ベートーヴェンで死ぬことについて 濱 田      陽


 1 このテーマについて

 どんな音楽を聴きながら死にたいか?こういう問いかけをしてみたことがあるだろうか。そんなとき、西洋音楽では、ベートーヴュンがその知名度からも人生の師というイメージからも取り上げられることが多い。しかし、最近では、音楽学者からの脱神話化の研究などもさかんで、ベートーヴェン像も変わりつつある。そこで、ベートーヴェンを聴いて死ぬことについて考えてみたい。はたして現代人は、そして日本人は、ベートーヴェンを聴いてあの世へいけるのだろうか?ベートーヴェンで死ねるのだろうか?
 
2.ゲーテとロランのベートーヴェン

 ベートーヴェンの音楽の特徴は、どこまでも自己拡大していこうとする運動と、その運動にうち負けることなく明確なフォルムをあたえ続ける強固な意志であるといわれている。この二つの特徴のうち、「運動」 のほうにゲーテが、「意志」 のほうにロマン・ロランが、特別な注意の目を向けたと思われる。二人は、どちらもきわめて深くベートーヴェンを理解した人物である。しかもゲーテがベートーヴェンを理解しなかったという当時の風説を、書簡や日記等の綿密な実証研究でくつがえしたのがすぐれた音楽学者でもあるロランであった。(1) ところが、ロランがベートーヴェンを熱愛したのにたいし、当のゲーテはどうしてもその音楽を愛せなかったようである。
 このようなゲーテとロランの態度の違いは、かれらが生きた時代の差からも考察できよう。ゲーテの頃は機械文明はまだ存在しなかったが、ロランはそれが現実化した時代に生きていた。つまり、ベートーヴェンの同時代人ゲーテは、その音楽の行く末に、異常な自己主張の危険と、その精神が物質化した蒸気機関の轟音(機械文明)とを鋭く察知し、知性が制御しえないものとしてしりぞけてしまった。(2) ところが、機械文明の存在があたりまえな時代に生きたロランは、ゲーテとは逆にそうしたベートーヴェン的「運動」をさほど気にすることなく、英雄が自然や運命に打ち負かされた果てに勝利に至るというドラマをその「意志」のほうに苦もなく見い出せたと思われるのである。事実、ベートーヴェンは第一次、第二次大戦に抗するロランの平和運動の守護神でありつづけた。

 3 現代人のベートーヴェン
 しかし、二〇世紀も終焉をむかえ、われわれ現代人は、ゲーテともロランとも異なった立場で、ベートーヴェンに村面している。現代人は、ナチスやヒロシマをはじめ第二次大戦の経験以降、もはやベートーヴェンの時代の人間のようにユートピアの実現を単純に描けなくなってしまった。また、環境破壊等の危機的状況からも、限度をもうけない自然搾取などの近代的システムの矛盾が露呈してしまった。さらに、機械文明はすでにエレクトロニクス文明に変貌し、ベートーヴェン的「意志」による制御でなくコンピューターによる自動制御がなされている。これらの条件下では、ベートーヴェンを聴くことの意味が違ってきて当然である。

 4 ベートーヴェンの聴き方
 私は、現在のわれわれのベートーヴェンの聴き方には、1バックミュージック、2祭り、3回想、4パロディの四つのタイプがあるように思われる。
 1は、「エリーゼのために」やピアノソナタ「月光」第二楽章のような有名な聴きやすい曲をムード音楽として流すこと。今はベートーヴェンに限らずクラシック全般にこうした聴かれ方が多くなった。ただし、シンフォニーのような長大で起伏の大きいものは、これには向かない。
 2は、大阪城ホールの「一万人の第九」が典型的。毎年、決まった時期にくりかえされ、演奏する側も聴衆も、一体となって生活のエネルギーを発散させる。そして、そこでは第九シンフォニーの描く単純な人類共同体のユートピアが支持される。また、第一次大戦時、ドイツ人捕虜によって第九が日本で初めて演奏された徳島県鳴門市で、演奏会のアンコールに突然第九が阿波おどりのリズムに変わり、合唱団が舞台で「エライヤッチヤ、エライヤッチヤ」「踊らにゃソンソン」と、盛り上がったという面白い詰もある。(3) ベートーヴェンの土着化、祭りとの出会いの一例として考えられる。
 3は、ロラン以前の時代にタイムスリップしたような気持ちになりきって聴くこと。蒸気機関車SLのファンのようにベートーヴェンに浸る。ベートーヴェンの偉大さをよりよく味わうために、今日の感覚ではむしろおとなしく聞こえる十八世紀編成のオーケストラの音響を、わざと轟音として聴きたくて、ヘッドホーンをつけボリュームを最大にする。(そんなことをしなくても、じつは現代では、テレビや街中でいくらでも騒がしい音を聴くことができるのだが。)
 そして、4は、たとえばロシアの映画監督タルコフスキーの作品『ノスタルジア』での第九シンフォニーの使われ方などがそう。映画は、核戦争による壊滅の危機が背景となる。そして、狂った老人が狂人たちの見ている前で、「自分たち愚かなるものがあなた方に話しかけなければいけないということは恥ずかしくないか」と叫ぶ絶望的なシーンのバックに「歓喜の歌」が鳴る。ロランのベートーヴェンとはまったく対照的に、狂人(狂わされた一般人)の(必ずしも勝利とはいえない)殉教があり、パロディ化されたボロボロのベートーヴェンがある。それは個人の魂を超えた、人間の共同体自体が発している声、祈りえない状況でのぎりぎりの祈りという感じがまさにする。(4) 第二次世界大戦後、ナチスや核兵器を経験したあとでは、ベートーヴェン的なユートピアが簡単に実現するとはもはや信じ難い。それでも、人間としてなんらかのユートピアに憧れざるをえない。そういう、屈折した心理が西洋の戦後の多くの芸術家のベートーヴェン解釈をパロディへと導いている。


  5 ベートーヴェンで死ねるか?
生演奏され、CDで聴かれ、コマーシャルに使われて、以上のほぼ四種類のベートーヴェンが、現在、世界のあちこちで、鳴っている。もちろん、決まった一つのタイプだけに紋切り型に分類されるのではないが、クラシックに特別詳しくない一般の人は、1や2の傾向が強く、クラシック通は、3、4の傾向が強いのではないかと思われる。そこで、ベートーヴェンの音楽を愛好し、人生の大切な節目でベートーヴェンを聴き、できれば、死ぬときにもベートーヴェンを聴きたいと思っている人がいる場合、その人が1〜4のどのタイプに近いかによって、死を看取る音楽の意味も当然変わってくると考えられる。
 1や2のタイプの愛好者は、ベートーヴェンの音楽の印象的なメロディーや覚えやすいリズムなどを巧みに日常生活にとりこんでいて、自分たちのほうにべートーヴュンを近づけている。そのため、死ぬときには、ベートーヴェンの音楽を、今までの人生をふりかえるための、記憶の倉庫の扉をあける鍵としてもちいそうな気がする。そこでは、ベートーヴェンの音楽の本質が大部分切り取られてしまっているため、ベートーヴェンを聴いて死ぬことに固有の意味はあまりないのではないだろうか。どのジャンルの音楽でも親しまれるうちに、こうした機能を共通してもつようになるため、他の音楽でも代替できるからだ。
 私は、どうしてもベートーヴェンで死にたいという人には、3のタイプの人が一番多いのではないかと思う。ベートーヴェンは、苦悩を突き抜けて歓喜に到達した精神の英雄だ。彼の音楽は、平和の象徴だ。だから、人生の最期にべートーヴエンを聴きたい。そういうメンタリティ。今思うと、私自身、高校から大学のはじめにかけてこのタイプのリスナーだった。しかし、もし、このタイプの人が時代の変化をシャットアウトし一人閉じ篭って、ただベートーヴェンにのみすがるなら、それは不幸なことかもしれない。英雄的な死をとげようとして、時代錯誤の一人芝居を演じてしまう危険がともなうからだ。

   6 ベートーヴェンと無常感

そこで、ベートーヴェンの音楽の特徴を理解しっつ、意味ある死をとげたければ、どうしても第四のタイプ近いところからのアプローチになるのではないかと思われる。『ノスタルジア』の狂人のように、救われないと絶望しっつ、それでもベートーヴェンを聴いて死ぬ。決して英雄的行為ではなく、ぎりぎりのところでの叫びだが、ベートーヴェンの音楽は、かえってリアルに鳴り響くのではないだろうか。タルコフスキーがこの映画を作った頃とちがい東西冷戦は去ったが、激しい地域紛争や改善されない環境破壊など、現代が危機的状況にあることは変わっていない。
 近代文明の限界にべートーヴュンの限界を重ねる感受性が自然にそなわっていた西洋人と異なり、戦後の日本人は、むしろベートーヴェンの「運動」や「意志」を、経済成長の達成に邁進するメンタリティに近いところで、とらえてきたようである。しかし、もし、4のパロディの感覚と唯一対比しうるものとして、仏教を受容した日本人が近代以前から培ってきた無常の感覚、悲哀の感覚を現代においても挙げることができるなら、そうした無常感から逆説的にべートーヴュンが受け止められた時にはじめて、ベートーヴェンを聴きながら死ぬことの意味が、日本の土壌で深化するのではないか。そしてベートーヴェンであの世へいけるのではないか。 あるいはもはや、無常感もベートーヴェンも二十一世紀に生きる人の死に、かかわることはなくなっていってしまうのだろうか。



(1) ロマン・ロラン全集23『ベートーヴェン研究 I 』 みすず書房、一九五九年より
   『ゲーテとベートーヴェン』 片岡美智訳一九五二年  (ロランの原本出版は一九三〇年)
(2) 『ゲーテの耳』 中沢新一著 河出文庫、一九九二年では、ゲーテがベートーヴェンの音楽に蒸気機関の轟音を予感したとする興味深い考察がある。
(3) 一九九三年六月七日 朝日新聞(大阪版)朝刊、二三頁
(4) 一九八三年イタリアで制作。狂人の友人である亡命中の音楽家が主人公。大江健三郎は 『新しい文学のために』一九八八年、『オペラをつくる』 武満徹と共著 一九九〇年(どちらも岩波新書)のなかで、『ノスタルジア』の第九の鳴るシーンについて言及している。

■その他の文献

・『ロラン=マルヴイーダ往復書簡、一八九〇年 - 一八九一年』 南大路振一訳 みすず書房、一九八八年
・『モオツァルト・無常という事』 小林秀雄著 新潮文庫、一九六一年
・『ベートーヴェンの手紙(上)』 小松雄一郎編訳 岩波文庫、一九八二年

※この文章は、ロマン・ロラン研究所での第一七三、一七四回読書会での発表をもとにまとめたものです。
        

(京都大学大学院生・一九九六・一・二四)