デュシャトレ氏はフランスにおけるロマン・ロラン研究の第一人者として知られている。氏のロマン・ロラン研究としては、著書に『ロマン・ロラン作「ジャン=クリストフ」の創造過程』(一九七八年)、『ロマン・ロラン。思想と行動』(一九九七年)があり、編書に『ロマン・ロラン「最後の扉の敷居で」ーー往復書簡および未発表テキスト(一九三六ー一九四四)』(一九八九年)、『ロマン・ロラン、リュシヤンおよびヴィヴィヤーヌ・ブイエ、往復書簡(一九三八ー一九四四)』(一九九二年)、『アンリ・バシュラン「アンドレ・ジードおよびロマン・ロランとの往復書簡(B・デュシャトレ編・注)」』(一九九四年)などがある。また一九九四年十月には、ロマン・ロラン没後五十年記念講演のために来日した。そのときの「神秘と政治ーーロマン・ロラン、その思索と行動とのあいだ」と題する講演のテキスト(仏文および邦文)は、本誌第二二号(一九九五年)に収録されている。
デュシャトレ氏の『あるがままのロマン・ロラン』は二○○二年四月にアルバン・ミシェル社から刊行され、同年、アカデミー・デ・シヤンス・エ・デ・レトル賞を受賞した。
以下に本書のあらましを紹介するためにその目次を提示し、各章の節ごとに内容の要約を記した。
目次
まえがき…………………………………………………………………………………… 9
著者はロランの人生を語るにあたり、ときにこれを細分化するかにみえる危険を冒して、この人物の閲歴、彼の思想の進みゆき、彼の作品の制作を混ぜ合わせつつ、年代を追ってその展開の跡を辿った。
第一章 自己の征服(1866ー1892)
1 《かわいそうに、無邪気な子だけれど、精神的エネルギーが足りなくて》……15
著者はまず両親の家系の特徴を示してから、地方都市クラムシーでのロランの幼少期を語る。生まれてまる一年も経たないとき、家事見習いの娘がカーニヴァルのダンスパーティーに早く出たくて、雪の積もった寒いバルコニーに赤ん坊を置き忘れていった。ロマンは毛細気管支炎にかかり、一生その後遺症に苦しめられた。十一歳のとき、小学校の同級生とともにジュール・ヴェルヌばりの長編小説を書くなど、すでに作家としての片鱗が見て取れる。この子どもは、世界にひとりきりで幽閉されたような感覚の持ち主だったが、音楽が解放の扉を開け放ってくれた。
2 《わが若き日の暴風》……………………………………………………………… 21
母親はわが子を《グランド・ゼコール》(高等専門学校。一般の大学が大学入学資格者にたいして門戸を広く開いているのにたいし、《グランド・ゼコール》は難しい競争試験によって選抜された学生にたいする教育機関である。エコール・ノルマル・シュペリユール[高等師範学校]、エコール・ポリテクニック[理工科学校]、エコール・ナシヨナル・ダドミニストラシヨン[国立行政学院]などが有名で、それぞれの卒業生は各界のエリートとして活躍する)に進学させて最高の教育を受けさせようと思い立つ。そのため、一八八○年、彼が十四歳のとき、一家を挙げてパリに移り住む。パリに出た彼は都会の世紀末的空気に触れて、幼い日のカトリックの純朴な信仰を失う。しかし十五、六歳のころ、目に見える現実の向こうに別の実在が存在するという、一種の神秘体験をする。一八八六年、彼はエコール・ノルマル・シュペリユールに合格する。
3 《われわれはだれもが<神>である》………………………………………………29
進学後、彼は文学に進む決心をする。彼は哲学者ルナンに手紙を書き、会いに来るように言われて面会する。彼はルナンをストア派の哲人のように思い描いていたが、会ってみると偉大な懐疑派で、人間や事物を晴朗なまなざしで眺め渡すことのできるホレイショのような人物なのがわかった。ルナンと接したおかげで、彼は人生にたいして超然たる態度をとる生き方を学んだ。スピノザ、トルストイ、ワグナーのあと、ルナンも新しい師となった。エコールで、彼はシュアレスと友だちになった。この友情は曲折を経ながらずっとのちまで続く。八七年四月、彼はトルストイに日ごろの思いを書き送り、十月にトルストイから返事をもらう。翌年、彼は「真であるがゆえに私は信じる」と題する哲学論文を書く。八八年七月、彼はエコールを卒業し、翌年には歴史学の教授資格を取得する。すぐに教職に就く気のなかった彼は、息子を手元から放すまいとする母親に逆らって、ローマ学院への留学の道を選ぶ。
4 《<永遠>をじつに確固として信じつつ》…………………………………………44
八九年十一月、彼はイタリアに向かう。トリノ、ミラノ、フィレンツェ、シエナ、オルヴィエトの各地で、彼は数々の名作と出会う。ローマのファルネーゼ宮に部屋を与えられ、ピアノを置かせてもらった。彼の研究題目は十六世紀の駐仏教皇特使サルヴァティ枢機卿の研究にあった。やがて、彼はローマでマルヴィーダ夫人(ニーチェやワグナーと交友のあったドイツの女性)と知り合うが、そのことは生涯をつうじての重要な意味をもつ。夫人の家で生涯の友となるソフィヤとも出会う。九○年三月には、ジャニコロの岡でジャン=クリストフの幻を見た。そのあと、彼はワグナーふうの音楽小説に挑戦している。 |