた。ロシア革命に対するロランの共感は、イデオロギーや革命思想によるものではなく、トルストイという鏡に映した鏡像によるものであったと言ってよい。すでに一九〇五年の革命の敗北を知るロランは、『トルストイの生涯』においてこう書いている。

 「特にロシア民族はすべての民族の中でも真のキリスト教が浸透した国民であり、したがって来るべき革命はキリスト教の名によって結合と愛の掟を実現すべきである。(……)ところでこの愛の掟は、悪に対する無抵抗の掟にもとづくのでなければ成就されえないのである。」

  これはロマン・ロランならではの高邁な革命観である。ロランはこの美しい眼鏡で一九一七年の十月革命を見、これを「新しきヨーロッパ」の出現ととらえ、たとえば一九一九年十月には、『ロシアの兄弟のために−−飢餓封鎖に反対して』という一文を『ユマニテ』紙に寄せたのである。彼はそこでこう述べる。

  「連合国であるとゲルマン国であると中立国であるとを問わず、ヨーロッパ諸国の結束したブルジョワジーによるロシア革命の鎮圧行動は忌まわしい犯罪である。(……)古びて腐敗した秩序を更新する試みはいずれも圧し潰されるであろう、ロシアのわれわれの兄弟の混沌とした、しかも壮大な努力が今日圧し潰されているように。しかし、より正しくより人間的な新しい秩序に対する永遠の憧憬は、決して消えないであろう。千回絞め殺されても、それは千一回よみがえるであろう。」

  このロシア革命論は、先に見たバルビュスの歴史的必然論ないし共産主義無謬論とは似而非なるものであるが、ともかくこの頃のロランの見方はそうしたもので、そのファシズム観の厳しさ、厳密さに比べて、革命観はかなり主観的で、ロマンティックでさえあると言ってよいであろう。
  さて、このロシア革命観との関わりで、本論の三つ目のテーマ、インド思想についてここで触れなければならない。ロマン・ロランはなぜ、この時期、インドの思想に深い思い入れを示し、タゴール、ガンジー、ラーマクリシュナ、あるいはヴィヴェカーナンダについての著書をあらわしたのであろうか。明らかなことは、大戦によってヨーロッパがずたずたになりながらも、なおみずからの力で対立を克服することができず、禍根を残している現実を前にして、ロランが必死に出口を求めていることである。
  終戦直後、ロランはアメリカのウィルソン大統領に宛てて公開状を書き、「大統領閣下、こんにち諸国の政治を指導するおそるべき名誉を担っているすべての人びとの中で、ただあなただけが、世界的な道徳的権威を享有しておられます。すべての人があなたを信頼しております」として、「みずからの道を見出そうとし、(……)模索しているこれら諸国民に助力をいただきたいのです」と、いわば哀願した。しかしアメリカは、モンロー主義の伝統ということか、ヨーロッパから身を退いて国際連盟にも加盟しなかった。
  ヨーロッパは自己救済をすることができない−−この絶望的ともいえる認識が、ロランにロシア革命の可能性に期待を抱かせたと同時に、もう一つ、非暴力・不服従の思想によってイギリスと戦うインドが、ロランの言葉を引用すれば「ガンジーの遠い星が私の思想の地平線にあらわれ、私は西欧に向かってその光を投射する鏡になろうとしていた」(『闘争の十五年』)のである。

  「その数年間、私の精神を支配していた大きな影響は、ガンジーの影響であった。彼に捧げた私の小著は、一九二三年二月に脱稿したばかりであった。」

  ロランはいう。「私は、私が愛する人たちのために、われわれの西欧のために、嵐を防ぐにはどういう避難所が、どういう胸壁がよいか探し求めていた。その時、私は、インダスの平原から、弱々しいがしかし不屈なマハトマがうちたてた城砦が立ち現れるのを見た。そして私は、ヨーロッパにその城砦を再建しようと努めたのである。」(同書)
 その間の事情をもう少し見ておきたい。タゴールらとの親交などを通して、「私はインド思想の内奥に一層深く入ることができた。私がそこに類似の特質を見出したことは、かなり大きな発見であった。(……)出獄直後で、重症の治療中であったガンジーが、一九二四年三月、最初の手紙を私に送ってきた。(……)私は続く数年の間、西欧におけるガンジーの思想の代弁者となり、彼の論説集『若いインド』のフランス語版の序説で、彼の思想をヨーロッパの社会活動に結びつけようと努めた。」
  しかし、とロランは強調する。「どういう時でも、私はロシア革命の大義と、闘争の中での新しい世界のヘラクレス的建設を見捨てず、また後方に追いやりさえしなかった。私は水と火を融合させ、インドの思想とモスクワの思想とを調和させるという、逆説的な仕事に献身していた」。そして彼は、『若いインド』の序説においても、こう断言した。「マハトマの非暴力と、その明白な反対者である革命家たちの暴力との隔たりは、この英雄的な不服従と、あらゆる圧政のコンクリートでありあらゆる反動のセメントである、永遠の服従者の卑屈な不動心との隔たりよりは小さい」と。
  ロランはまた、戦前の苦い思い出に立ち返りつつ語る。「私は先駆者『ジャン・クリストフ』の終わりで、戦争勃発の二年前、フランスとドイツが手を結ぶよう懇請した。というのは、この二国は《西欧の二つの翼であり、片方が折れると片方では飛べなくなる》からである。−−それと同じように、戦後、私は、ソヴィエト連邦の戦闘的共産主義とガンジーが組織し指導する不服従運動のなかに、革命の二つの大きな翼を見たいと思った。(……)ソ連とガンジーのインドとの二つの理論は、現在まさに陥ろうとしている破滅から人間世界を引き出すことができる、二つの最も壮大で最も有効な実験、ただ二つの有効な実験であるように思われた。」(同書)
  ロランは、そうした願望は少しも実らなかったと言うが、しかし、ロシア革命とインドの非暴力・不服従抵抗とを両眼に収めつつ、これら二つの戦いが新しい時代を切り開いていくであろうと期待する、そのような見方をしていた人が世界に二人といたであろうか。ロランはインドの独立を見ることはできなかったとはいえ、彼の期待の正しさは歴史が証明しているところであり、またロランのこの正しさは、時のイデオロギーや政略論からのタンポレールなものではなく、人間と世界についての深い思索と認識にもとづく普遍的かつ恒常的な正しさであるからこそ、今日なお意味を持ち得ていると言ってよい。

一九三〇年代

  一九三〇年代に入って、経済恐慌、ナチスの政権獲得、ファシズム対反ファシズムの対立の激化、人民戦線の高まり、ソ連への信望とそれへの反動、新たな戦争の危機の顕在化、といった諸状況が相次ぎ、かつ輻輳していく中で、ロマン・ロランの世界認識、言論活動にも変化が表れてくる。
  一九三〇年一月、ロランは『パン・ヨーロッパについて』と題する一文を草し、クーデンホーフ・カレルギーの運動である「パン・ヨーロッパ」の名誉会員に推されたがこれを断ったとした上で、カレルギーの「理想主義的無邪気さの後光を着せている誠実な善意にもかかわらず、私は〈パン・ヨーロッパ〉の衣の下に、あまりにも多くの巨大な利害と未来に対する脅威の敷物を見る」としてこれを警戒し、翻ってソ連の誤りを非難するヨーロッパに対してこう断言する。「当初の大きな夢、剣のように鋭利で純粋なレーニンの思想がぶつかった失敗が、たとえいかなるものであるにせよ−−ソ連はつねにヨーロッパの『反動』に対する不可欠の障壁、あらゆる形のもとに西欧の血脈の中に忍び込むファシズムに対する必須の抑止力としてとどまっているのである。」(『闘争の十五年』)
  当時、欧米諸国は経済恐慌に見舞われ、とりわけドイツ・ワイマール共和国は、アメリカから流入した資金で賠償金を支払っていた実情であったから、アメリカの恐慌による資金の引き揚げによって経済が急速に危機状態に陥った。公務員給与の支払いが困難になり、失業者が増大する中で、とりわけ国粋主義派は恐慌の原因を賠償負担のせいであるとして騒ぎ立てる。そうした状況のもとで一九三〇年九月に行われた総選挙において、ナチ党はそれまでの十二議席から一躍一〇七議席を獲得し、投票総数の一八%に相当する六五〇万票を得票した。ワイマール共和国の崩壊は間もなくである。二年後の一九三二年七月の総選挙では、ナチ党は全体の三七・二%の得票をし、二三〇議席で第一党となる。しかしまだ過半数には達していなかったので、右翼の中央党との連立政府という形で、翌三三年一月、ヒトラー=パーペン政府が成立し、ヒトラーは念願の政権獲得を実現したわけであった。
  この間の社会状況を見ると、失業者の数が増えるのに比例してナチ党への投票数が増え、三三年のナチ党員は三九〇万人を越え、とりわけ若い世代、十八歳から三十歳までがその四二・七%、三十一歳から四十歳までが二七・二%、合わせるとほぼ七〇%にのぼった。一般に、ヒトラーは当時のドイツ人の価値観や庶民感情の過激な代弁者であったとか、ヒトラー神話の秘密は民衆自身の心の中にあったとか言われるが、特に忘れられないことは、ヒトラーは若い人たちによって支持され、政権を獲得したという事実である。若者が不安定な社会は危険である。政権についたヒトラーが、その後ただちに憲法の基本的人権を停止したり、あるいは全権委任法を通して政党政治を崩壊させ、ナチ党を唯一の合法政党としたことなど、第三帝国のいわゆる国民革命が始まることはここに改めるまでもない。
  ロマン・ロランは、当時『ヨーロッパ』の編集長であったジャン・ゲエノJean Guehenno(一八九〇−一九七八)に、次のような手紙を書いている。

  「『ヨーロッパ』誌がドイツの諸事件に決して無関心にならず、ヒトラーのファシズムの、とりわけ自由思想や知識人に対する未曾有の暴行に対抗するイニシアチヴをとることが不可欠であると私には思われます。」

  そしてロランは、その手紙を書いた翌日、すなわち一九三三年三月二日付の論説、『ヒトラーのファシズムに抗して』を手始めに、矢継ぎ早におよそ二十篇のファシズム批判を『ヨーロッパ』に掲載した。前記表題の論説はこういうものである

  「褐色のペストが初手から黒色のペストを凌駕した。ヒトラーのファシズムは、数週間のうちに、その師であり手本であるイタリアのファシズムが十年間かけてした以上の、卑劣な暴力を積み重ねた。(……)われわれは世界の世論に、これらの陰謀、これらの虚偽を告発する。すなわち、−−暴力的反動の一党派の手中に収められたすべての公権力、−−あらかじめ犯罪とするあらゆる公的な承認、−−息の根を止められた一切の言論と思想の自由、−−各種のアカデミーにまで政治が傲慢に干渉し、自己の意見を守る勇気を持ったまれな作家や芸術家を追放した事実、−−革命的諸党派のみならず、社会主義者やブルジョワ自由主義者のもっとも思慮深い人びとの逮捕、−−ドイツ全土にわたる戒厳令の施行、−−近代文明すべての基盤である基本的な自由と権利の停止、である。」

  ロランはまた、ケルンの新聞がロランについて取り上げたことに関して、こう反問した。

  「私がドイツを愛していること、そして私は外国の不正や無理解に対して絶えずドイツを擁護してきたこと、それは確かな事実です。しかし、私の愛するドイツ、私の精神を培ってくれたドイツは、偉大な世界市民のドイツ、−−他民族の幸福や不幸を自国民の幸不幸として感じとった人たちの、−−そしてさまざまな人種や精神の交わり(コミュニオン)のために働いた人びとのドイツなのです。
  そのようなドイツは、今日の《国家的》政府により、鉤十字のドイツによって、踏みにじられ、血まみれにされ、侮辱されているのです。この鉤十字のドイツは、自由主義精神、ヨーロッパ人、平和主義者、イスラエル人、社会主義者、「労働のインターナショナル」を樹立しようとする共産主義者を外へ排除しているのです。−−この《ナショナル=ファシスト》のドイツが真のドイツの最悪の敵であること、−−このドイツが真のドイツを破滅させていることが、どうしてあなた方には分からないのでしょうか。(……)あなた方は、ドイツに対する陰謀について語るほうを好んでおられる。あなた方に対して陰謀をたくらんでいるのは、あなた方、あなた方自身、ただあなた方だけなのです。」(一九三三年五月十四日)

  自国に対する陰謀を語るほうを好む、というのは、言論の自由を失っている国か、あるいは他国の自由を尊重しない国かの通弊であろうが、ロランは、偉大なコスモポリタンの国ドイツがそうした有様になったことを憂えつつも、彼が信じる真のドイツへの愛着を抱き続けると述べるのであった。

ファシズムとの闘い

  こうして次々と発せられるロランの批判の矢は、すでに六十代の後半に入ってしかも病気がちのロランの決意のほどを示しているが、それは「ファシズムとわれわれの間には、死闘あるのみ!」(三四年二月十日)という言葉が示すように、第一次大戦時の「戦いを超えて」という立場とは異なるものであることを明らかにしていた。
  ここで想起されるのは、バートランド・ラッセルの場合である。よく知られているように、ラッセルも第一次大戦に反対して平和主義の立場を貫き通したが、ナチズムを批判して第二次大戦は支持した。これには当然、二つの大戦の原因や経緯、ひいては本質の違いが関係しているわけであるが、ここではその問題に深く立ち入ることは控えたい。ただ、ロランにせよラッセルにせよ、先の大戦は理性的に考えて、双方に正義も正当な理由もなく、まさしく帝国主義的な利害得失の争いであるとして反対した。少なくともその争いは政治的に解決されるべきであった。理性とヒューマニズムの立場を貫くことからは、そうした考えが導かれるであろう。両者ともに、ナショナリズムという感情の操作から超脱しえた存在であった。
  しかし、ファシズムとなれば、これは理性とヒューマニズムの立場ゆえに、単に客観視しえない、打倒すべき対象に違いなかった。ロランのファシズム観はこういうものである。

  「ファシズムは、資本主義的反動の最後の痙攣−−おそらくは致命的な痙攣である。国家とその政治的生命に害毒を伝染させている腐りつつある政体のあらゆる病原体−−帝国主義、国家主義、人種主義、植民地の犯罪行為、国際的財界による労働界の搾取、いかがわしい利権あさりのあらゆる巨大な形態、堕落したブルジョワ的知能がドゥーチェやフューラーたちに捧げている高慢と隷従のあらゆるイデオロギー的痴呆化、これらが何倍もの力で活動しているのである……」(『パリの民衆に訴える』二月六日のファシスト暴動ののちに)

  これが書かれたのは一九三四年であるが、ロランはおそらく、レーニンの著名な『帝国主義論』を読んでいたであろう。レーニンと同様、彼も資本主義の最終段階としての帝国主義という見解をとり、その特徴としての独占、そのイデオロギー的形態としてのファシズムの特質である全体主義、議会政治の否定、一党独裁、市民的・政治的自由の抑圧、対外的侵略政策、さらにはもっぱら感情に訴える国粋的思想といった要素をやや文学的な表現によって指摘している。そして『魅せられたる魂』の後半、『予告する者』には、そうした見解が示されていることを読者は知っていよう。アンガージュマンの文学としての『魅せられたる魂』は、ファシズムとの闘いでもあったのである。
  ロマン・ロランのファシズムとの闘いは、論説集『革命によって平和を』Par la Revolution, la Paix(一九三五)にまとめられているが、このタイトルに端的に示されているように、ロランは「闘争し建設する革命的平和主義」というアクティヴな姿勢で、実際に体を運ぶことはないとしても、数々の運動に参画していった。一九三二年四月、バルビュスが「戦争に反対する全党派世界大会」の計画をロランに持ちかけ、その発起委員会に加わるよう求めたことから、アムステルダム=プレイェル運動が始まる。ロランは、終戦直後に、バルビュスから、行動しない純粋モラリストとしてロランディストと批判されたが、いまやあの時はバルビュスが正しかったとして、積極的に共同歩調をとった。こうして二人の署名によるアピールが発せられ、八月二十七日から三日間、アムステルダムに三十八カ国から二、一九六名の参加者を得て開かれたのが「世界反戦会議」である。これには、注目すべきことにドイツからの出席者が最も多い七五九名に達し、ナチ党が第一党に躍進した直後という時期に、そのドイツの労働者や政治家が大挙して反戦・平和の意思表示に馳せ参じたのであった。
  ここで『アムステルダム会議の宣言』が採択されたが、それは、一九一四年の苦い経験を忘れるべきではないこと、報復的なヴェルサイユ条約が国際的不和とドイツ・ファシズムを助長した元凶であること、国際連盟は帝国主義列強の力の発現の場に過ぎないことを挙げ、いまや帝国主義は資本主義体制から発生した経済危機を武力闘争に変貌させつつあり、それは各植民地や中国大陸で現実のものとなって、いずれはソヴィエト連邦を共通の敵とするであろうことを指摘し、「帝国主義戦争が全世界に波及しないとはいえない」と警鐘を鳴らした。
  この宣言はロマン・ロランの筆になるものであった。そしてロランは、このメッセージは執筆中の『魅せられたる魂』の「プログラムそのもの」であったと言うのである。
  こうして始まった「世界反戦会議」の第二回会議がパリのプレイェル会館で開催されたことから、以後、アムステルダム=プレイェル運動と呼ばれることになるが、この運動が次の革命作家芸術家協会を中心とする文化運動と相まって、フランスでは「人民戦線」の大きな推進力となり、ファシズムを阻止することに成功する事実は、歴史に刻印されて忘れられることがないであろう。

ロランと革命作家芸術家協会

  革命作家芸術家協会Association des ecrivains et des artistes revolutionnaires(略称A.E.A.R.)は、一九三〇年十一月、ウクライナ共和国の首都ハリコフで、第二回国際プロレタリア・革命作家会議が開かれ、その時の決議によって、国際革命作家同盟フランス支部として、一九三二年三月に結成されたものである。
 協会は、翌三三年七月、機関誌『コミューヌ』Communeを創刊したが、その監修委員会に名を連ねているのは、アンリ・バルビュス、アンドレ・ジッド、ロマン・ロラン、ポール・ヴァイアン=クーチュリエの四名、そして編集主幹はルイ・アラゴンとポール・ニザンの二名である。この雑誌は月刊で、一九三九年九月まで、つまり第二次大戦が勃発するまで発行されるが、監修委員ないし編集主幹として、最初から最後まで名をとどめるのはロランとアラゴンの二人だけである。
  ロランはこの雑誌に、不定期に文章を載せているが、注目すべきものは、一九三五年五月の第二一号に掲載された『今日の社会における作家の役割について』という一文である。
  ロランはここで、作家の役割について語るには、まず「作家が現在いかなる条件の下に生活し、行動し、かつ創作しなければならないか」ということを決定することであると述べ、現在は「文明全体、人類が、激しい変化の状態、−−戦争の状態にある」として、「それゆえわれわれに課された真の問題は」、「戦争状態の社会における芸術家の役割について」というものであると言う。

  「われわれは運命によって大きな闘争のさなかに生まれたのです。われわれがその闘争から遊離することは許されません」。それが今日の作家・芸術家が置かれた条件である。だが、「芸術家の大多数はまさに闘争から身をひいています。そしてそのことを誇り高い精神の道義であるとし、また当然に身をひく特権のある芸術の使命(誰から授かったものか?)であるとしています。もっともらしい理由にはこと欠きません。真の芸術家には、自己の内面の世界に沈潜する権利があり、また義務があるという言い分に対して、誰も異議を申し立てずにいます。(……)しかし、その場合に真の芸術家にとって大切なことは、内面の世界に閉じこもったまま再び出てこず、 自分だけ安全な場所に身を避けているということではなく、その内面の世界から新しい力を汲みとって、次には行動の世界へと立ち戻らねばならないということなのです。ところが今日の西欧では、非常に多くの芸術家たちが、あらゆる手段をつくし、あらゆる口実を設けて、そのことから逃れようとしているのです。精神の独立とか、唯美主義とか、作家の品位とか、永遠なる芸術とか、芸術自体とか−−鎖を引きずって媚びへつらう奴隷のいろいろな玩弄物が大手を振っています。云々」

  明らかなように、ロマン・ロランはファシズムとの闘いとともに−−加齢とは反比例して−−アンガージュマンの旗幟を鮮明にしてきた。そして、しかし、この時代には、ひとりロマン・ロランのみならず、あるいはフランスの作家のみならず、世界の多くの作家・芸術家が同じような危機意識を抱き、こうした問題にぶつからざるを得なかったわけで、ロランはその先駆者であったとすべきであろう。
  革命作家芸術家協会は、一九三五年六月、パリで、三十八カ国から二三〇名の作家らが参加した文化擁護作家会議を開催した。「われわれ作家有志は、幾多の国々で文化を脅かしている危機に直面し、文化擁護の手段を検討し討議するための会議を開催することを提唱する」というのがその趣旨であったが、そこでは、文化遺産、ヒューマニズム、民族と文化、個人、思想の尊厳、社会における作家の役割、文学創造、文化擁護のための作家の行動、という八項目のテーマが論じられた。いずれも時の現実と対峙することなしにはすまされない喫緊の諸問題であり、五日間にわたった会議では、ナチ・ドイツから亡命した作家らも交えて、危機感に充ちた白熱の論議が展開された。
 ロマン・ロランはこの会議に参加しなかったが、開会の冒頭に彼の電文によるメッセージが読まれ、また幹部会員に選出されるなど、その存在は重きをなしていた。なお、この会議から、文化擁護国際作家会議が誕生し、一九三七年七月には、スペイン戦争さなかのマドリードとバレンシアにおいて第二回会議を開催し、人民戦線擁護に立ったほか、国際義勇軍を組織する一翼を担ったことも特筆しておかなければならない。

ロランのソヴィエト旅行

  最後に、ロマン・ロランの一九三五年のソ連訪問について触れておきたい。
  ロランは、すでに一九二七年に、ソ連から十月革命十周年記念の祝祭に国賓として招かれていたが、その際は健康上の理由で訪ソが実現しなかった。その後も、作家ゴーリキーの招きが何度かあったようであるが、この一九三五年、六十九歳の年に、六月から七月にかけてのおよそ一カ月間、ソ連を訪れることになった。この訪ソは、ゴーリキーの招きという形であったが、ロランの希望でスターリンとの会談がセットされ、なかば公式訪問というべきものであった。
  この訪問に関連して、まず二つのことを見ておく必要があろう。その一つは当時の仏ソ関係であり、他の一つはソ連の政権周辺の事情である。
 一九三三年のヒトラー政権の成立は、フランスとソ連の接近を促した。ナチ・ドイツの再軍備の要求を拒否したフランス政府は(すでに三二年十一月に仏ソ不可侵条約が結ばれていたが)、三四年九月にソ連の国際連盟への加盟を支援し、また三五年五月には仏ソ相互援助条約を締結した。外相ラヴァルは同月十三日に訪ソし、スターリンら首脳と会談して友好関係を確認し合ったが、明くる六月二十三日にモスクワ入りしたロランの訪問は、そうした仏ソ関係の雰囲気の中でなされたのであった。
  だが、他方、当時のソ連政権の内外では、容易ならぬ権力闘争が陰に陽に進行しつつあった。三四年十二月に起きたレニングラード・ソヴィエト議長キーロフ暗殺事件を契機として、三六年に本格的に始まるいわゆるモスクワ裁判で裁かれる一連の「反革命陰謀」は、ロランの訪ソ時にはまだ一般には明らかではなかったと思われるが、しかしロランは滞在中にそうした事態を徐々に認識したと見受けられる。
  ところでこの旅行には、スイスでロランの秘書を務めているロシア人のマリー(マリーヤ)・クーダチェヴァが、ロシアで生活している息子のセルゲイに会いに行くなどの私的な目的もあった。実はロランは、一年前の三四年四月、二十九歳年下のマリーと結婚しており、ロラン夫人となったマリーはフランス国籍を取得していたが、一九二二年に彼女が初めてロランに手紙を書いて以来の文通に始まる両者の関係は、いくらか機微に触れるところがあって、簡明ではない。
  ここで必要な限りをいえば、文通を始めてから七年後の一九二九年八月、マリーはロランに招かれ、ゴーリキーの仲介でパスポートを入手して初めてスイスを訪れた。それから二度の短い滞在を経て、マリーは三一年八月からロランのもとで秘書として居住したのである。ロランは同じ月、「ソ連の友の会フランス支部」の名誉会長を引き受けているが、彼のソ連への共感と支持はマリーを得ていよいよ熱烈となり、『魅せられたる魂』に登場するアーシャ(亡命ロシア人でマルクの妻となる)には、マリー(ロランは彼女をマーシャと呼んだ)の面影や思想が投影されている。
  そして、他方、ロランの周辺では、マリーはクレムリンの「使命」を帯びていると断ずる向きさえあって(デュアメル、イストラティ、ギルボーら)、ロランはこれらに対してイストラティと絶交するなどの対抗措置もとらなければならなかった。
 ともあれ、そうした重圧をも背負ったロラン夫妻は、一九三五年六月十七日、スイスを出発し、ウイーン、ワルシャワを経て六日後にモスクワに着いた。老体にはやや苛酷な鉄道の旅であった。それからの一週間、ロランはモスクワに滞在し、その間にスターリンとの会見などの日程をこなしたのち、郊外のゴーリキーの別荘に移って、七月二十一日まで多忙な日々を過ごした。
  その間の日常は『モスクワ紀行』Voyage a Moscouに克明に記述されているが、この旅行の歴史的な意義は、ロランにとっては、西欧の作家・知識人として長年熱い眼差しを向けてきたロシアの地を初めて訪れ、自分自身の目で、革命を経たソ連とその国民を見たことである。そしてとりわけソ連の最高指導者スターリンと会見し、その人間とじかに接したことは、理念的になりがちなソ連観をただすためにも有益であったろう。
  翻って、ソ連もしくはスターリンにとっては、社会主義国家として躍進しつつあると同時に、反体制勢力が台頭する難局にある時、西欧の高名な同伴者が訪れてソ連を称えてくれることは、何ものにも代えがたい慈雨であった。会見の冒頭、スターリンは、「世界で最も偉大な作家とお話することができて光栄です」と挨拶したが、それは真情であったろう。
  これに対して、ロマン・ロランは次のように応じた。「私の健康が許さず、もっと早くこの偉大な新しい世界を訪れることができなかったことが大変に残念です。貴国は私たち全体の誇りであり、私たちは貴国に希望を託してまいりました。もしお許しいただけますれば、私はソヴィエト連邦の古くからの友人であり同伴者であるという二重の資格において、また西欧の証人、フランスの青少年やシンパサイザーのオブザーバー、親友として、あなたとお話させていただきたく存じます。」
  こうして始められた二時間にわたる会談は、国際的な経済危機、道徳的危機から、ソ連のキーロフ事件や裁判などの国内問題に及び、またマルクス=エンゲルスの理論へと展開されたが、総じてロランの問いにスターリンが答える形で、率直な対話に終始し、両人ともに満足した様子が窺われる。ロランはとりわけ、ソ連の政治が公開性に欠け、そのことが西欧諸国に誤解や疑念をもたらしかねないことを指摘したが、スターリンは、キーロフ事件を詳しく説明しつつ、国内外のテロリスト集団がソ連政権の打倒をめざしてさまざまに暗躍していること、ツァー時代の残滓の存在は傍目で思うほど簡単なものではないことを挙げ、それぞれの国に固有の条件があるとして理解を求めた。そして彼は、ソ連は世界の資本主義諸国に存在する二つの体制、すなわち自由民主主義諸国とファシズム諸国とのうち、前者と連携して後者とは対決していくとして、最近の仏ソ相互援助条約の締結を説明した。
  ロランは、その日の日記に、スターリンは写真とは違うと記し、「絶えずまっすぐな力強い視線を向け、謎めいた微笑をたたえている」が、その微笑は真心のこもったものか、あるいは冷淡さか、うかがい知れないところがあるとし、しかし「気さくな男」で、しかも自制心を失うことがないと、その人柄に複雑な強い印象を受けたことを書きとめている。
  その後、ロランはゴーリキーと対面し、ソ連を代表する作家に国家から貸与されていた郊外の別荘へ案内され、そこで二十日ほど滞在した。そこでは、ソ連の多くの作家や政治家の訪問を受け、対話や意見交換をしているが、ロランは疲労のために休養を余儀なくされたほどであった。
  そしてまた、ここでは、いまやマリー・ロランとなった妻の息子夫妻との出会いがあり、ロランは初めて義父の立場に置かれることになった(こうしてロシア人の身内を持ったことが、この先、ロランの言論活動に多少とも掣肘を加えることになる事実は、いずれ明らかにされよう)。
  このように内容の詰まった四十日間ほどのモスクワ旅行は、単にロラン個人の思い出にとどまるものではなく、いわば歴史的な出来事として正確に再認識されるべきである。この翌年、すなわち一九三六年六月、おなじくソヴィエトを訪問したアンドレ・ジッドの旅行記『ソヴィエト紀行』(一九三六)と『わがソヴィエト紀行修正』(一九三七)が世に喧伝されたのは、ジッドの文学的・思想的問題もさることながら、何よりも彼がソ連に失望し、そのことを率直に書いたからであった。それに引きかえ、ロランの場合は、ソ連擁護の先入観ゆえであろうか、その証言の貴重さにもかかわらず、長らく世に問われることもなかった。
  さて、ジッドのソ連訪問は、ゴーリキーの葬儀に遭遇することとなったが、その死を悼む哀切きわまりない弔辞を『ヨーロッパ』に載せたロランも、モスクワ裁判の進行につれてさまざまな事実を知り、やがてゴーリキーの死も暗殺であったことを認めざるを得なくなる。この頃からのロランの世界認識や心情については、いまだ公刊されていない『日記』を披見することなしには、正しくは分からないとすべきであるが、しかし研究者によってすでに明らかにされている部分もあり、また紙誌に公表されている文章から推して、ロランがなお決して絶望せず、その理性の光と理想の炎を輝かせていることは確信できる。「私が擁護しているのはスターリンではない。それはソ連なのだ。」(一九三七年十二月の日記。『モスクワ紀行』序文でのベルナール・デュシャトレ氏の引用による)という言葉は、それを物語って余りある。
  だが、しかし、ヨーロッパ内外の情勢は、スペイン戦争、フランス人民戦線の崩壊、ミュンヘン協定、そして一九三九年八月の独ソ不可侵条約締結へと、平和と希望を打ち砕きつつ、人びとの願いを裏切っていく。そうして同年九月三日、第二次世界大戦の勃発である。
  ロマン・ロランは、その日、ダラディエ首相への公開状を書いた。
  「フランス共和国が、全ヨーロッパに押し寄せるヒトラーの暴政の行く手をさえぎるために立ち上がった、この決定的な日々に、−−これまでもつねに第三帝国の野蛮、不実、狂った野望を告発した、老いた平和の闘士にお許しいただき、−−今日危機に瀕しているフランスと世界の民主主義の大義に対する全面的な献身を、あなたに表明させてください。」

  こうして両大戦間という時代が果てた日に、七十三歳にしてこのようなペンを握ったのは、ロマン・ロランその人の運命であったかと考えさせられるのである。

(関東学院大学大学院教授・仏文学)