ベルナール・デュシャトレ『あるがままのロマン・ロラン』概要

Bernard Duchatelet: ROMAIN ROLLAND tel qu'en lui-même
ouvrage publié avec le concours du Centre national du Livre
                                              (ALBIN MICHEL,2002)
                                               村 上 光 彦

 デュシャトレ氏はフランスにおけるロマン・ロラン研究の第一人者として知られている。氏のロマン・ロラン研究としては、著書に『ロマン・ロラン作「ジャン=クリストフ」の創造過程』(一九七八年)、『ロマン・ロラン。思想と行動』(一九九七年)があり、編書に『ロマン・ロラン「最後の扉の敷居で」ーー往復書簡および未発表テキスト(一九三六ー一九四四)』(一九八九年)、『ロマン・ロラン、リュシヤンおよびヴィヴィヤーヌ・ブイエ、往復書簡(一九三八ー一九四四)』(一九九二年)、『アンリ・バシュラン「アンドレ・ジードおよびロマン・ロランとの往復書簡(B・デュシャトレ編・注)」』(一九九四年)などがある。また一九九四年十月には、ロマン・ロラン没後五十年記念講演のために来日した。そのときの「神秘と政治ーーロマン・ロラン、その思索と行動とのあいだ」と題する講演のテキスト(仏文および邦文)は、本誌第二二号(一九九五年)に収録されている。
 デュシャトレ氏の『あるがままのロマン・ロラン』は二○○二年四月にアルバン・ミシェル社から刊行され、同年、アカデミー・デ・シヤンス・エ・デ・レトル賞を受賞した。
 以下に本書のあらましを紹介するためにその目次を提示し、各章の節ごとに内容の要約を記した。


     目次

まえがき……………………………………………………………………………………  9
 著者はロランの人生を語るにあたり、ときにこれを細分化するかにみえる危険を冒して、この人物の閲歴、彼の思想の進みゆき、彼の作品の制作を混ぜ合わせつつ、年代を追ってその展開の跡を辿った。

第一章 自己の征服(1866ー1892)
1 《かわいそうに、無邪気な子だけれど、精神的エネルギーが足りなくて》……15
 著者はまず両親の家系の特徴を示してから、地方都市クラムシーでのロランの幼少期を語る。生まれてまる一年も経たないとき、家事見習いの娘がカーニヴァルのダンスパーティーに早く出たくて、雪の積もった寒いバルコニーに赤ん坊を置き忘れていった。ロマンは毛細気管支炎にかかり、一生その後遺症に苦しめられた。十一歳のとき、小学校の同級生とともにジュール・ヴェルヌばりの長編小説を書くなど、すでに作家としての片鱗が見て取れる。この子どもは、世界にひとりきりで幽閉されたような感覚の持ち主だったが、音楽が解放の扉を開け放ってくれた。
2 《わが若き日の暴風》……………………………………………………………… 21
 母親はわが子を《グランド・ゼコール》(高等専門学校。一般の大学が大学入学資格者にたいして門戸を広く開いているのにたいし、《グランド・ゼコール》は難しい競争試験によって選抜された学生にたいする教育機関である。エコール・ノルマル・シュペリユール[高等師範学校]、エコール・ポリテクニック[理工科学校]、エコール・ナシヨナル・ダドミニストラシヨン[国立行政学院]などが有名で、それぞれの卒業生は各界のエリートとして活躍する)に進学させて最高の教育を受けさせようと思い立つ。そのため、一八八○年、彼が十四歳のとき、一家を挙げてパリに移り住む。パリに出た彼は都会の世紀末的空気に触れて、幼い日のカトリックの純朴な信仰を失う。しかし十五、六歳のころ、目に見える現実の向こうに別の実在が存在するという、一種の神秘体験をする。一八八六年、彼はエコール・ノルマル・シュペリユールに合格する。
3 《われわれはだれもが<神>である》………………………………………………29
 進学後、彼は文学に進む決心をする。彼は哲学者ルナンに手紙を書き、会いに来るように言われて面会する。彼はルナンをストア派の哲人のように思い描いていたが、会ってみると偉大な懐疑派で、人間や事物を晴朗なまなざしで眺め渡すことのできるホレイショのような人物なのがわかった。ルナンと接したおかげで、彼は人生にたいして超然たる態度をとる生き方を学んだ。スピノザ、トルストイ、ワグナーのあと、ルナンも新しい師となった。エコールで、彼はシュアレスと友だちになった。この友情は曲折を経ながらずっとのちまで続く。八七年四月、彼はトルストイに日ごろの思いを書き送り、十月にトルストイから返事をもらう。翌年、彼は「真であるがゆえに私は信じる」と題する哲学論文を書く。八八年七月、彼はエコールを卒業し、翌年には歴史学の教授資格を取得する。すぐに教職に就く気のなかった彼は、息子を手元から放すまいとする母親に逆らって、ローマ学院への留学の道を選ぶ。
4 《<永遠>をじつに確固として信じつつ》…………………………………………44
 八九年十一月、彼はイタリアに向かう。トリノ、ミラノ、フィレンツェ、シエナ、オルヴィエトの各地で、彼は数々の名作と出会う。ローマのファルネーゼ宮に部屋を与えられ、ピアノを置かせてもらった。彼の研究題目は十六世紀の駐仏教皇特使サルヴァティ枢機卿の研究にあった。やがて、彼はローマでマルヴィーダ夫人(ニーチェやワグナーと交友のあったドイツの女性)と知り合うが、そのことは生涯をつうじての重要な意味をもつ。夫人の家で生涯の友となるソフィヤとも出会う。九○年三月には、ジャニコロの岡でジャン=クリストフの幻を見た。そのあと、彼はワグナーふうの音楽小説に挑戦している。


  第二章 試練(1892ー1901)
1 《静かなやさしさ》………………………………………………………………… 63
 九二年に帰国した彼は、ヴェルサイユに住む恩師ガブリエル・モノーの家で、ユダヤ人の比較文法学者の娘クロティルド・ブレアル(ロランと離婚したのち、ピアニストのコルトーと再婚する)と出会い、恋をする。ロランの母親は、クロティルドが衝動的で社交好きなのを見抜き、息子とは性格が合わないように感じた。しかし、結局は母親も折れてで、二人は十月末にパリの第六区役所で結婚式を挙げる。イタリアでの新婚生活は幸福なものであった。九三年六月、若い夫婦はパリで所帯を持つ。ロランはリセ・アンリ四世校に就職した。一方、彼は劇作に取りかかり、妻は彼に助言したりした。なお、当時の彼はパリの雰囲気にやりきれず、社会が解体し、世界は崩壊しつつあるという印象を抱いていた。
2 《ぼくらの哀れな結婚記念日》…………………………………………………… 70
 クロティルドは、夫が文壇で成功することを望んでいた。彼はそんな妻としっくりいかなかった。そうこうするうち、一八九五年六月、博士論文公開口述審査に優秀な成績で合格する。だが、彼の志はあいかわらず文学にあった。そして、時代の空気への反抗心は高まるばかりであった。そのころ、彼は社会主義を発見する。死が今日のヨーロッパを脅かしている。免れる希望があるとしたら、道は社会主義にある。彼はそう思った。一方、一九九六年一月にいたって、クロティルドとの不和はいくところまでいった。とくに彼が不快に思ったのは、妻が彼女の親友の許嫁者であるレオン・ブルム(後年の首相)の悪童ぶりに甘かったことである。こうして不和が兆すなかで、それでも夫婦はドイツ旅行をともにしている。彼はこの旅行中に日記にどっさりメモを書き留めた。これがのちに『ジャン=クリストフ』の材料となる。
3 《わたしの魂の物語を、わたしより偉大な者に置き換えて》………………… 79
 一八九七年一月、彼はのちの『ジャン=クリストフ』の構想をまとめている。十五歳で宗教心の危機に見舞われ、十八歳から二十五歳までは恋愛の歓喜・悲しみ・絶望を重ねる。三十歳ごろには芸術の闘いが続く。三十歳から三十五歳にかけて貧しい人たちの窮迫、政治革命などに関心を向ける。そのあとに愛徳の時期が来る、といったプランである。二月には、彼は『ジャン=クリストフ』の下書きを百ページほど書いた。この時期、彼は『聖王ルイ』の雑誌掲載・上演を望んだが、いっこう実現しなかった。
4 《どの道を辿ったらよいか、辛いほどためらっている》……………………… 84
 九七年四月末、彼は『アエルト』を書き上げてから、夏休みにイタリアへ向かった。彼とクロティルドとは、イタリアのさまざまの名士の家に迎えられ、ガブリエレ・ダヌンツィオと知り合って何度か会った。抑圧されたプロレタリアの惨状も見過ごせないが、流血の革命も受け入れられない、そうした知識人を描いた劇作『敗れし人々』と取り組んだのもこの時期である。ドレフュス事件の進行中で、彼は議論の圏外にいながらも、無関心ではいられなかった。この事件を反映した『狼』、ついで『アエルト』があいついで上演された。教え子だったルイ・ジレを介して、やはり教え子だったペギーから『狼』を刊行したいとの申し出があり、彼はこれを快諾する。
5 《いまや決定的に縁が切れた》…………………………………………………… 93
 『狼』の刊行準備中、彼は『理性の勝利』と『ダントン』とを書く。だが、九八年は暗い気分のなかで終わる。妻がますます他人のように思えてきたからである。年末、彼はようやく『狼』を何冊か受け取る。一八九九年五月、ロランはデュッセルドルフ音楽祭のためにドイツを再訪し、『ルヴュー・ド・パリ』誌にリヒャルト・シュトラウス論を書き、そのなかでドイツに見られた《病的な萌芽》を指摘した。ロラン夫妻は同年夏、イタリアを再訪し、ダヌンツィオと再会した。一九○○年には夫婦の不和が募る。この年にも夫妻はイタリア旅行をともにするが、旅行中に夫妻は別れることにする。帰国後、彼はペギーの『カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ』誌に「観念論の毒」を書く。彼はペギーを信念にもとづく<革命の人>と評価し、マッツィーニ流の《なによりもまず真実》を標榜する姿勢に共感した。一九○一年二月、彼は妻と別居し、十月十一日に決定的に別れることとなる。
6 《ソフィヤの心温まる共感》………………………………………………………107
 別居後の六月から七月にかけて、彼は神経衰弱気味で、自殺を思ったりした。八月、彼はサン=モリッツで、十一年ぶりにソフィヤと再会する。彼女はその前年に結婚し、娘時代の面影はなかった。始めはよそよそしかったが、彼はやがて苦悩に堪えている賢明な魂を発見する。彼はこの再会のおかげで彼自身の平静を取り戻す。ソフィヤとのあいだに、堅固な基礎に立つ友情が残った。



  第三章 新生(1901−1914)
1 《発作にも似た歓喜》…………………………………………………………… 115
 一九○一年十一月半ばから翌年一月半ばにかけて、彼は『ジャン=クリストフ』のノートを書き進めた。過労のために肺を病んだりもしたが、彼は『カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ』誌に『ダントン』、『七月十四日』、『時は来たらん』をあいついで発表した。ペギーは、フランス革命が成功しなかったからには、「われわれはそれを毎日やり直さなくてはならない」と語り、また「社会革命は精神的でなくてはならず、さもなければ成就しない」と語った男である。二人は理想を同じくしていた。一九○三年一月に『カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ』誌に発表されたロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』はたちまち大成功した。ロランはついに無関心の壁を押し破ったのである。
2 《わたしはいよいよ長編小説を書き始めた》……………………………… 122
 一九○三年三月二十日、彼は『ジャン=クリストフ』を書き出す。彼はこの日、一八九六年から二○○○年まで書きためた原稿を順序立て、主人公の生涯の意味を明瞭に示そうとした(最初の二巻は一九○四年二月に刊行)。同年十一月、彼はソルボンヌ大学に任命され、また出身校のエコール・ノルマル・シュペリユールで音楽史の講義を担当することになった。それは公開講座で、とりわけ女性が詰めかけた。やがて彼は、『ジャン=クリストフ』によって<幸福な生活>という賞を得る。『ジャン=クリストフ』は、『カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ』版で出したあと、間をおいてオランドルフ社からも出すことになった。
3 《新ヨーロッパの建設》………………………………………………………… 132
 一九○六年十二月、ロランは場面がフランスに移ってからの『ジャン=クリストフ』の構想をまとめる。真のフランスと真のドイツとが友邦となる、というのが彼の狙いであった。彼にとって、その主人公は《ヨーロッパの(すくなくとも西ヨーロッパの)天才》となっていった。一九○八年夏、彼はシェーンブルンで休暇を過ごした。ホテルには司祭が大勢泊まっていたが、そのなかのゲルル神父という近代主義的傾向の神父と共鳴する。そこではソフィヤとも出会った。パリに帰る前、彼はソフィヤに招待されてモンテベルーナのベルトリーニ家で十日間ほど過ごした。『ジャン=クリストフ』は外国でも好評だった。女性読者が接近しだすようにもなったが、そのなかにはまじめな読者もいて、ルイーズ・クリュッピのように心の友となった人もいる。
4 《いまの生活に、すっかり気を取られてしまって》………………………… 140
 一九一〇年ごろ、彼はシュテファン・ツヴァイクと知り合う。この二人はヨーロッパ人意識において共通していた。このころ、彼は組合運動に関心を寄せるが、資本の帝国主義に組合の帝国主義が対抗しているようなので落胆する。カトリック教会の方面では、ピオ十世がマルク・サンニエ(キリスト教社会民主主義運動の創始者)を非難し、ロランが期待したゲルル神父さえ従順になってしまった。一九一〇年十月二十五日、彼は車にひかれ、左腕が骨折、左脚は脱臼して、三ヶ月身動きできなくなった。翌月、トルストイが死去し、彼はトルストイ論を書いた。翌年、彼はソフィヤに招かれてローマへ行く。帰国後、彼は自分がアカデミー大賞を受賞したこと、またペギーも同じ賞を狙っていたことを知る。
5 《いさかいをしていても、家は明るく自由にしておこう》………………… 150
 帰国後、彼はソルボンヌ大学に休暇を認めてもらう。当時のヨーロッパの青年には民族主義が強まっていた。ルイーズ・クリュッピの夫が法相になる前まで外相を務めていたので、彼はヨーロッパ情勢の知識を得ていた。西ヨーロッパに流血の時代を迎えてよいものだろうか、彼は五月にそう自問している。ヨーロッパ諸国の植民地政策も気がかりだった。そんな彼に、ストラスブルク大学で教えることになったエルンスト・ローベルト・クルティウスという若い学者が理解に満ちた手紙を寄せてきたのは嬉しいことだった。
6 《わたしの真新しい魂》………………………………………………………… 156
 一九一二年春、彼はソルボンヌ大学を辞職した。スイスの『世界文庫』という雑誌から、パリ通信を寄せてほしいという依頼もあった。同年に『ジャン=クリストフ』が完結するや、彼はだれ知らぬ者のない作家となっていた。フランスでも外国でも多大な反響があった。一九一三年二月、先年の交通事故の賠償金として二万五千フラン入る。彼は新作『コラ・ブルニョン』の準備にかかった。六月、彼はアカデミー文学大賞を得た。長いつきあいとなるジャンヌ・モルティエから初めて手紙が来たのもこの時期のことだ。手紙や献本がたくさん届くようになったが、そのなかに心のこもった献辞を添えた、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『ジャン・バロワ』があった。ロランは礼状を書き、この作品を熱心に読んだむね強調した。アメリカ人の若い女優ーーロランは彼女に《タリー》という芸名を付けてやったーーとの関係が始まったのもこのころである。二人は一九一四年一月七日に初めて会った。この年の六月二十八日、サラエヴォで凶弾が放たれた。彼は八月には『コラ・ブルニョン』の校正をすますつもりだったが、その前に戦争が勃発してしまった。



  第四章 《戦いを超えて》(1914−1919)
1 《精神の激震》………………………………………………………………… 171
 彼はスイスのヴヴェーに来ていた。情勢が緊迫したのを見て、彼はパリに帰る気でいた。年齢からも健康状態からも軍務を免除されていたのだが、それでも帰りたかった。新作の校正刷りが届いた直後、宣戦が布告されたのである。彼は日記に、文明の破産に立ち会う悲しさを書き記した。しかし、ドイツ軍の攻勢によって祖国が危機に瀕しているあいだ、彼は黙っていた。マルヌの戦闘の時期に「戦いを超えて」を書き、それは九月二十二ー二十三日付の『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙に発表された。彼は国際赤十字社に協力することにし、九月末にジュネーヴに移った。この時期にホテルで知り合ったエルゼ・ハルトフとの親交はその後長く続いた。フランス国内でアンリ・ギルボーやアメデ・デュボワがロラン擁護の声を挙げただけで、フランスからはロランがよいドイツ人と悪いドイツ人とを区別して考えるのを非難する声が届いた。ツヴァイクは沈黙していたが、クルティウスの手紙やヘッセの論説は慰めになった。この苦難の時期にタリーがジュネーヴに来て、二ヶ月間そばにいてくれたのが彼にはありがたかった。タリーは結婚したがったが、年齢が違いすぎるので、彼としては彼女に道理を言い聞かせるほかなかった。二ヶ月の夢のような幸福を胸に抱きしめて、彼女は一九一五年一月上旬にアメリカへ帰っていった。
2 《わたしには、もはや世界という祖国しかない》…………………………… 179
 一九一七年一月、ロランは日記に書きつける。「過渡期にあるわれわれの魂は、いくつかの対立した理想に引き裂かれている。それでも、人類の理想と国民の理想とのいずれかを選ばなくてはならない」。だが目前の恐ろしい争いを見て、彼はこれを《自然の革命》とみなすにいたり、しばらく沈黙する。やがて、フランスの社会主義者のあいだに国際主義による和平への志向を見てとり、彼は満足する。教え子のジレとの絶交といった事態も生ずる。一九一五年七月には赤十字社から退任し、ジュネーヴをあとにする。夏から秋にかけ、彼は新聞にはなにも書かず、のちの『クレランボー』の構想を練る。ベルヌに出向いてヘッセと会いもした。アインシュタインらが彼を訪れている。ジャン・ジューヴなど、支持者も現れる。一九一六年一月、彼はシェークスピアに没頭することで人類への信頼を取り戻す。
3 《新しい人類》………………………………………………………………… 190
 一九一六年には、メレーム、モナット、ロメールなど、組合運動指導者の言動に、彼は注意を向け出す。戦争の原因とメカニズムも分析できるようになった。他方、ヨーロッパ文明とアジア文明との融合も視野に入ってくる。ロシア人亡命者と直接接し、またギルボーをつうじてロシア国内での革命運動についての情報も得た。ロランはこうして、自分はそうと知らないうちに、ヨーロッパの大人物がレーニンの陣営に保証を与えている、という形になってゆく。そのあいだにもタリーとの文通が続いていた。宇宙の広大な力に個人の澄み切った魂の力で立ち向かってゆく、それが彼の根底にある思念だった。
4 《わたしたちは身内に宿る永遠なるものに服従しなくては》……………… 198
 「殺害された諸国民に」と「つづら折りの登り道」この二編の文章が彼の心境を示している。両者を対立させるより、内心をすっかり語り尽くすのをためらっている複雑な思考の証を見るべきだろう。一九一五年十一月、彼はノーベル文学賞を受賞した。たちまち、国内から裏切り者への非難が沸き立った。やがて、米国が参戦し、ロシアではツァーリが退位する。一九一七年春にはレーニンが帰国する。ロランは、革命を指導するのが怪物たちなのを知りつつ、なおかつ革命に期待する。だが、社会主義やボリシェヴィスムの仕事は必要ではあっても、精神の領域では不十分だ、というのが彼の考えであった。
5 《どうにも悲しくて》…………………………………………………………… 208
 一九一八年初頭、ロランは健康がすぐれなかった。ギルボーが対敵通謀の罪に問われて逮捕され、彼まで連座させられそうになった。三月二十九日(聖金曜日)には、パリの教会が砲撃を受け、七十五人の死者が出た。この事件を織り込んだ『ピエールとリュス』を、彼はタリーに捧げた。
6 《<精神>の<自由都市>》…………………………………………………… 214
 ロランは<精神の独立宣言>の呼びかけを発する。その直後、休戦を迎える。だが、ドイツの社会主義政権が軍の助けを借りて革命運動を弾圧したので、ロランは幻滅する。一九一九年春、彼は<精神のインターナショナルのために、全世界の知識人への呼びかけ>を発した。同年五月、母親が死去した。他方、バルビュスとの対立をはらんだ協力関係が始まる



  第五章 <精神の独立> (1919ー1926)
1 《わたしたちのまわりでは、なにもかも意味もなく騒ぎ回って》…………  225
 一九一八年九月、彼はスイスのヴァルモンで一カ月入院し、結核の診断を受ける。翌年二月、期待していた若い友人ジャン・ド・サン=プリが感冒で死去する。一九二〇年秋、『クレランボー』が刊行される。その主人公の平和主義はトルストイに由来し、本質において宗教的であった。タリーは米国でロランについて講演をしたりしていたが、ヒステリーの発作で入院させられ、その《牢屋》から出られたのは一九二一年十一月のことである。
2 《断じて独裁に屈しはしない》………………………………………………… 231
 一九二一年二月、共産主義者のヴァイヤン=クテュリエは『クラルテ』誌において、ロシア革命が暴力を用いているという理由で革命を批判する者に攻撃を加えた。これとまったく同時に、ロランは別の場所で、行動の必要によって精神を縛られることを拒み、入党するのは入隊するようなもので、党の規律と戦術とに従わされるとした。こうして彼は、プロレタリアート独裁に従属しないと言明した。このころ、彼はルーマニア作家イストラティを発見する。他方、新作の構想を練る。総題は『魅せられた魂』である。
3 《わたしの重大任務は本来宗教的なのです》………………………………… 238
 一九二一年十一月、ゴリキーが病気と知って、ロランはとぎれていた文通を再開する。彼はそのなかで、未来時の現実の宣教師であることを幸せと思いましょう、と語りかけている。彼はこのころデュアメルおよびヴィルドラックと何度も会って行動方針について話し合った。マルティネとの論争も続いた。一九二一年十二月には、彼はザイペルにあてて「わたしの重要任務は、芸術上の仕事は別として、全世界の自由な魂を結集することです。それは本来宗教的なのです」と書き送っている。
4 《内面の宇宙》………………………………………………………………… 246
 彼を党派に巻き込もうとする相手に嫌気がさし、デュアメルなどの仲間がいるにしても、やはり孤立感がつよく、彼はスイスに移ることにした。一九二二年四月、彼は父親および妹とともにパリを去った。それでも、共産主義者たちは彼を放そうとせず、トロツキーはマルティネの『夜』の書評にこと寄せて、ロランを貴族主義だと批判した。アルコスが『ウーロップ』誌創刊を企て、ロランはこれを励ました。同誌創刊号は一九二三年二月に出た。彼はこの雑誌が思想結集の中心となることを期待した。タゴールの友人カリダス・ナグと知り合い、また『シッダルタ』を書いたヘッセと一夜をともにし、ガンディーの『ヤング・インディア』を読んだりもした。彼の『ガンディー』は一九二四年に刊行される。ヴィルヌーヴのヴィラ・オルガは国際的な出会いの場となった。そしてその年の二月に『夏』が刊行される。彼はツヴァイクにあてて「わたしは《魅せられた魂》の内面の宇宙に自己を集中したいのです」と書いている。
5 《<精神>にとっては、いかなる妥協もありえはしない》………………… 256
 一九二四年四月、彼はまたも不眠症に取りつかれ、ヴァルモンで二週間静養した。その初夏、彼は『愛と死との戯れ』を書く。この作品において、カルノーは《<自然>の法則》の名において手を汚すことを肯んじる。クルヴォワジエは、これにたいし、断固として政治的狂信に立ち向かう。彼はこの時期、自分は気質からも思想からも決して共産主義者にはならないだろうが、それでもソヴェト・ロシアに共感する、と書いている。
6 《<精神>の永遠な本質》……………………………………………………… 262
 一九二五年一月、クリュッピ夫人が死去し、これは彼にとって大きい打撃となる。彼はこの時期、数編の自伝的文章を書いている。そして政治的・社会的論争があいかわらず続いていた。彼はプロレタリアート独裁を批判しつづけた。一九二六年に『ウーロップ』誌がロラン生誕六〇年記念号を出すが、彼はその準備の進行中は企画内容に満足していなかった。だが、出来映えには満足する。とりわけ、アメリカ人や日本人が寄せたことばを嬉しく思った。一九二七年、父親がヴィルヌーヴで九十歳の誕生日を迎える。『魅せられた魂』も順調に進んだ。



  第六章 《<精神>は列中に戻らなくてはならない》(1927ー1937)
1 《ロシア、危機に瀕す》……………………………………………………… 273
 一九二七年二月、彼は反ファシズムの呼びかけに参加し、パリでの集会の名誉議長となった。「帝国主義列強の同盟に直面して、ロシアは危機に瀕している」とも書いた。だが、トロツキーやジノヴィエフが中央委員会から、ついで党から除名されるのを見て、彼は最悪の事態を恐れてもいた。他方、彼はこのころベートーヴェン研究に取りかかっている。
2 《われらの内なるもっとも永遠なもの》……………………………………… 279
 一九二七年五月、ネルーについでジョゼフィン・マクリードが来訪した。マクリードはラーマクリシュナとヴィヴェカーナンダとをよく知っていた。ロランはインドの神秘思想について情報を集めているところであった。フロイトから宗教批判の書である『幻想の未来』を送られたが、それはフロイトのいう《宗教感覚》を論じた部分が興味深かった。彼自身、自分の内面に大洋感覚と幻想なき理性というふたつの水準があるのを見分けていたからである。十月にはデュアメルから『モスクワへの旅』を送られた。さらに詳しい情報を得たくて、彼はゴリキーにソ連の現実を教えてもらおうと思った。ゴリキーは亡命先のドイツ、イタリアから帰国したばかりであった。一九二八年初め、彼はジャン・ゲエノと知り合った。ゲエノは同年末に『ウーロップ』誌編集長となる。十五年来の交友のあったジャンヌ・モルティエとも会った。彼はジャンヌに友情を感謝している。そしてもうひとりの女性マリヤ・クダシェヴァとの文通も始まった。後年のロラン夫人である。
3 《<革命>と闘うべきか、はたまた擁護すべきか》………………………… 286
 一九二八年九月、ソ連から帰ってきたツヴァイクは、ソ連では自由な知性は圧殺されているが、それでもソ連に背を向けるのは誤りだと思う、と語った。ヴィルドラックからの手紙も、熱狂と苛立ちとが入り混ざった印象がこめられていた。一九二九年三月には『ヴィヴェカーナンダの生涯』が完成に近づいていた。ジャンヌ・モルティエはブレモン神父の『宗教感情史』などの資料を提供して助力になった。ロランはインド思想を語ることで、読者に無限感および絶対感をわからせたかったのである。
4 《いとしいマーシャ》…………………………………………………………… 290
 ロランはマリヤをスイスに招くために苦労した。一九二八年十二月にはロランはマリヤを《いとしいマーシャ》と呼んで、おまえと書くようになった。二九年夏には、マーシャ、ソフィヤ、ジャンヌの三人が鉢合わせしそうになった。イストラティはソ連から帰ってきて、大量逮捕、シベリア流刑など、そのマイナス面をロランに報告した。ロランは革命にとって有害にならないよう、彼になにも公にしないように頼んだ。イストラティは、革命を破壊する輩を告発しないのは真の革命家のとるべき態度ではない、と論じた。だが、この衝突にもかかわらず、二人の友情はすぐには損なわれなかった。結局、二人は一九三〇年三月に絶交する。彼がマリヤのことを、ソ連当局がロランをスパイするために送り込んだ女だとほのめかしたからである。そのあいだにもマリヤはロランといっそう親しくなり、デュアメルに頼んでスイス滞在期間を延長してもらったりした。デュアメルもまた、マリヤがロランをソ連に繋ぎ止める役をおわされているものと確信した。
5 《過去への訣別》………………………………………………………………… 297
 『魅せられた魂』について、ロランは最初の狙いを堅持してはいたが、マルクをどのように成長させてゆくがが苦労の種であった。マルクは、世界が溶解してゆくのを見て胸を悪くし、行動に身を投じようとする。では、どの方向をとらせるべきか。レーニンとガンディーのどちらを選ばせるのか。そこにはロラン自身の矛盾が見て取れる。彼は同時にマルクであり、またアネットである。小説では、マルクは死に、アネットはそのあとをついで、自由な魂の極点に行きつく。一九三一年一月、ロランは言明する。「ソ連が脅かされたら、その敵がいずれであろうと、わたしはソ連の味方につく」。四月には、彼は荘重な「過去への訣別」を書いた。ゴリキーは彼に訪ソを誘ったが、父親の健康、それに彼自身の肺気腫のために実行できなかった。一九三一年十一月から翌年一月にかけて、彼は『魅せられた魂』の最後の五十ページの第一稿を書いた。西欧を頽廃から救いうるのはソ連だけだと、彼は確信していた。ツヴァイクはロランに、パリに出るように勧め、なぜ西欧に背を向けるのか、と言った。だが、彼は拒否を貫いた。
6 《<行動>の<大洋>》………………………………………………………… 306
 一九三二年初め、ロランはレニングラード科学アカデミー名誉会員に選出された。ついでモスクワの<国際革命作家同盟>の依頼に応じて、攻撃された中国、脅かされたソ連の名において、援助を呼びかけた。八月ー九月の反戦国際会議にも協力した。だが健康状態は思わしくなく、九月末には気管支炎で床につき、十一月半ばから十二月半ばにかけて、部屋から出られないありさまであった。一九三三年一月にはアーシャが革命陣営に参加する部分を書き直した。同年六月半ば、彼はとうとう小説から解放された。だがこの年、ヒトラーが宰相となり、二月には議事堂放火事件が起こった。ヒンデンブルク大統領からゲーテ勲章を授与するという申し出があったが、彼は断った。この年の十一月、十二月に、『魅せられた魂』の最終巻が二冊本として刊行された。
7 《わたしは一日も休ませてもらえない》……………………………………… 312
 フランスでもロランが読まれ出した。一九三二年九月には児童向けの『ジャン=クリストフ』が刊行されて成功した。一九三三年十二月には、セネシャルの『ロマン・ロラン』が出た。健康状態が不安定なのに、彼は反ファシスト闘争に参加しつづけ、一日も休ませてもらえなかった。一九三〇年代には、ソ連支持者はロランだけではなくなっていた。ジード、アラゴン、ニザン、ブロック、マルローらも、ヒトラーを拒否しつつ、スターリンは受け入れた。皮肉なことに、これらの作家が共産主義に魅惑されたのは、ボリシェヴィキ党が容赦なく恐怖政治を敷いていた時期であった。一九三四年の末近く、ロランは『闘争の十五年』と『革命によって平和を』という二冊の社会政治論集をまとめた。
8 《わたしが間違っていて、フォーティンブラスが正しい》………………  317
 一九三四年、彼はモスクワ行きを決意する。おもな動機は、ソ連上層部に接触してマリヤと彼女の息子の安全を保障してもらうことにあった。彼は六月十七日にスイスを出発し、泊まりを重ねて二十三日にモスクワに着いた。フランス=ソ連不可侵条約が前年に締結され、両国の関係は良好であった。そのころスターリンは反対派と死闘のさなかであった。二十八日、彼はスターリンと会談する。彼の日記には、スターリンは話し合うときは愛想がよいのに、スポーツ祭典の行列に列席するときはまるで皇帝だ、とある。滞在の後半には、彼はゴリキーの家で三週間過ごした。だが、ゴリキーとは立ち入った話はできなかった。いつも体制のお歴々がいっしょだったからである。さまざまの人から恐ろしい話を聞きもした。彼は義理の息子セルゲー(数学学部の試験に合格したところだった)から、大学には抑圧の雰囲気がのしかかっているし、共産主義は嫌いだ、と聞かされる。だが彼は知人への手紙に、行動人はハムレットのような夢想家の立場は許されず、行動人の見地からすればフォーティンブラスが正しい、と書き送っている。帰国後、彼は『モスクワへの旅』(没後にデュシャトレにより公刊)をまとめた。一九三六年一月、彼は七十歳の誕生日を迎えた。やがて首相になるブルムと和解した。彼は有名人になっていた。
9 《いまになってはっきりしてきたことが、わたしにはたくさんある……》 326
 一九三六年六月、ゴリキーが死去した。七月、ソ連新憲法が発布された。彼はおくればせに成功し、パリの民衆の喝采を浴びていた。ところが当時の未発表の日記のなかに、いまや時の人となったロランの、表面とは対照的な内面が語られている。モスクワ裁判の実状がフランスにも伝わり、ジードたちはソ連から離反した。彼は公然とはソ連を非難しなかった。ただ、スターリンにあてて死刑囚に極刑を課さないように書き送ったにすぎない。ギルボーは、ロランの態度の変化がマリヤのせいだと見抜いて、マリヤをクレムリンのスパイだと非難した。なおデュアメルもこれと同意見であった。そのあいだにもベートーヴェン研究も進んでいたし、また『ロベスピエール』の準備も進んでいた。



  第七章 ヴェズレー(1937ー1944)
1 《わたしが擁護しているのは、スターリンではなくてソ連なのだ》……… 337
 一九三六年十一月以来、ロランはスイスを去ろうと思っていた。言論の自由が狭まっていたのである。一九三七年八月、彼はヴェズレーに家を見に行って気に入る。そのころには、ソ連との関係が変わってきた。ゴリキーは暗殺されたのだと認めないわけにいかなかったのである。個人崇拝の危険について私信のなかで語りもした。ただし公然とは言えなかった。それでも、雑誌にスターリン礼賛の記事を書くことは断った。一九三八年六月、彼はヴィルヌーヴからヴェズレーに移った。国際情勢はますます悪化していった。オーストリアがドイツに併合され、独伊条約が締結された。彼はミュンヘン会談に反対した。ヴェズレーの老女たちは彼に唾を吐きかけようとした。それでいて、彼はフランス政府に辛抱強く交渉を続けてほしいという趣旨の反戦請願に署名した。一九三九年五月、ドイツ軍はプラハに入城した。『ウーロップ』誌のソ連革命三十周年記念号に、彼は革命を殺したとして、スターリン体制を間接的に批判した文章を書いた。スターリンの六十歳の誕生日を祝う文章を書くよう、ソ連から依頼が届いたが、彼は断った。
2 《大いなる<幻影>の最後の局面が終わった》……………………………… 348
 一九三九年八月二十三日、独ソ不可侵条約締結。ロランはこれを容認せず、即座に反応した。八月二十六日、ソ連友の会を内密に(敵の宣伝に利用されないよう)脱会した。二十八日、ベルギー王妃が再度ロランに会いに来た。共産主義者だといわれるロランの家から王妃が出てくるのを見て、町の人たちはわけのわからぬ思いをした。九月一日、ポーランド侵攻が始まった。ロランはダラディエ支持の意志表明をした。ロランにとってもマリヤにとっても、最後の幻想まで崩れ去った。人生の転機にあたり、ロランは信仰の問題に思いを潜めた。<神>は信じなくなったが、<存在>の永遠は信じていた。
3 《騒々しい蟻塚を、わたしはとうとうあとにした》………………………… 355
 幻想が崩れたマリヤは信仰にすがった。クローデルを読み出した彼女は、彼と文通し、四○年二月、改宗した。ロラン自身もそのころパリでクローデルと会った。三月には、彼はジャンヌ・モルティエと会った。彼女は彼とテイヤール・ド・シャルダンとを会わせようと試みた。四月半ば、クローデルはヴェズレーのロランの家に四、五日滞在した。折悪しくロランは高熱を発したばかりで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタで彼をもてなすことができなかった。だが、二人はいっしょに「主の祈り」を唱えた。六月、フランスは敗北し、ヴェズレーにもドイツ軍が入ってきた。それに先立ち、ロランは知人に累が及ばないよう、大量の手紙類を焼却した。彼の日記帳七十五の表紙裏に「一九四○」と記しただけの文章が書き留めてある。「前代未聞の、しかも絶え間ない激動によって平衡を失った時代に、揺れ動く思念が見せた精神絵図を、そのまま忠実に残しておく……」とある。
4 《へりくだりだな、結局、なにもかもそれだよ》…………………………… 363
 八月末には日記に「死にたい」と書きつけた彼だが、彼は忍耐強く仕事を続けた。狭い家に、占領軍の将校が何人か住んでいた。さいわい、ドイツ軍最高司令部のシュパイデル参謀長がロランが脅かされることのないよう、気遣ってくれた。ドイツ軍将校のなかには愛読者が何人もいたのである。彼ばかりかマリヤまで病気になったとき、彼はジャンヌ・モルティエに来てもらった。ジャンヌとマリヤとは宗教問題を果てしなく話し合った。彼自身、ジャンヌをつうじて、テイヤールの話を聞いたりして、カトリシズムが知的になったのを知った。ヌヴェール県司令部の将校たちのなかには、彼の最近十年間の発言を知りながら、それでも友好的協力を求める者もいた。だが、彼はドイツ軍の講演依頼は断った。彼はしだいに世俗から遠ざかっていった。
5 《永遠なことども》……………………………………………………………… 369
 ジャンヌ・モルティエとマリヤとは話が合い、いっしょにミサへ出かけたりした。ロランはベナール神父と知り合って、たとえ<神>の存在は疑っても内なる神性は疑えない、と語ったりしている。だが、彼の精神はいつも《最後の扉の敷居》で立ち止まってしまうのであった。信じようとしたのに、信じられなかった。三位一体の神は彼には受け入れられなかった。四二年三月、『内面の旅路』が刊行された。初刷一万部はすぐ売り切れたが、紙不足で再版は出せなかった。クローデルとの文通は続いていた。彼はクローデルのこともわかるようになったし、つぎにはぺぎーを理解したくなった。四二年六月ー七月にパリに出て、関係者からペギーの話を聞いた。クローデルとも再会した。ペギーのことを書き進める一方、つぎの小説のことを考えていた。そこではクローデルとの友情が重要な役割を果たすはずだった。他方、税金、医療費、食費、薪代がかさむというのに、財布が空になってきた。
6 《わたしたちの魂はもう時間の外に出ている》……………………………… 377
 一九四三年一月、風邪をこじらせて気管支炎となり、心臓疲労も加わって、一月末には死にはぐれた。幻覚を見たりもした。カトリック信者たちが彼の病気回復を祈ってくれたのを知って、彼は感動した。しかし、心情的には信じられても、理性は信じようとしなかった。回復は緩慢だったが、やがてベートーヴェンのアダージオが弾けるようになった。デュアメルは新作を送ってよこさなかった。あとでそのわけがわかった。デュアメルはロラン夫妻をモデルにして、ロランを思わせる劇作家がモスクワから特殊任務のために送り込まれた女に丸め込まれる話を書いていたのである。死の床についた教え子のジレとは和解したものの、まもなく先立たれた。『ペギー』の執筆に戻った彼は、ペギーの存在の中心をめざそうと志した。彼はペギーのうちに、永遠なるものの<意志>の<必然>のはたらきを感じ取った。一九四三年九月、彼が『ペギー』を書き上げかけていたとき、ロンドン放送はロランがドイツの強制収容所に入れられたと報じた。ラジオ=アルジェにいたっては、「ロマン・ロラン死す」と虚報を流した。ロランの生地クラムシーでは葬式の支度にかかった。地方紙の主筆がヴェズレーへ虚報のお詫びに来た。電話や電報があいついだ。
7 《かたまりが大きすぎて、彼らの喉を通りきらないのだよ》……………… 385
 一九四四年の初め、彼は健康がすぐれなかった。左肺はもう使いものにならず、咳が止まらなくて夜も眠られないありさまであった。戦争は新局面を迎え、ノルマンディー上陸作戦の準備が進んでいた。八月にはパリが解放された。だが、そのあとで非行や復讐が続いた。ロランは遠くから眺めていたにすぎない。彼は数ヶ月前に始めた『福音書ノート』の仕事に没頭した。共産党とソ連とがふたたびロランに関心を向けた。同年十一月、ロランは十月革命記念祝典に招待された。気は進まなかったが、彼は招待に応じた。『ペギー』のロシア語訳の申し入れに応じたさい、ロランはソ連での新作出版のさいには従来のように版権なしで応じることはしないと明言した。マリヤの息子セルゲーは一九四一年に戦死、その妻もすでに他界していた。十二月六日にソルボンヌで戦没知識人のための記念集会が開催され、その席上でロランの短いメッセージが読み上げられた。だが、政治的な発言ではなかった。全国作家委員会にも加わったが、それは人類と自由とを擁護するためで、党派的参加ではなかった。一カ月半パリで過ごし、ソ連大使館や共産党が用立ててくれると言った車でなく、知り合いの医師の車に乗ってヴェズレーに戻った。そののち、咳と不眠がつづき、声帯が疲労して口もよくきけなかった。冬の三、四ヶ月が乗り越えられるか、心細かった。それでも、彼はそっとさせてはもらえなかった。共産党もカトリック教会も、ともに彼を引き入れようとした。彼は入党を拒んだ。神父たちにたいしては、キリストの神性が信じられないと言いとおした。
 四四年のクリスマスに、クローデルは短い手紙をよこした。ブイエ夫妻は八十キロの悪路を自転車でやってきた。マリヤは母親といっしょに教会の深夜ミサへゆくことにしていたので、留守を頼める夫妻が突然訪ねてくれたのを喜んだ。マリヤが出ていったあと、ロランはしばらくベートーヴェンの話をしていたが、いきなり肘掛け椅子の肘に手をかけて立ち上がった。「わたしたちのミサを挙げにゆこう」。彼は客の腕にすがって階下に降りると、ピアノに向かった。111番のソナタである。第一楽章では黙示録の騎手と一体化したようであったが、第二楽章アリエッタに入ると<主>の永遠を穏やかに確信しているように感じられた。最後の数小節とともに、歌は消えていった。
 十二月三十日午後十一時、ロランは尿毒症で他界した。
エピローグ <存在>か、<無>か………………………………………………… 393
 『燃えるしば』において、<神>は言う。「わたしは<無>と闘う<生>である。わたしは<無>ではない。わたしは<夜>のなかに燃える<火>である。わたしは<夜>ではない。わたしは永遠の闘いである」。一滴の光が夜の闇に落ち、広がって、夜を飲む。そう語るロランの神は、闘いに参加する人間でもある。そしてロランは、若いときから、闘う行動人であるとともに、深いところで超然として生きてきた人であった。一九三五年六月十二日の未発表の日記にはこうある。「この<本質>は、わたしが交わしてきたあらゆる闘いから隔絶したものである。それは、恒久的現存として、内在性として、わたしの全生涯のなかにあった」。「無に直面して生を主張する」。それ以外に空虚の不安を制圧する方法はなかった、というのである。

(成蹊大学名誉教授・仏文学)