加古祐二郎と瀧川事件など                ―――加古日記を繙きながら-―― 園 部 逸 夫


    はじめに

 私が、何故ロマン・ロラン研究所の主催により、この講演をお引き受けすることになったのか、経緯を申し上げる。ロマン・ロラン研究所は北白川銀閣寺前町、俗称半鐘山の麓に置かれているが、半鐘山の開発による宅地化が周辺の住民に影響を及ぼすということで提起された環境行政訴訟に、私がかねて行政法、行政訴訟法を専攻して来た者として興味を抱いたことが発端である。私の立場は右の訴訟の行方とは直接関係がない。ロマン・ロラン研究所を開いた宮本正清(以下、特別の場合を除き、故人と親戚には敬称を省く)の配偶であった廉子は、私の亡妻路子の母なみの妹であったが、昭和三〇年(加古日記の暦年表示に合わせ、西暦は用いない)に死去し、当時路子と婚約中であった私は、関西日仏学館での葬儀に参列したのを覚えている。正清とはその後ほとんど逢っていない。日赤の病院に家内と見舞ったのが最後である。しかし、そのような縁があり、また私が法律学を専門にしているということもあって、正清と加古祐二郎の長姉ツタから、祐二郎の遺した日記(以下、「加古日記」という)の保管を託された。偶々、ロマン・ロラン研究所で、そのようなことに触れたところ、同研究所の理事でもある小尾俊人さんのお声がかりもあって、理事会で決ったからということで講演する運びとなったのである。
 もとより、ロマン・ロラン研究所にとって記念すべきロマン・ロラン没後六〇周年の行事という点では、私の講演は、いささかお門違いといわなければならないが、それはともかく、本日の講演についてご尽力頂いた関西日仏学館及びロマン・ロラン研究所関係の各位にお礼を申し上げる。
 祐二郎の兄弟関係は、加古哲太郎を長男とし、長女が吉田ツタ、次姉が長谷川なみ、次男が祐二郎、三女が宮本廉子である。加古日記は、後に、大橋智之輔・名和田是彦・福井厚・藤田勇・村田淳編著 「昭和精神史の一断面 ― 法哲学者加古祐二郎とその日記」(法政大学出版局、平成三年(以下 「精神史」という)の中にプライヴェートな部分を除いて採録された。長谷川なみは、加古日記では、祐二郎から小さい姉さん、なみ姉さんと呼ばれているが、本年一月一六日に百一歳の誕生日を迎え健在である。ただ、当時のことを回想する記憶力は衰えており、加古日記の記述で不明な点について質問することが出来ないのは誠に残念である。本日は、吉田、長谷川、宮本に繋がるいとことその係累のほとんどが来館しており、滅多にない機会を作って頂いたこと、私事ながら、この席をかりてお礼を申し上げたい。
 ところで、このような経緯のなかで、加古日記の保管について、偶然のことながら、祐二郎の兄、加古哲太郎の息女原田明子から、相談があり、その結果、私が現在、客員教授として関わっている立命館大学の図書館の特別書庫にある加古文庫の傍に保管して頂くべく、交渉の結果、学校法人立命館理事長川本八郎氏ほか関係者の賛同を得て、本日午前立命館大学(長田豊臣総長)において贈呈式が行われた。祐二郎に繋がる家系には現在法律関係者がいないため、今後の四散を防ぐためにも、加古文庫と共に保管されれば、祐二郎の研究者にとっても有益かつ貴重な資料となることであろう。なお、「精神史」には採録されなかった祐二郎の親族関係のプライヴェートな記述についても、原田明子の了承を得て、歴史的資料として、必要な範囲での公開が認められることになった。私の講演の中で、そのような事柄に立ち入ることが出来るのも、以上のような経緯があったことによる。
 さて、本日の講演の題目からはかなり離れるかも知れないが、加古日記から読みとれる、祐二郎の生活、その思想、その人間関係をめぐるエピソードを紹介することによって、大正から昭和にかけての、主として、京都のインテリ層の人間環境や京大関係の研究環境を振り返ってみたいと思う。そこから、祐二郎の人間としての、また学者としての姿が、すこしでも浮き彫りにされれば、それだけで、この講演をお引き受けした私としては望外の幸いと言わなければならない。ただ、遺著としての日記の精査にはかなりの時間が必要であるが、本日の演題に限ってみても、私のお話は、極めて不充分なものであることを予めお許し頂きたい。

 一、

 加古日記から見た人間祐二郎とその周辺 祐二郎の日記(以下「加古日記」という)と瀧川事件という表題であるが、基本的には瀧川事件の前後を通じて加古日記から何を読むかということである。加古日記では祐二郎はパスカルのパンセも読んでいたのではないかと思われる部分がある。パンセの由木康訳は、昭和八年に出版され、人気を呼んだ。祐二郎は昭和一二年に亡くなっているので、由木訳を読んでいたのではないかと思う。蔵書リストにはない。その中に次のような言葉がある。「絵を見るのに、真の場所ともいうべき、かけがえのない点は、一つしかない。画の技術では配景法が決定する。だが真理や道徳においては、誰がそれを決定するであろうか。」(一五一頁、白水社、平成二年)著者がこの世に遺して七二年経った加古日記についても同様である。祐二郎研究家として知られる村田淳(すなお)氏は、研究者としての立場から詳細な分析を加えられた。私は祐二郎に繋がる縁戚の一人として、村田氏の分析を参考にしながら、出来るだけ近づいて、繙いてみた。従って、私の分析は、法学者として全体を見渡した正しい観点からの客観的な分析ではない。私は「精神史」に寄せた一文の末尾に、次のように書いた。この気持ちは今も変っていない。
「私は加古祐二郎とは面識もなく、その専門においても、その思想においても、ほとんど交錯するところがないので、この日記が日本の法哲学にどのような意味合いを持つことになるのかも見当もつかない。ただ、大正末期から昭和初期にかけて短い人生を送った多感な少壮学究が、内では、家庭内の問題に色々と気を遣いながら、思索に沈潜し、外では、京大事件の当事者として屈折した感情を抱き続けて行く状況を、私は私なりに興味深く読んだのである。」(園部逸夫「加古祐二郎日記の公刊について」(「精神史」一四六頁)
 私の手許に預かっていた加古日記は次の四点である。他に詩歌集が大学ノート二冊ある。
 村田氏の時期分類に従えば次のように分けることが出来る。

@「思うままに 第五冊」(大学ノート)大正一四年一二月二八日〜大正一五年五月二〇日(甲南高校時代)
A「白路 第七冊」(大学ノート)大正一五年一〇月一一日〜昭和二年九月一二日(京都大学法学部学生時代)
B「Fragmente und meinen Gedanken」(大学ノート)昭和三年一一月五日〜昭和九年七月一日 (研究者とし て、京都大学から瀧川事件を挟んで立命館大学時代へ)研究室時代)
C「革表紙の「自由日紀」」昭和一〇年二月一一日〜昭和一一年四月二四日(立命館大学教授時代)

 @以前の期間とC以後昭和一二年七月二〇日死亡までの期間、又@とA、AとB、BとCとの間も欠けている。これらについては今後何らかの形で発見されるかも知れない。
 加古日記に現れた祐二郎の人間的特徴は、自己分析というか、自省というか、自己の内面に深く沈潜して、反省を繰り返す、沈潜型の人間といえる。加古日記の中でも言及されている、「アミエルの日記」に現れた自己の中に沈潜するといった感じの人間像である。日記の中には、淋しいという言葉があまりに屡々現れるので、昔の言葉で言えば、神経衰弱的ないしメランコリーな症状ではないかとさえ思われる。他方、祐二郎は、潔癖で、完全主義で、自尊心が強く、感情の起伏がはっきりしていて、落ち込むときは涙をこぼし、ゼルプスト・モルト(自殺)という言葉もよく出てくる。旧制甲南高校を出た祐二郎は戦前の旧制高校生の中でも教養主義の権化ともいえる。旧制高校は文甲、文乙、文丙、理甲、理乙があり、それぞれ第一外国語で分かれていた。私も旧制高校であった台北高校に、敗戦時一年在学、戦後第四高等学校卒の経験があるが、基本は教養主義であった(秦郁彦「旧制高校物語」、文春新書、平成一五年)、竹内洋「教養主義の没落」、中公新書、平成一五年)。旧制高校の文科の先生には哲学文学歴史の分野で優れた教授がいて、生徒の教養主義を十分満足させるものがあった。西田幾多郎も最初は四高の教授であった。祐二郎は文乙でドイツ語は卒業までにマスターしていた。旧制高校では、メッチェン(乙女)とか、エッセン(食事)とかゲル(財布又はお金)とか、生徒の間でドイツ語が飛交うのが常であり、それがエリート意識を支えていた。私も入学と同時に先輩がドイツ語で話しかけて来たので度肝を抜かれたことがある。加古日記も至る所にドイツ語それもかなり高度のドイツ語がちりばめられている。ドイツ語のほうが思索の表現としては使いやすかったのかも知れない。もちろん、加古日記は他人に見せることが主たる目的ではないので、ドイツ語は特段鬼面人を嚇すためのものではない。加古の教養主義はその読書にも現れている。旧制高校時代に誰もが一度は繙く定番の書物が次々と現れる。ゲーテ、シラーのような文学書、ヴィンデルバンド、ヘーゲルのような哲学書、阿部次郎や、漱石のような日本の文学書。旧制高校生は、これらを文字通り囓るか掠めるのが慣習として染みついていた。祐二郎は京大の学生時代に友人で理科系であった加藤正とエンゲルスの「自然弁証法」を翻訳して、岩波文庫として刊行しているので、ドイツ語は抜きんでていたと思う。松田道雄が三木清の講演会の後で三木に質問をしたのに引き続き、ある若い学生が自然科学の立場から三木の批判をし始め興奮のあまり卒倒したことがあるという。その学生が加藤正であったということを松田道雄自身が書いており、加藤には敬服したという(松田道雄「在野の思想家たち」一四六頁(岩波書店、昭和五二年)。当時から文科系の知能は語学で判断し、理科系の頭は数学で判断するなどといわれていた。弊衣破帽、朴歯の高下駄、破れ帽子にマント、余り綺麗でない日本手拭いを腰に長くぶら下げるのが流行であった。四高の友人がこの格好で髪を長くして金沢の繁華街香林坊を歩いていたところ、ジープでやって来た進駐軍の兵隊に捕まえられ、理髪店に放り込まれたことがある。不衛生この上ないというのである。服装のバンカラ度は高等学校によっても違うので甲南高校や三高はやや紳士的であったかも知れない。
 祐二郎の家庭環境は、比較的裕福で、祐二郎が一家を背負う立場ではないので、学資に困るような状況ではなく、本人も自分のことを、プチ・ブルジョワと書いている。旧制高校を出て、大阪近辺に住むという環境では、成績がよければ、多くの場合東京帝大か京都帝大に進学するのは当たり前のコースであった。理由ははっきりしないが、祐二郎は東京帝大が第一志望であった。兄の哲太郎は東京帝大法学部の出身であるし、別に不思議ではない。しかし、兄との葛藤もあり、両親を置いて東京に出ることがかなり難しい状況であったらしく、やむなく京大にするという状況になったことが日記の行間から読みとれる。東大に進学して、その先どうするかということについては、記述がない。基本的には兄と同じく、法科を目指すという気持ちであった祐二郎である。しかし、京大を目の前にして、法科を選ぶことにはかなり迷いがあった。元々哲学志向で、特に西田幾太郎に私淑していた祐二郎が、文学部を選ばず、法学部を選んだ理由は読みとれないが、京大の法科入学を切望していなかったことは確かである。ただ、父が控訴院判事であり、その後大阪で有数の公証人であったという家庭環境で、東京行きを断念するということになれば、好むと好まざるとに拘わらず、京大法科を選ぶのは当然の成り行きであろう。当時京大法科は、無試験で、志願者が定員をオーヴァーすれば入学試験があるといった状況で、祐二郎の進学時は偶々入学試験があったという。一緒に入学した法科の学生についても不満があったようで、その理由は、要するに法科の学生は、哲学に欠けるということであったらしい。そのような不満を抱えながら、祐二郎は京大法科に入学するが、西田幾多郎や田辺元との接触は絶やさない。祐二郎は、昭和九年六月二五日に「京都学派の危機―京大事件一周年に際して―」という題目で、(東京)帝大新聞に寄稿しているが、その中で、祐二郎は、「自分が京大の法学部を選んだ唯一の動機も又実に、その当時――大正一五年頃――ようやく独自的存在を発揮しつつあった当時の法学部の自由主義的なアトモスフェールとその学的良心のみなぎり、且又当時その全盛の頂点にあった京大哲学科及び経済学科の存在等に力強く魅かれたのであった」と述べている(世界思想社編・瀧川事件・記録と資料七六四頁、平成一三年)。副手から講師又は助教授に昇格させる人事の前に、恒藤恭から法理学を薦められ、末川博に断って、法理学の専攻を決めたのも、哲学への憧れを捨てきれなかった雰囲気がある。結局助教授への昇格に付いては、教授会の承認を得られず、小早川欣吾と共に講師への昇任が決る。承認を得られなかった理由は分らない。
 さて、加古日記は、毎日克明には付けられていない。時には数ヶ月のブランクがある。その理由は分らない。一方で毎日続けてかなり詳細に一日の行動を書きながら、急に長いブランクがあるというのが加古日記の特徴である。克明な日記を付ける人は、例えば寝る前に必ず日記帳を開くと思うし、私のように日記が続かない人間は、暫く続かないと、嫌になって、日記を止めてしまうのではないであろうか。間欠泉のような加古日記の在り方自体、祐二郎の精神作用を知る手がかりになるかも知れない。かなりの時間のブランクの間は、どのように暮らしていたのか、几帳面な性格の祐二郎が一定の期間、机の上又は引き出しの中にあったと思われる日記帳を全く顧みないということが何を意味しているのか、興味をそそる。祐二郎自身は、日記の空白の重さについて誰かの言葉を借りて述べて居り、「色々な仕事、雑務に追われているため、書くことの数限りないのに疲れてそのままにしておく様になる」と書いている。
 ところで、当時の学生や学者の日常生活の特徴は今と違って電話がないこともあって、いきなり他人の家の玄関を開けて入って行くということがある。祐二郎も、ふらっとでかけて親類はもとより。友人知人の家をほっつき歩くという有様が日記から伺われる。訪ねて留守であれば、家に戻るか他家を訪ねる。お互にそうであるから、あるときなど大阪の知人に会いに行ったら、その知人は入れ代わりに祐二郎の留守に京都に訪ねていたともある。人間嫌いの気味があると書きながら、他方で親しい知人や友人とは、屡々逢って話し込んだり、散歩に連れ出したりしている。時には一人で四条通り近辺の店にコーフィーを飲みに行く、映画も見る。当時の言葉で、シネマとか活動とか書いてある。入江たか子の名前も出てくる。映画館の前で市川春江に出会ったなどとも書いてある。朝日会館で、途中で出てきたが「紅雀」のアン・シャリイがよかったとも書いて居る。
 京大の寄宿舎に住み、父親が亡くなった後は、北白川小倉町に母親と姉のなみと同居していた。北白川の吉田の家には何かと言うと出かけて行ってそこで夕飯を済まして帰ったり、泊まったりすると言う状態であった。夜は遅く明け方まで読書をする。気がついたら二時だとか四時だったといことがよくある。親しい人とはよく遠い散歩、郊外のお寺、比叡山等まででかけ、帰りは四条当たりまで行ってカフェーや料理屋にも行くが、出てくる女性(ジンゲル等とも言う)には禄なのがいない等と書いている。生活には困らないから、使える金はほとんど書籍の購入に当てる。今で言うデートはどうかというと、これが徹底的なプラトニックで、「時々官能的なスチムルス(刺激(村田訳))を感じて一寸困る」(昭和九年七月一日)(「精神史」二五〇頁)と書いてはいるが、そのようなそぶりは外に見せない。列車や電車でよく逢う女性(今と違って満員電車ではない)を、ヴァイセ、ブラウ、ハイリゲ(村田氏は、白さん、青さん、清らかさんと訳している。けだし、名訳である。「精神史」一五八頁)。約束を破ってハイリゲに名刺を渡したといってその友人と不仲になるといった有様で、読んでいて、余りの修道僧的生活に、いらいらするほどである。女性との接触が全くなかったということでもないらしく、或ることがあったとおぼしき時の、そのあとの、落ち込みようは、尋常でない。晩年もっとも近しい女性の見舞いも病室に入るのを断ったというエピソードを、なみの次女矢島和子から聴いたことがある。旧制高校も当時の大学もいわば男子校なので、女性との間に一種の垣根があった。漱石の「三四郎」の世界でもある。
 祐二郎は優れたマルクス主義法学者と評されたが。加古日記を見る限りマルクスのマも出てこない。どちらかというと、大正期の人格主義や理想主義(村田)が表に出ている。しかし。当然あるべき日記が残されていないのは、晩年特高(特別高等警察)の追求を逃れるためであったかといという見解(村田)も否定できないものがある.。
 宮下正清はロマン・ロラン研究者であるということの故に、敗戦の年の六月一五日に中立売警察署へ拘禁される。長女の小枝子は当時まだ九歳、「幼い妹弟の面倒を見ながら留守を守らねばならなかった」という。「太秦の刑務所にさし入れに行った母が持ち帰る虱だらけの父のシャツと井戸端で洗う時、そこに滲んでいる血の跡が拷問の跡でないように、と子供心に祈ったものですが、あの時の母の暗い顔は今も忘れられません。私はあの頃の経験を通して人間というのは信頼の絆で結ばれている限り、物理的に如何に苦しい状況に置かれてもそれ程苦にはならないものだということを実感しました。」(「父の想い出」(みすず一九八三・三号)六七頁。)、オーシュコルヌも、正清と共に特高に逮捕され、独房に入れられ、絶え間ない尋問を受け、拷問係のどう猛な仕打ちに繰りかえし曝された(オーシュコルヌ「平和・自由・人類愛のための長きにわたる闘いのなかで」(前掲みすず五九頁)。運動家でない宮本を取り調べた者が、加古を狙っていたが病死したと漏らしたということがあったそうで、このことは当時の雰囲気をよく表している。又、当時の官憲が、京都の人民戦線的文化運動について調査した結果が、東洋文化社復刻版司法省刑事局編「思想研究資料特集第七七号人民戦線と文化運動77号」に公表されているが(昭和ニュース事典Y資料編八八頁、毎日コミュニケーションズ、平成四年)、その中に、運動関係者は当時吉田、北白川、下鴨等の住宅地域に居住し往来会合が便利であったこと、文化運動の内、講演会、合評会や講演会に楽友会館や、日仏学館(日仏会館と書いてある)などが利用されたこと、「一乃至数ケ国語を能くし又文才もある専門的研究者」として、法学者では「法律学の加古」と独りを名指している。正清も祐二郎も実践運動家ではなかったが、祐二郎や正清まで検挙の射程に入れるということで、日本の苛酷な政情は、その頂点に達し、間もなく敗戦を迎えることとなる。
 祐二郎が大阪で両親や哲太郎、なみと一緒であった頃の日記のかなりの部分は兄哲太郎に対する不満であった。哲太郎は、飲酒による酩酊が通常の程度ではなかったために、長男であるに関わらず両親特に父親に対する態度が好ましいものではなく、祐二郎はそのことを度々書いている。具体的にどのようなものであったかは、批判の言葉のみで具体的な描写はしていない。祐二郎自身も兄から暴力を振るわれて目を痛めて、視力もかなり減退したことがあり、そのことは当時の日記の筆跡からも伺われるが、具体的にどのような状況で目を痛めたのかは書いていない。又梯明秀も、祐二郎が京大の研究室に入ってから、唯物論の研究会に顔を出さないといって、ちょっと口で批判したところ、哲太郎が「弟を批判してるのはなんじゃというて兄さんにぼくは一緒に酒飲みながら足で蹴られたことがある。加古君は兄貴と弟と仲が悪いじゃけど、肉親の弟をこれでも思うとるんじゃちゅうことでね」と述懐している(大橋智之輔・村田淳「加古祐二郎と立命館 ―「加古研究会」余滴 ―」(立命館百年史紀要九号二一六頁、立命館百年始編纂委員会、平成一三年)。哲太郎の酒癖は、結婚後も続いており、哲太郎についての記述部分は、「精神史」では省略されているが、この度、立命館大学に寄贈するに当たって、日記のその部分を削除しなくてよいかと、当時のことを知る唯一の肉親である原田明子に尋ねたところ、明子は、哲太郎の酩酊については、毎日生活を共にしていた人間でなければ、到底克明に描写できるものではないし、仮に一時同居していた祐二郎であってもその全貌は描写出来ていないと思うので、その部分も含めて寄贈することは差し支えないとのことであった。私のこれまでの見聞でも、通常でない酩酊は病的なものでない限り、知性や人格と関係のないもので、何かの原因で鬱屈したものがその人の生活の一部にあることが多い。
 祐二郎は一方で哲太郎に対する非難を日記に表す一方、同居していた廉子となみに対する情愛を書き綴っている。廉子に対しては研究会で知り合った友人である正清との結婚〔石本雅男(後の大阪大学名誉教授が仲介している〕、なみについては、結婚後先妻の親や子〔長谷川博一(後の京大名誉教授)〕との関係、いずれも順調に行くよう気遣っていた様子がよく分る。


 
二、 加古日記と瀧川事件

さて、この辺りで、講演の表題として掲げられた、加古日記に現れた祐二郎と瀧川事件のことに触れなければならないが、瀧川事件については、最近の文献として、松尾尊~・滝川事件(岩波現代文庫、平成一七年)、伊藤孝夫「瀧川幸辰」(ミネルヴァ書房、平成一五年)を挙げておきたい。又、祐二郎が晩年を過ごした立命館大学側から見た瀧川事件については、立命館百年史・通史一第三章第二節京大事件と立命館((立命館百年史編纂委員会編・平成一一年)が詳しい。なお、瀧川事件という呼称は、主として戦後に用いられた通称であって、事件当時は、京大事件又は京大問題という言葉が使われていた。祐二郎自身も京大事件と呼び、瀧川事件とは呼んでいない。戦後の瀧川事件の歴史は、当時の直接の関係者がほとんど他界された今、ようやく一方に偏らない客観的な立場からの研究が始まろうとしている。私は、ここでは、加古日記の中から、当時の雰囲気を、祐二郎の感想を通して、感じ取るにとどめる。私は、京大在職中、瀧川事件に関わった人々と接する機会が多くあったが、そのことによって、瀧川事件に対して特定の立場にあるということはない。私は、瀧川事件以後の関係者の行動を端的に、玉砕組、残留組、復帰組などと纏めることは、あまりに単純過ぎるので、好まない。祐二郎は、直接には恩師である恒藤恭と共に辞職し、立命館に移ったまま間もなく死亡したのであるから、文字通り玉砕組(加古日記は、「玉砕派ともいうべき」と書いている)であるが、加古日記は次のように書いている。
 「正しく徹底しえたこれ迄の行動に対して心地よく感ずると共に、恐らく今後もっと困難な問題に自分は到達しうるであろうことを思って、今の純粋さを失いたくないと、心に誓った。生活の途はまことにけんそである。一生がいわば闘いである。最後のポイントだけは失いたくない」(昭和九年五月二六日(「京大事件の総辞職決行の日の一周年」(「精神史」二四七、八頁)。京大事件二周年記念日(昭和一〇年五月二六日)の日記はないが、六月七日に次の日記がある。「京大事件で、潔く辞した我々は「死することによって生きた」という主義をとって来ているが、本当に、どれだけ生きたか、自分は、時に独りで反省してみる。余りに皆が独善主義になり切っていはしないか。永い、これからの真剣な闘争の過程において、京大事件でとって来た我々の態度は、当然のことであり、また当然の第一歩に過ぎないのではないか。これからだ、ということを皆忘れてはならない。京大事件で、潔く辞めたこと位で、いい気になっていたら、地下に働く真剣な人達がわらうであろう。思い上がりは、もう棄てる時だと思う。余りに、我々の仕事が無力だと感じられて、恥ずかしく思う。どうすべきか。積極的に道を開かねばならぬはずだ」(「精神史二五七頁」) 
 このような京大事件の精神的遍歴に混ざって、これまで、京大事件後、尊敬して行動を共にしてきた佐々木惣一について、学問上の傾向に対する批判が見られるのも、祐二郎の精神史の中で注目すべきことである。昭和十年十一月十七日(日)「・・・研究会に出席する。端なくも報告者への質問から、Fuhrer(注、村田氏は配慮して、原文を出さず佐々木と訳しているが、日記の原文は、Fuhrerである。昭和九年夏からは、この言葉でヒトラー総統を思い浮かべる時代であった。)と学問上の大論戦を交はした。私から見れば、フューラー(ここでも、村田氏は、先生としている)の議論は型式論理を貫く以上何物にも価しないと心でしみじみと思った。時代の相違といふより、学問へのもっと謙虚さを大先輩の師として有って欲しいと感じた。権威的に、そして、揚げ足とり的なポレミーク〔論駁、村田訳では論争〕の態度を憤慨にたえないと思った。縁なき学問上の伴侶としてこの上なく淋みしくも感じた。・・・決して実質的に自分の論旨が矛盾しているとも、負けたとも思っていなかった。私は自分の学問と世界観のためにはいかなる者にも屈しない覚悟だ。私を真に理解してくれるゲノッセ〔同志、園部訳〕F〔私の推定では、恐らく、淵定〕君と帰途興奮して語り合ひながら、京都学派の貧困と実なき自負とを悲しみ合った。法律をやってゐる学者は何故かくも見解や世界観に於いて狭量であるのであらうか。今日はつくづく学者の狭量と独りよがりと自惚れの強さに飽きれた。そして悲しくさへ思った。しかし、自分の与へられた途に血泥になって邁進し度い。学者の卑怯を嘲笑したい。京大事件での玉砕の如き何であろうか。美濃部博士の問題(注、美濃部達吉博士の天皇機関説事件)に対するフューラー以下の憲法学者の態度はどうであろうか。京大事件の真意は真の学問の研究の自由獲得と確(注、読み難いが、多分)保のための第一の段階に過ぎぬ。美濃部事件は対岸の火事ではない。京大事件よりも更に問題はアクチュアルではないか。そのアクチュアルな問題に耳目を掩ふて、徒らに京大事件での玉砕的行動を英雄的行動なるかの如く自負し、これを回顧的審美的に眺めうるような態度は恥づべきである。京大事件を一契機として更に何故前進しないのか。憐れむべき悲しむべき学者的存在は誰であるか。私は、かくて、封建的セクト的なアトモスフェール(村田訳、空気)を多分にもってゐる伝統的京大の所謂「法燈」(注、本来は仏教用語で正しい仏法を継承すること)なるものを滑稽にすら思ふ。今日よりは潔く棄て度い。そんなけちな、ちっぽけな空気で生きて来た自分達ではあらうか。真のゲノッセと自分の真の道を独りで歩むの外ない。かかる誤まれる伝統、雰囲気に対して、私は喜こんで反逆児たらうと望んでいる。今日は、下らないああしたポレミークをモメントとして全くああした空気の下に止むなく住んでいる吾々の存在を憐れに悲しくすら思った。生くることは真に闘ひである。血泥の闘争を自分は一歩々々果敢に試みて行かう。フューラーも亦一個のとり残された悲しむべき存在と思へ。下らぬことでは、自分も、もっと要領居士と馬鹿とであっていいと思う。東北大の事や様々のことで、全く私は狭量な田舎臭い空気を思ひ、しみじみと情けなく厭になった。」以上の引用は京大事件から二年経った昭和一〇年頃の祐二郎の述懐である。翌年二月までの日記は残っているが。その後昭和一二年に亡くなるまでの日記は遺されていない。
 ところで、昭和九年の春、京大事件で辞職して立命館大学に移った人達の中で何人かが京大法学部に復帰することになるが、その辺りの事について加古日記は何も書いていない。三月三日から五月五日迄は全く空白で、五月六日(日)になってようやく筆を下ろしているが、そこには次のように書いている。「二ケ月ばかりの間また日誌もつけない生活がつづいた。しかも、その間に恐らく、永く忘れえないような事件が複雑して起こったのであったのに、余りの慌ただしさ、多忙のため、否、そういうことよりも神経をいらいらさせるような状態や、余りに生な実感的な印象などのために、かえって、それを言葉にかきとめることすらできない自分であった。・・・とに角、ふた月ぶりに、今日ふと思い出して、筆をとってみた。しかし例の第二の京大事件(注、恐らく復帰問題のこと)のことは、もっと後にしたい(注、もっと後に書いたのかも知れないが、遺っていない)。」(注、なお、「座談会・佐伯千仭先生に「京大事件」を聞く」(前掲立命館百年史紀要五号二〇〇頁、平成九年)参照)
 というわけで、第二の京大事件についての祐二郎の感想は遺っていないが、その後の加古日記に何カ所か「東北大学の例の話」というのが出てくる。これも、明確には分らないが、東北大学に移る話が逢ったのではないかと思う(昭和一〇年の三月二七日の日記には「東北大学の方の例の話がまた頓挫してしまった。」とあり、先に引用した「田舎臭い空気」の事を考え合わせると、どうも、京都と東北大との間に何かあって、うまく行かなかったらしい。うまく行っていたら、東北大学の教授になっていたかも知れない。いずれにしても、祐二郎は京都大学とその周辺の空気全体に嫌気がさしてことは明らかで、信頼できるのは恒藤恭と末川博のみということであったようである。
 昭和九年九月一六日辺りになると大分落ち着いたのか、長い日記を一気に書いている。「去年のそれ(注、昭和八年の夏のこと)は、余りにはげしい痛みを自分の身と魂に」きざみ残した。思い出すことすら苦しく、絶望的なものを感じる」九年の夏には、姉や母達と丹後の由良の海岸に避暑に行っている。その前の七月には、公用をかねて東京に一〇日余り出かけ、宿の会館の世話をしてくれた、ジュンヌ・フィユ(村田訳、若い女性)の美しいひとだったので、「チェホフの「叔父ワーニャ」を読むように送ったら、よく分ったような手紙をよこしてきた。」祐二郎は「叔父ワーニャ」のソーニャに憧れていたらしく、「本当に愛情を感じうるひと、信頼してくれるひと、ソーニャの有つ(注、持つ)聡明さとデリカス。永遠の夢であろうか。」と書いている(一一月一七日)昭和一一年の二月から三月頃、結婚の話がでているが、踏ん切りがつかない様子がよくわかる。二月一九日の日記には、「アミエルの日記」を読み直し、アミエルの女性に対する気持や結婚への態度に共感している。昼は、フルトーンで「ベェトオフェンの第五交響楽」夜は、セザール・フランクのプレリュード、コーラル、フーガをかけたりしている。「この頃は、音楽をきいているときが、一番純粋な自分を見出せるようでうれしい。しかし又淋みしくもなる。」
 三月一五日の日記にはK君(村田氏の注では、片山健二氏)と一緒に、K君の姉のところで女性に紹介されている。その女性を送り届けて両親にも会っている。かなり具体的な話のようだが、遺された日記に現れた限りでは、結果ははっきりしない。それはともかく「十三(注、阪急十三(じゅうそう)駅であろう。)で、K君と別れた。K君から借りてきたベエトーフェンのクワルテット一三一番のアルバムの重さが妙に意識されてならなかった。」とある。アルバムの重さが意識に影響するというのが、面白い。弦楽四重奏曲一四番嬰ハ短調作品一三一は、演奏が切れ目なしの七つの楽章。今ならCD一枚の半分の長さ。当時はSP大判裏表で何枚であろうか。抱えて大事に持って帰った祐二郎の姿が目に浮かぶ。
さて、私が故吉田ツタの息女故智子に生前の祐二郎のことについて尋ねたところ、生前に、「祐二郎おじさんは、瀧川先生は坊ちゃん、もう一寸考えて下されば、一連託生なのだから、もう少し辛抱して下さったらと仰っていましたね」ということであった。(「加古祐二郎のこと、園部敏のこと」(立命館百年史紀要一〇号五五頁、平成一四年))。正清の長女荒川小枝子も、祐二郎が生前同じ趣旨のことを繰り返し述べていたことを父から聞いたとのことである。華々しい瀧川事件も、関係者の本音はそうであったかも知れない。私は、晩年の佐々木惣一博士や瀧川幸辰博士の謦咳に接しており、私ども夫婦は瀧川博士ご夫妻に媒酌もお願いしているが、両博士どちらも好々爺となって居られ、当時の張りつめた雰囲気は感じられなかった。しかし、歴史のフィルムを逆に回せば、恐らく、当時から戦後にかけて、京大事件当事者の間ではかなり鬱屈したものがあったに違いない。外向きには華々しい瀧川事件の蔭で京大法学部にとっては、戦中戦後を通じて負の遺産を背負ったことは否定できない。争いの根元は何といっても当時の厳しい政治情勢、社会情勢であり、誰もが多かれ少なかれその犠牲者であった。私には今、これ以上を語る能力も余裕もない。ここでは、松田道雄の次の言葉を引用するにとどめる。「四月二十二日文相鳩山一郎の京大法学部教授の辞職要求にはじまった「京大事件」は学生の最後の大衆運動であった。理を尽くした「京大法学部教授一同声明」もおしよせてくる力にかてなかった。大学の学生の動きよりも、関東軍の進撃が、多数の国民の関心をとらえていた」(前掲、松田道雄・在野の思想家たち二二八頁)。
 今や京大事件の旧跡であった「法経第一教室」も姿を消して「百周年記念ホール」となり、京大事件のメメントは、時計台下の「歴史展示室」の一隅に置かれている。京大事件の戦後は終わったのである。

おわりに

 さて、祐二郎が戦時下の日本を生きていたら、そして、目を痛めず、徴兵検査で丙種でない合格をしていたら、一兵卒として徴兵されていたかも知れず、そうでなければ、結婚して(加古日記によれば祐二郎の晩年、結婚の話はかなり煮詰まっていたようである)、子供を作る一方、正清と同じか、より過酷な弾圧を受けていたかも知れない。戦後を生き延びても、京大の復帰人事や新任人事とは縁がなく、祐二郎もそれを望まなかったかも知れない。人の運命は分らない。正清は、戦後世間を相手の華々しいジャーナリズムによる学問の大衆化を避け、フランス文学者として、ロマン・ロランの翻訳を続ける一方、モデストな学究生活を営んでいた。祐二郎も恐らくそうであったであろう。ロマン・ロランが亡くなって六十年。真の平和主義者、自由主義者に課せられた使命とその光芒は、何時の世にも絶えることはない。
  (二〇〇五年一月二九日、関西日仏学館でのロマン・ロランセミナー講演会から)
                              (元最高裁判所判事)