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�� 三巨匠に共通する思想
ゲーテ、ベートーヴェン、ロランと三つの名前を並べると、人間的には、自己自身に対する誠実さと、一生かかって自己形成をとげていった�狎検紅�展する魂�瓩箸いΧδ姪世�あるのがわかります。共に教養の窮極的体現者だったということもできます。
また、十九世紀ドイツの詩人ゲーテと音楽家ベートーヴェン、そして激動の二十世紀を知識人の良心として生きたフランスの作家ロランというふうに、ジャンルや時代を分けてみても、なおそこにある思想の共有性に、あらためて驚かされます。最後にその辺を、大雑把ですが、まとめてみたいと思います。
ナショナリズムを超えた「世界市民」という感覚
芸術家、とくに音楽家や美術家の中には、自分の世界にこもって、社会の出来事や世界の動きに無関心な人がいるものです。しかしベートーヴェンはそれとはまったくちがうタイプでした。先にも触れましたが、行きつけのカフェやレストランで熱心に新聞を読み、国内ばかりかヨーロッパ各地で起っているさまざまな出来事─たとえば植民地からの独立戦争や農民一揆─などにも深い関心をよせていました。とくにイギリスの議会制民主主義を高く評価していたことを、多くの人々が証言しています。
そこにはベートーヴェンの広い国際的視野と、他国民に対する人間的な連帯感が表われています。十九世紀当時はまだそのような概念はありませんでしたが、彼が「世界市民」という感覚の持主であったことは疑いないと思います。
二十世紀のロマン・ロランは第一次世界大戦の勃発時に、敵味方を問わずヨーロッパ文化を守ろうと「戦いを超えて」を書いていますし、南アフリカやインド、中国や日本の政治状況にまで関心を持ちつづけていました。ですから、「世界市民」の感覚は当然のように身についていた人でした。
しかし、ロランをいわゆるコスモポリタンとは言えないと思います。彼は、自分がフランス文化に根を持つ人間であることを十分意識して、「私は自分がその民族の純粋な代表者だと自覚している」と言っています。あの『コラ・ブルニオン』などでは、フランス人でなければ描けない土着性の体現者を主人公にしています。ただ、人類＝人間の未来を、フランスの未来と同様に、あるいはそれ以上に、深刻に憂慮していたのは確かです。
そして、こうした考え方を貫いたことで、ロランがいかに高い代償を支払わねばならなかったかは、『クレランボー』を読めばわかります。平時にはもてはやされる人類愛も国際連帯も、いったん戦争が起これば、いや、二国間に利害の対立が起っただけで、簡単に忘れられます。相手を憎むことを拒否する、あるいは自国の対外政策や世論に反対あるいは同調しないというだけで、ナショナリストから「売国奴」として敵視され、多くの同国人から白眼視されることになるからです。ロランは一時、「フランスの公敵」とみなされていたのでした。
悲しいことに、こうした社会風潮はその後もけっしてなくなりはしませんでした。戦争中の日本では「非国民」のよび名がそれに当りますし、現にアメリカでは「愛国心の欠如」が、まるでその人の最大の人格的欠陥であるかのように語られるために、人々もマスメディアも戦争反対を表現しにくくなっているといわれています。そういう社会状況の中で志を曲げずにいるためには、観念的なコスモポリタニズムだけでは無力です。ちなみにコスモポリタニズムとは、「民族や国家を超越して、世界を一つの共同体とし、すべての人間が平等な立場でこれに所属するものであるとする思想」と「大辞泉」に出ています。志は壮大ですが、民族や国家をどうやって「超越」するかが問題なのです。
ところでゲーテという存在が、後世の私たちにとって思想的なモデルとなりうるのは、彼がけっして観念に走らず、いつも現実に目を据えて、実践的に行動しながら自分の考えを生み出し鍛えてきたことでした。彼は少年時代から何カ国語も学び、大学に入った頃はフランス語で手紙を書いたり、将来はパリに出てフランス風の作家になろうと思ったりしていたようです。当時のヨーロッパの上流社会では、そうした傾向が強かったのでした。これを一種のコスモポリタニズム、あるいは現代風に国際化と見ることもできます。
しかし青年ゲーテは先輩のヘルダーに出会って、自分の軽薄さをこてんぱんにやっつけられるのです。自分の種族のエートスに根ざさない単なる外国崇拝は、単なる知的流行にすぎないことを思い知らされたのです。彼は、ヘルダーに協力してアルザス地方の民謡を収集することによって、ドイツ語独自の言いまわしや美しさを発見して、自分の詩作に新境地をひらくことになります。また「鉄腕ゲッツ」や「ファウスト」などのドイツの大地に育まれた民間伝承に着想をえて、後世に残る作品を創造するようになったのです。
でもだからといってゲーテは、けっして自国文化至上主義にはなりませんでした。自分が政府の要人として人生の大半を過したのが、小さなワイマル公国だったせいもあって、彼は、小さな地方がそれぞれの条件を生かして特性のある存在となり、それらがより集って豊かな文化や多様な産業を発展させることを理想としていたのでした。近代的に統合された中央集権的な国家は、彼の理想とするところではなかったといわれています。
こうしたゲーテの考え方を現代風に言いかえれば、自分のエスニシティを自覚して文化的アイデンティティを確立した者でなければ、真のインターナショナリストにはなれないということであり、また画一化は貧困化に通じるということになりましょう。従って彼が言ったという「これからはもう国民文学の時代ではなく、世界文学の時代がそこまで来ている」という言葉も、人々が世界共通の言語で似たような発想の文学表現をするようになるだろう、という意味ではなく、世界中のそれぞれ特色のある文学が、対等な立場で広く交流して刺激しあい、より豊かで多様な表現が生れる時代がほどなく来るだろう、という意味で受けとめるべきではないでしょうか。彼は翻訳という仕事を、大切な文学活動として認めていたと言われています。
ここで私が強調したいことは、この三巨匠が共有する「世界市民」という感覚もまた、このような文脉で理解しなければ危険だということです、ギリシャ・ローマに発し西欧を源流とする�犹毀鵜畫�や�猝閏膽腟銑瓩�、唯一普遍的な社会モデルとして、現在アメリカがしているような形で世界中に伸展されるならば、それは経済のグローバリズムと同様に、異文化の人々にとっては、文化的な覇権主義、あるいは文化的植民地化となるからです。
エコロジカルな自然観の共有
文豪というよび名のかげにかくれがちですが、ゲーテはれっきとした自然科学者でした。人間の間顎骨の発見者というタイトルもありますが、何よりも重要なのはその自然観でした。彼は、鉱物や動・植物、あるいは光による色彩の変化などを入念に観察した結果、独自の自然観に到達したのです。それによれば、自然はそれぞれ相互につながりあった有機的なネットワークであり、部分的に分断すればそれはもはや生きた自然ではなく反自然化するというのです。しかも、観察する者とされるものの関係も、観測結果を左右すると主張しました。
従って自然の本質（＝真理）は、人間の謙虚な観察によって直感的（＝象徴的）に示されるものであるとされます。これは、当時絶対的な権威を持っていたニュートン的な計量や分析では、生命ある自然のダイナミズムはとらえられず、むしろそれは、自然に対する人間の不遜な越権行為だということになります。基本的に、科学は自然の征服ではなく、自然を敬意の対象としなければならない、というのがゲーテの主張でした。こうしたゲーテの自然観は、長いあいだ素人のたわ言、あるいは時代おくれでとるに足りないものとして無視されてきました。
ところが二十世紀になって、ニュートン力学に代わる相対性理論や量子力学が抬頭し、ノーベル物理学者ハイゼンベルクなどは、合理的分析に片よりすぎた近代科学への反省から、ゲーテ的自然観を再評価したのです。そして、自然破壊が気象異変をひき起すまでに危機化した今日、やっと私たちも、ゲーテの視点で自然を見ることの大切さを知るようになりました。
ベートーヴェンはどうかと言いますと、彼は文筆家ではなかったので、自然についてまとまった考えを書き残しているわけではありませんが、彼が無類の散歩好きだったことはよく知られています。自分でも「私ほど自然を愛する者はいません」と手紙に書いたりもしています。森や丘のたたずまい、樹々のそよぎや小川のせせらぎなどは、耳が不自由で孤独な彼にとっては、かけがえのない憩いと慰めの源泉でした。
またそれ以上に、彼は自然というものに、宇宙の哲学的反映を見ていたことが、『日記』に記されたカントの『一般的自然史と天体の理論』からの抜萃にうかがえます。ベートーヴェンの作品にこうした自然との関わりが反映しているのは当然で、六番の交響曲『田園』や『第九』はその代表的なものと言えましょう。『田園』について彼は、「私は音によって田園を描写したのではなく、人が田園に感じる雰囲気を表現したのだ」と語っています。
シラーの詩を使った『第九』の合唱の場合、普通には人類愛のオマージュとして知られていますが、次のような歌詞を見ると、人間だけでなく地球上のすべての生きものへの愛がうたわれているのに気づかされます。
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「生きとし生けるものはみな
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善なるものも、すべての悪なるものも
自然のバラの花道をたどる。」
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もちろんこれは、ベートーヴェン自身の詩ではありませんが、彼は『第九』の中でシラーの原詩をはしょったり、順序を入れかえたりして、自分自身の理想の表現にひきつけて歌詞としていますから、この部分も強調したいテーマだったことは疑いありません。
こうして見ますと、ゲーテもシラーもベートーヴェンも、現代で言うところのエコロジストの先駆者だったのではないでしょうか。
ではロランの場合はどうだったかと言いますと、彼が最初に心惹かれたベートーヴェンの音楽が、少年の日に聴いた『田園』だったというのが、まず象徴的です。そして六十歳を前に人生を回顧しつつ書いた『内面の旅路』を、その出版に際して「ヴィルヌーヴの親しい胡桃の老樹に」献呈しています。その頃病気回復期にあったロランは、自室の窓から見えるその大きなクルミの木を、自分の夢の打ち明け手にしていたというのです。
そんなところにも、ロランの自然との親近感がうかがえますが、地球環境を破壊してかえりみない人間の罪をはっきり告発した言葉が、一九一六年に書かれた『クレランボー』の中に見られます。これは四年前のこの場でもご紹介しましたが、次のようなものです。
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「彼〔クレランボー〕は、人類が殺人的運命に身をささげているのを見た。地球を荒らし、他の種を滅ぼしたのちに、人類はわれとわが手で身を滅ぼしつつあった。」
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女性的なるものへの敬意
自然への敬虔さと女性への敬意が、一人の人間の中で必ず一致するとはかぎりませんが、この三巨匠の場合には、三人ともそこに通底するものがあります。そして「近代の創造性という神話は、自然・女性・第三世界の搾取の上に成り立つ」という現代インドのエコロジカル・フェミニスト、ヴァンダナ・シヴァの言葉を参照すれば、自然破壊の危機と共に家父長制社会の偽善を見ぬいていたこの三巨匠には、ここでもまた先駆者の姿を見ることができます。
ゲーテの多彩な女性関係にはフェミニストからの批判もありますが、本質的に彼はデリケートな感性の持主であって、マッチョな男性でなかったことは確かです。もし、女性を征服し服従させることに自分の男らしさを求めるタイプであれば、感性にも知性にも秀でていたシャルロッテ・シュタインやマリアンネ・ヴィレマーのような既婚女性との、長期にわたる不思議な友愛関係などは持ちえなかったはずです。
そして何よりも、畢生の大作『ファウスト』の最後に置かれた言葉─「永遠に女性的なるもの、われを引きてゆかしむ」─にゲーテの女性観が集約されていると見てよいのではないでしょうか。
ベートーヴェンの場合も、ゲーテ同様に、マリー・エルデーティやドロテア・エルトマン、あるいはテレーゼ・ブルンスヴィックやベッティーナといった、何人ものすぐれた女友だちに恵まれています。恋人にも、美しく魅力的である以上に、彼の音楽を理解し、彼の内面的価値を共有できる女性であることをを求めていました。”不滅の恋人”と目されているアントーニア・ブレンターノはその最たる人でした。そしてベートーヴェンが一生、結婚も同棲もしなかったのは、できなかったのではなく、女が男に支配されるという当時の家庭内の男女関係がもたらす束縛に、「居心地の悪さ」を感じていたからだ、ということが現在ではわかっています。これは当時としては、途方もなく先進的な考え方でした。
また、ベートーヴェンが残した唯一のオペラ作品『フィデリオ』には、「夫婦の愛」という副題がついています。原作はフランス人ブイイの台本ですが、革命が恐怖政治に傾いていった時代に、不当に投獄された夫を救出しようと、妻が男装して牢獄に潜入し、恐怖に打ちかって運よくそれに成功するというドラマです。ベートーヴェンはこのオペラにひじょうに愛着し、大変な苦労をしながら三度もこれを書き直していますが、そこにも彼の女性観が表われているように思えます。
女友だちということでは、ロマン・ロランも前の二巨匠に劣らず、マルヴィーダはいささか例外としても、ソフィア・ベルトリーニやクリュッピ夫人をはじめ、いく多のすばらしい交友関係を持っていました。ロランの極端なまでにデリケートで傷つきやすい魂は、男性とよりも女性との方が共感しあえたのではないかとさえ思います。
彼自身、「戦いを超えて」を発表して�爛侫薀鵐垢慮�敵�瓩箸覆辰燭箸�、男性の友人たちはすべて離れてゆき、支持してくれたのは女友だちだけだったとどこかに（たしか『内面の旅路』で）書いています。そしてその理由は、心に支配されがちな女性にくらべて、祖国とか愛国心とか正義とかいった観念に支配されやすい男性は、社会の風向きが変ると、長年の友愛も信頼もたちまち捨て去ってしまうからだ、と言っています。
そして何よりもロランの女性観を示すものは『魅せられたる魂』のアンネットです。彼女こそ、観念の倫理ではなく心情の倫理に従って生きた典型的な女性だからです。それまで多かれ少なかれ古い道徳観と個の自立の間で葛藤していた女性にとって、これは新たなアイデンティティの拠りどころとして画期的なものでした。さらにロランのすごい点は、アンネットという人物に完全に同化して、差別された女性の目で社会を見ることによって、文明社会全体の偽善性と矛盾、そして途方もない浪費を発見して、それを告発しているところです。ロランは、ユングのいうアニマ・アニムス両要素を一身にそなえた作家だったのかもしれません。
ちなみにこのアンネットのビヘイヴィアには、ロランが愛してやまなかったベートーヴェンの女友だちテレーゼ・ブルンスヴィックのそれが反映していると以前に申しあげましたが、最近もう一つ気がついたことがあります。それは、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』中の一章「美しい魂の告白」のモデルとされるクレッテンベルクの生きる信条が、アンネットのそれとよく似ているということです。ここにも両巨匠の思想的親近性が見られます。
東方へのまなざしと、ある種の宗教的神秘思想
ゲーテもベートーヴェンも、そしてロランも同じヨーロッパ文化の伝統に養われた知識人ですから、あい似た読書傾向を持っていたとしても不思議ではありません。ギリシャ・ローマの古典の教養などは三人とも共通しています。ベートーヴェンについては、かつて、音楽家としては偉大だが基礎教育をおろそかにされたため、自分の姓も正確に綴れぬほど無教養だったなどと書かれたことがありますが、彼の『日記』を見れば、それがとんでもない誤解だったことがわかります。
そしてこの三人が共通して愛好していた作家は誰かというと、それはシェイクスピアでした。哲学者では、ゲーテとロランが共にスピノザから強い示唆をえているのに興味を惹かれます。ベートーヴェンの場合はカントでした。
また、フランスではどうだったのか寡聞にして知りませんが、ドイツでは十八世紀の後半からイギリス経由で東洋ブームが起り、インドやイスラムの宗教書や古典文学、あるいは旅行記などがさかんに翻訳・紹介されたようです。知的好奇心が旺盛なゲーテもこれに大きな影響を受けたようで、少年時代から聖書と共にコーランを好んで読み、二十代にはマホメットを主人公とした詩劇を構想していたといわれます。
ゲーテはインドを恐れていた、とはよく聞く通説ですが、これはあまりにも一面的解釈です。たしかに彼は、インドの美術、とくに彫刻にはどうにもなじめなかったようですが、文芸については、早くからの「崇拝者だった」とゲーテ自身が言っています。四十二歳頃には、古代インドの詩人カーリダーサの戯曲『シャクンタラ』に熱狂してその上演を企てたり、二世紀頃の大叙事詩『ラーマーヤナ』に心酔したりしています。
また一八一三年には、「中国関係のことを熱心に研究した」と友人への手紙に書かれていますし、翌年には日本にも関心を持っていたことがうかがえます。その頃には、アラビア語の勉強もしていたようです。しかしゲーテにとって画期的な出来事は、一八一四年に、中世ペルシャの詩人ハーフィズの『詩篇』と出会ったことでした。前述しましたように、それはちょうど、ナポレオンの没落の時期と一致しています。
ナポレオンに多大の期待をかけていたゲーテは、おそらくその時、先の見えない混沌に投げこまれた人の不安と絶望にさいなまれていたと思われます。そうした状況下で逃げこんだハーフィズの詩に、戦乱の中にあってもなお生を享受する魂の自在さと壮大な詩的ヴィジョンを発見して、文字通り魂を奪われたのです。そこにエキゾティシズムなどはありません。ゲーテは身も心もあげてハーフィズに一体化し、現実の閉塞感から解放されると同時に、四〇〇年の歳月と西と東を隔てる文明の壁を一挙にのり越えることに成功したのです。のちに彼が提唱した「世界文学」という概念は、このような体験に裏づけられていると言えましょう。
ゲーテと同時代人であったベートーヴェンもまた、一八一五年から一六年頃、ホメロスやプラトンの著作と共に『シャクンタラ』や『ナーラーヤナへの頌歌』、あるいは『バガヴァット・ギーター』のような叙事詩や戯曲だけでなく『ブラーフマニズムの宗教体系』や『リグ・ヴェーダ』などのインドの宗教聖典にまで親しんで、それらからの抜萃を『日記』に書き残しています。しかしこれは、文学的関心からではまったくありませんでした。
一八一二年秋からの六年間、絶望と不毛の中にいたベートーヴェンは、古今東西の賢者たちの思想に自分の苦悩を重ねることによって、運命をひき受けながら運命を越えるという東洋的な解脱の道を会得していったのでした。ロマン・ロランは、当時の彼の孤独、彼の窮極の苦悩は、それまで彼が信じ、そのためにたたかってきた近代的な〈権利〉と〈自由〉という観念だけでは、もはや支えきれなかったのではないかと言っています。
こうして見ますと、ゲーテが詩的昂揚によって獲得した自国文化中心主義からの脱却を、ベートーヴェンはより痛切な人生の挫折体験によって会得した、ということもできましょう。そしてベートーヴェンの死後、その遺品の中から、いくつかの詩にしるしがつけられたゲーテの『西東詩篇』の初版本が発見されています。おそらく、作曲するつもりだったものと思われます。それは実現しませんでしたが、両巨匠のまなざしがほとんど同じ時期に、東方へと向けられていたことを私たちに教えてくれます。
ロマン・ロランとインドとの関わりについては、森本達雄さんが専門のお立場から十年ほど前にこの場で講演されて、「ユニテ」二七号に掲載されていますので、私が申上げるまでもないと思います。いまこの混沌の現代にあって、もし私がつけ加えることがあるとすれば、それはロランがかつて述べた「ヨーロッパはもはやヨーロッパだけでは自分を救うことはできない」という東西の相互協力への希求は、青春時代に私が想像していたような、予定調和的な人類の一致を夢みていた理想主義者の発言ではなかったということです。ここにはもっと切迫した、痛切な思いがこめられていたのではないでしょうか。それほどヨーロッパを含めた世界を見るロランの眼は暗く、彼の絶望はそれほど深かったのだと、いまは理解できます。
そしてロランは、タゴールという千古の知恵に養われた芸術的魂と、ガンジーという清貧の極みにある非暴力の戦士と、ラーマクリシュナという宗教的神秘思想家に見いだした、インドの三千年を貫く精神の富を明らかにすることで、人類が近代文明の危機からぬけ出す道をさぐろうとしたのではなかったのか、とも思えてくるのです。もちろんロランは、ある目的をもって近づいたわけではありません。森本さんも指摘しておられるように、むしろ彼はそこに、自分の魂の奥深く眠っていたものとの親近性を感じて、心からの共感を覚えたものと思われます。
しかしロランのこうした魂の指向性は、ヨーロッパではまったく理解されなかったようです。とくに『ラーマクリシュナ』の場合がそうで、この本が出版された一九二九年に、パリでロランの親しい友人たちの集りに同席していた片山敏彦は、意外にも彼らでさえこの本には反対で、「ロランは気が狂ったのか」とささやいていた姿を見たと、当時の『日記』にしるしています。そして「しかし自分にとってはここにこそロランのユニークな魅力がある」と片山は続けています。
たしかにロラン自身、もし人が彼を理解しようとするなら、その鍵は彼の宗教的神秘思想にある、とどこかに書いていたという記憶があります。しかしこの言葉には、かつても今も、大いなる誤解をともなう恐れがあります。私なりに解釈すれば、たとえばそれは、自然観察においてゲーテが主張する自然に対する人間の絶対的敬虔さや、ベートーヴェンの『第九』や最後の「弦楽四重奏曲」群などに感じられる、神とひとり対座する瞑想の世界に通じる性質のものではないでしょうか。
む す び
こうして三人の巨匠たちの思想を追ってきますと、十九世紀のゲーテとベートーヴェンにも、それから一〇〇年後のロランにも、その背景には戦乱と革命の嵐が絶えず吹き荒れていたのがわかります。またメッテルニヒ体制やファシズムの影の下で、先の見えない重苦しい時代にも遭遇しています。
しかしそうした中にあっても、ゲーテもベートーヴェンもけっしてめげることなく、柔軟に、あるいは剛直に身を持しつつ、自分の仕事は「未来の人々」のためにあるのだと悠然と生きていたのです。ロランもまた自分の絶望に打ち勝って、時には万人に抗する一人となって、人間性の理想を守るために発言し続けたのでした。
私たちはいま、戦後六〇年を経て、さまざまな危機が予測される困難な世紀を生きてています。けれども、そのきびしさはまだまだ三巨匠の比ではありません。これくらいでめげていては、彼らに期待された「未来の人間」とは言えません。巨匠たちの生きた姿を思い起こし、そこから無限の教訓をひき出しながら、若い世代の人々と共に、自分自身の残りの人生を意味あるものにしたいと願っております。ご清聴ありがとうございました。
これは、二〇〇五年六月二十五日に、関西日仏学館で行われたロラン研究所主催のセミナーでの講演をもとに、時間切れとなった後半部分に大巾に加筆して、再構成したものです。
なお、文中に出てくるベートーヴェンの『日記』は、メイナード・ソロモンの校訂で岩波書店から訳書が出ています。
（評論家）
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