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一枚の写真
二十世紀は第一次大戦から始まる。日本は第一次大戦に連合国側で参戦したが、大きなダメージを受けないまま、戦後五大国の一つとして世界に乗りだすことになった。実は日本の国際化の原点が、第一次大戦後にパリで開かれた「パリ講和会議」にあると考え、二年間にわたって取材したことがある。
一九一九年一月からパリで開催されたこの会議には、総勢六十人を越える日本代表団が派遣されたが、彼らの記念写真が残されていた。代表団はバンドーム広場に面してあったホテル・ブリストルを宿舎にしたが、その中庭で会議が終わった六月末に撮られたもので、中央には首席全権の元老西園寺公望が座り、次席全権をつとめた牧野伸顕、松岡洋右、近衛文麿、吉田茂といった、大正、昭和をリードした政治家や外交官の多くが顔をそろえている。
だがこの日本代表団の動向は、パリに集まった各国首脳のなかでもやがて問題とされることになった。彼らは領土問題やアメリカでの人種差別問題に関する以外はほとんど発言せず、ついには首脳会議の場にも呼ばれなくなった。第一次大戦後の国際秩序については戦勝五大国、つまりアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の首脳の間で話し合われることになっていたが、やがて日本はその席に呼ばれなくなり、実質的には四大国で戦後の問題が決められていった。アメリカのジャーナリスト、エミール・ディロンは、『講和会議の内幕』という著書の中で、「彼ら〔日本代表団〕は滅多にフットライトを浴びることなく、自国の利害に関係する事柄には鋭い関心を示すほかは常に沈黙を守り、事態の推移を眺めていた」と書いている。こうして彼らはいつしか「サイレント・パートナー」と呼ばれるようになった。
こうした感想は日本の若手外交官のなかにも漂っていた。彼らは夜集まっては悲憤慷慨するが、それは酒が入った席であって、若手も対外的にはサイレント・パートナーであることに変わりはなかったのである。実はこの代表団を補佐する一人に、のちにプロレタリア文芸運動を主導する小牧近江がいた。彼は写真のなかにも写っている。
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