ロマン・ロランへの新たな見方 ベルナール・デュシャトレ
         訳  村 永 京 介


 「遺言通知書」の中で、ロランは次のように述べています。
 
 「それを望む人なら誰でも、その人なりのやり方で、私について書いたり判断したりする権利を当然持っている。しかし私は、それら全ての人に対して、それもとりわけ私の友人を自認する人々に対して、私自身の名において語るいかなる権利も認めない。いかなる人にも私に代わって語る権利はない。その資格を持つのは私のみである。そして私というのは、私の書いた書物(私の全ての書物)や日記であり、私のあらゆる日記帳を意味する。」彼はさらにこう付け加えることもできたでしょう。「そして私のあらゆる書簡である」

 すでに多くの書簡が出版されてはいるものの、様々な理由によって、いまだ刊行されていないものも少なくありません。とはいえ、すでに知られているもののうちの大部分は、かなり以前から、自由に参照することが可能になっています。ですが『日記』となると話は別です。マリー・ロランは、『日記』が「ダイナマイト」を抱えているとまで言っているのです。しかし彼女は、2000年になるまではその内容を公開しようとはしませんでした。そして今や時は来たのです。実際、この『日記』は、ロランの人となりや作品についての多くの誤った見方や判断を修正するよう迫ってくる沢山の記述、それもしばしば爆弾めいた記述を含んでいます。『日記』を読むと、書簡を読むのと同様に、私たちがあまりにも頻繁に作り上げている、ロランについての誤ったイメージが一新されます。私たちは、ロランという人間を、彼の真実や複雑さの中で、彼の偉大さや脆弱さ、失敗や後悔とともに、あるがままに見ることができるのです。

 思い切ってこう言ってみましょう。ロランは、ついにその正体を現した、と。正体が暴かれるということはつまり、仮面が取り除かれるということであり、本来のロランがその裏側に隠れ込んでいた最後の仮面が外されるということであり、他の人々が彼に押し付けてきた諸々の仮面が外されるということです。

 1926年(当時彼は60歳だった)、ロランは自分の肖像画の作成を検討しながら、こう明確に述べています。「実際の(あるいは一般的な)外観の肖像、真実のそれと後天的なそれ(仮面)」(VI,332)。「仮面」という語はまさにロランの用語ですが、ついでながらそこからは、あの「私自身を守るための本能的で不可欠な規律である極端な堅苦しさ」(VI,334)が、とくに顕著に連想されます。

 事実この人物は様々な顔の持ち主でしたが、しばしば自らを隠し、さらには仮面の裏側に逃げ込んだりしたのです。ここで私は2つの証言を引用するにとどめたいと思います。まずはアランの証言です。1936年に、彼はこの「礼儀正しく控えめな」人物と初めて何度か出会った時期のことを回想しています。それは前世紀の始まりの頃でした。1908年、この哲学者は、ロランとともにバカロレアの審査に加わりました。そして彼は、ソルボンヌ通りの高等社会学院でロランと出会ったのです。アランはロランの印象を次のように記しています。「私には、彼の大股な歩き方や近付き難い顔つき、そして礼儀正しい微笑を、じっくり観察するだけの時間があった。私はかくも見事に仕上がった彼の存在の中に無遠慮に踏み込んで、彼を困惑させてしまった。さらに私は、度を越した賛辞によって彼の平穏を乱した。というのも、彼は人を寄せ付けないような遠慮深さを示したからである。」もうひとつの証言は、彼にインタヴューをしたポーランドの女性のものです。「不可解なまでに内気で、神経質なところを抑えきれず、鎧や仮面として機能する大袈裟な礼儀正しさを見せた。彼は質問を好まず、好奇心を好まず、自分について語ることを好まない。質問が気に入らないと、彼は奇妙な仕方で返答を避けた――つまり、話し相手の目をまっすぐに見つめ、気取った笑みで執拗に微笑み続けるのである。

 ロランは、自分がなぜこの防御用の仮面を作り上げたのかを説明しています。誇りの高さから他人に反発して、「私の思想世界を妨害するように思われた他者の思想世界に対抗して、苛立ってきた」(M,249)からだというのです。彼はその時、ジャン・クリストフを創り出すことによって、自分の世界に閉じこもってしまいました。1904年の4月、友人であるソフィーア・ベルトリーニに対して、ロランは次のように告白しています。「私は、自分がどのような人間なのか、自分自身に対してすら容易に示すことができないほど錯綜しています。他の人々が私を理解できるはずもありません。」(C11,169)また母親に対しては、すでに1890年に、ファルネーゼ宮の仲間との関係について告白しています。「私は自分の手の内を隠し、状況に適応することができます。

 これがロランの第1番目の仮面です。その上に、他人から彼に無頓着に押し付けられた仮面が、他にも色々ありました。

 まず1914年に「戦いを超えて」が彼にもたらした仮面があります。ロランは祖国の裏切り者に仕立て上げられ、したがって彼の文学作品は何の役にも立たないことにされてしまいました。人々は彼の作品を読むのを拒んだのです。1920年に出たロランの『クレランボー』は、ほとんど何の反響も呼び起こしませんでした。「万人に抗する一人」であろうと望んだ人間の個人主義など、どうしようもないではないか?というわけです。なるほどロランの友人たちは、ロラン本人の助力を得つつ、ロランを世に出そうと企てました。大戦直前の1913年にでたポール・セッペルの本以降、フランスでは、1920年のピエール・ジャン・ジューヴの諸作品、1921年のマルセル・マルティネやジャン・ボヌロの作品が現れたし、外国でも、1920年のシュテファン・ツヴァイクのものや、1921年のポール・コリンの作品が出ました。それらは皆、ロランに対して好意的で、共感に満ちたものでした。しかし、ロランが1917年に始まるロシア革命に挨拶を送ってからというもの、人々がロランについて何らかのイメージを抱いたにしても、その影像は、1919年の「精神の独立」に向けた戦いや、1921~1922年のバルビュッスとの論争にも関わらず、彼のイデオロギー上の戦いへのアンガージュマンによって、早くも掻き乱されてしまったのです。さらに、フランス共産党が、当事者の暗黙の了解や脆弱さにつけこんで(これは事実です)、自分達の都合の良いように利用するべく彼に付与したイメージも存在しました。おそらくここで、ロジェ・マルタン・デュ・ガールが、1936年の11月、「道連れ」が騒々しく祝福されていたまさにその時、ロランに書いたことを思い出さねばならないでしょう。「異論の余地のない勝利の時がやって来ました。それを私以上に愉快に喜んでいるものはいないでしょう!しかし、私があなたの中で好きなところは、今日人々が革命の大盾にのせて歩き回っているものとは別の、さらにずっと大切なものであるように、私には思われるのです……

 事実、ロランはまさしく「それとは別の、さらにずっと大切なもの」でした。彼がその中に閉ざされ幽閉されていたイデオロギーの外皮を破り、そこから彼を引き出すべきときが来ました。確かに、ロランのアンガージュマンを否定してはなりません。彼はそれを自ら、とりわけ1931年以降、高らかにまた強固に宣言していたのです。しかし私たちは、彼をよりよく理解するように試み、必要以上の単純化に陥らないようにすべきでしょう。特に、ロランのフランス共産党に対する態度やソ連擁護が問題となるような場合は、注意が必要です。『日記』や様々な未刊の書簡は、彼のとった立場のいくらかを、より細かく理解するために役立ちます。今や私たちは、当時の共産党にとって言わずにおくのが得策だったことさえ知ることができるのです。ああ! 『ユマニテ』紙が公にした手紙だけでなく、例えばロランからモーリス・トレーズへ宛てた手紙等を、全部読むことができたらありがたいのに! ロランと彼を利用しようとする人々の間の駆け引きは、フランス共産党の側でも、コミンテルンの側でも、時として実に微妙なものでした。それどころかロランは、自分の考えを通すことにいつも成功していたわけではなく、道具として利用されるがままになることもありました。だからといって、彼は、その外見とは裏腹に、ある人々がいつもそう信じていたような、偉大な素朴者であったわけでもありません。

彼のケースは興味深いです。都市における思想家の役割とは何でしょうか? いかなる条件の下で、彼は政治に関わりあうことができる――関わりあわねばならない――のでしょうか? ロランは、戦闘に参加しました。彼は、自分は何らかの義務に後押しされるようにしてそうした、と考えています。1924年、彼は次のように記しています。「私は、黙っていることはできませんでした。しかし、私はどれほど黙っていたかったことか! それは私の役目なのだろうか、神の炎と、神の衣である〈世界〉についての観想に生きる、永遠の孤独者である私の。政治というおぞましいハチの巣に入ることが、私の役目なのだろうか?」彼は続けます。「そうしなければならなかった。私は語った。まるでそれは、人類を導く抗し難い〈力〉が、私に語りかけたかのようだった。『他の人々は死んだ。立ち上がれ!お前は命令を届けなければならない』」(VI,269~70)

 これが彼の「戦いを超えた」行動の意味だったのであり、そして、彼のヨーロッパの和解を目指す弁論の意味だったのです。あの〈力〉から受け取った命令に従って、ロランは、偉大な原理、すなわちいかなる政治的党派にも組しない人類愛の名の下に語りました。次いで、彼の同時代の社会秩序に対する反抗と、闘争へのアンガージュマンは、人間性への同じ信念、人類に纏わり付いて離れない大いなる苦しみ、そしてそれを癒すことへの配慮の中に、その源泉を持っています。イタリアのファシズムやナチズム、そしてこの両者が後に引き連れてきたあらゆる「〜イズム」の怪物に対する戦いは、そのようなものでした。“人種差別”や“反ユダヤ主義”といったイズムです。ロランは、社会革命の必要性と高貴な価値への愛着を調和させたいと願っていました。彼が、一度そうすることを拒んだ後で、ソ連とその革命に対して決然と味方することを受け容れたのは、それは自分がソ連とその革命の思慮に富む助言者でありうると考えたからです。彼がそう言ったように、「『野蛮人たち』のもとで」(QAC,]]]V)過ごしながら、彼は革命の陣営の中に自由の旗印を持ち込むことを望んでいました。1935年に彼がモスクワを訪れたとき、彼は穏健派のブハーリンが勝利すると信じていました。当時彼は、レーニンとガンジーそれぞれの後継者を和解させる夢を追っていたのです。

 ロランは自分が自由であると思っていました、というのも彼はどの党派にも属していなかったからです。しかし、彼は政治的闘争に巻き込まれ、党派人として振る舞いました。ロランとその時の彼の否認を弁護するつもりはないですが――「〈精神〉の独立宣言」の執筆者は、次のように宣言したではありませんか。「〈精神〉は自らの列中に戻らなければならない」!――しかしながら、彼の道連れとしての態度については細かい事まで注意を払う必要があります。『日記』を読むと、私たちはロランの疑問と疑念を見出すことができます。それも、早くも1936年からです。共産党が彼に担わせようとしていた役目に、ロランが容易に同意していなかったことが分かるのです。彼はいくつかの命令を拒んでいます。1937年末から1938年の初めにかけて、スターリンに関しては、どうすればよいか分かっていました。1937年の12月、そこから救済が来ることを希望しつつ、彼はソ連にまだ忠実であり続けましたが、もはやクレムリンの支配者を弁護しはしないのです。個人的には、彼はフランス共産党との不和を徐々に示しています。これが断絶の始まりです。私たちは、ロランに対して、他の多くの人々が彼とともに犯した過ちを、責め立て過ぎることのないようにしましょう。当時は、彼は付き合ってはいけない人物ではなかったのです! アンドレ・ジッドは、自身のアンガージュマンの中で彼と仲間になったし、若きアンドレ・マルローは、おそらく彼以上に、「スタリニアン」であり、「スタリニスト」でした。

 彼の同時代人たちにとっては、ロランの変貌ぶりについていくことは容易なことではありませんでした。彼の絶え間ない変化は、一人ならざる人を狼狽させるものでした。当のロラン自身も、1943年、日記の中で次のように認めざるを得ませんでした。「私の立場は、多くの単純な人々にとっては、特異で、逆説的で、不可解である。『対独協力派』に変わった『完全平和主義者』にとっては、私はスターリン主義者であり、反ドイツ主義者である。熱心な反ドイツ派にとっては、私は新独派である、なぜなら私は自宅に多くのドイツ人を迎え入れているからである。第一次世界大戦を覚えているブルジョワにとって、私がなお平和主義者であり、ガンジー主義者であり、祖国の無き者であるということを疑わないようにしよう。自分がどのような人間なのか、見当をつけたまえ。」(Bio,384 )単純な人々?それだけではありません!彼が、それ以前に弁護していたものとはまるで反対の立場をとるように見える、あるいは実際にそうであるのを目撃して、少なからざる人が彼から離れていきました。それも、取るに足らない連中ばかりではありませんでした。ロランは矛盾など気にもとめていなかったのです! 多くの友人達の中でも、マルセル・マルティネ、そしてジャン・ゲーノは、ロランにそれを指摘しました。またアンリ・ギルボーは正当にも、ロランがその舞台の上ですまし歩くのを受け容れた共産主義の「広場の市」を非難しました。両立不可能なものを両立させようと望んだ以上、彼はどうやって誤解と無理解を避けられえたというのでしょうか?

 ロランは生涯を通してこれらの無理解に苦しみました。彼は極めて早くから、「自分と戦友たち(反戦の友人たち)との間に本当の親近性が存在しないこと」(VI,274-5)を確認しています。1925年、彼が道連れとして決然と参与するまさに直前、彼はこう記しています。「私の思想は、意図的にせよそうでないにせよ、 絶えず誤解の対象となってきた。それはしばしば私の書いたものについての、無知によって引き起こされてきた。そして、事実を歪曲する先入観が、この無知と結びついたのである」(VI,327)、「私の文学仲間でも最も親密な者達でさえ、私の作品の9割も読んでいないのだった。そのくせに、彼らは私の作品を賞賛していたのである。」(VI,328)彼の主導権のもとに創刊された『ウーロップ』誌について、1925年の12月17日、ロランはシュテファン・ツヴァイクにこう告白しています。「確かに、私たち『ウーロップ』の仲間達は奇妙な連中です。彼らは私の中に政治的な旗印(もっとも、それは私のものではないのですが)しか見ないのです。私の『文学』は、いかなる形においても、彼らの関心を引きつけないのです」(Bio,267)。すでに、彼は懐柔されていたのです。その後、1929年に、彼は『日記』の中でさらにこう述べています。「インドについての私の本は『ウーロップ』誌の『私の友達』(極めて少ない!)にも同様に理解されていない。彼らにとって、それは死んだ文字なのだ。私の『ベートーヴェンの生涯』と同じだ。」彼は付け加えます。「時がたてば、私が自分の思想にこれほど完全に無理解な集団の中で生き、活動し得たということが、驚きの的になるだろう。」(Bio,293)。「根本的に、彼らは私が書くものが好きではないのです。(彼らは私を個人的に評価する)彼らは私の名前を利用する。それだけです」、と彼はすでにその数ヶ月前に告白しているのです6。彼らに理解できるはずがありませんでした。ロランは、自分自身が、人々が彼から作り上げたり彼に与えたがったりするようなイメージとは別の何者かであることを知っていたのです。彼が真にそうであるところのものを、誰が知っていたというのでしょう? 「私は誰のために書いているのでしょうか?」――1931年6月6日、ツヴァイクに宛てた手紙の中で彼は自問しています――「これらの哀れなフランス人達のため――そのうちの最もましな人々でさえ――[…]彼らが私を好むときでさえ、私をこんなにも誤解するフランス人達のため?」

 ロランは絶えずこの無理解というテーマに立ち戻ります。しかし彼自身にもその責任の一端があるのではないでしょうか? 1941年の9月、『日記』のなかで、彼は次のような苦い確認をしています。「自分が書き上げ、そしてその意味が決して理解されず、情動によって常に歪曲されてしまうようなものの無意味さに、何とうんざりすることか、[…]敵も友人も、自分を歪曲してしまう。私を憎む者達は、私の中の平和主義者を、主戦論者を、ガンジー主義者を、ボルシェヴィキを、かわるがわる、そして総体的に、矛盾を気にすることなく憎悪する。またそれは友人達でも同じことだ。誰でもが私の中に自分の見つけたいものを見いだす」

 『日記』と書簡は、ロランを少しでもあるがままに見ることを可能にし、彼をその複雑さ、そして矛盾において、提示することを可能にします。その際、彼の苦悩に満ちた闘争を無視しないかぎりで、彼の複雑さや矛盾を説明し、ひとつの統一体に導くよう試みることが可能になるのです。彼が背負い込まされているあらゆる屑を取り除く時が来ました。ここでとりわけ大切なのは、彼の通った軌跡をその果てまでたどることを受け入れることです。政治的アンガージュマンがこの作家の相貌に持続的な影響を与えてしまっています。しかし、どうして彼をその生涯の中のごく一時期の姿だけに還元したり、ある一つの時期の中に閉じこめたりするのでしょうか? 1917年に彼が書いたことを忘れないようにしましょう。「私たちは、ある人生を進行中の状態で判断することはできません。なぜなら私たちは、人生がこれからの十字路ごとにどの道を選ぶのかを知ることができないからです。」ロランの人生は1936年から1938年の間だけで終わっているわけではないのです。それが終わるのは1944年のことです。私たちは、彼がヴェズレーにいた時期のことを、十分に考慮しなければなりません。この時期は、ロランという人間とその作品に再び本来の輝きを与え、それらを固有の真実においてはっきりと現出させるのです。ヴェズレーにおいて、ロランは、自分自身の、そして他の仮面を外すのです。

 ロランとその作品に新しい見方を設定する前に、私は、ロラン自身がその人生の終わりで『日記』に記した以下の言葉を心に留めておきたいと思います。「私は変わったのだ!などとは誰にも言わせない。――本当は、誰も私の書いたものなど読まなかったのだ、――誰もお前の書いたものを読まない、――敵も味方も!彼らはお前について、お前の名前とお前の『伝説』しか知らない、その伝説も、彼らが自分達の論争の必要に応じてでたらめに発明したものなのだ。その必要に応じて、『伝説』は姿を変える、ある伝説が次の伝説に続いていく。誰が真実を気にかけるのか?[…]私は今のうちから、私が死んだ後で、私についてでっちあげられるものを想像するのだ!」

 私は、別の新たな伝説を作り上げたくはない。そうではなく、よりいっそう真実に接近したいのです。

 ヴェズレーの時期を通じて書かれたロランの『日記』と、その頃書かれた手紙は、特別な注意に値します。とりわけ、彼が自分の妹に宛てた手紙がそうです。1942年3月2日に彼が以下の告白するのは、他でもなく彼女に対してなのです。「ああ!1914年以降、仲間を変えたことで、得ることはなかった。その後でやってきた仲間達は、芸術的に、そしてとりわけ私の真の本性についての理解の点で、何と劣っていたことか!」その2カ月前に、彼はアルフォンズ・ド・シャトーブリアンに、彼らの「真の使命」が、「精神によって精神に奉仕するべく印づけられた精神の人間達」である彼らの使命が、どんなものなのかを思い起こさせていました。シャトーブリアンについて、その時ロランは悲しみながら書いています。「ああ!彼は自分の真の本性を裏切ってしまった!その本性を下劣な政治に引き渡すことによって。彼は自分の芸術的至宝を汚いレンズ豆の料理のために売り払ってしまったのだ!」なぜ「真の本性」に、彼のそれは固執するのでしょうか、彼の友人の「真の本性」に? なぜ彼らの「真の使命」を思い起こすのでしょうか?

 独ソ条約以来、ロランは、自分がどんな不幸な過ちに陥っていたのかを、決定的に理解しました。1940年の劇的事件で、彼はそれについてさらに反省することになりました。この誇り高い人物は、自らの愚かな頑固さを悟ったのです。もし彼がそれについて公的な告白をしなかったとしても、その時彼が『内面の旅路』に付け加えたページの中で、それについて言外の意味をほのめかすような言い方で語っています。「私は自分の機織りに謙虚さの精神を取り込む。私はもはや自分を正当化しようとは思わない。」確かに、彼の話の中には、ある種のブラックホールが――あるいはブランクが――残されています!ロランは進んでファシズムに対する戦いや戦争に反対するアンガージュマンについて語り、自分の行為を説明します。「私は、資本主義的で軍事的な帝国主義に対する戦いを、国際的な平和を守ることから決して分離したりしないだろう。」彼は圧制に対する自らの戦いを、すなわち「資本主義的で帝国主義的な古い世界、またそれを強固にするようなファシズムに対抗して、人間性を守ること」を強調します。「私は新しい秩序を築く意志を宣言した。その秩序の中では、最後には、階級も国境もない人類共同体の、平和的で理性的な協力が成立するのだ。」しかし彼はスターリンの道連れとしての、またソ連の弁護者としてのあからさまなアンガージュマンについては何も語りません。彼は自らの理想的な夢を喚起し、悟ったようにただこう確認するのです、「計算はずれであった……」(VI,294)。

 しかし彼の『日記』やいくつかの書簡の中には明確な告白があるのです。1936年の7月に始まる手帳の表紙に、彼は、1940年に、この「バランスを失った時代」に自分が記録したことをどれひとつとして抹消したくない、と記し、以下のように述べています。「私は時代の混乱と過ちに参加した。私は今ではそれをよく認識し、後悔することができる。私にはそれを抹消する権利はない。」(Bio,362)。同じ1940年の6月には、彼は自分が友人のシャトーブリアンが政治を断念するように仕向けたと考えています。『日記』の中で彼はひとつの考察を付け加えています。彼の筆で記されると、なかなか辛口の考察になります。「ああ!物書きはなんと無能なのだろう[…]自らの仕事の外に打って出るときには! 彼らには政治を禁じなければなるまい。」また彼は、余談として、明快な皮肉を込めてこう感嘆しています。「そしてそれを要求しているのはまさにこの私なのだ!」彼はそれについて弁解しています、「そう、私はこの介入の危険性を全て目の当たりにしたのだから。[…]そして私は自分の犯した過ちの全てを悟った。私はシャトーブリアンが彼の過ちを悟るかどうかは知らない。しかし、彼はもはや芸術や宗教的瞑想などの領域の外には出たくないと思っている。彼をそのままにしておこう!」何と不幸で敬虔な誓いでしょう! 1940年12月、ロランは友人と再び会います。そして彼と政治について議論し、ロランは、彼が「仕事が好きになったように見える」ことに気づくのです。そしてこのように付け加えます。「私はというと、私は政治と縁を切った、と言った。」このことはしっかりと記憶にとどめねばならないでしょう。

 またそこから結論を引き出さねばなりません。ロラン自身が非を認めた、彼自身の政治的アンガージュマンの悲劇的失敗を、絶えずロランに突き付けても仕方ないのではないでしょうか? 確かに、彼がそれを公的に認識しなかったという点で、常に彼を非難してよいのは当然です。しかし、ひとつの哲学的で文学的な作品の読解が、作者の政治的・一時的なオピニオンや彼が犯した自分の過ちをどの程度告白するかという点に応じてしかなされないものなのでしょうか? ハイデッガーのナチスへの参与が一時的にどんなものだったにせよ、それが彼の哲学を傷つけるでしょうか? 誰一人として非難することのない彼らの立場のとり方にも関わらず、ブラジヤックやセリーヌやドリユー・ラ・ロシェルが、アラゴンやエリュアールやマルローらと隣り合った位置にいるということを妨げるものは何もないのです! 『人間の条件』や『希望』を読む一方で、なぜロランと『魅せられたる魂』を拒絶するのでしょうか。それらが書かれたとき、作者はロランよりもっと共産主義的だったとは言わないまでも、少なくともロランと同じくらい共産主義寄りだったのです! マルローはアムステルダムの運動に参加しました。その時期、彼はソ連に同調していました。1934年、彼はモスクワに行き、アラゴンとともにソ連の作家会議に出席しました。彼はその時のロランと同様に、「自由の国10」ソ連を弁護するつもりであることを宣言しました。1934年から1937年にかけて、マルローはフランス共産党との関係のピークにあったのです。彼もまた道連れでした、そしてロランは1934年の12月に書かれた「パノラマ」の中に彼を喜んで引用しました。この「パノラマ」は、彼の『闘争の15年』(QAC,L]]])の冒頭に置かれたのです。次いで、マルローはスペインにおけるスターリン主義の犯罪について口をつぐみ、ロランがクレムリンの独裁についてそうしたのと同様、沈黙を守りました。1937年の2月、マルローは、「異端審問がキリスト教の根本的な威厳を損なわなかったのと同様、モスクワ裁判は共産主義の根本的威厳を減じさせはしなかった11」と宣言しさえしなかったでしょうか?

 したがって、一度だけでも、私たちが他の作家たちに対してそうしたように、ロランの政治的意見をわきに退けて考えてみましょう。彼の作品をあるがままに読んでみましょう、そしてロランを彼の「真の本性」において見つめてみましょう! 彼にこう尋ねてみましょう――これこそまさに本質的な問いではないでしょうか?――彼は、自分の作品の中で、また行動の中で、どのような世界観を私たちに与えようとしたのでしょうか。人間が繰り返し問いかける、自分の人生に与えるべき意味についての問いに対して、彼がどのような返答をするのかを尋ねてみましょう。

 ロランはいつも自分の中に「人生に対する悲劇的なペシミズムの生来の感覚」(VI,244)を認めていました。彼の自伝的作品の中から以下の1926年の記述のような箇所を収集してもきりがありません。「人生を、我々の人生を、虚無に直面して肯定すること」(VI,335)1910年、彼がまだそれを書くことを断念していなかった「マッツィーニ」によせて、ロランは自分が歩む方向を示唆しています。「私は人間の魂の中に、炎に抵抗する金属、すなわち、死よりも強い精神を捜し求める。そしてそれが虚無の深淵を乗り越えようとする行為を伴っているかどうかを見究める。12」ロランは彼の作品を通して人間を「時の深い竪穴の上にかかる、もろくて目もくらむような橋のアーチとして」描こうとしているのです(VI,335)。ああ!私たちがいつもロランのあらゆる作品の中に見出すこの深淵の、空虚の、溝の固定観念と、そしてこの「死よりも強い精神」の対照!

 『オルシーノ』は別として、彼の若い頃の演劇は全て、圧倒的な虚無と死に取り憑かれていました。『ジャン・クリストフ』の中にも、これと同じものが存在していることがわかります。この小説の源泉となっている1901年の呼びかけの叫びを思い出していただきたい。「私は、すでに死んでしまった人々や、やがて死んでしまう人々のことを考え、空虚が包み込み、死のまっただなかで転がり、そしてまもなく死んでしまうであろうこの全地上のことを考える。」(JC,]U)1938年の9月28日に、ロランはさらにクリスチャン・セネシャルにこう打ち明けています。「結局は、人生とは普遍的な死への挑戦です。その挑戦は、生命の欲望か、あるいは絶え間ない活動に満たされた人にしか不可能なのです。水車の音が止まる頃、静寂はひとつの深い竪穴であり、私たちは落ちていくのです」(Bio,400)。1944年の2月にヴェズレーで画家のゼルヴォと対話したとき、ロランは自分がごく若い頃に「深い竪穴の底へ到達していた」と告白しています。彼はそれ以来、人類が文明の廃墟の下に埋もれて、その深い竪穴へ転落していったのを見たのです。

 この現実に直面して、いかなる態度を取るべきでしょうか? ロランも、かくも巨大な不条理を前にして、絶望に屈してしまう誘惑をいつも避けたというわけではありません。時には彼の「人類への嫌悪」はそれほどまでに甚だしかったのです。彼の晩年期は、失望の発作によって暗いものにされています。すなわち1940年の6月、そして8月に彼が感じた「魂の大いなる疲労」の時です。「私はこの人類の残忍な愚かしさに心臓をきつく掴まれているような思いだ、人類は、数千、数万年来にわたる勤勉な進化の挙句、いまだに何百万人単位での殺戮をしている[…]全世界に対して自分の思考様式と、自分の意志を押し付けようとする一人の人間の狂気のせいで。神はなぜその踵の下に、この愚かな人類を押し潰してしまわないのか!」「もうたくさんだ! 人生にも、人間にも、大地にも、私たちをそこにつなぎとめておくだけの価値がない。まともな物はほとんどない、軽蔑すべきものばかり、そして救済はない。死が訪れる時には歓迎しよう!」 1944年の6月に「地球全体にのしかかる惨たらしく愚かな戦争の空気」が語るとてつもない「悟り」も、やはり同様です。「私は、『人間の条件』というこの悪夢から、永久に逃げ出したい」

 たとえ時にはこれらのペシミスティックな発作に押し流されても、ロランはいつもそれを制御する術を知っていました。彼は、「人生の前と後の間にある私たちの夜を照らし出す光のきらめき」(JC,]U)を求めながら、虚無と戦うことをやめなかったのです。彼にとって、人間の運命は、個人的で、地上的で、かつ死すべき実存の単なる曲線よりも、もっと広大なものに見えていました。なぜなら個々の人生は、本質的なものを、すなわち人間的な事物の彼岸にあるものを隠蔽しかねなかったからです。そしてロランはこの彼岸を青年期から予感していました。彼はそれを繰り返して述べています。1896年から、彼は以下のことを思い起こさせるという目的に没頭します。「神は常にその多様な様相のうちのひとつをとりつつ、常に永遠の力である。本質的なことは、それぞれの内でこの力を呼び起こすことであり、それを燃え盛る炎の中に投げ入れることであり、永遠を燃え上がらせることである。」(VI,247)この表現はしばしば引用されています。これに、1924年の7月16日に、友人であるルイズ・クリュッピに対して打ち明けた話を付け加えてみましょう。「私のような存在は、ある種の謎です。それを解く「宗教的な」鍵はフランスでは一切知られておらず、滅多にお目にかからないものです。」この「宗教的な鍵」がなくては、ロランを理解することはほとんど不可能です。しかしながら彼は、『内面の旅路』の中で、しばしばこの問いに立ち戻ります。他の引用の中から、特にこの二つを挙げてみましょう。「宗教は未来の希望ではない。宗教は永遠なるものの内での現在の生である、――つまり直接的啓示である。深い人物なら誰でも、私たち自身の中に、神、絶対的な魂、永遠の私が存在していることを知っているし、感じている。[…]神の炎の火の粉は、良き意志を持つ全ての魂の中で養わなくてはならず、成長させなくてはならない」(VI,332)第2の引用を見てみましょう。「神はいたるところに存在する。剥き出しの宗教。存在と神の肉との裸の接触、神的実体そして時間と永遠との結婚。」(VI,207)1927年、フロイトとの対話においてロランは、彼の内でいつも感じられてきた、彼が「宗教的『感覚』」とか「『永遠』の感覚という単純で直接的な事実」と呼ぶものについて主張しました。この「豊かで恩恵に満ちた」「宗教的エネルギー」の中に、彼は「常に生命の更新の源を見出して」(C17,265-6)きたのです。彼はいつもこの「普遍的存在への直観的信仰、生と死の消すことのできない炎」(VI,244)を持っていたのでした。

 ロランは最後までこのようでありました。彼のあらゆる作品は多声的で、ジャンルを問わず――演劇、伝記、小説、自伝、エッセイ――、間断なく、この世界の宗教観、永遠の現存を表現することを目指していたのです。「生と死。永遠の力。」虚無に対してロランは生を措定し、幾度か絶望の叫びを上げつつも、人間性への無限の愛を弁護しています。彼は1901年の呼びかけに忠実です。「兄弟たちよ、歩み寄ろう、私たちを隔てるものを忘れよう、私たちが等しく混ざり合っている共通の悲惨のことだけを考えよう!敵はいない、悪人はいない、いるのは惨めな人々だけだ。そして持続可能な唯一の幸せは、理解しあい、愛し合うことなのだ」(JC,]U)。全ての人間は、ひとつの同じ「普遍的な魂」に結びついているのではないでしょうか? 彼らは「ベートーヴェンの晩年の作品のそこかしこに存在する神に」結びついてはいないでしょうか。また、ロランは、とりわけ第9交響曲の中に、ロラン自身のものに極めてよく似た「燃え盛る神秘主義」(B,977-8)のしるしを見出すのです。

 私たちはさらに、他の本に比べてあまり読まれていないロランのいくつかの本にも、それに値するだけの注意を払わなければなりません。

 私は『クレランボー』の重要性については議論しません。「フランスにおいて、私の友人のうちでもほとんど誰一人として理解しなかった」、とロランは注意を促しています。「アメリカやドイツなどのアングロサクソンの国では深みを持つ『クレランボー』の「宗教的行動」も、ラテン系の国では何でもなかった。」(VI,274)と彼は残念そうに記しているのです。

 私はむしろ『生けるインドの神秘と行動』について、従ってラーマクリシュナとヴィーヴェカナンダの生涯について議論したいと思います。ロランはこの一連の仕事をとても重視していました。彼は偉大なインド人の中に、彼自身の「隠された思想」(I,224)を見出していたのです。すなわち、個別的な存在の、大いなる全体との分離不可能な統合の感情であり、普遍的なものへの帰属の感情、何か無限なものの感情、大洋的な感情です。まさしくこの神秘的で宗教的な感情について、ロランはフロイトに宛てた1927年の12月5日に始まる手紙の中で長々と説明していたのです。これらの著作の中で、彼は「著者は[…]おそらく[…]自分の書いた他のどの著作におけるよりも、自分の形而上学的で宗教的な思想を明らかにした」(C17,298-9)と認めています。彼は、読者に自分の慣れ親しんだこの無限と絶対の感情を与えることによって、彼らの心の中に魂の扉を開くことを目指しているのです。インドの宗教的神秘について語ることは、「海の底に飲み込まれた――しかしいつでもまた現れ出ることのできる、西洋の魂の奥底」(C,299)を呼び覚ますことではないでしょうか? ロランは、自分が若い頃から絶えず感じてきた感情を再発見するという思いが強かったため、これらの伝記の中で、さらにはこれらの偉大なインド人たちの思想を研究する中で、そのことを強調せずにはいられないのです。神との接触、絶対者との合一。ロランが、自分をまったく理解しない『ウーロップ』誌の新しい幹事であるジャック・ロベールフランスに、彼の本を「人‐神 ラーマクリシュナと、ヴィーヴェカナンダの福音書」というタイトルで広告するよう頼むのは、まさに挑発からなのです。ロランは哲学あるいは宗教の見かけを越えて、唯一の源泉、すなわち「人類の魂」を見出そうとしているのです。

 私が議論したい別の作品は、誤解の多いロラン第2の連作小説で、1921年に始まり1933年に完結した『魅せられたる魂』です。大変しばしば、ロランはこの著作の重要性を強調しています。特に彼が政治へのアンガージュマンをしている真っ最中に書かれた、2巻構成になっている、最後の章の『予告する者』に関するところがそうです。1927年11月11日、彼がこの最終部を思いついたとき、ソフィーア・ベルトリーニに次のように告白しています。「私は『魅せられたる魂』の最後の部分の準備をしています。そこは、遺言的な特徴を持つことになりそうです。というのも私はそこで(宗教的著作[彼の『生けるインドの神秘と行動』]におけるのと同様)私の思想の根本を述べようと考えているからです。」(C11,313)。作品が完成すると、1934年の6月26日、彼は友人のリュシアン・プリスにこう主張しています。「最後の2巻は、私がこれまでに書いた中でも際立って、最も重要なものです、――社会的闘争についてだけでなく、――生と死について。マルクの死、アンネットの死は、私の遺言なのです。13」同様に、ロランはジャン・ゲーノにも打ち明けています。「アンネットの死を描いた最終章は、私の最高のものであり、あるいは少なくとも、私の一番の秘密だと思っています」(C23,280-1)。

 それでは、ロランをよりよく理解するために、これらのページを注意深く見てみることにしましょう。1944年の8月、「忘却の年月の後」、これら最後の巻を読み返しながら、彼は次のように述べているのだから、なおさら注目したいところです。「私は、それがまだ誰もその並外れた豊かさに気づいていない偉大な作品であることを、驚きとともに発見した。」「偉大な作品」という判断をめぐっては、異論のある人もいるでしょう、しかしロランが示しているこの作品のもう一つの側面を無視することはできません。その「並外れた豊かさ」、これは少なくとも彼がそこに与えている重要性と、私たちがそこに持ち込むべき関心を強調しています。

 1921年から、ロランは総体的な計画を綿密に作り上げました。総題である『魅せられたる魂』は、意図的に謎めかしてあります。しかし長大な準備用ノートは明確なものです。ロランは情熱に駆られた魂、すなわち「見えないエロス」が、「4つか5つの形を」続けざまにとる、アンネットの魂を描こうとしたのです。すなわち父親への愛、姉への愛、息子への愛、人類への情熱的な愛です。「第5番目の形、最後の形は、――(彼女が壮年期に達してすでにそれを越えているとき )――神へと、無限の方へと向かう――。神秘的で深い人生になるだろう[…]何一つとして外に透けて見えるもののない人生に。14」この結末は、この書物全体に光を投げかけ、宗教的な意味を与えるに違いありません。

登場人物を創作するために、ロランはとりわけ、多くの点で彼自身の経験を思い出させる「偉大な女性神秘家」の例を参照しています。恍惚の時、この神秘家は神の実在性の確信を持っています。「神の経験」をしながら、「宇宙的な魂に抗し難く惹きつけられた魂」を感じつつ、神秘家は「至高の実在、あらゆる事物の究極目標」を発見したのです。「生き生きとして勝ち誇った力、[…]時間や空間や善や悪の向こう側にある本質的存在15」。

 『征服者』や『人間の条件』、『希望』のマルローのように、ロランは自分の語りと登場人物を現代生活の中に導き入れます。それらを通して、彼は人間の運命についての大きな問題を立てるのです。生と死、愛、ヒロイズム、個人と社会、……。彼はアンネットとその息子マルクを、彼らの時代への参与や問題と格闘している姿を描こうとしましたが、彼は作品の深い意味を忘れてはいませんでした。「死の時間、魂は裸になる、何も持たない、入り口にたった一人だ。16」自分を夢中にさせた最後の「魅惑」を拒み終えた後、彼女は「恐ろしいこと」に遭遇します。「彼女はずっと、自分の感じているものが、体と存在の内壁を越えて――普遍的な存在の中で響き渡っているという深い印象を持った。17

 『魅せられたる魂』の最終部、『予告する者』が、『ひとつの世界の死』と『出産』という2巻の本として現れた時、その意味は必ずしもよく理解されたわけではありませんでした。人々はそこに――そして正当にも――政治へのアンガージュマンの表現を見たのです。しかしこの本を、そのような限界の内に閉じ込めてはなりません。この書物はこうした限界を超え出ているのです。『人間の条件』や『希望』を、共産党の立場を擁護するためだけのものに還元する人がいるでしょうか? 『予告する者』の中では、登場人物が自分たちの時代の生活に参与するというこの側面は全て、それに先立つ巻と同様に、ロランが「現在のローブ」や「世界の衣」と呼んだことにすぎません。本質的なことは、そうではなくて、この小説の核心においてキアレンツァ伯爵の物語を通して告げられています。洗練された研究者、悲劇的状況の犠牲者だった伯爵は、エンペドクレスやピタゴラスの哲学的認識、そしてインドやオリエントの神秘家たちの認識によって静謐さにまで導かれた人であって、彼は一切の虚無を知っています。政治的喜劇から離れて、彼は仮象の世界の向こう側へ突き抜けるのです。

 彼のおかげで、アンネットは自分の人生の意味を悟ります。この小説の最後の40ページは、彼女の究極の解脱が告げられる瞬間を強調しています。アンネットの視線は仮象のヴェールを貫き、「存在の深い竪穴」(AE,1429)を探索します。そして彼女はそこにまもなく溶け込んでしまうのです。彼女は、「無意味な衣を、肉体のシャツを、そしてその熱とその死すべき魅惑を脱ぎ捨てる」(AE,1429-30)べき時がすぐにやってくることを知っています。臨終の瞬間にはすべてが輝き、アンネットは自分にこう言うのです。「さよなら、アンネット!……今私は分かった」(AE,1461)。この「私は分かった」は人生の意味を明かし、世界の哲学−宗教観を表現しています。死によって、それだけで結局、魂は決定的に「解脱し」、自由になり、存在と溶け合う。その時、「魅せられたる魂のサイクルが完成し」(AE,1461)、全体のタイトルの謎が明かされ、別のタイトルの意味が明らかになるのです、すなわち『予告する者』の意味が。アンネットはある人たちが考えたように、新たな世界や歌う明日の「予告する者」ではありません。彼女は、ロランが生に対してどんな意味を与えたのかを告げているのです。読者は、瞬間の感情を越えた「真の生」の秘密を発見するために、ヒロインとともにこの人生の全行程を辿らなければならないのです。

 こうしてこの小説は、人類にその偉大さをなすものを説こうとするロランの一連の作品群に加わるのです。目を見張るような長い一貫性で、ロランは若き日の『クレド』に忠実です。「死、それは力に溢れた完全な生である。死は私に真の存在を返してくれる。死は私が支配しがたい幻を断ち切り、普遍的な生についての幸福な意識の内に入り込むようにさせてくれる。…」ロランは、「私は変わったなどとは、誰にも言わせない18」と言う時、当を得ているのです。

 私たちにはまだ、ヴェズレーで書かれた作品の中にもこれと同じ一貫性を指摘するという仕事が残っています。しかしその話をすると、皆さんの辛抱強さに付け入ることになってしまいます。ベートーヴェンについての最後の偉大な書物だけでなく、最後の扉の敷居にさしかかったときに、クローデルとの対話におけるロランのまったくもって宗教的な態度について、少々触れるにとどめたいと思います。

 ベートーヴェンについてロランが「最後の作品の解脱、通過的形態と戯れ、存在のただなかに入り込む魂がただ神とともにある状態」(B,868)を好んで思い起こすとき、彼はアンネットの死について語ったことからそれほど遠くにいるのでしょうか? 「人類を永遠へ送り届けるための橋を建設するべく」(B,869)働こうとしていたベートーヴェンのあの姿がロランの全ての作品を要約するものであることを、どうして見落としたりするでしょうか?

 私はもう一つの言及、つまりロランとクローデルの対話に触れて、終わりにしたいと思います。1880年代にワーグナーの『パルジファル』を一緒に聴きに出かけていた2人のルイ・ル・グランの卒業生は、マリー・ロランのおかげで、再会することができました。1941年の12月のこと。クローデルは、パリで友人ロランに会いたがりました。しかしロランはほとんど身動きが取れなかったので、クローデルに、「君のほうが健康なのだから、来てくれるわけにはいかないか?[…]僕はわれらがベートーヴェンの声で、鍵盤に合わせてしゃべってあげよう。そして君は精神の偉大な音楽でもって答えればいい。それは人生の酒だ。来る日も来る日も世界が廃墟となっていく音を聞くような、大規模な破壊が行われる不吉な時代で、永遠の事物について語り合うことは、とても素敵だ。」驚くべき対話をしようと思い描いていたのです! 音楽作品は言葉となり、詩は音楽となる! しかし、とりわけ、ロランの世界観・人生観の中心そのものにあった、死よりも強い精神というこの根本的なテーマを発見しない手があるでしょうか。大規模な破壊と、廃墟と化した世界を前にして、永遠の事物が残っているのです。

 ロランはそこで彼の「真の本性」を表現しています。私たちが、ついに今こそ、まず何よりもを向けねばならないのは、他でもなく、この本性ではないでしょうか?




 1 —Cité par Olivier Henri Bonnerot,《L’esthétique de Romain Rolland》, Cahiers de Brèves, n°8, septembre 2002, p.28.
2 —Salut et fraternité(『挨拶と友情』): Alain et Romain Rolland. Correspondance et textes présentés par Henri Petit, 《Cahiers Romain Rolland》 n°18, Albin Michel, 1969, p.95 et 120.
3 —Témoignage publié en 1925, cité par Zbigniew Naliwajek, Rolland en Pologne(1910-1939), p.64.
4 —Printemps romain(『ローマの春』)Choix de lettres de Romain Rolland à sa mère(1889-1890),《Cahiers Romain Rolland》 n°6, Albin Michel, 1954, p.171.
5 —Romain Rolland et la NRF. Correspondance avec Jaques Copeau, André Gide, André Marlaux, Roger Martin du Gard, Jean Schlumberger, Gaston Gallimard et fragments du Journal. Présentation et annotation par Bernard Duchatelet,《Cahiers Romain Rolland》 n°27, Albin Michel, 1989., p.279.
6 —Lettres du mai 1929, à Charles Baudouin, Correspondance entre Romain Rolland et Charles Baudouin, édition établie, présentée et annotée par Antoinette Blum, Avant-propos de Yves Baudouin, Lyon, Césura, 2000, p.160
7 —Lettre inédite, à Louise Cruppi, 3 septembre 1917.
8 —Cité par R. A Francis, Romain Rolland, Oxford-New York, Berg, 1999, p.236.
9 —L’un et l’autre II. Correspondance entre Romain Rolland et Alphonse de Chateaubriant(1914-1944). Préface et annotations par L.-A. Maugendre,《Cahiers Romain Rolland》 n°30, Albin Michel, 1996., p.424
10 —Cité par Jean Lacouture, André Marlaux. Une vie dans le siècle, Seuil, 1973, p.171.
11 —Cité par Lacouture, op. cit., p.219.
12 —Susanna Gugenheim, Romain Rolland e l’Italia, istituto editoriale cisalpino, Milan-Varèse, 1955, p.63.
13 —Cité par Bernard Duchatelet, Romain Rolland. La Pensée et l’action, Université de Brest, 1997, p.177.
14 —Id., ibid., p.146.
15 —Sur cette《grande mystique》, voir ibid., p.146, note 2
16 —Id., ibid., p.155
17 —Id., ibid., p.156.        
18 —Le Cloitre de la rue d’ulm(『ユルム街の僧院』): Journal de Romain Rolland à l’École Normale(1886-1889). Avant-propos d’André George,《Cahiers Romain Rolland》 n°4, Albin Michel, 1952., p.377.

略号リスト(邦訳が出ているものに関してのみ邦題を記した)

AE: L'&acirc:me enchanté (『魅せられたる魂』), édition définitive en 1 volume. Albin Michel, 1967.
B: Beethoven, les grandes époques créatrices (『ベートーベン : 偉大なる創造の時期』), édition   définitive en 1 volume. Albin Michel, 1966.
C11: Chère Sofia (『したしいソフィア』). Choix de lettres de Romain Rolland à Sofia Bertolini Guemeri-Gonzaga (1909-1932), (Cahiers Romain Rolland) n°11, Albin Michel, 1960.
C17: Un beau visage à tous sens (『どこから見ても美しい顔』). Choix de lettres de Romain Rolland (1886-1944). Préface d'André Chamson, (Cahiers Romain Rolland) n°17, Albin Michel. 1967.
C23: L'indépendance de l'esprit (『精神の独立』). Correspondance entre Jean Guéhenno et Romain Rolland (1919-1944). Préface d'André Malraux, (Cahiers Romain Rolland) n°23, Albin Michel.  1975.
I: Inde .-Journal 1915-1943 (『インド』), Albin Michel, 1960.
JC: Jean-Christophe (『ジャン・クリストフ』), édition définitive en 1 volume, Albin Michel. 1966.
M: Mémoires et fragments du journal (『回想記』), Albin Michel, 1946.
QAC: Quinze ans de combat (『闘争の15年』). Rieder, 1935.
VI : Le Voyage intérieur (『内面の旅路』). Songe d'une vie, édition augmenté. Albin Michel, 1959.