〈サロメ〉や〈バラの騎士〉の作曲家リヒャルト・シュトラウスとロマン・ロランが親友だったという事実は、案外と一般に知られていない。しかしシュトラウスとの交流は、小説家としてのロランの創作活動に多大の影響を与えただけでなく、シュトラウス研究家にとってもまた、ロランの描いたシュトラウスの人物像は貴重かつ雄弁な同時代のドキュメントの一つである。ここではロランとシュトラウスを、互いに互いを映し合う鏡の様に用いつつ、彼らの生きた時代相を描き出してみよう。
1.「パリのバイエルン人」── ロランの描いた人間シュトラウス
最初にシュトラウスとロランの交流の歴史を簡単に描写しておこう。二人が知り合ったのは1899、まだ音楽評論家として活動していた頃のロランが、インタビューをとるためにシュトラウスをベルリンに訪れた時であり(ジャン・クリストフがハスラーを訪問する場面は、初めてロランがシュトラウスを訪れた時を参考にして書いたと言われている)、その後、第一次大戦勃発までの約十年間、二人はとりわけパリで頻繁に交友を重ねることになった。シュトラウスはこの頃、毎年一度は必ずパリを訪れて自分の新作を指揮していた(要するにパリに自作を売り込みに来ていた)のだが、その時はいつもロランと会って、ドビュッシーやラヴェルといったフランスの新進作曲家と引き合わせてもらったり、パリで評判の新作芝居やオペラを見に連れていってもらったりしていたわけである。また1907年のシュトラウスの(サロメ)のフランス初演の際には、ロランが歌詞のフランス語訳をおこなったりしている。しかしどういうわけか、シュトラウスとロランの間には、ホフマンスタールやツヴアイクとのような合作を作ろうとする計画は持ち上がらなかった。シュトラウスはそもそも、人と突っ込んだつき合いをするタイプの人ではなかったし、ひょつとするとロランのことを単なる音楽評論家というか、パリでの自分の作品のスポークスマン程度にしか見ていなかったのかも知れない。そして第一次大戦後に二人の関係は自然消滅してしまうことになる。
この様に、ロランとシュトラウスの関係は、生産的で刺激に富み、かつ円満なものではあったが、ただしそれは決して真の友情に高められることはなかった。これはロランというより、むしろシュトラウスの性格と関係していたと思われる。多くの同時代人の証言によるとシュトラウスは、大変に礼儀正しいけれども、そこには「何かが欠けている」、つまり本質的に他人に無関心で、どことなく相手を見下しているような印象を与える人物だったらしい。またシュトラウスはよく冗談を言う人だったが、その冗談も少々尊大かつ無神経で相手を傷つけてしまう、そういうタイプの人物だったようである。
大のシュトラウス嫌いだったアルマ・マーラー(作曲家マーラーの夫人)の証言を引用しょう。彼女によればシュトラウスは、ウィーンでマーラーの第二交響曲が大成功をおさめた後で、マーラーに向かって「やあ、ウィーンの売れっ子が来たな、どうだい気分は」と声をかけたという(1)
──本人は悪気はなかったのかもしれないが、あまり趣味のいい冗談とは言えまい。もう一つアルマの伝えているシュトラウスのエピソード。「食事の間じゅう、彼の念頭にはお金のことしかなかった。大当りをとればいくら、普通にいけばいくら、と正確に印税を計算すべく、いちいちマーラーにからんでいた。そしてその間、鉛筆を握りづめで、時折耳のうしろにはさむ。それも、半ばは冗談としても、彼のそうした振舞いは、まるで行商人のようにみえた。指揮者のフランツ・シャルクが私に耳打ちした。──『あれで悲しいことには、てれかくしの戯れではないんです。至ってまじめなんですよ。』」(2)これらの逸話からも、シュトラウスがロランとはまるで水と油の性格だったことが分かるだろう。
実際ロランは交際の初期の段階で既に、シュトラウスのこうした尊大な性格を見抜いていた。1899年4月の彼の日記には次のように書かれている。「微笑の中に隠された子供っぽい内気さと身についた丁重さ。しかしその下にこの世の大部分の事物や人間に対する無関心または侮蔑を含んだ決然たる冷たい傲慢さが感じられる。この傲慢は、またしても会話の中で社交辞令を言って自己主張しなかったことを、一人になったときに悔しがるに違いない(この私に少し似て)。」(3)そしてロランもまた、多くの同時代人と同様、シュトラウスの無神経さは少々気に障っていたようである。ただし彼はそれを頭ごなしに拒絶するのではなく、むしろ一種の共感と微苦笑をもって眺めていたようだ。ロランの描いたシュトラウス像の最大の魅力は、辛辣で鋭い人間描写とユーモラスな寛容の精神との調和である。
上に引用した1899年の日記ではシュトラウスの「傲慢さ」を書き記したロランだが、翌年の3月1日の日記の記述を見よう。ここでは彼は既に、自分のシュトラウス像に対する見解に微妙な変更を加えている。「彼の中には新ドイツ帝国の典型的芸術家がある。つまり、力の崇拝、弱さの蔑視を基調とするあの錯乱に近い英雄的自尊心、あの利己的で実利的な理想主義の強い反映がある。それに、私が最初は気がつかなかった、より本質的、南ドイツ的な若干の性格──古くから伝わる、逆説的で風刺的な、駄々っ子的、ティル・オイレンシュピーゲル的な、道化た気質──が加わる。これに留意すれば、彼の考え方のいくつかに腹を立てないで済む。」(4)──シュトラウス──彼は生粋のミュンヘンつ子だった。──の中の「南ドイツ的な性格」を知れば、「彼の考え方のいくつかに腹を立てないで済む」とは、実に鋭い指摘である。バイエルン人気質には実際、一種独特の癖があって、それは表面的には陽気だが、本質的によそ者に対して非常に閉鎖的な農民気質であると言えば、およそのイメージを理解していただけるだろうか。彼らには「おらが村が一番」式の田舎者特有のある種の無神経さ、全然おかしくないことをおかしがる田舎者気質が確かにある。シュトラウスの中にこうしたバイエルン気質を指摘した同時代人は、ロラン以外にはいない。
少々誇張して言えば、ロランはシュトラウスの中に、年に一度花の都パリに自分の作品を宣伝しにやって来る田舎からのおのぼりさん──「パリのアメリカ人」ならぬ「パリのバイエルン人」──的なものを見ていたように思える。1900年のロランの日記からエピソードを紹介しよう。「彼(=シュトラウス)は喜劇に強く惹かれている。道化芝居でもいいのだ。パリにいる間は、彼は善良なドイツ人として軽い笑劇を楽しんでいる。昨夜は彼は『レオンチーヌと旦那たち』を見に行った。御満悦だ。彼はちっともおかしくない言葉を大喜びで口真似する、彼には滑稽極まる酒落だと思えるのだ。」(5)
「(演奏会の後で)私たちは舞台の上のシュトラウスに挨拶に行く。彼は大喜びでわくわくしている、とてもよかったと言ってもらいたいのだ。シャルパンチェがやって来て声に敬意と感動をこめて言う、〈あなたは巨人です。〉彼はそれに答えて〈ところで、シヤルパンチェさん、モンマルトルでは敵はこんなふうですか?〉と言って大笑いする。](通訳)がつまらぬ冗談言うと、取り巻き連中が腹を抱えて笑う。私はシュトラウスを芝居に誘って、「フランス座」にするか、それともどこかの娯楽劇にするかと尋ねる。〈娯楽劇、娯楽劇!〉──〈実は、今週は『エデイプス王』をやっているのですが。〉──〈『エディプス王』、それは何ですか?〉──〈ソフォクレスですよ〉──〈ソフォクレスはいけません!ソフォクレスはもう結構!パレ・ロワイヤル座がいい〉」(6)
ここでロランが描いているパリでのシュトラウスの振舞いは、今でもパリでよく見かけるドイツ(アメリカや日本?)の田舎からの観光客の振舞いを連想させるものがある。
2.シュトラウスの「カへの意志」とロランの危惧
しかし言うまでもなくシュトラウスは、ただのバイエルンの田舎作曲家ではなかった。ロランの日記からの引用を読もう。「(〈家庭交響曲〉のリハーサルで)かれの投げやりな態度は年と共に強まるようだ。(中略)いつも退屈そうにふくれっ面をし、半分眠っている様子、──しかし何一つ見逃さない。──彼の音楽は私の腸(はらわた)にこたえる。フィナーレは私には力と歓喜の波涛のように思える。どうして『あれ』が『これ』から生まれたのかいつも不思議に思う、しかし、それは、誰よりもよく、この私がわかっているはずだ(ただ、いつものことだが、この音楽には〈邪魔もの〉が多すぎる。まるで藻か細糸が英雄の胴体にからみついているようだ。)」(7)確かにシュトラウスに対してロランは、上の引用の最後のカツコにあるように、ついぞベートーヴェンに対するような、無条件の賛美を送ることは出来なかった。彼はシュトラウスの音楽のある側面に対して、いつも或る種のひっかかりを覚えていた。そして、なぜ「あの」音楽が「この」男から生まれて来るのか、釈然としない思いを抱いていた。にも拘わらずシュトラウスは、抵抗し難い力でロランを魅了し続けた、同時代で唯一の作曲家だったのである。
恐らくロランをかくもひきつけたのは、シュトラウスの音楽が持つゲルマン的な「力」の魅力だったのだろう。この「力」と「意志」こそは、フォーレやドビュッシーやラヴェルといった同時代のフランス音楽に──それらがどれだけ洗練されたものであるにせよ──最も欠けていたものである。シュトラウスはロランに対して次のように言ったことがある。「シュトラウスは皮肉をこめて言う‥〈あなた方フランス人は悪趣味な何かを言うことをいつも恐れている。〉(これは正しい)。そして彼はこの精神的拘束をドビュッシーの作品の中に見ている、または見たつもりでいる。彼は言う‥〈とても上品で、とても‥‥(彼は指をあれこれ動かして考える)とても人工的(gekünstelt)です、自然発生的なものが全くありません。飛躍(Schwung)というものが欠如しています。)」(8)恐らくこれはロラン自身の見解でもあったことだろう。
しかしながらロランは、決してシュトラウスの音楽のゲルマン的な力だけを讃えたのではない。「力」と言えば、例えばマーラーの音楽にもシュトラウスのそれに劣らぬ、或はそれを凌ぐ力があるはずだ。にも拘わらずロランは、俗物シュトラウスよりも人間的にはるかにロランに近い気質の持ち主だったマーラーの音楽に対して、極度の拒絶反応を示した。彼はマーラーの音楽のことを「力の、ゲルマン的凶暴のいまわしい催眠術」(9)と悪しざまに言っているのである。ではロランが惹かれたのは一体シュトラウスの何だったのかと言えば、興味深いことにそれは、まさにシュトラウスの音楽が持つ「バイエルン気質」に他ならなかった。ロランはマーラーとシュトラウスを比較して言っている。「かれ(=シュトラウス)はマーラーに劣らず神経質である。かれがオーケストラを指揮している間じゅうかれは熱狂的なダンスにふける。(中略)しかしマーラーに対して一大長所をもつ:かれは休むことを心得ている。興奮し易くそしてうとうととして、かれはその無為の力で神経質から救われる。かれのなかにはバヴアリアの柔らかさという本質がある。」(10)バイエルン地方の中心都市ミュンヘンは、ドイツ屈指の大都会であるにもかかわらず、そこにはどこか田舎街独特ののんびりしたところがある。またミュンヘンは、アルプスを越えて流れ込んでくる南国イタリアの息吹がそこはかとなく感じられる街でもある。そしてミュンヘン生まれのシュトラウスの作品には、南ドイツ特有の透明感とラテン的な軽快さがあるのである。ロランをかくも魅了したのは、シュトラウスの音楽における力と軽快のこの均衡だったのであろう。
しかしながら既に述べた様にロランは、シュトラウスに対してついぞ、ベートーヴェンに対するような無条件の共感を示すことはなかった。即ち彼は、シュトラウスの音楽における「力」が、しばしば暴力的なものへと傾くことに強い危惧を抱いたのである。1898年にロランは、シュトラウスの指揮ぶりについて、次の様に書いている。「全体としては、霊感よりも力において優れた男。生命力、ヒステリー、病的興奮、──こうした不均衡は意志の力でやっと維持されているが音楽と音楽家を揺るがせにする。ベートーヴェンの交響曲のフィナーレを指揮する彼の姿──同時に半身不随と舞踏病に襲われたような斜めにねじまげた背の高い体、握りしめた痙撃する両の拳、内股になって指揮台を踏みならす両脚──を見れば、軍隊的な力と硬直の下に隠された病疾を感知するのに充分だった。──そうだ!ドイツは全能の平衡を長くは保持できまい。眩暈の嵐が脳に吹きこんでいる。ニーチェ、R.シュトラウス、ヴィルヘルム皇帝、──暴君ネロの雰囲気。」(11)
シュトラウスに対するロランの芸術的懸念はとりわけ、シュトラウスのオペラ〈サロメ(1905年)〉(オスカー・ワイルド原作のこの作品は、同時代の最も前衛的な、そして最もスキャンダラスなオペラだった)において頂点に達することになる。この作品を舞台で見たロランは、強い衝撃を受け、シュトラウスに宛てた手紙の中で次の様に書いた。「あなたはとりわけ力を愛しておられる。そして私もとりわけ力を愛しています。──しかしながら、もう一つの力、共感の力をあまり軽蔑してはいけません。すべてを焼きつくす力があります。しかし精神を豊かにする力、──愛を伝え、吹きこむ力もあるのです。『家庭交響曲』の中に、『死と変容』の中に、『英雄の生涯』の中にはこの恵みの力がありました。『サロメ』の中には、それはもうないように思います。』(12)
また日記の中でロランは、手紙よりもさらに激しい調子で〈サロメ〉を批判して、次の様に書いた。「このオペラは泥も漂流物も泡も一緒くたに押し流す激流だ。その狂乱だけが取り柄だ。(中略)それは私に嫌悪感を与えるが、私はそれを賞賛する。自己の芸術的能力をこんなふうに悪用した男をいくらか軽蔑しながら、やむを得ず賞賛するのだ。」「私は彼にすすめる、何よりも力を愛する癖はやめなくてもよいが、せめて善をなす力、最も偉大な芸術家たちの、ベートーヴェンの力のように、愛を伝達し吹き込むような力を選ぶように。──要約すると、私は『サロメ』が今日の劇音楽作品の中で最も力強いものと思われることを白状する。しかし彼自身は『サロメ』よりも格段にすぐれた存在であることをつけ加える。そして彼に願う、彼の勝利と彼の党派を越えて、今日の退廃的ヨーロッパ、狂おしい歓喜の中で自殺へと急いで行くヨーロッパの立場から自分の立場を分離することを。」(13)
このロランの発言の中でとりわけ印象深いのは、「今日の退廃的ヨーロッパ、狂おしい歓喜の中で自殺へと急いで行くヨーロッパ」というくだりである。この一文はほとんど、これが書かれた七年後に起こった破局の、1914年の第一次大戦の勃発の予言のように響きはしないだろうか。芸術家にはしばしば、予言者のごとき一種の予知能力が備わっている。彼らは普通人が気づかないような時代の不吉な兆しを、いち早く、ほとんど無意識のうちに、地震計のような感度で察知する力を持っている、ロランがシュトラウスの〈サロメ〉の中に見たのは、後に第一次大戦となって爆発するところの悲劇的な「力の過剰」だったのであろう。
3.シュトラウスと「世界に冠たるドイツ音楽」
「ロランとシュトラウス」と言えば是非とも触れておかねばならないのは、「音楽におけるドイツ国粋主義」の問題である。考えてみれば十八世紀から二十世紀初頭までの西洋音楽史とは、要するにドイツ=オーストリア音楽の歴史に他ならなかった。この二百年の間、フランスやイタリアや東欧からはせいぜい数人の作曲家が歴史に名をとどめているだけであるのに対して、ドイツ=オーストリアはきら星のような大音楽家を次々に輩出した。バッハ、ヘンデル、グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー、マーラー、そしてシュトラウス──近代西洋音楽とは、ドイツ音楽が全ヨーロッパを征服した時代だったわけである。
こんな音楽におけるドイツ中心主義に対してロランは、非常にアンビヴァレントな感情を抱いていた。つまり彼はベートーヴェンやシュトラウスをこの上なく崇拝する一方で、言うなれば音楽的被植民地意識を患っていたのである。『今日の音楽家たち』というエッセイから引用しょう。「われわれはゲルマン的形式でものを考えている。フレエズの区切り、その展開、その論理、その均衡、あらゆる音楽的修辞法、作曲の文法は、ドイツの巨匠連によって徐々にきたえ上げられた外来思想に由来している。このような支配はウァグナアの勝利の後ほど完全で重苦しかったことはかつてなかった。そのとき世界の音楽の上で巨大なドイツ時代が支配した。それは千の腕をもち、相互に結合された千の関節をもった怪物で、その腕は限りなく伸ばすことができ、幾頁でも、幾場でも、幾幕でも、劇全体でも、一かかえでだきこむことができる。われわれのうちの誰がいったいフランス人でありながらシラアやゲエテの言いまわしに従ってものを書こうと努めるのを是認するものがあろう。ところがそれこそ音楽ではわれわれがやって来たし、また今でもやはりやっていることなのだ。」(14)
そしてシュトラウスに対するロランの振舞いは、この様に自国の文化に引け目を感じ、むしろ外国文化に強く惹かれる人間の典型的なそれであったと言えよう。彼らは、実は自国より外国文化に魅了されているにもかかわらず、自分が崇拝する当の相手を目の前にすると、彼らに少しでも自分達の文化に関心を示してもらいたがるものである。「自分はこんなにあなた達の文化を崇拝しているのだから、あなた達も少しは私達の文化を知って下さい」というわけだ。ロランも例外ではない。彼はシュトラウスと会うと決まって、ドビュッシーらの同時代のフランス音楽に関心を惹こうとした。ロラン自身、普段はドビュッシー(〈ペレアスとメリザンド〉は例外とする)やフォーレやラヴェルといった同時代のフランス音楽を、さして高く評価していなかったにもかかわらず、である。しかし残念ながらドイツ国粋主義で凝り固まっていたシュトラウスは、それに興味を示すことはまったくなかった。『したしいソフィア』の中の1903年の書簡を引用しょう。「今日のドイツはドイツでないものに対する傲慢な無知に陥っています。それは、おそかれ早かれ、ドイツのために何かわるいことになりましょう。(中略)私はリヒャルト・シュトラウス、ワインガルトナー、ジークフリート・ワーグナーのような人々と話しました。そして私は昔や近代のフランス音楽にたいする彼らの無知または度はずれた無理解に唖然となりました。もしも私たちフランス人が同様だったら、私たちのことをどういったでしょう?」(15)
とりわけ興味深いのは、ロランが日記に記しているところの、シュトラウスと二人でドビュッシーの(ペレアスとメリザンド)を聴きに行った時のやり取りである。「〈いつもこんなふうなのですか?〉──〈そうです。〉──〈これだけ?‥何もない‥‥音楽がない‥‥脈絡がない‥‥ばらばらだ‥‥楽句がない。展開がない。〉」「〈ドビュッシーの曲には音楽が不充分だと私には思えるのです。ここにあるのはきわめて繊細な和音、とても上手で趣味のよい管弦楽の効果です。しかしそれは何ものでもない、全然問題じゃない。あれではメーテルランクの劇を単独で音楽ぬきでやったのと同じことだと思います。〉」「それでも、髪の場面と地下室の場面の前奏曲とそのあとの場面は彼をある程度楽しませる。スコア全体の中で、明らかにこの部分が彼の一番好きなところだ。しかし彼は相変わらず、〈とても上品です〉という少し侮蔑的な賛辞に帰る。」(16)
そしてシュトラウスが一番気に入っていた同時代のフランス・オペラは、何とシャルパンティエの〈ルイーズ〉という、恐ろしく通俗的でケバケバしい作品であった。ロランの伝えるシュトラウスの言葉を引用しょう。「私は(〈ルイーズ〉が気に入っている)シュトラウスに隠さずに言う。旋律はマスネーのそれとそれほど違っているとは思わないこと。喜怒哀楽の感情表現がほとんど常に誇張と嘘に思えること。〈しかし君〉と彼は私に言う。〈モンマルトルではこんなふうですよ。フランス人はこういうものなんです。大きな身振り、大袈裟を言葉、誇張と美辞麗句。こんなふうにドイツではあなた方を見ている。それでいいしそれが本当なんです。どの国民もそれぞれ欠点を持つ、あなた方の場合はこれがその欠点なんですよ。〉(中略)フランスには、騒がしい美辞麗句の隣りに感動の叫びが、身振りたっぷりの修辞法の隣りに深い感情があることを、常にあったことを彼に言っても無駄だろう。彼は耳を傾けないか、何も信じないかだ。すべてのドイツ人と同じように、御意見無用なのだ。」(17)
もちろん天下のシュトラウス、〈サロメ〉を作曲したシュトラウスが、こんなものを本気で評価していたわけはない。「所詮フランス人には通俗劇がお似合いだし、またそれしか書けるわけがない」と初めから見下した上でそれを楽しむという、いかにもシュトラウスらしい態度ではある。
4.わたしはこの世に忘れられ
これまで話してきたロランとシュトラウスの交流は、専ら第一次大戦前の、いわゆる「ベル・エポック」とか「世紀末」とか呼ばれる時代のことである。そして既に述べた様に、第一次大戦を境に二人の交流は自然消滅の道を辿ることになった。第一次大戦以降は彼らの文通は途絶え、ロランは日記やエッセイの中でもほとんどシュトラウスには触れなくなる。しかしロランは第一次大戦後、もう一度だけシュトラウスと接触をする機会を持った。それは1924年5月のロランのウィーン訪問である。ここで彼は、当時ウィーン国立オペラの音楽監督をしていたシュトラウスを再訪問し、本当に久しぶりに、彼の多くの作品をまとめて聴くことになるのだが、この1924年のウィーンでの二人の再会は、名状し難い幻滅に覆われたものであった。
ロランの日記を引用しょう。「彼は退屈な貴婦人や名士のサークルに囲まれている。シュトラウスは真面目で、不活発で、愛情のこもった態度。国家主義者たちの狂気、脅威にさらされているヨーロッパ文明を憂慮している。文明は、彼によれば、ヨーロッパに集積している。この小さなヨーロッパ、三つか四つの国に。そしてその国々が互いに破壊し合っている!彼には理解できないことだ。彼の表情は暗い。昔のように、陽気さ、激昂、無意識の腕白ぶりが飛び出すことはない。」(18)当時シュトラウスは六十歳、すっかり老人になってしまっていた。
ロランと頻繁に交際していた1900年から1910年にかけてのシュトラウスは、時代の最も過激な前衛作曲家だった。しかし1910年辺りを境に、シェーンベルクやストラヴィンスキーといった、シュトラウスより若く、更に激越な作曲家連が頭角を表わしてきた。そして第一次大戦後の1920年代になるとシュトラウスは、作曲家としてはもはや完全に時代から取り残された存在になっていたのである。ロランが再会した当時の彼は、作曲家としては完全に才能が涸渇しており、およそ浮世離れした甘ったるくノスタルジックな音楽ばかりしか書けなくなっていた。こうしたかつてのシュトラウスの抜け殻のような作品の一つが、ロランのウィーン訪問の直前に初演された〈泡雪クリーム〉というお菓子のクリームの精を主人公にした甘ったるいバレエ曲である。このバレエは当然のように大失敗に終ったのだが、ロラン(彼自身はこの作品をそこそこに評価していた)は、この失敗にショックを受けたシュトラウスの様子を次のように描写している。「シュトラウスはこの(〈泡雪クリーム〉の)不成功にひどく落胆した様子。〈人々はいつも私から思想とか深刻なものを期待するのです。私だって自分の好きな音楽を書く権利はあるはずです。私は現代の悲劇に堪えられない。私は歓喜をつくりたい、それが私には必要なのです。〉──彼は国家の問題と国家間の紛争については全く無関心の態度を示す。──シュトラウス夫人は、蝶のようにあちこち飛びまわり、彼にケーキをたらふく食べさせて、彼の頭に接吻したりしているが、祖国ドイツに関しては同じような無関心の態度をとる。」(19)かつてシュトラウスはロランに対して、「自分の方が弱いときに、強者の非を鳴らす弱者は嫌いだ」と言ったことがある。(20)こんな昔の自信満々のシュトラウスを知るロランにとって、彼のこの泣き言はさぞかし哀しく聞こえたに違いない。
しかしながら老いたのはシュトラウスだけではなかった。当時彼が暮らしていたウィーンという都市もまた、マーラーが宮廷劇場の監督をし、シェーンベルクらが活動していた1900年代の活気をもはや失い、過ぎ去った過去の栄光をなつかしむだけの街となってしまっていた。そして1920年代のヨーロッパの音楽創作の中心はベルリン、そして何よりもパリに移っていたのである。パリの音楽──かつてのシュトラウスが鼻も引っかけなかった、あの近代フランス音楽である。
実際、十九世紀の終わりから二十世紀の初頭は、フランス音楽のルネサンスの時代であった。ドイツ音楽が自らの過去の偉大な伝統の上であぐらをかいている間にフランス音楽は、フォーレやドビュッシーやラヴェル、更にはファリヤやストラヴィンスキーのようなきらめく才能を生み出し、1920年代に入るともはやその輝きは誰の眼にも明らかなものとなって、ドイツ音楽を圧倒し去っていた。しかしシュトラウスはそれに気付くこともなく、時代から取り残された街ウィーンで、のうのうと暮らしていた。ロランは次のように書いている。「ウィーン、──古くて大きな地方都市。この都市は、加速的リズム、ストラヴィンスキーやオネゲルなどの貢献、もはや音楽、特に劇音楽にはなくてならないものになったあの熱狂、そうした新しい流れに気づいていないのだ。私はここでは、習慣の上に眠っている老貴族の家にいるような気がする。」(21)
しかしウィーンでロランが味わった幻滅は、果たしてシュトラウスに対してだけのものだったろうか?
1920年代の音楽史の中心は確かに、ドイツからフランスに移っていた。しかしながら決してそれは、ロランが期待したような形でではなかった。確かにロランはストラヴィンスキーやオネゲルといった、フランスで活躍していた作曲家の名前に言及してはいる。しかし彼らは、まったくロランの好みの音楽ではなかった!
そもそも十九世紀末におけるフランス音楽の再興の祖とも言うべきドビュッシーからして、ロランは実は「嫌い」だったのだ(22)。近代フランス音楽に特有の官能性や極度の洗練といったものは、ロランの体質には合わなかった。ロランが夢みていた未来のフランス音楽は、恐らくもっと力強く重厚で精神的なものだったのであろう。しかるにフランスは、確かに1920年代に入ってドイツに代わる音楽史の中心地とはなったが、それはまさにフランス音楽の「軽さ」によってだったのである。
ウィーンでロランはまた、自分がかつて熱狂したシュトラウスの青春時代の作品とも、久方ぶりの再会をすることになる。つまり彼は作曲家自身の指揮で〈ツァラトゥストラ〉と〈英雄の生涯〉を、久しぶりに、恐らくは第一次大戦以来初めて演奏会で聴いたのだが、しかし注目すべきことにこれらの作品にロランは、もはやかつての様な我を忘れた賛美は送らなかった。「フィルハーモニーの素晴らしいオーケストラは、シュトラウスの指揮で『ツァラトゥーストラ』と『英雄の生涯』を演奏する。『ツァラトゥーストラ』は力強さのない曲だと思う、──熱狂的でない笑い、ウィンナワルツに縮小された天体の舞踏。しかし『英雄の生涯』は若いときケルンのギュルツェニヒ・コンサートで初めてそれを聞いた頃の陶酔を今なおよみがえらせる。」(23)
この一文の背後に感じられる苦いノスタルジーは、シュトラウスの音楽の中に未来のヨーロッパ音楽の希望を見ていた自分自身の青春時代への幻滅ではなかったろうか。第一次大戦後、ロランは同時代の音楽について発言することを止めてしまった。そしてひたすら彼は過去の古典の研究に、即ちベートーヴェン研究に没頭することになる。ひょっとすると第一次大戦後、シュトラウスだけではなくロランもまた、音楽史の流れから取り残されてしまったのかも知れない。
注 釈
(1)アルマ・マーラー『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』、石井宏訳、東京:中央公
論社(中公文庫)、 1987年、58頁。
(2)同書、179頁。
(3)『ロマン・ロラン全集40 シュトラウスとロマン・ロラン他』、片山昇・片山寿昭訳、
東京:みすず書房、 1983年、112〜113頁。
(4)同書、121頁。
(5)同書、124頁。
(6)同書、125〜126頁。
(7)同書、140〜141頁。
(8)同書、155頁。
(9)同書、138頁。
(10)『ロマン・ロラン全集21 芸術研究11 ありし日の音楽家たち・今日の音楽家たち』、
野田良之訳、東京:み すず書房、1981年、442頁。
(11)『ロマン・ロラン全集40』、前掲訳書、110〜111頁。
(12)同書、86〜87頁。
(13)同書、145〜146頁。
(14)『ロマン・ロラン全集21』、前掲訳書、412〜413頁。
(15)『ロマン・ロラン全集35 したしいソフィーア』、宮本正清・山上千枝子訳、東京:み
すず書房、1981年 125〜126頁。
(16)『ロマン・ロラン全集40』、前掲訳書、152〜153頁。
(17)同書、126頁。
(18)同書、168頁。
(19)同書、168頁。
(20)同書、125頁。
(21)同書、166頁。
(22)『ロマン・ロラン全集38 往復書簡・手紙』、山口三夫訳、東京:みすず書房、19
83年、103頁。
(23) 『ロマン・ロラン全集40』、前掲訳書、164頁。 |