ロマン・ロランと「種蒔く人」 柏 倉 康 夫



 一枚の写真

 二十世紀は第一次大戦から始まる。日本は第一次大戦に連合国側で参戦したが、大きなダメージを受けないまま、戦後五大国の一つとして世界に乗りだすことになった。実は日本の国際化の原点が、第一次大戦後にパリで開かれた「パリ講和会議」にあると考え、二年間にわたって取材したことがある。
 一九一九年一月からパリで開催されたこの会議には、総勢六十人を越える日本代表団が派遣されたが、彼らの記念写真が残されていた。代表団はバンドーム広場に面してあったホテル・ブリストルを宿舎にしたが、その中庭で会議が終わった六月末に撮られたもので、中央には首席全権の元老西園寺公望が座り、次席全権をつとめた牧野伸顕、松岡洋右、近衛文麿、吉田茂といった、大正、昭和をリードした政治家や外交官の多くが顔をそろえている。
 だがこの日本代表団の動向は、パリに集まった各国首脳のなかでもやがて問題とされることになった。彼らは領土問題やアメリカでの人種差別問題に関する以外はほとんど発言せず、ついには首脳会議の場にも呼ばれなくなった。第一次大戦後の国際秩序については戦勝五大国、つまりアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の首脳の間で話し合われることになっていたが、やがて日本はその席に呼ばれなくなり、実質的には四大国で戦後の問題が決められていった。アメリカのジャーナリスト、エミール・ディロンは、『講和会議の内幕』という著書の中で、「彼ら〔日本代表団〕は滅多にフットライトを浴びることなく、自国の利害に関係する事柄には鋭い関心を示すほかは常に沈黙を守り、事態の推移を眺めていた」と書いている。こうして彼らはいつしか「サイレント・パートナー」と呼ばれるようになった。
 こうした感想は日本の若手外交官のなかにも漂っていた。彼らは夜集まっては悲憤慷慨するが、それは酒が入った席であって、若手も対外的にはサイレント・パートナーであることに変わりはなかったのである。実はこの代表団を補佐する一人に、のちにプロレタリア文芸運動を主導する小牧近江がいた。彼は写真のなかにも写っている。

  小牧近江の役割

 小牧は本名を近江谷
馬同(おおみや・こまき)といい、明治二十七年(一八九五年)五月十一日に秋田の土崎港に生まれた。
 父の栄次は若いときから政治にかかわって、満三十歳で国会議員となった地方の名望家だった。彼は明治四三年(一九一〇年)に、ブリュッセルで開かれた万国議員会議に出席するが、そのとき馬同を同行し、そのあとパリの名門校アンリ四世校に寄宿生として入学させた。栄次はもともとフランス贔屓で、子どもや眷属十一人をみな暁星に進学させたほどであった。こうして十六歳の馬同は父親の帰国後もフランスに残ることになった。
 馬同にはまもなくピエール・ド・サン=プリという年少の友人ができ、彼の家にしばしば呼ばれるようになった。ピエールの父はセーヌ県裁判長次席で、母は元首相エミール・ルーペの娘という名門であった。
 こうしてパリで学生生活がはじまったが、それも長くは続かなかった。父が事業に失敗し、送金も途絶えてしまったのである。その結果近江谷馬同はアンリ四世校をやめ、逓信省から来ていた役人の斡旋でフランスの映画会社パテ商会で働くようになる。そしてその後父の知り合いだった石井菊次郎大使のお声がかりで、日本大使館に職を得て、働きながらパリ大学法学部を卒業した。専門は民法であった。
 馬同(以下はペンネームの小牧近江で呼ぶ)が、第−次大戦に遭遇したのは、こうした状況のもとであった。こうした事柄は、彼の『ある現代史』(法政大学出版)、『異国の戦争』(日本評論社のち「かまくら春秋社」)に詳しく記述されている。
 小牧は第一次大戦中のある日、パリ六区のオデオン通りの本屋のウインドーで、リセの同級生だったピエールの兄ジャン・ド・サン=プリが書いた戯曲『ラ・パンシオン(寮にて)』を、たまたま見かけたのがきっかけで、ド・サン=プリ家を訪れ、一家との交遊が復活する。
 この頃ジャン・ド・サン=プリは、「労働者の生活」社に出入りして活躍する反戦運動家で、そのかたわら詩も書いていた。小牧はこのジャンを通して左翼運動に近づく。病弱だったジャンは、第一次大戦が終わり、パリ講和会議がはじまって間もなくの一九一九年二月、十九歳で早逝してしまったが、小牧はアナーキスト系の新聞「人民新聞」の記者だったボリス・スヴァリーヌを通して反戦集会に参加し、レモン・ルフエーヴルやジャン・ロンゲといった活動家と知り合いになった。彼はその一方で、一九一九年一月からパリ講和会議が始まると、在仏日本大使館の現地雇員として代表団の応援に当たり、フランス語が堪能なことから、松岡洋右が率いる新聞係として仕事をすることになった。この事情については、『ある現代史』に詳しく語られている。
 新聞係は全部で七人。彼らは内外記者団との接触や、他の代表団との会合のアレンジなど広報・渉外を担当した。私は小牧を取材する過程で、彼が残した貴重な写真のアルバムを見つけることができた。これは日本代表団の日常を記録した唯一の写真資料で、小牧自身が写真を撮り、それにコメントを添えたものである。一人一人の写真にあだ名が書き込まれていて、伊藤真一書記官は、しかつめらしいその表情から「哲学者」。仕事に夢中の野本盛一書記官は「失業者」で、ロシア革命に関心を持ち、代表団の事務所にいつも左翼関係の本を持ち込んでいた小牧(本名の近江谷で呼ばれた)は「ボルシェビキ」とある。そして他の代表団や外国人記者との会合をこなし、ほとんど事務所にいない松岡洋右新聞課長は、その神出鬼没ぶりから「コメット・彗星」である。
 そして小牧はこの写真集の他に、フランス語で記した日誌も残していたのである。これらは小牧の死後、ご遺族の意向で彼が晩年を過ごした鎌倉の近代文学館に寄贈され、いまはそこに所蔵されている。
 パリ講和会議は一九一九年六月三十月をもって終わり、代表団は帰国したが小牧近江はパリに残った。


 ロランとバルビュス

 ロマン・ロランは若い時から日記をつける習慣があった。なかでも第一次大戦が勃発して以降の二十一冊のノートは、のちに『戦時の日記』として刊行されたが、その冒頭一九一四年七月三一日の項にはこう善かれている。宮本正清氏の翻訳によれば―
 「ヴヴュー駅に掲示した連合州議会の電報は『ロシアにおける総動員とドイツにおける戦争状態の宣言』を報じている。一年のうちでもっとも美しい日の一つ、すばらしい夕である。光りにみち蒼みを帯びる軽い霞のなかに山々は漂う。月光は湖の上に赤い金色の流れをひろげている。それはサヴオアの湖岸、ブーブレーとサン=ジャンゴルフとの間から発して、ヴヴューにまで達している。大気は甘美で、藤の花の香りが闇のなかにたゆとうている。そして星は実に純粋な光りに輝く! この神々しい平和とこのやさしい美のなかで、ヨーロッパの民族たちは大殺戮を始めるのである」
 第一次大戦の勃発以後は、ヨーロッパの知識人たちが、双方に分かれて非難の応酬を始める始末であった。一九一二年度の文学賞授賞者ドイツのゲルハルト・ハウプトマンは、八月二九日づけで、自国ドイツの行動を正当化する文章を新開に発表した。いたたまれない思いのロランは、即日ハウプトマン宛てに手紙を書き、これをスイスで発行されているフランス語の新聞「ジュルナル・ド・ジュネーヴ」と「ラ・トリビューヌ・ド・ローザンヌ」紙に掲載した。これらは『戦いを超えて』に収録されている。
 「生きたベルギーを責めるだけでは満足しないで、あなたたちは死者たちに、幾世紀の栄光に対して戦いを挑んだ。あなたたちはマリーヌを砲撃し、ルーベンスを焼き払った。ルーベンスは今や一塊の灰にすぎない―芸術、科学の宝をもったルーヴアン、聖都ルーヴアンが! だがいったいあなたたちは誰なのか? 今やあなたたちは何という名で呼ばれたいのか、ハウプトマン、野蛮人という名称を拒否するあなたたちは? あなたたちはゲーテの孫なのか、それともアッティラ〔フン族の王〕の孫なのか?」
 この手紙は大きな反響を呼んだ。フランス人の文学者や思想家のほとんどは、開戦とともに多くは反ドイツ一辺倒に傾いていた。ベルクソン、ジュリアン・パンダ、アナトール・フランスなど作家や哲学者が、こぞってドイツとの戦争を是認した。この点では社会主義者も例外ではなく、モーリス・パレスは「フランスは野獣に打ち勝つ」と叫んでいた。
 九月一三日には、ハウプトマンの回答が「ジェルナル・ド・ジュネーヴ」紙に載り、ロランはこれに対する再反論を書いて同じ新開に送った。この公開書簡のやりとりをきっかけに、彼は十六篇の文章を書き、これらはのちに『戦いを超えて』としてまとめられて刊行された。だがこれらの文章はドイツはもとより、祖国フランスにおいても、ロマン・ロランに対する反感を助長する結果をもたらしたのである。
 学校や家庭では『ジャン・クリストフ』を子供たちに読ませないようにする所もでる始末であった。彼の主張する良心への訴えが、戦っているフランスの士気を破壊するものと映ったのである。
 ロランは一九一七年にロシアで革命が起きると、「貴方たちが自己の自由を獲得しょうとして苦労した努力は、ただ貴方がた自身のためばかりでなく、老いた西欧の貴方がたの兄弟、我々すべてのためである。」 (「解放者である自由なロシアへ」『ドゥマン』一九一七年五月号)と賛辞を送り、革命を支持することをはっきりと表明した。
 こうしたロマン・ロランにたいするフランス世論が変化するのは、多くの犠牲者を出したヴェルダンの戦い前後からである。この闘いをきっかけに厭戦気分が横溢するにつれて、ロランにたいする共感の声がフランス国内でも上がりはじめた。そうした気分の中で最も大きな反響を呼んだのが、一九一六年一二月にフラマリオン社から上梓され、ゴンクール賞を受賞したアンリ・バルビュスの『砲火』であった。
 バルビユスは四十一歳(一八七三生まれ)にもかかわらず、志願兵として軍籍に入り、二十三か月の間一兵卒として前線にとどまり、その間数回表彰されるといった経歴をもっていた。『砲火』はそうした一兵卒の目を通して見られた戦場のありのままの姿だった。死に直面した兵士の本音、なぜ戦うかという率直な疑問を読者につきつけた。こうした著作が発禁にならず、三四万部も売れたという事実に、一九一七年当時のフランスの空気を知ることができる。
 そして戦後の一九一九年、バルビユスは『クラルテ』を発表する。
 この作品の中で、負傷して戦線から復員した主人公は、「あれほど終始私を熱狂と喜びで満たした祖国という考え」に疑問をいだき、「国家と同じだけの真理が、国家の義務が、利害が、権利があって、それがたがいに相反しあっている」ことを認識し、やがて「万人が平等に持っている、生命への権利の必然的結果である」「世界共和国」を夢想させるのである。
 一方フランス社会党の機関紙「リユマニテ」は、一九一九年六月二六日にロマン・ロランの名前で「精神の独立宣言」を掲載した。ロランはこの中で、「戦争はわれわれの隊伍に混乱をひきおこした。大多数の知識人は彼らの知識や芸術や理性を用いて自国の政府に奉仕した。‥・〔大戦中〕「思想」の代表者でありながら、「思想」を堕落させ、「思想」を変じて一つの党派や国家や祖国、あるいは一つの階級と我利我欲との道具と化した」と自己批判を行った上で、「このような危険や卑しい結託やひそかなる隷従から『精神』を脱却させよう」と訴え、「われわれこそ『精神』の従者であって、‥・他に主(あるじ)を持たぬ我々は、人類のために、ただ全人類のためにのみ働く」と決意を明らかにした。この本文のあとには、アラン、アインシュタイン、ゴリキー、ヘルマン・ヘッセ、バートランド・ラッセル、アプトン・シンクレア、タゴール、ツヴアイクなど世界各国一三六名の知識人が署名していた。そこにはアンリ・バルビュスの名前もあった。


 大戦後のフランス

 国土の十分の一が戦場となったフランスでは、総人口の十六パーセントにあたる人命が失われ、負傷者は三三〇万を数えた。そして大戦による国庫の負債は三〇〇億フランにのぼったのである。この結果フランスは勝利の翌日から未曽有のインフレに襲われ、生活は窮乏した。
 一九一九年二月の戦後初の総選挙で、賠償など対ドイツ強硬策を主張するナショナリストの「国民団結」(これには多くの元兵士が参加していた)が大勝し、社会党をはじめ左翼の多くが議席を失った。しかもこの間、ハンガリーでは革命政権が生まれ、ドイツでも四月から五月にかけて、バイエルン州にソビエト政府が出現し、その他の都市でも革命の機運が高まっていた。翌一九二〇年に北イタリアでもストライキが続発し、工場占拠がはじまった。こうしたヨーロッパ全体の雰囲気は、フランスにも大きな影響を与えた。
 戦争に協力した社会党や労働組織に不信感をもつ若い活動家は、一九二〇年二月の社会党大会で、党をして第二インタナショナルから脱退させる決議を採択させ、CGT(労働総同盟)を動かして、五月からは次々にストを打った。こうして社会的不安が高まり、フランスも革命前夜という雰囲気に包まれた。だがこの動きは、政府が軍を動員するという強硬策をとったため挫折し、六月には国内の秩序は回復する。
 しかしこの年の一二月二五日から四日間、トウールで開かれたフランス社会党大会で、第三インターへの加盟が三〇二八票村一〇二二票で可決され、多数派は党名をフランス共産党と変え、少数派は分裂してフランス社会党をそのまま名乗り、第二インターに留まった。当時の社会党員一八万人のうち一三万人が共産党に移ったのである。

 「クラルテ」の運動

 こうした状況の中で、バルビュスを中心に一つの運動が始まる。バルビュスは一九一九年五月に、「リユマニテ」紙に「クラルテ・グループについて」という文章を発表し、そこでバルビュスは、「作家と芸術家たちは、有志の熱望に答え、また教育者として、また先導役としての大きな義務から一丸となって、社会的行動を起こそうと決意した」と述べ、自らの小説の題名「クラルテ」をグループの名前に掲げて、運動の目的を「人間の解放」であるとした。そしてフランス以外の作家や思想家たちにも呼びかけて、「人民のインタナショナル」に平行して、「思想のインタナショナル」の結成を訴えたのであった。
 こうして翌六月には、「クラルテ・グループ」はヴィクトル・シリルを事務局長に任命し、「真理の勝利のための知識人の連帯の国際連盟」として正式に発足したのである。機関紙「クラルテ」が半月ごとに刊行されるようになったのは、一九一九年一〇月一一日のことである。 発足時の「クラルテ」運動には三つの流れがあった。
 ・バルビュスを初めとする平和主義者である既成作家ないし大学教授たち
 ・第三インターに加盟している戦闘的コミュニスト 
 ・二番目の過激分子に理解を示しつつも、みずからの戦争体験をなによりも重要視する青年たち
 「クラルテ」の運動はこの三者の微妙なバランスの上にたっていたが、一九二〇年一二月に結党された共産党とは一線を画した、反戦主義にもとづく文化運動組織として歩みだした。


 日本への輸入

 日本でこの運動を広めたのが小牧近江である。
 彼はパリ講和会議が終わって間もない一九一九年一〇月のある金曜日、旧友のスヴュリーヌの仲介で、当時パリに滞在していた早稲田大学教授の吉江喬松たちと共に、「ル・ポピユレール」社の三階にあった「クラルテ」社を訪れて、バルビュスに面会した。
 バルビュスはまず戦争中にフランスの作家たちは沈黙したままだったと語ったあと、思想の国際化・インターナショナルを説き、労働者には労働者の、農民には農民の、兵士には兵士の任務があるように、思想の鉾もまた世界的に結束されねばならないと説いたという。このバルビュスの言葉は小牧に強い感銘をあたえた。そしてこの年の暮れに、十年ぶりで帰国すると、彼はバルビュスの主張を日本で広めるべく活動を始めたのだった。
 彼の回想『ある現代史』によれば、バルビュスから「反戦運動を広めるために、広く同志を糾合するように」委嘱された小牧は、まず宮崎県日向の「新しき村」に武者小路実篤を訪ねた。武者は小牧が熱心に語る言葉に耳を傾けた。その上で趣旨には賛成だが、団体運動には参加しないことにしているとして、有島武郎を推薦したという。
 この間小牧は東京で小学校以来の親友である金子洋文に会い、雑誌を出そうということになり、郷里にいたもう一人の友人今野賢三を誘って、三人で秋田の土崎港で菊判十八ページの小冊子を刊行した。これが土崎版の「種蒔く人」である。
 創刊号は一九二一年二月、発行部数は二百部だった。第二号は三月、三号は四月に刊行されたが、新聞紙条例による発行保証金が払えず、三号で打ち切りとなった。だがこれが当時の内務省さえ実態をつかんでいなかった第三インタナショナルを日本に最初に紹介した文献となった。
 一九二〇年には、日本でも第一次大戦中の好景気の反動で恐慌が起こり、この年から戦後恐慌が続いていた。失業者は増大し、ストライキの波が全国を洗った。こうした状況の中で、ロシア革命の影響が日本でもようやく顕著になりはじめていた。小牧近江が本格的な雑誌を東京で出版したいと考えるようになったのには、こうした時代背景があった。
 「種蒔く人」の東京版が刊行されたのは一九二一年一〇月のことである。創刊号は全部で五六ページ、小牧によれば、戦時中ジュネーヴで発行されたあと、すぐに発禁処分になったアンリ・ギルポーの編集になる「明日(ドゥマン)」誌の体裁をそのまま借りたものだったという。表紙には雑誌のタイトル「種蒔く人」という文字が横に印刷され、その題字の上にエスペラントで「LA SEMANTO」と記され、題字の下には「行動と批判」と善かれていた。表紙のカットは同人の柳瀬正夢が措いた「爆弾」であった。さらに赤い帯がついていて、これには「世界主義文芸雑誌」とあった。
 この「種蒔く人」東京版は、一九二一年一〇月から関東大震災直前の二三年八月まで、都合二十一冊が刊行されたが、各巻の裏表紙には、最初は日本語で、検閲による削除が行われてからはエスペラントで、宣言が印刷されている。


  ロラン=バルビュス論争

 東京版の「種蒔く人」は発行以来いくつかの特集を組んだが、その一つに一九二二年八月号で全訳を掲げた、「ロマン・ロオラン対アンリ・バルビュス論争」(以下、同誌の表記による)がある。
 この翻訳の元になった論争は、一九三年三月上旬の「クラルテ」第二号に発表されたバルビュスの「義務の残りの半分−《ロランデイスム》について」と、これにたいするロランの回答(「ラール・リーブル」誌、一九二二生二月号)をきっかけとする合計五篇の公開の応答である。ロマン・ロランとアンリ・バルビュスの間のやりとりの重要性をいち早く認めた小牧近江は、これをすべて一人で翻訳して雑誌に掲載したのだった。ロマン・ロランの文章は、「闘争の十五年」のなかに掲載されている。
 二人の真摯な応酬の要点を、時系列にそって追ってみると、−
 バルビュスは「義務の残りの半分」のなかで、まず以下のように問題を提起した。(訳は「種蒔く人」のもの)
 「現在では少数の非反動的知識階級の間に種々重大な誤解が発生し、そしてこれらの誤解が益々甚だしくなる形勢にある」と指摘し、「今日では我が徹底共和主義の敵対者流の外見を呈している」と述べ、その「彼等はロマン・ロォランの典拠や規範を利用し或いは又濫用―私の意見では―しているのだ」と断定する。
 そしてロマン・ロランが行ってきた過去の「精神の独立」と「思想の権利」への戦いは高く評価するが、「だがそれだけでいいのか」とあらためて問い、いわゆる「ロランデイスムは理論家や社会改造論者から、組織的に超然として『問題の実行的方面』には何らの考慮も払わない」と弾劾する。
 彼等がしばしば口にする暴力についていえば、「この言葉は極度に貶められ醜くされたといっていい」と述べたあと、暴力がしばしば問題にされるが、「暴力の介在は、社会革命の一般的概念に於ては‥一切の目的に対する単なる細目〔些事〕であり、然も一時的細目に過ぎぬ」と弁護する。そして結語として「ロランディスト」について、「とどのつまり彼等は『平和主義』と『自由主義』の間に、一種の装飾的『左翼』を形成」しているに過ぎず、「思想家としての義務の第一の部分だけを果たした」だけだと書いている。
 こうした論難にたいして、ロマン・ロランは一九一二年二万の日付で返事を寄せ、こう反論した。
 彼はまずバルビュスが存在しもしない「ロランデイスム」なるものを創りだしたこと、ロランの姿勢を「超脱」と呼び、「余りに有名過ぎる象牙の塔への逃避」と形容したことに抗議する。その上で暴力にからめて、自らのロシア革命への疑義を表明していく。
 「理論上、共産主義、新マルクス主義の学説は、私には‥・実際真の人類の進化に一致するとは思われない」、「事実として、ロシアにおける共産主義の適用においては、悲しむべき惨忍なる誤謬に夢中になって」おり、「此の共産主義の施行に際して、新組織の指導者達は、余りにしばしば重大な機会に、最高の道徳的価値、即ち人道、自由、そして一切の最も高貴なる真理を犠牲にした」と指摘する。
 つで自分がよって立つ立場について、「私が一つの党の中に真理に対する情熱、従って自由批判に対する必然的尊敬を認め得ない限りは、又私が其処にあらゆる犠牲を払い、あらゆる手段に依って征服せんとする意志と、又運動の利益と正義、絶対善の要求との単なる混同しか見出し得ない限りは、一言にして云えば、革命信者の精神が厳密に政治の範囲を出ずして、『無政府』や『センチメンタリズム』の名の下に、自由なる良心の擁護を軽んずる間は、私はこの討論の係争関係については何らの幻影をも追わない、冷やかなる態度を採って行く」


  バルビュスの再批判

 ソビエト批判に重点を置いたロランの反論にたいする、バルビュスの二度目の反論は、次の二点に要約される。
 (一)「ひとつの暴虐に代えるに他の暴虐を以てする」というロランの非難にかかわるもので、コミュニズムも完全無欠ではありえないことを認めた上で、だがコミュニズムこそ「極度にまで、人間の平等という意味における生きた極限にまで、また、世界主義の意味においての極限にまで、押し広められた共和観念だ」と述べる。
 (二)「超脱」については、結論として、「現に、古い圧迫−それは尚ほ他の幾多の国に付着している―から外へ出た一つの国の血みどろな離脱は、君にただ『暴力』という言葉の変化と、そして畢寛ブルジョワやアナキストの批評の姉妹である批評の感興とだけしか、与えていないではありませんか」と批判した。
 これにたいするロマン・ロランの再反論―
 ロランはこう書き出す。「君と同じ考えを持たない者は、革命にあずからないと裁決すべき、如何なる権利を君はお持ちですか。革命は一党の財産ではありません。革命は、より幸福な、より善い人類を望む全ての人の家です。革命は故にまた私の物でもある。只私は「ブウルジョア」とか共産主義者とかが、相競って吾々に強いることを欲する様な、そう言う党派の空気の中に生活することが出来ない。これが何故私が窓を開けるかという理由です。私でも、若し必要だったら、呼吸せんが為に硝子を壊す位の用意はある。―何故なら吾々は革命の中に居て、自由な人間でありたいという意向(外観は途方もない考)を持って居る者だからです」
 バルビュスは民衆を現在の悲惨、一層苦しい未来の悲惨から救うために、すべてを投げ出して行動するという望みをもっている。ロランはそれを尊いと評価した上で、自分にはもうーつの望みがあるという。それは「現実を在るが儘に見たい、決して自分が欲する様に見たくない」という望みであるという。
 こうした自分をペシミストとして非難するかもしれないが、「瞬きもせずに現実を見るペシミズムより悪いものがある。それは真の苦しみと、熱い涙を覆い隠すオプティミズムである」 暴力に暴力をもってしてはいけない。他の武器がある。それは第一に、知識階級に特殊なものだから、あまり主張しないが、真理にたいする精神の勇敢な戦いであり、縛られた(?)理性の全力である。
 そしてもう一つの武器がある。それは他国民にあってはすでに実効を証明されたものである。すなわちアングロサクソンにあっては、数千人の「良心的反抗者(Conscientious Objectors)が用いた武器であり、マハトマ・ガンディが現にインドにおいて英帝国を転覆しようとしている武器である。すなわち非承認(Non acception)である。「私は無抵抗とは言わない。なぜならこれは最高の抵抗です」
 「結局ヨーロッパとその未来を守る最上の方法の一つはやっばり、自分の職分を尽くすと言うことです、若し全体が戦ったら、誰が納屋を満たしますか?そして若し学者や芸術家がその探究を続けず、その真理若しくは美の理想を、新しい社会的信条のために少しも犠牲にせず―またその信条が存在していることを思い出しもしなかったら、君の革命から生まれ出た世界に何程の価値がありますか」
 「若し革命が、この自由の力強い要求を持たなかったら、それは革命自ら革命に反抗することではありませんか。何故なら、若し革命がこの要求を持たなかったら、革命は最早革新の泉とはならないでしょう、却って革命は、百面の怪物即ち反動の新しい形態となるでしょう」
 ロマン・ロランは「自由芸術およびセレニヤ・インテルナツイヨナーレ」と題した文章でこう語ったのだった。そしてこれが、二人の論争を締めくくるロランの言葉となった。
 その後バルビュスはもう一度、「ロランデイスムについて」と題する反論を寄せた。
 そこでバルビュスは、「暴力』を「強制」と置き換えたいといい、「如何なる形に於いても暴力はいけない」という公式は、カオスにしか導かないと主張した。その上で自由の問題を取り上げ、ロランが語る自由とは、「本質的に空想的性格」のものであると指摘し、「自由は消極的な力です。自由は専制主義から既成法規を引き抜く必要がある時にのみ存在するのです。平等は、反対に制度の部分内に、正確な科学的観念を持ち来る言葉であります」と述べ、ロランが前に文章で語っていたように、バルビュスの神は「平等」、ロランのそれは「自由」だということに同意する。
 そして最後に、「君の言われた事 − 君の為された事は − 我々にとって常に神聖な、常に高貴なものでしょう。しこうして、我々は、君に逆らって、君より更に深く進むために、それを用いるでしょう」と述べて、論争に幕を引くことを宣言したのだった。
 この論争で取り上げられたのは、知識人の社会的実践の問題、革命における暴力の問題、革命と自由の問題、精神の自由と党派の問題であり、そのいずれもが革命に直面した知識人にとって、避けて通ることのできない切実な課題であった。こうした問題を明確にすることの必要を痛感したバルビュスが、あえてロマン・ロランに論戦を挑んだのである。それだけに、二人の間で交わされたやりとりは、フランスだけでなく世界中で大きな反響を呼んだ。それをいち早く紹介した小牧近江の先見性は、記憶されるべきものである。


  ロマン・ロランの総括

 ロマン・ロランはこの論争から十二年たった一九三四年一一月に、第一次大戦から一九三〇年までの自らの思想を総括した「パノラマ」という文章を発表したが、その中でこの論争にも触れて、次のように書いている。この文章も『闘争の十五年』の冒頭に収録されている。
 「バルビュスが精神の独立の選手と自称する人たちの政治行動にたいする徹底的な無関心を告発したとき、事実彼は全く正しかった」。「彼が、現在の社会制度に対して破壊的批評を加える以上、新しい秩序の積極的な建設のために活動すべきだといったのは、正しい」。
 あるいは、「バルビュスは、稚拙な表現で、『暴力の介入は些事にすぎない』といったが、つぎのように言うこともできたはずだ。暴力は歴史のある時期には痛ましい必要事である。また、精神は気楽に手段の選択をするものであるけれども、やむにやまれぬ行動においては、手段はそういう精神の賛沢品ではなく、喉に突きつけられた刃であり、さらに殺害されたくないならば、たとい心のなかでは嘆きながらも、危害を加える者に向かって確固とした手で刃をつかみ、切っ先を返さざるをえないのであると」。ロマン・ロランはバルビュスとの論争を通して大いに利益を得たと語り、やがて一九三五年三月には『革命を通じて平和を』という文集をまとめることになる。
 ロラン=バルビュス論争は、ロシア革命の進行と、やがてファシズムの台頭を予感した二人の知識人が繰り広げた熱い議論だった。革命はその後六十年たってついえたが、ここで戦わされた議論はいまも意義を失ってはいない。

(京都大学文学研究科教授・「二十世紀学」)