ロマン・ロランとインド 森 本 達 雄


   本日は、これから「ロマン・ロランとインド」というテーマでお話しさせていただきます。このテーマは、ロマン・ロランという多角的で総合的な巨大な人格のなかでも、音楽や社会・平和思想とともに、きわめて興味深いテーマの一角をしめております。
   ところで、今日からいよいよ一九九九年も師走月に入りますが、年が改まれば二〇〇〇年ということで、今年の師走は毎年繰り返される年の瀬とは違った、一つの世紀の終わり(正確には、二十一世紀は二〇〇一年から数えるようですが)といった、なにか感慨深いものがございます。
 そんな思いのなかで、あらためて私たちが生きてまいりました二十世紀をふりかえりますと、それはよく言われるように、科学技術の驚異的な進歩と戦争の世紀として特徴づけることができましょう。
   科学技術も戦争も、もちろん今世紀に特有のものではありません。それは人類の歴史とともあったといえましょう。人間は狩猟や耕作を始めたときから、すでに道具を使っておりました。土を耕すのに手を使ったのでは指先が痛いし怪我をする。そこで手の代わりに木片や石を使う。烏や獣を捕るには、どうしても素手ではかなわない、そこで弓矢や槍を考え出す。あるいは自分の力ではどうしようもない重い岩や木材を運ぶのに、牛馬といった力の強い動物やてこを利用する。また、速く疲労せずに遠くの目的地に到達するために、馬やラクダを飼い馴らして足の代わりにしたり、丸木舟を利用する。こうして、人間は原始の時代から徐々に科学技術を発展させ、やがて、ピラミッドや万里の長城といった巨大なモニュメントを築きあげ、さらに近世に入ると、産業革命によって、直接手足を使わず、機械にその代用をさせるようになりました。
   しかし二十世紀に入ると、そうした人類の何千何万年という長く営々とした進歩の歴史に、大きな質的な変化が起こりました。すなわち、第一に、これまで人間の手足や肉体の延長としての機械であったものに加えて、頭脳の代理としてのコンピューターが作り出されたこと。第二に、人類の長い夢であった大空へ、さらには宇宙への飛行を実現したこと。そして第三にこれまで神の創造の冒すべからざる領域として神聖視されてきた、生命の分野にまで科学がかかわりはじめたことです。
   そして、人類はいま、自らが作り出した驚くべき科学の力に脅威を感じながら、人間の幸福にとって科学が両刃もろはの刃であることに気づき、自然破壊や環境問題、生命の尊厳の問題などをあらためて真摯に問うようになりました。しかし本日は、この問題がテーマではありませんので、話をつぎに進めさせていただきます。
   同じように、二十世紀は、戦争の世紀とも呼ばれておりますが、それは科学技術の進歩の歴史が、ここにきて質的な変化をとげたように、戦争もまた、以前の戦争とは大きく様変わりをしたということです。悲しいことですが、人頬の歴史は戦いの歴史であったと言っても過言ではありません。侵略や争いは、おそらく、私たちの知らない有史以前から続いてきたに違いありません。しかしそれらは、種族と種族、地方と地方、王国と王国、あるいは一国と一国、多くとも周辺の数か国が巻きこまれて戦うということでした。それが、今世紀に私たちが経験した二度の世界大戦や、また最近の湾岸戦争でも見られたように、戦場は一地方に限られていても、世界の多くの国々がなんらかの形でこれに参加するといった、世界的な規模のものに変貌してしまいました。また戦争そのものも、以前とはちがい、巨大な科学の力と結託して、空から、あるいは遠く見えないところから爆撃を加え、それも瞬時にして何千何万という、老人や子供、病人までをも含めた非戦闘員を平気で殺害するという、一世紀前までは鬼神すら考えなかったような恐ろしい殺人ゲームになってしまいました。
   しかしいっぽう、いま人類は、この世紀を終えるにあたり、野放しの科学の進歩にブレーキをかけなければならないと考えはじめ、また恐るべき戦争の教訓から、平和・共存を心から切望するようになったことも事実です。人類が今日ほど、戦争と平和、民族や国境の問題を真剣に考えたことはなかったと思います。たしかに人間は、身を危険にさらしたり、心に痛手を負うまでは、目先の損得から目を離し、未来を考えることはできないようですが、二十世紀に二度も体験した戦争の悲劇から、イギリスの詩人コールリッジのいう「悲しい経験で賢くなった苦労人」として、戦争のない二十一世紀を願っています。もしほんとうにそのことに人類が目覚め、地上から戦争がなくなるとすれば、二度の大戦をはじめ、数々の紛争で奪われた犠牲者たちの死が、いくらかでも報われることになりましょう。
   この平和共存にいちはやく目覚め、その実現に向けて立ち上がったのが、二度の大戦の中心舞台となったヨーロッパであったというのは、けだし自然なことだと思われます。ヨーロッパの国々は、これまでどおり互いに近隣国を信じず、憎悪をつのらせ、軍事力の増大にきゅうきゅうとしていたのでは、それこそ詩人タゴールの言ったように、古生代にマンモスが互いに相手より強くなろうとして、牙を巨大化し、自滅していったように、共倒れになるのではないか、それよりも話し合いによって、互いに理解を深め、信用し、協力し合ったほうが得策ではないだろうか、そう考えるようになりました。こうして、久しく相互に憎しみ合い、争ってきたヨーロッパの国々のあいだに経済や外交、安全保障などの面で国境なきゆるやかな共同体をつくろうという気運が高まりました。
   ところが、こうした思想は第二次世界大戦後に初めて政治家や経済学者たちによって考え出されたものではありませんでした。その理想を実際の声にしたのはオーストリアのクーデンホーフ・カレルギー伯爵でした。カレルギーが第一次世界大戦の悲惨さを目のあたりにして、『パン・ヨーロッパ』という本を書き、ヨーロッパの統合を提唱したのは、第一次世界大戦後の一九二三年でした。(なお、この人のお母さんが青山光子という名の日本人女性であったことはあまりにも有名です。)このときのカレルギー伯の理想は、まず長いあいだ犬猿の仲であったフランスとドイツを和解させ、ヨーロッパの国々を連邦国家に参加させて、大陸に恒久平和を築くことでした。そこで一九二六年に彼はウィーンでパン・ヨーロッパ会議を開催しましたが、彼の夢はヒトラーの出現によって無残にも破られてしまいました。
   しかし、いまにして考えてみますと、ヒトラーの猛々しい軍靴もカレルギーの撒いた夢の種をけっして踏みつぶすことはできなかったのです。種はじっと第二次大戦中の冬の季節を耐えしのび、一九六七年にヨーロッパ共同体の発足として新たな芽を出したのでした。その後その計画は、通貨統合、共通の外交・安全保障、国境なきヨーロッパを目指すヨーロッパ連合からEUへと発展していったことは周知のとおりです。思えば、EUがこのように戦争の産物であったというのは皮肉なことです。
   ロランの話の前置きがEUにまでひろがってしまいましたが、それは、ひとつには世紀の締めくくりとして二十世紀の戦争と平和の歴史をふりかえってみたかったからですが、それと同時に、ロランの思想がこうした問題とけっして無縁でないことを思い出したかったからです。と申しますのは、ロランは本国フランスでも、またかつてはあれほど多くの読者に愛された日本でも、近頃は過去の作家として忘れられがちですが、ロランは今世紀初め、すでに今日のヨーロッパのあるべき姿を提言し、さらに人類の歩むべき方向を示唆していたことを思いますと、彼の作品はけっして過去の文学作品ではなく、二十一世紀へのメッセージとして、あらためて読みかえす必要があろうかと考えるからです。
 クーデンホーフのパン・ヨーロッパ思想にロマン・ロランの作品が直接的な影響をおよぼしていたかどうかは、残念ながら私の勉強不足のため、いまは明確に申しあげられません。たぶんクーデンホーフもなんらかの形でロランの思想を知っていたとは思いますが、それは今後の課題にさせていただきます。いずれにしましても、汎ヨーロッパという理想は、けっしてクーデンホーフ独自の発想ではありません。それは早くから、ヨーロッパの良識ある知識人のあいだに醸成されてきた思想でした。たとえばドイツの哲学者カントも、彼の倫理的・政治的理想からヨーロッパの恒久平和を念願していましたし、共和主義者として知られるフランスの文豪ヴィクトル・ユゴー(ユゴーが若きロランに大きな影響を与えたことはご承知のとおりです)も、「ヨーロッパ合衆国」を提唱したのでした。このように思想というものはけっして一人の人間が思いつくものではなく、長い時代背景のなかで整理・収集されるものです。ロランの思想も、当時のヨーロッパの知識層のあいだでは、賛否両論はあったにしても、広く知られていたはずです。
   さて、ロランのパン・ヨーロッパ思想は、彼の大河小説『ジャン・クリストフ』のなかにみごとに表現されております。一九〇三年から十年がかりで書かれたこの作品は、第一次世界大戦の二年前一九一二年に完成されておりますから、ロランは、パン・ヨーロッパの政治的提唱者たちが大戦によってその必要を痛感する以前に、すでにその理想を作品のなかに掲げていたのです。周知のとおり、『ジャン・クリストフ』の主人公クリストフは、ベートーヴェンをモデルにしたドイツ人の音楽家です。そのために、第一次世界大戦が勃発したとき、フランスでは、フランス人の作家がなぜ敵国民を主人公にした作品を書かなければならなかったのかと非難されたそうですが、この小説の大きな意味は、むしろそこにあったと申せましょう。
   ジャン.クリストフ・クラフトのクラフトは、ドイツ語で「力」を意味します。もすろんここに言う「力」は権力の意味ではなく、生命力のことです。つぎにロランは、クリストフの友人にフランスの青年オリヴィエを登場させています。オリヴィエはフランス語でオリーヴの木、すなわち知性の象徴です。したがってクリストフとオリヴィエの出会いと友情は、ドイツ的創造力とフランス的知性との出会いと友情えお意味します。それぞれが互いに他方を補いつつ人間の完成を目指すのです。ロランはオリヴィエのなかに、幼年時代からの自分の性格を色濃く投影しているといいますが、ロランはオリヴィエのように夢みがちで、「神秘精神への傾向をもっていた」ようです。と同時に、大戦中に敵からも味方からも轟々と非難されながらも「戦いを超えて」、人間愛と平和を叫びつづけたあのしんの強さにおいて、彼はまたクリストフ的でもありました。

  クリストフは親友オリヴィエを偶然の死によって失ったあと、悲嘆のあまりスイスの山中へ行きます。そこで彼はかつてピアノ教師をしていた頃の弟子グラチアに再会します。グラチアはクリストフに好意をいだいていた少女でしたが、いまはベレニー伯爵の未亡人として、子供たちとともに静かな生活をいとなんでいました。グラチアという名前からも容易に想像できますよケに、彼女はイタリア生まれの優雅なやさしい女性でした。情熱的なクリストフは彼女との結婚を夢みますが、彼女からきっぱりと断られます。しかしこのことによって、二人の魂はいっそう強く、固く結ばれるのでした。物語の筋はさておき、私がここで申しあげたかったのは、大河小説『ジャン・クリストフ』では、こうしてクリストフ、オリヴィエ、グラチアに象徴されます、ドイツとフランスとイタリアのそれぞれの民族の最もすぐれた精神の友情とユニテが物語の伏線になっているということです。(蛯原徳夫『ロマン・ロラン研究』第三文明社参照)
   私は初めにロランをEUの理想の先駆者と呼んだわけがおわかりいただけたかと思います。以上のことは、今日お集まりのロランの読者のみなさまには、いまさら申しあげるまでもないことと思いますが、話の進展の必要からと、ロランの思想の今日的意義の再確認のためにお話しさせていただきました。ところが、このようにロランの理想がたんにフランスと隣国ドイツやイタリアから全ヨーロッパへとひろがっていっただけではなく、ヨーロッパの境界を超えて、さらにアジアへとひろがり、ヨーロッパとアジアとの結合、いわば人類のユニテの方向へと拡大していったことは注目に値します。ロランとインドとのかかわりはそのことの重要な証であります。 とはいっても、ロランはいわゆるインドロジストと呼ばれるインド学の専門家ではありません。十八世紀末から十九世紀にかけて、ヨーロッパ勢力のインド進出、とくにイギリスのインド支配が確立するなかで、当初は好奇心から始まったヨーロッパ人たちのインド ― とりわけ古代文明への関心が、やがて本格的な学問研究へと発展し、十九世紀後半から二十世紀に入りますと、イギリスやドイツ、フランス、イタリアでは、錚々たるインドロジストたちを輩出しました。いまちょっと思い出すだけでも、膨大な『梵語大辞典』を完成させたドイツのべートリンクとロート、『東方聖典』五〇巻で知られるオックスフォード大学のマックス・ミュラー、ヴエーダ研究の権威オルデンベルグ、のちほどお話ししますフランスのシルヴァン・レヴィなど枚挙に暇はありません。もちろんロランを、このようなインド学者の系列に加えることはできません。なぜならロランは、インドの宗教や歴史・哲学を客観的な学問の研究対象として、新たに発見されたサンスクリット語やパーリー語の文献、考古学の資料を駆使して分析・批判を加え、独自の学説を提示するといった、いわゆるアカデミックな研究方法をとらなかったからです。ロランにとってたいせつなことは、インドの思想の森深くに分け入り、そこに自己(ヨーロッパ)の精神との、人類的綜合を求めることでした ― ちなみに、老ゲーテがインド思想の深遠な森を前にして、その奥深くに迷いこみ、いまさら思想に混乱を来たすのを惧れたことはよく知られています。
   ロマン・ロランのインド関係の主要な著書には『マハートマ・ガンディー』(一九二四)と、『生きたインドの神秘思想と行動』三部作、すなわち第一巻『ラーマクリシュナの生涯』(一九二九)、第二・三巻『ヴィヴェカーナンダの生涯と普遍的福音(一九三〇)、このほかに死後に出版された、一九一五年から一九四三年の死の前年までの二十八年間の長きにわたるインドとの精神的、また現実の人物たちとの交流の貴重な記録を克明につづった『日記』(一九五一)がございます。この一冊を読んで圧倒されるのは、タゴールやガンディー、ネルーほか、当時のインドの最高の民族の指導者たちが直接ロランを訪ね、友情をあたためあい、また公私さまざまな問題について意見を交わし、助言を求めていることです。一九二三年にロランがスイスに移ってからは、レマン湖畔のヴィルヌーヴのロラン邸は、さながらヨーロッパにおけるインドの精神のセンターの感があったといっても過言ではありません。
   それでは、ロマン・ロランがいつごろからインド思想に関心をいだくようになったか、その動機と発展の跡をたどるのは容易な作業ではありません。ロランとインドとの具体的な関係は、『日記』に見るかぎりでは、一九一五年二月に、当時イギリスに在住していたインド人学者アーナンダ・K・クーマラスヴアミーから、ロランにささげられた「インドのための世界政策」と題する論文が送られてきて、二人の間に文通が交わされたことから始まったのはたしかです。しかし、それ以前にロランはすでにインド思想にかなりの関心をいだいていたことも明らかです。まずその証の一つを、私たちは『ジャン・クリストフ』の「家の中」の、オリヴィエとクリストフのつぎのような対話に読むことができます。

   オリヴィエが言う ― 「僕は半世紀だけお先へ飛び越して生きたいね。奈落に向かってのこの突進は、何らかの仕方で停止しなければならない。……(略)…・‥西欧はわが身を焼きほろぼしている……まもなく……まもなく……東洋の遥か向こうからさし登りつつある別の光が、早くも僕には見えている」
   「東洋なんぞ僕はごめんだ!」とクリストフが言った ― 「西洋は、言うべきことをまだすっかり言いつくしてはいない。この僕が降参するなぞと君は思うのかい? 僕にはまだ数百年の将来がある。生命ばんざいだ! 歓喜ばんざいだ! われわれ自身の運命との戦いもばんざいだ! 」                        (片山敏彦訳『ジャン・クリストフ』第七巻、みすず書房、一九五−六ページ)。

   気質的にはむしろオリヴィエのはうに自らを多く投影したロランは、ヨーロッパーとりわけドイツ音楽への確固たる信念ゆえに、ヨーロッパの境界を超えて外の世界を見ようとしないクリストフに、ヨーロッパに差し迫る精神の危機を指摘して、外の世界に、アジアに目を向け、その救済の道を指し示そうとします。しかし、世界を動かす「行動の力」「行動の原理」以外になにものも信じようとしないクリストフには、アジアは消極的・否定的な諦めと非行動的精神主義の世界にしか映りません。
   クリストフは言います ― 「君たちが言う『生』への断念の言葉全部の底に同じ深淵が隠れている。ただ行動にのみ生命がある」(同書、二七八ページ)と。ここで片山訳の定本となった決定版の「同じ深淵が隠れている」という箇所が、初版本では「同じ仏教的捏磐をおおいつつんでいる」となっていることに注目したいと思います(山口三夫訳・講談社版参照)。すなわちこの二人の親友の対話からもうかがえるように、『ジャン・クリストフ』執筆当時のロランはまだ、西洋世界一般が東洋思想にたいして漠然といだいていた印象や先入観、すなわち、ショーペンハウアーに代表されるようなインドの宗教的諦観の思想を引きずりながら、これから彼が発見することになる「インドの行動の精神」 への予感の方向へと歩みつつあったといえましょう。
   こうしてロランのインド研究は、当時のヨーロッパの知識人の多くに見るような、たんなるアジア世界へのエキゾテックな好奇心に発したものではなく、彼のインド思想の体験そのもの、いいかえると、ロランの内なるインド的精神の発見の過程であったといってもよいかと思います。なぜなら、同時代のほとんどの西洋のインド研究者たちが、知性によって対象としてのインド思想を分析・批判しようとしたのにたいして、ロランの場合は、自らの内深くに潜在しているインド的な魂との照応によって、ひたすらそれを体験的に理解しようとしたからです。このことに関連して、一九二三年の日記にたいへんおもしろい記述がございます。
   そのころパリに留学していて、しばしばロランを訪ね、ロランのガンディー伝の執筆などにも協力したカリダース・ナーグ(彼はその後カルカッタ大学の歴史学の教授になり、独立後のネルーの平和外交に重要な役割を果たしました。一九五四年四月に来日されたとき、宮本正清先生に連れていただきナーグ教授に会ったのは、私の若き日の貴重な思い出の一つです) が、帰国後ロランのことを書くために、ロランの過去について質問したことがありました。ロランは彼のために古い書類をとりだして − 『日記』によれば ー 「特徴的なある時期の文章を彼に読んで聞かせる。私はこの内部の生命の力に、またフランスの環境のなかにおけるその例外的な・・・・性質に、ナーグと同様におどろく。一八九〇年のジャニコロの丘における啓示、ルナンへの訪問、云々」(傍点は筆者)とあります。ここでロランは、自分の過去の思想体験のなかに、たとえばジャニコロの丘の啓示に、西洋的なものからすれば明らかに例外的な・・・・性格を、インドの青年とともに発見して驚いたのです。
   ロマン・ロランといえば、平和思想や社会正義をつらぬいた二十世紀を代表する人道主義作家.の旗手としてよく知られておりますが、ロランにはもうひとつ、言葉の本質的な意味での神秘主義的な側面があったことは、若き日の魂の自伝である『内面の旅路』を読めば明らかです。そしてロラン自ら、この二元性に早くから気づいていたことば、彼がトルストイについて語ったつぎの言葉がよく物語っています。

   しかしトルストイは法悦だけで満足するインドの神秘主義者ではなく、彼のうちではアジア人の夢想に西洋人の理論癖と行動欲とが混じっていたために、自分の天啓を実践的な信仰のうちに現わし、その清い生活から日常生活に対する規則を導き出す必要があったのである。      (姥原徳夫訳『トルストイの生涯』、岩波文庫、七二ページ)

   ロマン・ロランの思想と生涯をトータルに知るためには、この精神の深化と行動の広がりの二元性を無視することはできません。しかしロラン自身、二元的な両極の間をいつまでも時計の針のように揺れ動いていたのではなく、より高度な一元化の方向に向かってたえず努力していたことを忘れてはなりません。そのことは、彼が生涯のそれぞれの段階で、自分の心の道づれとして書いた『ベートーヴェンの生涯』に始まり、『ミケランジエロの生涯』『トルストイの生涯』……などを経て、『ラーマクリシュナの生涯』『ヴィヴュカーナンダの生涯』に至る一連の伝記作品のなかにはっきりと読みとることができます。

   ところで、ロマン・ロランのインドとのかかわりがアーナンダ・クーマラスヴアミーとの交流によって現実の形をとったことは、先ほど申し上げたとおりですが、それから四年後の一九一九年に詩人ラビンドラナート・タゴールを知り、二人の間に国境を超えた深い友情の絆が生まれたことで、ロランのインドの魂への愛と、東と西とのユニテへの確信がいっそう強まることになります。
   タゴールは一九一三年に一冊の小さな宗教詩集『ギタンジャリ』によって、アジア人として初めてノーベル賞(文学賞)を受賞し、たちまち世界の桂冠詩人となります。そして彼は一九一六年五月に念願の日本訪問を果たします。時あたかも日本は軍国主義の高揚期にあり、アジアの姉妹国の詩人がノーベル賞に輝いたということで、当初は朝野をあげて熱狂的に詩人を歓迎しますが、三か月の滞在中にタゴールが目のあたりにした現実の日本は、彼の久しい期待を半ば満たすと同時に、半ば裏切ることになります。すなわちタゴールは、日本人の生活の隅々にまで浸透していた繊細な美意識や礼儀正しさ、簡素で勤勉な生活態度に心をうたれ、『日本紀行』にそうした日本人の美徳を口をきゎめて賞賛しました。この本はベンガル語の原書でわずか一二〇ページほどの小冊子ですが、外国人の書いた数ある日本人論のなかでも白眉の一つに数えてもよいかと思います。私の拙い翻訳(『タゴール著作集』第一〇巻所収、第三文明社)がございますので、なにかの機会にお読みいただければ幸いです。
   ところがいっぽう、時代の予言者と呼ばれたタゴールの鋭い洞察力は、そのころ日本社会のいたるところに台頭していた帝国主義的・軍国主義的傾向を見逃すことはありませんでした。ことに、イギリス支配の重圧に苦しむインド人として、詩人は日本の中国侵略を深く悲しみ、また日本社会をおおっていた無反省な西洋物質文明の模倣に失望しました。彼は東京帝国大学や慶応義塾大学などでおこなった公開講演で、日本のそうした軍国主義への傾斜や、今日の日本社会にも通じるような拝金的商業主義を痛烈に批判し、迫りつつあった世界の物質文明と戦争の危機にいちはやく警鐘を鳴らしたのです。そのために日本におけるタゴール熱は、その高まりの速度と同じ速さで、冷却していったといいます。
   このときロランは、タゴールの東京帝国大学での講演「日本に寄せるインドのメッセージ」をニューヨークの「アウトルック」誌(一九一六年八月九日号) で読んで深い感銘を受け、それを「世界史上一つの転換点を示す」発言と評して、文章の一部を仏訳して、自分の論文に引用し、紹介したのでした。
   ついでロランは、一九一九年三月に、第一次世界大戦後のヨーロッパの精神の危機を憂慮して、有名な「精神の独立宣言」を起草し、ヨーロッパやアメリカの自由で指導的な知識人や芸術家たちに結束を訴え、署名を呼びかけました。さらに彼は「アジアの英知が加わること」を願い、タゴールにも手紙を送って参加を求めたのでした。署名者のなかには、アインシュタイン、アラン、クローチェ、ゴーリキー、ヘッセ、ツヴァイクなどの名前が見られますが、タゴールもまた早速署名に応じました。爾来ロランとタゴールは、一九四一年に詩人が世を去るまで、二十余年にわたって深い友情で結ばれることになりました。
   このときのタゴールの応答にたいするロランの返事は、まさに彼の二十一世紀の世界へのメッセージと言えましょう− 「ヨーロッパの破産を告げた、あの恐ろしい世界大戦の破局の後に、ヨーロッパだけでは自分を救うことはできないことが明らかになりました。ヨーロッパの思想はアジアの思想を必要としています。ちょうどアジアの思想がヨーロッパの思想を利用して自分の支えとしたように。それは人類の頭脳の二つの半球です。もしその一つが麻痺すれば、身体全体が悪くなります。その二つの結合と、その健康な発展とを、回復するように努めなければなりません。」         (姥原徳夫訳「タゴールとロマン・ロラン」 ロマン・ロラン全集第四二巻・書簡]、みすず書房、二二ページ) 
   翌一九二〇年から二一年にかけて、タゴールはヨーロッパやアメリカを歴訪します。このたびの詩人の旅行の目的は、今世紀初めに彼がベンガル州の人里離れた、その名もシャンティニケタン(平和のすみか)と呼ばれる閑静な原野の一隅で始めた小さなアーシュラム(修道場・学園)を、東西の思想と文化が「一つの巣のなかで出会うところ」を理想とする国際大学へと発展させるべく、世界の心ある人びとに支援と協力を求めるための講演旅行でした。 なお、タゴール国際大学は、一九一二年十二月に開学の運びとなりました。私は一九六四年から三年間、この大学で教鞭をとる機会にめぐまれましたが、当時はまだ創立者の薫陶を受けた老教授や芸術家たちが何人もおられ、学園はインドにおける一つの理想精神のセンターの感が深く、ほんとうに充実した日々を送らせていただきました。そして、大学で得た最初の友人が、パリ留学中にロラン研究所に足しげく通ったロランの熱心な読者であったことも、いまは懐かしい思い出です。
   さて、この旅の途上、一九二一年四月にタゴールはパリを訪れ、三回ロランとしたしく対談をしました。それは、多忙な旅行日程のなかで、いわば友情の安らぎのひとときであったにちがいありません。二人は人類の平和への願いや、芸術・音楽について、それからタゴールがヨーロッパでしばしば見聞した、ヨーロッパ人のアジア蔑視などについても、心おきなく話し合っております。対談のなかでとりわけ注目されるのは、タゴールがロランにインド民族運動の近況、とくにガンディーの非暴力、非協力運動について詳しく話していることです。
   当時インド国内では、数年前(一九一五年)に南アフリカから帰国したばかりの新参の民衆運動の指導者M・K・ガンディー ― ちなみに彼を最初に「マハートマ(偉大な魂)」と呼んだのは詩人タゴールでした ― が、「一陣の涼風のように」(ネルー)登場したことで、久しく昏睡していた民衆が豁然と目覚め、マハートマの指導のもとに、非暴力という人類未曾有の武器を持って、敢然と大英帝国に立ち向かっていたのでした。
   そうした「インド人にたいして驚くべき影響力をもっている」ガンディーの人と運動について、ロランが注目するようになったのは、たぶん前年にロランを訪ねたインド人青年デイリップ・クマール・ロイの話を聞いてからだったと思われますが、このときロイが伝えたガンディ一についての情報はかなり誤っていたようです。
   ロイはガ.ンディーを紹介するにあたり、「マドラスの弁護士だが、いまから七、八年前に、自分のいっさいの富を断念して、自国民の救済のために一身を投げている」と言っています。ガンディーの国民への献身については間違いありません。しかしガンディーは、弁護士でしたが、マドラスの人ではありませんでした。またインドの政界に登場したのも、七、八年前でしたが、それ以前南アフリカで二〇年にわたって、同胞の人権獲得のために献身していました。後年、音楽家・思想家として一家をなしたデイリップ・クマール・ロイはその頃ケンブリッジ大学に学ぶエリート学生でしたが、その彼にして、当時はまだガンディ一について、この程度のことしか知らなかったというのも無理のないことでした。なにしろ、一九一五年にガンディーが南アフリカから帰ったときには、インドではほとんど無名の政治指導者でしたし、一九一九年にようやく彼の第一回非協力運動が始まったばかりだったのです。
   それからわずか三年後の一九二三年の初めに、ロランはほんの二か月ほどで、あの名著『マハートマ・ガンディー』を書きあげたのでした。この間ロランは、先ほども話しましたように、タゴールの訪問を受け、その人の口から直接ガンディ一についての率直な賞賛と批判を耳にし、またカリダース・ナーグからもガンディーとタゴールへの民衆の崇敬と、二人のあいだの友情や思想上の相違・対立などについても詳しく聞くことができました。とくに、ガンディーの 「ヤング・インディア」紙に発表された論文ほか、南アフリカやインドで刊行された彼についての英文の文献の読破には、妹マドレーヌ・ロランの協力があったことも忘れてはなりません。

   この本を読んで驚くのは、それがガンディーのインドでの闘争の初期の段階、すくなくとも第一回非協力運動の直後に書かれたものであるということです。こののちガンディーは、二十五年間にわたって民族運動を指導し、第一回、第三回の大々的な非協力運動を展開し、祖国を独立に導くことになったのですから、当時はまだインド国内ですら、ガンディーの評価は定まっていなかったのは当然です。したがって年代記的には、この伝記は一九二三年をもって終わっているわけですが、ガンディーの人格と思想の本質的評価においては、その後の二十五年をみごとに予言した作品です。
   ロランが自著をガンディ一に送り、「不本意ながらいくつかの過ちをおかしているとしてもお許しいただきたい」と書き添えたとき、ガンディーはつぎのような返事を書き送っています ― 「あなたがご論説のなかでところどころに過ちをおかしたとしても、どれはどの問題ことがありましょう。わたしにとって驚くべきことは、あなたがほとんど過ちをおかしていないということであり、また、あなたが遠く離れた異なった環境のなかで生活していながら、わたしの使命をこれほどまでに正しく解説してくださったということです。このことは、人間性はそれぞれ異なった空の下で花咲いてはいても、本質的には一つなのだということをあらためて立証するものです」と。
   ここに、ロランのガンディー伝出版にあたって、インド学者がはからずもその評価を認めざるをえなかった、と考える興味深いエピソードがあります。学者というものは、おうおうにして自分の研究や学説に自信と誇りをもっているものです。そのこと自体はけっしていけないことではありませんが、ややもすれば、それが自分の研究のテリトリーをだれからも侵されまいとする縄張り根性につながりがちです。そこで、だれか部外者が彼の神聖なる学問領域に片足でも踏みこもうものなら、猛犬のように吠えたてることがあります。この頃、作家であるはずのロマン・ロランが、インド研究にまで手をそめ、インドの第一線の知識人たちと頻繁に交流をもっていたということで、フランスのインド学者たちから嫉妬や不興を買っていたらしいのです。
   一九二三年九月の日記に、ロランはガンディ一研究書を出したことで、インド学者たちから苦々しく思われていたことを記しています ― 「私の『ガンヂー』は、泥池に石を投じたことになった。(私としては思いがけないことだったが)、現代インドに関して文献によった研究をフランスで出版する最初の人間が私だということである。インド学者でもないのに、どうして私が東洋のことを語りなどしたのか? シルヴァン・レヴィー(シャンティニケタンで昨冬を過ごした)はとくに気をわるくしている。なぜなら私は彼に先んじた (もちろんその気なしに)からだ。」            (宮本正清ほか訳『インド』 ロマン・ロラン全集第二二巻、みすず書房、四〇ページ)
   たぶん日記ということで、ロランは個人名を明記したのでしょうが、シルヴァン・レヴィーといえば、先ほども申しましたように、フランスのインド学・仏教学を代表する碩学です。彼はタゴールの招きでシャンティニケタンの大学で講義をおこなって帰国したばかりでした。彼はまた三たび日本をも訪れ、日本仏教の研究や日仏会館館長をも勤めるなど、西洋世界に東洋思想をひろめた業績でも知られています。私はレヴィーの人柄や性格については存じませんが、その業績から受ける印象では、知的で冷静な人物であったろうと推察されます。ここで私は、ロランの日記からわざわざ著名なインド学者の垣間見せた狭量な縄張り根性を非難するつもりはありません。私が言いたかったのは、もしロランの著書が学問的・思想的に取るに足りないような駄作であったなら、素人が自分の学問領域を侵害しても、だれもそれを気にかけることはなく、一笑に付したでしょう。したがってこの事件は、ロランの小さなガンディー伝が、レヴィーはどの大家をなりふりかまわず羨望させ、憤慨させたほどの傑作であったことを雄弁に物語るものと思います。
   どうしてロランは、これほど短時日のあいだに、これほどすぐれたガンディー論を書くことができたのでしょうか。それは、もちろんロランの伝記作家としての力量によるところが大きいとは思いますが、なによりもガンディーとロランのあいだに人間的資質の類似・共感があったからではないかと考えます。ロランの内なるインド的なもの、ガンディー的なものがこの作品となって結晶したと言っても過言ではありません。
   ロランは早くも、初期の戯曲『聖王ルイ』(一八九七) のなかで、ガンディーの人格の片鱗を彷彿させています。ロランの描こうとした聖王ルイについての、ツヴァイクのつぎの言葉は、そのままガンディーの特性を語っています。

   彼にはやさしさのほかはなにもなかった。しかしそのやさしさは、この上なく剛毅な人間といえども彼の前に出れば力をうしなうほどだった。彼は自分の信仰のほかにはなにものも持っていなかった。しかしこの信仰は巨山のような大業を彼になさしめたのである。彼は人民を勝利に導くことはできなかったし、また欲しなかった。           (S・ツゲァイク『ロマン・ロラン』上巻、大久保和郎訳、慶友社、一九五一年、八一ページ)

   もちろん現実のガンディーは、三億五〇〇〇万のインドの民衆をひきいて、世界最強といわれた大英帝国に挑み、祖国に独立をもたらした民族の英雄ですが、私たちは、聖王ルイとガンディーの人間的本質のあまりの類似に驚くのです。
   同様に、私たちは「万人のために万人に抗する良心の戦い」の途上で、戦時下の狂信的国家主義者の手にかかって葬れた、小説『クレランボー』(一九二〇)の主人公の死と、三十八年後の現実のガンディーのあの壮絶な死とを重ね合わせるとき、その不思議な符号に驚き、感動をあらたにします。その共通点は、二人ともに「真理の殉教者」だったことです。
   私は長年にわたってガンディ一研究に従事し、数多くのガンディー伝や評論を読んでまいりましたが、こうしたガンディーとの内面的な共鳴において、ロマン・ロランのこの小さな、いわば未完の伝記ほどにガンディーの精神をみごとに照射した書は稀だと思います。

   以上、本日はロマン・ロランとインドの精神の内的なかかわり、同一性についてお話ししてまいりました。このようにロランは、「ああ、東は東、西は西、この二つが交わることはない」と慨嘆したイギリスの詩人キップリング(一八六五 - 一九三六)と同時代に生きながら、自らの内深くにインド精神の最もすぐれたものとの一体感を見出していたのです。彼は国境や肌色や宗教・文化の相違を超えて、人間の魂の最も深いところで、人間性は一つであるとの信念を、体験的に生きた人でした。
初めに申しましたように、二十一世紀の人類には、ヨーロッパが今世紀の苦汁に満ちた歴史のなかから生み出したEUという国境を超えた共同体を一つのモデルとし、あるいはそれを足がかりとして、全世界の民族が平和・共存に向かって努力する以外に生き残る道はないと、だれもが痛感しています。しかし、その努力は、たんなる政治や経済の組織作りに終わらず、民族相互の精神の理解、さらには一致の共感にいたってこそ、初めて実現できること、それがロマン・ロランの二十一世紀への生きたメッセージなのです。
   なお本日は、残念ながらガンディー伝の内容と、『生きたインドの神秘思想と行動』三巻についてお話しするには至りませんでしたが、またの機会に譲らせていただきます。ありがとうございました。

 (名城大学教授、近現代インド思想・文学)